[11月1日〜11月30日]

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1997年11月30日(日)曇り。<東京国際女子マラソン>

いつになく 暖かき初冬 雨多し

「上」「下」の訓

「上下」は@「うえ」と「した」、A「かみ」と「しも」、B「あがる」と「さがる」、C「のぼる」と「くだる」と多訓な表現である。

  1. の例は数あるが、数あるなかで、「上」は熟語では「上着」「上靴」「上前をはねる」などすべて「うわ」と読む。「下」は「下見」「下煮」「下読み」など「した」と読み、意義はあらかじめ準備する意に用いられもする。
  2. の例に、「お上」がある。これに様を付けて「お上様」といえば、「天皇」をさししめし、ただ「おかみ」であれば、「役所・政府など」をさす。逆に一般庶民のことを云うに「しもじもの暮らし」という。ところで、「下風〔しもかぜ〕」は、どこに吹く?。
  3. の例に、土産物や駅弁に「〜ですから、お早くお召し上がりください」や「〜でもおいしく召し上がれます」と表示されている。この「上」は「あがり」「あがれ」と読む。送り仮名「がり」「がれ」がこの読みを有効している。「上り」では、「のぼり」と読むか「あがり」と読むか紛らわしい。そこで「あがり、あがれ」の方を「がり、がれ」と送り仮名するようにして、この識別をつけたかたちにある。「のぼり」の方は、「上ぼり」とはしていない。保守表記で「上り」とする。この識別付けをいつごろ日本語では実施しているかといえば、つい先頃のようである。それまでは「お召し上りください」の表示方式であった。
  4. の例に、「下」の表示として、「是非この機会に御利用下さい」とある。「ください」の漢字表記なのである。これも「便利な郵便局の自動払込みをご利用ください」の方式とともに同じ文章様式のなかで揺れている。「ください」の漢字表記はまだまだ現代日本語のなかで揺れ続けている。

チラシ広告に見る「ください」と「下さい」

この他、多数散見します。

1997年11月29日(土)朝晴れ。後雨

省エネに なるやならぬか 我が家では

「水仙花」

「すいせん【水仙】」をすべての国語辞典を繙くとこの球根植物、「暖地の海岸に自生し、庭に植える多年草。早春、長い茎の先に白(黄)色の六弁の花を開く。葉は細長い。〔ヒガンバナ科〕」(新明解参照)といったようにほぼ同じ内容説明がなされていて、この球根、あくまでも鑑賞用であり、食用としては毒性であると一言も触れていない。この花を愛でるのみで食べる意識がないからかもしれないのだが……。実際、京都市山科の中学校で28日、スイセン球根とタマネギを間違って調理したカレーライスを食べた教員・生徒が、食中毒症を起こしたのである。何故、スイセンの球根とタマネギを取り違えてしまったかというと、校内菜園で野菜や花を栽培しており、収穫したこの二種類の球根をそれぞれ別の籠に入れて保管していたのであるが、この保管方法に食用と鑑賞用毒性の明確なけじめがなかったことにほかならない。この意識の薄さは、上記に示した国語辞典の内容においても「毒性」について全く欠如しているということだ。このことからも国語辞典の記述は、まだまだ実用向き、役立つ意味内容になっていないことを指摘しておきたい。

室町時代の古辞書『下学集』草木,124-7,2429には、この「水仙」、

 水仙花,スイセンクワ,馮夷〔フイ〕ハ華陰〔クワイン〕人ナリ。服〔−〕スルコト花ヲ八石得〔エ〕タリ爲〔タル〕コトヲ水仙。見ヘタリ韻府〔イムフ〕ニ。〓〓〔フハ〕山谷カ詩ニ含〔フクミ〕香ヲ躰ニシテ素〔ソ〕ヲ欲ス傾〔カタムケ〕ント城ヲ。山礬〔[サン]ハン〕ハ是レ弟〔ヲトト〕梅ハ是レ兄〔アニ〕。日本ノ俗名テ曰フ雪中花ト也,

とあって、「花を服すること八石、水仙たることを得たり」の注文語句がちょっと氣になるところでもある。「雪中花」の文献資料は、これのみか?とにかく未見である。

1997年11月28日(金)晴れ。

髪を結ふ 母の手指や 稚児知らじ

「爆」の冠語

「爆」の字を冠する「爆睡」の語は、現在の国語辞典には未収載の語である。「バク【爆】」には、大音と伴ってはじける。破裂する意。「爆音・爆撃・爆砕・爆殺・爆笑・爆竹・爆傷・爆心・爆弾・爆竹・爆沈・爆破・爆発・爆風・爆薬・爆雷」と怖いことばに隠れるようにして、「爆笑」がある。大勢の人が一斉にどっと吹き出すように笑うさまである。このことばには怖さが漂っていない。いま、このように平和な「爆」の冠語が増加している。上記の「爆睡〔バクスイ〕」は大勢で寝るのでも大鼾の状態でもない。本来、寝る時間でない時間と場所で、ぐっすり寝てしまう状態をいうようで、音を伴った弾けとは正反対の状況を表現している。これに類似する表現に「爆食」がある。

