木村 清孝(東京大学名誉教授)
「高祖の晩年を思う」

令和6年度成道会記念講演
(2024年12月6日)

ただいま奥野先生よりご丁重なご紹介を賜りました、木村清孝でございます。私も宗門の僧侶の一人でございまして、先般、『思想』という岩波の雑誌に書かせてもらったのは、研究者としての私の、高祖研究との関わりを基軸にしたエッセイで、「自分史の中の道元学」という題目で書かせていただきました。私がお寺に生まれて、宗門人の一人として、ここまで歩んできたことを研究者、仏教研究の歩みという枠の中で禅とどのように触れ合ってきて、今どのようなことに関心をもって行?学の両方に関わり、今を迎えてきているのか、そしてこれから何をしたいのかといったことをまとめ、述べさせていただいております。

そのため、高祖様に対しても宗門に対しても、失礼にあたるところもあろうかと思いますが、お許しください。このような、少し風変わりな人間がいるということ、そして、その人間がどういう形で仏教に関わり、やがて専門の華厳を中心とする東アジア仏教研究を続けてきて、その中で、人生の終わりに近づくに従って、自分が生まれた場ともいえる曹洞禅の世界、特に高祖様の道元禅の世界に深く魅入られるようになり、今日にいたっているという次第がつづられています。

もちろん私は、現在、研究者として他のことは一切やめて、禅だけを、或は曹洞禅、道元禅だけを勉強しているというわけではありません。一方ではやはり現代の時代状況の中で、自分の責任として、広く申しますと比較思想論的な関心なのですが、何か世界に訴えられるようなものを発信していきたいという思いも持ち続けています。これら両方の問題関心をもちながら、私の今があるということでございます。

私は、九州の天草という所にある宗門の小さなお寺で生まれました。生まれたのは、太平洋戦争に入る直前です。先ほど、日本の被団協がノーベル平和賞を授与されるというニュースのお話がありましたけれども、その戦争の際には、長崎に軍事関係の施設があったことなどから、原爆を落とされる前にも、その地域には何度か爆撃がありました。そういった折、天草はそこからある程度離れてはいるのですが、幼児の頃には、何か不気味な美しさを伴う戦火が立ち上がるところを幾度か見て、近くの防空壕に逃げ込むといった経験もしております。そのようなことで、今回のノーベル平和賞受賞のニュースについても、一言ではうまく言えない思いを新たに致しました。因みに申し上げますと、私が天草で生まれましたのは、すでに結婚していた父が、太平洋戦争が始まる少し前、師匠の言いつけで、天草の寺の住職となって、そこに赴任したからです。

ところが、どういうめぐり合わせでしょうか、戦後すぐに、父の元の勤め先でもあった函館の寺で、その住職を務めていた兄弟子が、急に亡くなってしまいました。そこで私たち一家は、それからまもなく、食にも事欠く戦後の大混乱の中、貨車のような列車を乗り継いで、父のお弟子たち数人ともども、函館へと移住したのです。

それから高校の時代まで、私は函館で育ちました。ところが、私が中学?高校に在学中のころ、ちょっとした縁があって、ある居士禅の会の夏季参禅会が当寺を会場に、毎年一週間ほど開催されることになりました。ところが、その参禅会の指導者として来られた師家が、東京教育大学(現在の筑波大学)の教授でもありました。その先生が、熱心に東京の大学への進学を勧めてくださいました。このことがきっかけとなって、東京に出てくることになりました。いま想い返しても、まことに不思議な縁だったと思います。

その大学で私が選んだのは、倫理学です。私は寺に長男として生まれましたし、加えて、父が若い頃に大病を患い、自分の命は長くないといった感覚をもっていたからだと思うのですが、子供のころから檀家さん回りを含め、随分お寺の行事にもよく同伴されました。その中で考えたことは、漠然としたものですが、もしも坊さんとして生きるのであれば、現実の世の中がどのような仕組みなのか、坊さんの立場や仕事はどのようなもので、どういう生き方をするのが望ましいか、そのような「倫理」に関する基本的知識を学んでおく必要があるだろうと思ったからです。

