〔2000.08.26更新〕
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「ことわざ」は、日本民俗学の資料取り扱いでいうところの第二の口承文芸の分野に位置づけれられるものであります。この分野には、ことわざの他に命名・新語・なぞ・唱え言・民謡・童謡・語り物・昔話・伝説などがあります。これらは、さらに、文字による文芸と口承による文芸とに二大別され、前者は作者の個性が作品中に表出するが、後者の方は作者の個性が全く現れない文芸であります。「ことわざ」は後者の方であり、これがことばの実際の場でどのような役割を担い、どのような働きをするかということをここで学習してみようと思います。
「諺」という文字は、古い文献資料で言いますと、『古事記』に「故於
レ今諺曰二雉之頓使一本是也」(上巻)とあって、行ったきり戻らない使いを「雉の頓使い」と云うそうです。また、『続日本紀』養老五年二月の詔勅には、「詔曰、世諺曰、歳在レ申年。常有二事故一」とあって、「申年は凶年である」という世諺を挙げています。説話のなかでは『日本霊異記』中巻に、「古人諺曰、現在甘露、未来鉄丸」とあり、この世での快楽は、未来における苦痛の種となるという意味の諺を紹介しています。そして、平安朝文学に至っては、ほとんどと言っていいくらい、諺が使われてないのも注目すべき特徴であるといえましょう。それは、作品の担い手と受容者までが上流階級のごく限られた人々によって織りなされている世界であり、庶民の声がまったく反映されていないことに深い関係が存在するのであろうと思っています。例えば、紀貫之の『土左日記』二月四日の条にみえる「死し子、貌よかりき」などの物言いは、この「諺」の部類といってよいのではないでしょうか。
ことわざの定義
『日本国語大辞典』(小学館)のことわざの欄には、「昔から世間に広く言い習わされてきたことばで、教訓や風刺などを含んだ短句」といっていますし、『日本民族資料事典』には、「簡単なことばで効果的に相手を納得あるいは屈服させようとする、一つのまとまった軽妙な文句である」と定義付けをしています。
ことわざの語源は、本居宣長が『古事記伝』のなかで、「こと」は「言」、「わざ」は「童謡・禍・俳優」などと同じ「わざ」であり、神や死霊が祟ることを「もののわざ」というし、人の口を借りて神の云わせたことばが「ことわざ」で、神の心であり、人の口を借りることで吉凶を人々に諭したものを云うのが、やがて、世間に広くいいならわされたことばそのものを云うようになったと云うのであります。この宣長の説に近似たのが折口信夫の説で、「わざ」は神意の宿る物をいい、神意の宿ることばが「諺」であり、ことばは神の精霊に下されたことばと考えるのであります。
この一方で、藤井乙男は、『諺の研究』のなかで、「コトワザは為業に対する言業にして、イイグサという程の義と見ゆ」と記述されています。柳田国男は、『民俗学辞典』において、ことわざを「言語の技術、コトワザの意」と説いています。
ことわざの形態・譬え
ことわざの種類
大藤時彦は、『世界大百科事典』の「ことわざ」の項で、ことわざを「その機能によって、攻撃的諺・経験的諺・教訓的諺・遊戯的諺の四群に類別」しています。これをヒントに構成分類すると次のようになります。
@批判的ことわざ、A教訓的ことわざ、B娯楽的ことわざの三つに分類。
@批判的ことわざ
人と人が争う時、武器としてのことばが出現します。簡潔で敵の弱点をつき、容赦なく言い放つことわざがこれです。古くは、軍記物語にみえる敵味方対峙して名のりを行う場面があり、この場合、痛烈なことわざで敵方を罵り、同時に味方の兵士を笑わせることわざであれば味方の志気もあがろうというものなのです。近世における「野崎参り」の道中での、船でゆく人と岸を歩く人の間で交わされる悪口の言い合いもまた、各地に伝わる「悪態祭り」などいずれも巧みなことわざによって相手を沈黙・意気消沈させることで福を自らの方に呼び込むものであります。さらに、けんかの場面でも「たんかをきる」と言いますが、ことばにつまらないためにも、出来るだけ数多くの諺を知っていれば即興に使えるわけです。このようにふだんから身に付けておく必要性を感じていたにちがいありません。古人が何よりもましてこの「ことわざ」を渡世の知恵として研磨していたのではないでしょうか。
一寸の虫にも五分の魂
うさぎも七日なぶればかみつく
地蔵の顔も三度
蛞蝓にも角がある
馬鹿の一つ覚え
実際、弱い者が怒りだしたら、こういったことわざを捲し立てとっちめたのでしょう。
とかく杜撰に仕事を始める者に対しては、
始めに二度なし
と、やり直しがきかないことを説くこともできます。
A教訓的ことわざ
個人をやりこめることわざが批判的な諺であるのに対し、広く万民のためにものごとの道理や知識をあたえようとするのがここでいう教訓的諺です。人生の生活にかかわることがらを諭すものです。
たとえば結婚という人生の節目に、
嫁をもらえば親をもらえ(親の人柄を見ればその娘の人柄もわかる)
嫁は手を見てもらえ
婿は座敷からもらえ、嫁は庭からもらえ
自然生活に密着したことわざでは、
木六竹八塀十郎(木は六月に、竹は七月に切るのがよい、土塀は十月に塗れば長く持つ)
尾崎谷口堂の前(家を新築するときに建てない方がよい場所をこういう)
気象に関することわざも経験からくるものがあり、
朝雨に傘いらず(朝の雨はすぐにあがる)
朝雨ばくち裸の元(朝の雨は後で晴れて暑くなる)
夕鳩鳴いて空見るな(晴天が続く前兆)
夕鳶に笠を脱げ(雨がやむ前兆)
夕焼けに鎌を研げ(夕焼けの翌日は快晴になるので稲刈りの準備をせよ)
と言いのがあります。
B娯楽的ことわざ
相手を怒らせもしますが、味方を笑わせる要素もことわざには潜んでいます。当の本人にしてみれば、厭なことでも第三者の立場に立てば笑い転げる内容の意味を含んだ諺が次の表現です。
糊食った天神様
子供たちのことを愚痴にこぼす親に誰かがこの一言、
瓜のつるに茄子はならぬ
といえば、笑いのうちに愚痴はもうでなくなるでしょう。
強情ぱりな人が虫を見て黒豆だと言い張る。そのうちに動き出してもなお黒豆だと言い張ったという時の表現です。
はっても黒豆
だじゃれになったものもあります。
月とすっぽん
雲泥の差といった機能を有することわざから遠ざかると次のようになります。ぜひご自身でお調べください。
義経の向う臑
綱渡りより世渡り
仲立ちより逆立ち
炬燵の前で当たり前
せんちの火事で焼けくそ
さるの小便で木にかかる
このように、機能を失い、駄洒落となってもまだ好んで使う意識の奥底にはやはり、諺としての機能が見え隠れしているのでありましょうか。あなたはどう思いますか。
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