『ののちゃん』いしいひさいち作(朝日新聞四コマ漫画234)の、@コマ「ヒソ」、「ヒソ」コマ「センセー、ボクたちのことで悩〔なや〕んでるんですか?」、「え?」Bコマ「おでこにすごいタテジワが。」Cコマ「ウウ、爆睡〔バクスイ〕しちゃたわ。ちょっとね。」、「おまえが」、「おまえが」

このように用いられる「爆睡」の語が、辞書にどのように反映されていくかが今後の楽しみでもある。

1997年11月27日(木)曇り後雨。

酉の市 一年の動き 何処へやら  

「極」の冠語

「極細」は「ゴクぼそ」、「極力」は「キョクリョク」と読む。「ゴク」と「キョク」の二つの字音である。現在この二つの字音は、紛れることなく読まれ使用されている。

たとえば、「ゴク」の字音(呉音)で読む語として、「極楽〔ゴクラク〕」「極意〔ゴクイ〕」「極彩色〔ゴクサイシキ〕」「極上〔ゴクジョウ〕」と最上意にたつ表現と「極道〔ゴクドウ〕」「極悪〔ゴクアク〕」と最下意となる表現などがあるようだ。これを「非常に」の意をあらわす程度の副詞として、「極稀に」や「極真面目に」と表現する語でもある。畳語で「極々」が最上表現となる。今ではこの「極〔ゴク〕」は、「超」や「激」という冠語にその地位を明け渡してしまっているかのように思える。だが、峠の壁やガード下の壁にペイントで大書きされた若者が自己を誇示する落書きを見ると「極魔靈」などといった難字を用いていて、この「極」の字はまだまだ健在でもあるようだ。ところで、最初に取り上げた「極細」はいわゆる混種語(重箱読み)で、漢語と和語とが合体した語である。「極太〔ゴクぶと〕」は対になる語。12月の別名「極月」も「ゴクゲツ」と字音読みもするが、「ゴクづき」と混種語で読むこともある。

次に「キョク」の字音(漢音)で読む語として「極限〔キョクゲン〕」「極致〔キョクチ〕」「極端〔キョクタン〕」「極度〔キョクド〕」「極論〔キョクロン〕」などが通常よく用いられる。数学では関数の説明に「極大」「極小」「極値」の語が使われる。薬方には「極量」という語もある。

ごくじん【極尽】

・極尽の深意、未顕真実にして詞に表はし難き者也。[色道小鏡巻五・二〇一F]

1997年11月26日(水)曇り後雨。

休み明け 二日に来るや 脳頭爪先     

「醤油」

 食卓にのぼる調味料である「醤油」、第一に室町時代の古辞書易林本『節用集』(一五九七年)食服門に初収載されるものであること。この以前になる『下学集』(一四四三年)には未収載であるからして、成立前後がこの頃であったことが知られよう。また、文明本『節用集』飲食門923Fには「漿醤〔シヤウユ/コンヅ・ヒシホ〕」といった別の漢字表記も見える。以後、恵空篇『節用集大全』飲食門818Eに「醤油〔しやうゆう〕」と続く。さらに、邦訳『日葡辞書』(一六〇三年)798L「xoyu.シヤウユ(醤油)酢に相当するけれども、塩からい或る液体で、食物の調味に使うもの。別名Sutate(簀立)と呼ばれる。」とあり、別名を「すたち」というのは実に興味をひく。第二に、これ以前にも「醤〔ヒシヲ/シヤウ〕醯也」は、見られるのだが、現在の製法と同じくこの「醤(醪)」を搾って液状の調味料として使用されるのはこの一五〇〇年代の時代を最初とするというところかということである。第三に、これを当時の女房詞「むらさき」「おむら」「下地〔したじ〕」「おしたじ」とも云うこと。第四に、人見必大の『本朝食鑑』には、中華の名によって「醤油」と呼ぶとあり、源順『和名抄』「豆久利美豆〔つくりみづ〕俗に邇於毛比〔におもひ〕」のことと云っている。そして、一番醤油、二番醤油というようだ。甘醤油とある。気味は、鹹甘。冷利。無毒。主治は、一切の飲食及び百薬の毒を殺すとある。この点について日本国語大辞典の次の記述に着目しておきたい。というのは、「わが国特産の調味料のひとつ。」という記述、これは人見必大の説明記述と大きく相違するからにほかならない。「醤油」は、中華の名であるからにして、中国でも醸造されていた。これを裏付けるように諸橋轍次『大漢和辭典』の用例に、「〔闖偶奇〕自煮俟熟、略加醤油。」とあることからも日本国語大辞典の記述は、勇み足ということになる。さて、この醤油の製造は、本邦では上方の紀州湯浅や播州竜野に始まり、やがて江戸幕府のお膝元近く下総野田でも醸造されるようになる。やがて、江戸の濃口醤油と上方の薄口醤油に分派されるまでに、江戸三〇〇年の歴史文化のなかで食物の調味料として広く使用され、今日に至っているのである。英和辞書には、早く「soy」と紹介され、輸出日本語のひとつでもある。