当時の日本は、日米安保条約が大きな政治問題となって、社会が大きく揺れていた時代です。そのことも相当に関係していると思いますが、大学の内外も落ち着かない状況で、哲学や倫理学の分野では実存主義やマルクス主義の分野の研究?講義が盛んでした。それらの中で、とくに私の印象に残っているのは、ヤスパースの哲学や日本の倫理思想の一端を学べたことです。

けれども、大学三年生のころ、自分の将来について、「しばらくしたら、大学を卒業して、坊さんになるのか」と気になりだし、当時「若い人が読むべき名著」の一つとしてある程度知られていた『正法眼蔵』を思い出しました。そして、「『正法眼蔵』の中に述べられている現実社会の見方やそこに生きる人間の望ましい生き方を考察し、卒業論文にまとめよう」と決め、準備に取り掛かりました。その中心にしたものは、当時、簡単に手に入れることができた岩波文庫本三冊の『正法眼蔵』を繰り返し読み込んでいくということでした。

そういう中で、ふと、東京大学には印度哲学という分野があって、そこでは仏教をしっかり学ぶことができるという話を友人から聞きました。私の心は動きました。その理由は、何度か『正法眼蔵』を読み直しているうちに、仏教の奥深さに気づき始めていたからです。こうして、どうにか両親の許しを得て東京大学大学院の印度哲学専修課程を受験、運よく合格して、その後の研究者としての道が開けたわけです。

皆さんにも、人生において様々な出会いがあり、その中のいくつかが人生の歩み方を決定づける契機となったということがおありかと思います。私の場合、そういう大きな出会いの一つが印度哲学研究室所属の院生となったことでした。そのころ、この研究室は、今もご存じの方が少なくないと思いますが、中村元先生が中心となって動いていました。他にも有名な先生方が数人おられましたが、玉城康四郎先生もそのお一人です。玉城先生は、熱心な浄土教者のお宅に生まれながら、かなり若いころから坐禅への関心も深かった先生で、私は、この先生に就くことになり、先生のお勧めがあって、華厳の研究を中心に学んでいくことになりました。その最初に本格的に取り組んだのが、中国華厳宗の第二祖とされる智儼大師の思想の解明で、研究方法としては思想史的な方法を選びました。これが研究者としての私の出発点であり、学位論文もその延長線上で完成できたものです。

こうして私は、これまで華厳研究を中心に仏教研究を進めてきました。けれども、その間も、ひとりの僧侶として、何かあればお寺に帰り、一緒に法要を務めるということもしてきました。つまり、坊さんの世界と大学教員の世界を行き来してきたのですが、それゆえに葛藤しなければならないこともいろいろとありました。仏教の世界においても、研究者としての道と実践者としての道は、簡単に一つになるようなものではないですね。皆さん方の中にも様々な葛藤をもち、そしてそれを乗り越えて今がある先生方もおありなのではないでしょうか。私自身、近年になって初めて、何らかのきっかけや機縁があれば、「これでいいのではないか」という落ち着きどころを見出されるのではないかと予感し、期待しているところです。

実は、このような思いの中で試みたことの一つが、先ほどご紹介いただいた『正法眼蔵解読』の上梓です。わざわざ標題に「解読」という言葉を入れたのは、自分なりに改めて『正法眼蔵』を熟読し、その中から自分にとってとくに大事なところを選び出し、それを丁寧に現代語訳しつつ、各巻ごとの主旨を自分なりに把捉したいと考えて書かせてもらったからです。この仕事を通じて、私には『正法眼蔵』に表された高祖の思想の全体がほぼ見えるようになった気がします。そして、同時に、高祖が他に残された著書の内容が気になりだしました。こうして取り組み始めた主要な仕事が、近刊の『永平広録』の訳注に外なりません。