1997年11月25日(火)晴れ。東京〜苫小牧

見るや空 秋から冬に 飛び越えて   

「野人」

現代の「野人」ということばは、日本サッカーをフランスワールドカップへ導くゴールシュートを見事やりとげた岡野選手に付けられたニックネームである。この「野人」、古くは、天草版『伊曽保物語』の「大海と野人の事」の段に「あるとき野人〔やじん〕、海邊にでて、海の碧のなごやかなを見れば、あまたの廻船が東から西にゆくもあり」と使用されている。この「野人」は、山野を家とし、田畠に汗を流すものの呼称であった。今の「野人」は、「野生味のある人」という意味合いにてこのように呼称するようだ。新明解国語辞典には、「@〔古〕いなかの人。「田夫野人」A身なり・礼儀や世間一般の慣行などを気にしない人。〔どちらかと言えば、粗野な人〕B在野の人。一般の民間人。」とあって、いずれも適応を逸脱しているように思える。強いて言えば、Aを分岐して「うわべをかざらない素朴な人」(新潮現代国語辞典B)に近く、ここから派生してきた意味合いと考えられる表現のようだ。

1997年11月24日(月)晴れ。河津

残り秋 のどやかなるや 伊豆湯煙   

「数字の語呂合わせ」

「いいふろ」と数字の語呂合わせである。こういった看板が目に付く。たとえば、「1483」は「いしやさん」で石屋さん。「450247」は「よごれによいな」でクリーニング屋さん。「53074」は「ごみはなし」で清掃サービス。「1187」は「いいはな」で花屋さん。また「87−4187」は「はな、よいはな」というのもある。「5535」で「ここさいこー」や「5545」で「ここよい」、「8919」で「はやくいく」として工事などの補修関係業種向きの語呂合わせか。「4129」は「よいにく」で肉屋さん。逆にして「2941」でも使える。「2983」は「にくやさん」でそのものズバリもある。「3790」は「みなきれい」で写真屋さん。「0418」は「おーよいは」で歯医者さん。「5059」は「こおこく」で広告会社。「6911」は「ロックいい」また「4169」は「よいロック」で鍵屋さん。「1154」は「ひつこし」で引越し運送。「8148」は「はいしや」でこれもズバリ。ところで、「0874」は「おはなし」だがどんな職種向きかみなさん考えてみてください。さらに、「4649」は「よろしく」。「8181」は「はいはい」という挨拶語としてサービス業に広く利用できそうだ。

1997年11月23日(日)晴れ。横浜〜静岡御殿場。沼津。三島。河津

朝の日や 昼雨雲と 富士見えず   

「いろはかえで」

「かえで」の葉に七つ割れているかえでがある。これを「いろはにほへと」と読み、ちょうど七つ。これを「いろはかえで」と呼ぶ。富士山の麓は黄葉、紅葉の秋景色。「いろはかえで」も色づきはじめている。寒い吹き降ろしの風は冬の到来を感得させていた。

[補遺]:『毛吹草』色葉「七葉の楓〔かえで〕は七つ色葉哉 重貞」三一二頁

1997年11月22日(土)雨後曇り。東京〜横浜

結婚式 親族つどひ 次の式

「の」つなぎ

助詞「の」を挟み込んだことば「味の素」。「の」を表記せずに「味素」と表記したら、字音読みして「ミソ」や字訓読み「あじもと」と読むことになる。これを回避するがゆえに「の」を挟み込む。ところが「茶湯」は、漢字二字を連続させても「ちゃのゆ」と「の」を加味して読む。決して「ちゃゆ」や「さゆ」などとは読まない。そして逆の「湯茶」は「ゆのちゃ」とは言わずに「ゆちゃ」である。

ところで、川端康成『山の音』に見られる副題「雲の炎」「朝の水」「春の鐘」「都の苑」といった一字漢字を訓読みした名詞をつなぐ準体助詞「の」による文章題目の統一化もまさしくこの表現を巧みに使いきっている。川端作品には「秋の雨」「秋の雷」「朝の爪」「神の骨」「木の上」「夏の靴」「母の眼」などの短編小説がある。