前置きの話が長くなってしまい、申し訳ありません。今回のタイトル「高祖の晩年を思う」は、以上のような背景があって付けさせていただきました。もちろん、直接的な関係のある資料が極めて少ないということもあり、とても難しいことだとは思うのですが、これが現在、一番関心がある問題の一つで、有益な助言をいただくためにも、ぜひ適切な場で一度お話させてもらいたかったのです。

ご承知のように、高祖による『正法眼蔵』の新しい示衆は、四十七歳の九月に行われた「出家」の巻の示衆をもって終わります。そして、その翌年の八月から翌々年の三月まで鎌倉への教化の旅を実行され、永平寺に帰山された後は、五十一歳となる建長二年(1250)に、「洗面」の巻の三度目の示衆を行われたのが最後になります。もちろん、この間にも寺内を整えるための規則や儀礼関係の文書は執筆しておられますが、このことも含めて、「鎌倉行化」の前後を境目にして、高祖には身心ともにとても大きな変化が起こりつつあったように思えてなりません。

そして、このことに関連して、まず取り上げなければならない大きな問題は、いわゆる十二巻本の『正法眼蔵』をどのように捉え、その説示の基本的な意味をどこに見出すかということでしょう。

まず、その構想についてですが、懐弉禅師の後記に依れば、この新しい『正法眼蔵』は、当初、百巻のものとして新たに構想されたといわれます。この記述に疑いはないと信じますが、それに従えば、高祖は壮年期の四十四歳の時に二十二回ほどの精力的な示衆を行っておられますので、このこととその後の加齢を勘案すれば、この構想を完成するのには当初、最低五年以上はかかると想定された、と考えるのが自然ではないでしょうか。

では高祖は、『百巻本?新正法眼蔵』の実現に向けて実質的なスタートを切られたのは、いつ頃なのでしょうか。その点を推測させる事実として挙げられることは、やはり鎌倉行化が深く関係しているのではないかということです。例えば、①その出立を視野に入れていたと思われる寛元五年(1247)の立春の折に「大吉文」を書き、その中で「門子多く集まり、人に逢うを得る時、天下帰崇し、吾が道大吉ならんことを」という文言が加えられていること、②北条時頼との面談の中で、おそらくその北の方からの要望を受け、十二首の道歌を書き与えていること、③その中に、「十二時中空しく過ごさざるを詠ず」と題して、「過ぎにける四十余りは大空の、兎烏(うさぎからす)の道にぞありける」(「兎烏」は、「日月」の意)という、一見すれば、世俗的な見地からは謙虚に過ぎる歌を示されていること、④高祖の鎌倉滞在が、結果的には、高祖ご自身が先の「大吉文」に示された大きな期待に反した結果を窺わせるように、短期間で終わってしまっていること、⑤永平寺に帰山の翌日、早速上堂し、鎌倉滞在の約半年間を高祖ご自身が「なお孤輪の太虚に処(お)るが如し」と回想し、現在の心境について「今日帰山するに、雲に喜ぶ気あり。山を愛するの愛、初めよりも甚だし」と述べられていることなどです。高祖が、幕府側から提示された丁重な要請を退け、鎌倉における行化に関して断念に近い思いを抱くとともに、現に住する永平寺を拠点として別種の「仏法興隆」を決意されたことが十分に伺えます。そして、このことを踏まえれば、高祖の決断は極めて早かったと思われます。おそらく上の⑤に挙げた上堂の直後から、今後なすべきことに関する全構想を練り始め、部分的にはその具体化にも着手されたかもしれないと思うのです。

この流れの中で明確な形で残されているのが、十二巻本の『正法眼蔵』です。その中で、まず注意されるのは、高祖自らが新たに百巻を構想して新たに『正法眼蔵』をまとめ始められたようだということです。しかし、高祖の没後、残された十二巻本の各巻のすべてを懐奘禅師が書写しあるいは一校し、責任もって編集されたということが確認できるわけではありません。なぜなら、各巻の奥書が一定しているわけではなく、奥書が何もない巻もあるからです。また、すべてが新しく書き下ろされたものではなく、以前に示衆された巻に加筆?訂正されたものもあります。それゆえ、各巻とも慎重に扱っていく必要がありますが、十二巻本の『正法眼蔵』が、高祖の最後の説示用の草稿であったことは信じてよいと思います。

では、まず、それら十二巻本『正法眼蔵』を通じて、基本的な特徴といえるものはあるのでしょうか。私が見るところでは、その第一は、簡潔にいえば、仏教の教えの基本をしっかりと説き示すということで、具体的には、因果の道理を正しく学び取ることと、三宝に帰依することではないかと思います。そして第二は、若い修行僧たちに僧侶である自覚を深めてもらうことで、十二巻本の第一から第三までに挙げられた「出家功徳」「受戒」「袈裟功徳」の三篇の標題は、そのことを率直に物語っていると考えられます。高祖は、鎌倉行化の後、とくに上記の二つの点を柱として、僧俗にわたって正しい生き方ができる人間を育てることと、そういう人々の精神的リーダーとなって、名利に惑わされず、平安な社会の実現に貢献できる高潔な僧侶を養成することを強く願われたのではないでしょうか。

ところで、その十二巻本『正法眼蔵』の問題で、最後に一つ、触れておきたいことがあります。それは本巻の最後に置かれる「八大人覚」の巻のことです。この巻は、明らかに他の諸巻とは違います。それは、この巻について懐弉禅師が末尾に記されているように、高祖による最後の病中の草稿であり、以前に著した『正法眼蔵』を書き改めるとともに、新しく何巻かを書き加え、合計で百巻にしようと構想されていた『正法眼蔵』の中に、新草の巻の一つとして加えようとされていました。では、その配置は当初から「第十二」とすることを考えられていたのでしょうか。私には、そうは思えません。その理由は、大きく言えば三つあります。その第一は、内容からいって、弟子たちへの釈尊の遺言ともいえる「八大人覚」の説示をこの位置に置くべき根拠を見出せないこと、第二には、もしも全百巻の構想に間違いないとすれば、釈尊ご自身の入涅槃時の教説の問題を改めて提示する前に言い残しておきたい問題は、現存する七十五巻本『正法眼蔵』だけと照らし合わせわせても、極めて多かっただろうと思われること、第三に、この巻の直前に配される「一百八法明門」は、釈尊の前身とされる護明菩薩の兜率天における説示ですが、その中で釈尊の父母が誰かが予言され、この後に釈尊誕生以降の成長に応じた教説の紹介とその究明が予想されること、などからです。

これらの点を踏まえれば、第十二「八大人覚」の草稿は、その前のご自身の病状の急速な悪化があり、おそらく高祖は、ご自身で本巻の末尾に記されているように、亡くなる年の建長五年(一二五四)の正月六日、ご自身の体力と知力と精神力を振り絞るようにして、自ら後記を含めて本巻の草稿を書き終わり、再び病床に戻られたのです。

では、本巻の内容はどうでしょうか。結論から言えば、本巻の大半は、他の『正法眼蔵』の諸巻とは少し異なり、中国?隋代の浄影寺慧遠撰の『大乗義章』を参考にして、ほぼ全文が『仏遺教経』の教説の当該部分の引用からなっており、一一の教説について自ら注釈や講説を加えることはまったくありません。最後に、門弟たちに対する教導とも要請ともとれる短い一文を添えるだけなのです。その教説の要点だけを抜粋して示せば、①「如来の弟子は、かならずこれを習学し奉るこれを修習せず、しらざらんは仏弟子にあらずこれ如来の正法眼蔵涅槃妙心なり」、②いまわれら見聞したてまつり、習学したてまつる、宿殖善根のちからなり。いま習学して生々に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれを説かんこと、釈迦牟尼仏にひとしくしてことなることなけん」の二つになるでしょう。これらは、先にご紹介した十二巻『正法眼蔵』の全体的な方向性とも通じあうものだと思います。