他文学資料における「の」つなぎによる作品名として、阿部知二の『冬の宿』、安部公房の『砂の女』などがある。

1997年11月21日(金)曇り。東京

雨上がり 地にしとやかに ゆく秋か

「お連れさま」

「お連れさま」って実に心遣いある表現である。この「お連れさま」当事者本人とどんな間柄なのだろうか。「父母」でも「妻」でも「子ども」でもない。親族系列にはないけれど、その人と親しいおつき合いをかさねている人に対して第三者である人が心遣いしてこう呼ぶのである。逆に言えば、すっかり当事者の事情をお見通しの世界なのかもしれない。こうした宿泊施設で人を迎える商売にあって「おかみさん」と総称され、すべてをとりしきる役割の「女将」は、そっと心遣いして、客をさりげなく日々人々を迎えている。

1997年11月20日(木)曇り。東京へ

銀杏の 葉のあざやかさ 見にゆく

『日本奧地紀行』その2

英語表現を学ぶ

・彼は一番良い英語を話したがる。その言葉は俗語だとか、「ふつう〔コモン〕」の言葉だと言うと、彼はその語を使うのをやめる。ときどき、天気が良くて万事好調にいっているとき、彼は上機嫌で話好きになり、旅をしながらよくしゃべる。数日前に、「今日はなんて美しい日でしょう」と言うと、すぐ彼は手帳を手にとって「美しい日、とおしっやいましたが、たいていの外国人が言う、おそろしく良い天気だ、よりも良い英語ですか」ときいた。私がそれは「ふつう〔コモン〕」の英語だ、というと、彼はその後しばしば「美しい〔ビューテフル〕」という言葉を使った。また「質問をするとき、いったいそいつは何だ、と他の外国人が言うのですが、あなたは決して言いませんね。男はそう言ってもよいが、女はそう言ってはいけないというのですか」。そこで私が、それは男性も女性も使うのは良くない、それはごく「ふつう〔コモン〕」の言葉だ、と答えると、彼は自分の帳面からその語を消してしまった。初めのうち彼は、いつも男のことを「やつ〔フエロウ〕」と言った。「あなたのクルマをひくやつは一人にしますか二人にしますか」とか「やつらと女たち」というふうに。ついに彼は当地の病院の主任医師のことを「やつ〔フエロウ〕」と言ったので、私は、その語は少し俗語的であり、少なくとも「口語体〔コロウキアル〕」であると彼に教えた。それから二日間、彼は男と女のことを言うときに慎重である。今日彼は眼にひどい炎症を起こしている少年を連れてきて私に合わせた。それを見て私は「かわいそうに!〔プーア・リトル・フエロウ〕」と叫んだ。すると夜彼は言った。「あの少年をフエロウとおっしゃいましたが、それは悪い言葉だと思います」。横浜の多くの外国人の習慣のために、言葉の使い方が正しいか間違っているかを区別することが―たとえ彼が少ししか区別しなかったとしても―消えがちとなる。彼は、酔った人を見た、と私に言いたいときには、「英国人のように酔ぱらったやつ」といつも言う。日光で私が彼に、日本で男子は何人合法的な妻をもてるかきいたら、「合法的な妻は一人だけで、養えるだけの数の他の妻<メカケ>をもてる―ちょうど英国人と同じように」と答えた。彼は、間違いを訂正することを決して忘れない。それは俗語だと注意するまで、彼は酩酊した人を「ぐでんぐでん〔タイト〕」といつも言っていた。彼に「酔った〔チプシー〕」「酔ぱらった〔ドランク〕」「酩酊した〔イントキシケイテッド〕」という語を教えると、彼はどの英語が書く場合によいのかときいた。それ以来いつも彼は「酩酊した〔イントキシケイテッド〕」人と言うようになった。[第二十三信186頁下〜187頁下]

・今日も彼が駄馬を残酷に打っていたので、私は馬を戻し、強い言葉でそれを止めた。「お前は弱い者苛め〔ブリー〕だ。弱い者苛めは、みな卑怯〔カワード〕だ」。やがて私たちははじめて休息したが、そのとき伊藤は例の如く手帖を取り出してきて私に「ブリー」と「カワード」という意味は何か、と静かに尋ねた。(中略)そこで私は、ブリーとは彼に対する最もひどい悪口であり、カワードとは最も卑劣な人間のことだ、と言った。するとこの癪に障る少年は、「ブリーという語はデヴィル(悪魔)よりひどい言葉ですか」と尋ねる。「そうだ、ずっとひどい言葉だ」と言うと、彼はそれを聞いて、すっかりしょげてしまったらしく、それからというものは、少なくとも私の見ているところでは馬を打たなくなった。[第四十信351頁上]

1997年11月19日(水)晴れ。

日溜まりの 影細くして 遠離り

「江南所無」は梅

下学集云。「江南所無 梅一名也。但日本俗所ロ∨呼歟。予ガ謂。南宋笵曄。折テ∨フ‖駅使ニ|。乞与ス隴頭ニ|。江南ロ∨シ∨。聊ル‖一枝。蓋テ‖第三ヲ|。而云フ‖江南所無ト|歟」(元和本一三一D)。

*中国三国時代の陸凱〔りくがい〕が江南から長安の友に梅の花を贈り、後に長安に赴き上記の詩を贈る。『太平御覧』に引用する「荊州記」の故事による梅の名である。

按ずるに、須磨寺に若木の桜制札とて紙に書しものあり。其文に云、「須磨寺桜。此華江南所無也。一枝於折盗之輩者。任天永紅葉之例。伐一枝者可一指。寿永三年二月日」とあり。われ此制札の文を疑ふ事久し。江南所無は梅の名なるを、桜とせし事いかゞと思ひしが、文化元年七月のころ西遊して、此寺に入てまのあたり此書をみしに、須磨寺の桜とかける桜の字、紙のやぶれありて、さだかに見えわかず。源氏須磨巻に、「若木のさくらさきそめて」といへるに附会して、光源氏を源七郎とあやまれるにや。桜に江南所無の名ある事、いまだ聞も及ばず。戯に梅一もとを植て、此華、泰山府君なりといはまほし利口せしが、此寺の門内に若木の桜と標して、欄をもてかこひ一むら竹のしげれるを、源氏やしきと称し、桜寿院といへる坊もあれど、古にいはゆる成事不説の類なるべしと口をとぢてやみぬ。そのゝち岡西惟中が続無名抄をみれば、此事を論じて、たゞ梅の制札を、桜の名木あれば取合て、須磨寺の什物としたるなるべしといへり。因に云、甲陽軍監〔第四十品〕、関東上杉管領花の制札に、「此桜花一枝も折取候はゞ、あたり八間流罪死罪に仰付らるべき者也。仍如件」。とたてられたるなり。扨又、信玄公、甲府穴山小路真立寺と申す法花寺に、「紅梅の甲斐一国の事は申に及ばず、近国にもさのみ多なし」。さるにつき右の真立寺より花の制札を申請につき、則禁制の札に、此花一枝一葉たりといふともたおりとる輩これあるにおいては、げんかうかやうの例にまかせ申付べき者也。件の如しとあそばすも、子細は花といふものは、たゞよのつねのせいたうらうぜきにちがひ、花の主、是をおしむ又こん春のため、折とるはみぬものゝため、いづれもやさしき情あるに、るざい死罪はあまりなるとの義にて候。以上須磨寺の制札の文と、此制札の文をみて、その時世をしるべし。[大田南畝『南畝莠言』〔七六〕日本隨筆大成24/199頁]

「梅」を「桜」に違えて表現するを誤りであることを指摘している。日本国語大辞典は、『下学集』をあげず、この『南畝莠言』だけを用例として収載するのみである。上記内容について今後、見聞すべきことがらの一つでもある。

1997年11月18日(火)雨後曇り。

冷たきは 風と知るなぞ 防寒着

「はたたく」の「たく」と「めく」

 『竹取物語』に、「てりはたたきふりこほる」と云詞あり、てりはたたきは、ただてる事と是まで見過しつるが、よくおもへば、「てり」は、日の照ること、「はたたき」は、雷鳴。「ふり」は、雪の降ること。「こほる」は、氷なりと故本居清島主のいはれしは、げにもさもとこそきこゆれ。城戸千楯『紙魚室雑記』243頁

○わび歌など書きておこすれども、かひなしと思へど、霜月〔シモツキ〕しはすの降〔フ〕り凍〔コホ〕り、みな月の照りはたたくにも、障らず來たり。[日本古典文学全集『竹取物語』の五十四頁参照]

「はたたく」は「霹靂」と漢字書きして、意味は雷鳴が激しくとどろくさまを云う。この解釈は、江戸時代に本居清島主によって定説を見たことが知れる。それまでの解釈は、城戸千楯が述べるごときものであった。『日本国語大辞典』では古辞書『新撰字鏡』の「波太女久」と訓点資料『史記抄』七・高祖本紀の「雷電がはためいてまっくらになったよとて往て見たれば」などの「はためく」の語と同義としている。「はたたく」の用例は、この一例にすぎない孤例であることも知っておく必要があろう。和文脈における「はたたく」は訓点資料の「はためく」との第三拍の語相違についていまだ言及を見ない。また、海が荒れ雷が鳴ると鰰が群れる。「鰰」と書いてこの魚の名を「はたはた」と呼称する由縁でもある。別名「かみなりうお」ともいう。ここで象徴音と考えるならば、ハ行音の古音は「P」音とであれば「ぱたたく」、「ぱためく」、「ぱたぱた」だとすれば、古人は「雷の鳴り轟く音」を「ぱたぱたーん」と聞きなしていたのである。「たく」や「めく」は派生動詞の活用語尾で雷の光が揺れ動くさまを視覚的にとらえたことばと考えられる。聴覚と視覚の語が合体してできた語ということになる。「たく」と「めく」について共通性を考えるに「たく」には「瞬」の字訓「またたく、しばたたく、しばたく、まばたく」がある。そして「めく」には、「ゆらめく」「くるめく」「ひらめく」「ざわめく」「はためく」と、視覚表現「ゆらゆら」「くるくる」「ひらひら」系統、そして聴覚表現「ざわざわ」や「はたはた」系統が上位成分になることが確認できる。このなかで共通するのは「はた」のみという点が実に証明しにくい語構成であることを物語っている。