次に、「小参」の説示の中で高祖が強調されている家訓のことについて少しご紹介したいと思います。まず、小参のことですが、これは禅門において、かつては方丈の居室で行われてきた行事で、師弟が親しく問答を交わしました。さらに古くは、これと別に大参といって、大衆全員が参加して大問答を法堂で行う行事もあったようです。しかし、高祖のころにはすでに大きく変わっていて、高祖ご自身は一年のうち、夏安居の初めの日(結夏)と終わりに日(解夏)、及び冬至の日と除夜の日の四日を小参の日とし、これをおそらく方丈で行われたようです。けれども、残されている小参の数は二十回ですが、行われた場所はどこか、いつから初められいつ休止されたのか、小参の法語の配列は年代順なのか、何か特別な開催と中止に関する条件があったのかなど、いずれにも明確な証はありません。それゆえ、推測の外はないのですが、行持を充実させていくのには、それだけの場所と諸堂が必要です。そのことを考えますと、少なくとも小参に分類される説示の大半は、大仏寺(永平寺の直前の名)の開堂供養が行われ、法堂が竣工し、僧堂が上棟された寛元二年(一二四四)、高祖四十五歳の秋以後のことではないかと思われます。

では、その小参の法語類を拝読して、何か注目される特徴はあるでしょうか。この点で、私が気づいたことは、「家訓」の説示が三度も出てくることです。そして、この小参の項の末尾に置かれた第二十番目の解夏(げか)、つまり、夏安居を終える日の法語で、その内容を分かりやすく、次のように解説されています。

「先に世に出られた仏祖方は、みな道心の士である。道心がなければ、あらゆる行はみな虚しく設けられたものになってしまう。そうであるから、仏道を学ぼうとする雲水は、まずは菩提心を起こさなければならぬ。菩提心を起こすとは、衆生をさとりの岸に渡そうとする心のことである。まず、道心がなければならぬ。次には〔古人を慕う〕慕古(もこ)の心を具えなければならぬ。第三には、真実を求めなければならぬ。これら三種が、初心の者も晩学の者もともに学ぶべき処である。わが永平の家訓はこれだけである」。

まことに、心にしみる高祖のお言葉です。ともどもに、この「家訓」を大切にさせてもらいたいと思います。

ところで、この中で述べられている「道心」について、少々付言させてもらいますと、これを中核に置いたといってもよいほどに強調された先人は、日本天台宗を開かれた伝教大師最澄で、「道心あるものが国の宝である」と説かれています。ただし、その「道心」の中身しては、高祖とは重点の置きどころが異なり、簡潔にいえば、「己を忘れて他を利する」という慈悲の心に徹することに尽きるといってよいかと思います。

また「菩提心」を起こすということ、つまり「発心」については、たとえば先に少しご紹介しましたが、華厳宗の基礎づけを行った中国の智儼は、「発心」という問題について、「それは、何度も何度も、繰り返して新たに起こしていくものだ」という意味のことをいわれています。このことも、心に留めておいてほしいことです。

次に挙げられているのが、「慕古」です。これは先に永平寺の貫主をお勤めになった宮崎奕保禅師がたいへん好まれたお言葉ですね。広く宗門の方々にも受け継がれているのではないかと思います。「古(いにしえ)を慕う」と書きます。つまり、仏祖を慕うということですね。ほんとうに間違いのない方は仏祖しかおられないわけですから、おのずから仏祖を慕い、仏祖の教えを学び、その道を歩もうとすることです。仏祖との連続性は、ここから生まれてくるといえるでしょう。

家訓として挙げられる三つの心の最後の一つは、真実心、すなわち、うそ偽りがまったくなく、ひたすらに真実を求める心です。これはあらゆる学問の世界にも共通するものだと思いますが、宗教の世界もこの点ではまったく同じなのですね。

以上が、高祖が晩年、力を込めて述べられた「家訓」の中心的な内容です。これを説かれたのは、何としてでも、自分が体得した仏法を受け継いでいってほしいと思う弟子たち、信者たちに対して、情熱をこめて語りかけられたのではないでしょうか。なお、この「家訓」を整然と整理し、小参における法話として説示された年は、「結夏」に因むものが六回、「解夏」と「除夜」に因むものが五回、「冬至」に因むものが四回です。このことなどから、あえて推測すれば、ご紹介したものは、高祖五十歳の宝治三年(建長元年、一二四九)か、その翌年ではないかと思われます。

先に『十二巻本?正法眼蔵』に関してお話した折、その末尾に付される高祖の最後の草稿、乃ち「八大人覚」についても概略は述べさせていただきました。ここで最後に、少し付け加えたお話をさせていただこうと思います。まず、忘れてはならないことは、「これ如来の正法眼蔵涅槃妙心なり」と断定されていることです。この道のみが、真実へと至る道に他ならないと、高祖の目にはそのように映っていたのでしょう。そしてこの後に、「習学して生々に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと」と述べられています。この生生世世に増長するというのは、正法眼蔵第六「帰依仏法僧宝」の巻で、三宝に対する信心についても言われています。違う観点から、「八大人覚」の教えの意義、その奥深さを検証されている訳です。そして重ねて、「衆生のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏にひとしくしてことなることなからん」と述べられています。この教説を人々のためにしっかりと説いてほしいと、切なくも深い心配りが弟子たちに対して述べられているわけです。

私自身も現在、ぜひ「八大人覚」について学び直さなければならないと思っています。その一環として、自分の退董式は既に済ませておりますが、この世を去るお土産として、この「八大人覚」の巻の本文のみを抜粋して、できるだけ厳密で読みやすい一巻の正式の『経』とし、皆さんに読んでいただこうと、その準備をしているところです。なお、現存するテキストの中では、永光寺本系統のものが一番よさそうです。

時間がほとんど無くなってしまいました。申し訳ありません。最後に「遺偈」の理解のことについて、少し触れておきたいと思います。これは、大変難しい漢文で書かれておりまして、私は明快な現代語訳を見たことがございません。しかし、その前に、「遺偈」を理解する上でまず、ポイントとして三つのことを押さえておかなければならないのではないかと思います。

一つは、すでに指摘されていることですが、高祖の師である如浄禅師がお使いになった言葉を詩の作り方の枠組みとして使っておられるということです。このことが基本となっていることは間違いありません。しかし、気が付いたことは、これが第二の点になりますが、その裏で高祖は、大慧宗杲という当時の中国仏教界を席巻するほど有力な臨済宗の僧が作られたものを踏まえながら、その中身を厳しく批判するような表現をされているのです。このことが、高祖の遺偈からは透けて見えるのです。それから、遺偈の中で「渾身」という語を用いておられます。「渾身求むること無し」です。これは、最後の句の前半で、その後の句は「活陥黄泉」で、一般には「活きながら黄泉に陥(お)つ」と読まれています。問題はこの偈の前半で、「求むること無し」といって、ばっさりと「求める」というありようそのものを捨てられていることです。七十五巻本の摩訶般若波羅蜜の巻においては、「渾身」という語の使い方は、一般には「照見五蘊皆空」ですが、ここでは「渾身照見五蘊皆空」というように、何度も如浄禅師の言葉を使用し、その上で自ら「渾身般若、渾他般若、渾自般若、渾東西南北般若なり」と分析的に詳細な突き詰め方をされています。摩訶般若の世界を基盤としながらも、遺偈では、「もう、般若の実相の知的究明は不要!」というように、最後の二句を作られているのではないでしょうか。この「遺偈」は、如浄禅師の言葉を基盤としながらも、大慧宗杲和尚のような捉え方をしてはならないと、明確に宣言する一面をもつようなのです。

これで、ちょうど時間となりました。今日は、華厳から禅へという歩みの中でここまで来たという「現場」に立って、お話をさせていただきました。これからまた、新たな気持ちで道元禅を、そして、禅の世界全体を明らかにしていきたいと思います。本日は、皆様お疲れの中ご清聴いただき、まことにありがとうございました。これをもちまして、本日の私の記念講演を終わらせていただきます。

*当日の配布資料はこちらからご覧いただけます。

祝祷音楽法要?文化講演