1997年11月17日(月)曇り後雨。

寒き雨 明日雪催ひ 鍋仕込み

「界」の書法

「由分田介」という書法について、「界」の字を分解文字にして「由+分」は、頭〔かみ〕を「由」に作る時は、脚〔しも〕は「分」に作る。「田+介」は、頭〔かみ〕を「田」に作る時は、脚〔しも〕は「介」に作る法によるものである。

 さて、この書法だがいつごろから起こったのかを調査してみたい。また、この文字を旁〔つくり〕とする文字にも注意すべきか。例えば、「堺」の文字がそれである。

 ちなみに、本邦古字書である『新撰字鏡』巻六田部第六十五「〓〔田+分〕界 二字同。宮愛反。限畔為〓〔田+分〕境也」とし、観智院本『類聚名義抄』佛中107Dは「界 音介。サカヒ/フ。禾カイ〔平〕」「田+分 正」「畍 谷」とある。また、天文本『字鏡集』146Dは、見出し字「界」で註字に「畍」と「田+分」を記す。白河本『字鏡集』158Cは、註字も「界」で見出し字との識別も理解していない。さらに『五經文字』下28にも、「界 従介介亦作分」とあるにすぎない。

 いずれも「田分」で、「由分」の文字は見い出せない。この表記文字、宇都宮の鐵塔婆にあるという。

1997年11月16日(日)薄晴れ。松山道後温泉

高々と 霞む山並み 松山城

『日本奧地紀行』のことば

 イサベラ・バード(英国女性)開国まもない明治11年に日本を訪れ、東北および北海道を探検し、その紀行文『日本奥地紀行』(東洋文庫訳本刊行)が知られる。彼女は当時46歳、18歳の日本人通訳伊藤を伴い、単身で旅をしている。栃木県日光。新潟、山形県米沢市、秋田、青森をへて最終目的地北海道を函館から苫小牧・湧別までの歴訪紀行文となっている。北海道では、当初の目的であったアイヌ民族の衣・食・住に至る風俗習慣を見聞して帰国。当時の英国人女性が見聞した東北日本、北海道はいかがなものであったかを少しく眺めてみる事にする。

ここで注目することは、同行日本人通訳を選択するが、月給12ドルで雇うこの男「イトー(伊藤)」が器用で狡猾として最初信用されず、嫌われていたこと。次に食物の問題を生きるか死ぬかの問題として取り上げていること。そこで「日本食」は、魚と野菜の料理で呑み込むただの消化目的にすぎないこと。さらには北部日本に関する「情報不足」。これは自らが情報入手することで、この旅行が大いなる意味を持つことにもなっていく。途中、日本の医療や教育、そして祭礼、葬儀や婚礼にも立ち会う。このなかでことばに関する興味をひく内容を示しておく。

お互いの名を呼ぶ時に「オ」という敬語をつけて呼ぶ。これは女子の場合だけである。それから語尾に「サン」という敬意を示す言葉をそえる。それでハルはオハルサンとなる。これは英語の「ミス」に相当する。家の主人はオカミサンと呼ぶ。オクサマは英語の「マイ。レイディ」に相当し、結婚した婦人に対して用いられる。女性には姓はない。だから「佐口夫人〔ミセズ・サグチ〕」とは言わずに「佐口さんの奥さん」という。彼女に呼びかけるときは「奥様〔オクサマ〕」という。[第10信79頁下]

松山から北海道まで約10時間ほどの帰路の旅程中、上記紀行文を読んでみた。

1997年11月15日(土)松山道後温泉4:30起床

雨上り 瀬戸風峠に 満月見

極楽や 朝湯に浸かり 舌鼓

「扶桑木〔ふそうぼく〕」

愛媛県伊予郡と喜田郡にまたがるおよそ一里(4km)に及ぶ。万古ここに「椹〔むく〕」の巨木があったという。『伊予風土記』に記され、降って江戸時代、伊予国の浄土宗円光寺七世明月上人、この木の根を見つけ、『扶桑樹』(安永九(1780)年作。寛政六(1794)年唐人町茶屋喜成により円光寺で出版)世に知らしめたと『諸国奇談・西遊記』続編二には記す。この木は黒くして漆を塗りつけたようで、木理は黒檀のようであったとする。この根を素材に、一尺ほどの硯を吉田久太夫が拵えたともある。この「扶桑木」の木っ端片を見てみたくなった。国語学会中国四国支部第43回大会研究発表会が折しも愛媛大学で開催ということ。そこで渡りに舟ではないが、松山に出かけてみることにした。さて、この木の実は、「椹」のようだとも書している。期待は高まるが、地元での関心はなぜか薄いようだ。観光ルートマップには、それらしきことが一向見えないのだから……。そこで現在の地層研究に関する資料を見れば、何か手がかりが?と、まるでことばの探偵氣取りになる。これをふまえて、地元ではどのような状況にあるかを確認するところから始まる。

註1、明月上人(1727〜1794)68歳。名は明逸。字曇寧。解脱隠居、化物園主人と号す。周防国屋代島願行寺智〓〔目登〕の子として生まれる。

註2、円光寺。豊臣秀頼の家臣郡主馬頭良列〔よしつら〕、慶長20年大坂城落城の折、自刃。遺書により嫡子信隆、出家して清念が父の御霊を奉った寺。七世明月上人の時大谷派に移管し、現在に至る。

「扶桑木〔ふそうぼく〕」は、伊予市郡中〔ぐんちゅう〕森(JR予讃線で松山駅から七つ目の向河原駅から約1kmのところに位置する。大谷海岸1900mに及ぶ郡中層(第三紀層で粘土質岩の露出した断崖)、昭和31年11月3日に天然記念物に指定されている)。確かに僅かながらに過ぎなかったがその痕跡を見つける事ができた。波打ち寄せる岩盤に黒く炭化した木石が挟まれているのがのぞいていた。それ自体、軟石であり、黒茶褐色であった。土地の人にお尋ねすると近年、海岸線の「扶桑木」は目につかない状態にあるそうだ。近年、「扶桑木」別名「珪化木」メタセイア(スギ科)として植えられている樹木そのものは世に云う「ヒマラヤスギ」であった。この木は、街道入口の橋の袂と向河原駅の傍の隣家の庭先も植えられていた。看板などは一切ない。この樹木が目印なのだと一人思うたしだいである。とにかく、よっぽど注意しなければ見逃してしまう状況にあった。

松山に戻り本来の学会に出席。朝早かったこともあり、居眠りがちであるが、いい発表をたくさん聞いた。松山市堀端の街路樹にもメタセイア(スギ科)は植えられていた。明日、松山を去る。

[追記資料]

紫檀、黒檀、皆埋木なり、予州の海中、或は土中より扶桑木を出だす。相州箱根山より神代杉を出だす、奥州二本松の辺より埋木を出だす、其の色黄なり。出羽庄内領飽海郡、文化甲子夏六月、大に地震して最上川の水底より、古木出だす、予州扶桑木より上品にして紫檀の如し。司馬江漢『春波楼筆記』

○扶桑木 伊予風土記ニ云。上古有大木。一曰ト|。一臣木〔オミノキ〕ト|。其。今桂木の朽残りたる者。予州。伊予郡。森村と云地の海底より出づ。又同所に桂谷と云地有り。其辺方一里程の間を掘ば古木を得。土人桂木の根なりと云ふ。二種共に同物にして。即世に称する扶桑木なり。清ノ王漁村が香祖筆記に。桂板とある物是也。桂川中良『桂林漫録』

1997年11月14日(金)曇り。

              札幌〜大坂(雨)〜岡山・松山道後温泉(曇り)。

ご案内 わからぬ駅員 何番線

湯上がりに ごくりと旨き 道後ビール

漢数字「一二三」の読み方

「一」や「一二」そして「一二三」の読み方をどう読むのかと聞かれたら、さて何と答えて言いのか首をかしげてしまう。そんな読み方が室町時代の通俗古辞書『運歩色葉集』『温故知新書』『伊京集』『易林本節用集』に収載されている。読み方は「一一」は「つくづく」。「一二」は「つまびらか」。「一二三」は「うたたね」とある。「一々」は、よく見かける表現だが、「つくづく」と読むことは稀である。例えば、夏目漱石『坊つちゃん』に、

とあるが、これなど「いちいち」と読めば言い。後者の例は「つくづく」と読んでも意味が通るだろうが、「いちいち」でよかろう。「一二」は兵庫県美方郡村上町に「一二峠」と書いて「ホイとうげ」という地名がある。「一二」で「ほい」なのである。また、「一二三」は、十まで数えるに及ばないほんのわずかな時間、「邯鄲の夢」ではないがこっくりと居眠りをする。だから、「うたたね」なのである。「うたたね」の宛字は、他に「仮寝」・「転寝」と表記する。

1997年11月13日(木)晴れ。

  落着かぬ 陽の傾きに せはしなさ

女性の名と接尾語「や」

 昨晩、郷里静岡の寺の大婆さんが亡くなった。大婆さんの名前は「ぎん」。寺を離れているもう一人の婆さんは「きん」。「金銀」の格で云うと「金」が上位の名であるとして、もう一人の婆さんは「かず」と改めた。戸籍の名と異なる名をずっと通称名として使っていたことになる。孫の私も大人になるまで祖母の本当の名を知らなかった。これが明治日本の女性の名であった。どう表記するとか名を改名するなど全くお構いのない用い様である。嫁いだ先の事情に合わせてふさわしい名を名乗る。これが通例であったようだ。子がつかないのも明治生まれのせいか。この後、多く女性の名に華族思考の「子」がつくようになる。明治生まれの多くの女性が亡くなると仮名二字の「いち」や「みね」や「ゆう」などの名は消えていくことになる。近代女性の名前は、世相の推移を色濃く反映していて実に意味深い氣がしてならない。

 もう一つ、お手伝いさんの名前のあとに親しみを込めて「や」をつける。明治の名であれば、「たき」のあとに「や」をつけて「たきや」とか「おたきや」と呼ぶ。「ふみや」とか「すゑや」などもうまく調子がとれている。こどもは名が判らないので「ねえや」と呼んだりもした。この「や」がつくと不釣合いの名もある。たとえば、「よう【葉】」という名は「ようや」じゃどうも言いにくい。そこで「お」をつけて「おようや」というと、ことばとしての名が保たれるということになる。実に不思議なものといえる。「や」は他に「坊や」とか「婆や」、「爺や」などと使用する。これには冠詞「お」は決して付かない。

1997年11月12日(水)晴れ。

ゆっくりと 手足もみもみ 身体ほぐし   

敬称としての「氏」

 私たちは第三者を紙面にて紹介するときその方の氏名を明記し、そのあとに敬称語を添える。氏名は、氏と名とに区分できる。ここで厄介なのが、どこまでが氏でどこから名なのか判明しない名前がある。たとえば、近代の作家では「二葉亭四迷」、「ふたば」「ていしめい」かそれとも「ふたばてい」「しめい」か、どちらが正しいのか暫し区切りを考える氏名なのである。中国人の氏名も漢字表記なのでこれと同じことが言える。通常、漢民族の氏は一字だが、中には複姓といって日本人と同じく二字であらわす方もいる。司馬、諸葛、閭丘がこれにあたる。明治の文豪森鴎外でさえも、『寒山拾得』のなかで「閭丘胤〔りょきゅういん〕」を「閭丘」と言わずに、ただ「閭」は、と表現してしまったという話がある。話は氏名に付ける敬称であった。ちょっと横道にそれたので、元に戻そう。

たとえば、「民営化の急先鋒、小泉純一郎」といった使い方、私はちょっとおかしな表現だと考えている。「小泉」が氏で「純一郎」が名であるからだ。「小泉氏が発言したのは事実」の「小泉」の使い方は正しい。男性に対しては、氏を用いるが、では、女性氏名の場合はどうであろうか。「土井たか子さん」としか見ないのだ。「土井たか子」という表現はまず使われていない。女性でも「土井」とは言われるのが常である。さすれば、男性氏名に対する敬称も「氏」を使わずに「さん」で言いのではと私は思っている。歴史上の人物を紹介する記事内容にこの氏が登場するようになったのは、どうも明治時代の西洋語圏の姓の表現である「ミスター」(英国)、「ヘル」(独国)、「ムッシュ」(仏国)を訳語して「氏」としたことに由来しているようだ。(このあたりのところは、初出実例をまだ探していない。どなたか見つけたら教えてください。政治家「伊藤博文」などがあろう。)ただし、姓に氏をつけて表現する「武田」「徳川」「毛利などの表現はこの域ではない。もっと古く存在する。そして、明治の頃は、男女区別することをせず、女性にも「樋口一葉」とつけていて、「樋口一葉」は男かと今の人であれば、誰もが思ってしまうわけである。これはさすがややこっしいかったのか、女性に対してはいつのまにか消失して現在では皆無となっている。(ここのところ、どなたか調べてみてください。)さらに、名に氏をつけたへんちくりんな表現が生まれてもいる。高浜虚子の『漱石氏と私』がまさにこれである。先ほど登場いただいた近代の文豪森鴎外さん、ここで面目躍如、森鴎外は氏名のあとにつける敬称をすべて「さん」で統一している。そして、もっとも親しい間柄にある人物には「君」の敬称を用いているのだ。今の私たちは、目下の人から「君」呼ばわりされると、こいつ馴れ馴れしいやつだと訝られるむきにあるだろうから、やっぱり止めて、男も女も氏名は「さん」がいい。

[追記1]研究発表会の通知端書きに女性の氏名に「」が付されている。うーむ、まだ残存使用がこんなところにあったか。この世界には……、これは変だと氣がついていない典型例の一つのようだ。 

1997年11月11日(火)曇りのち薄晴れ。苫小牧

 自転車に 濡れて光るは 夜露かな

「用事」と「要事」

『新明解国語辞典』第五版の、「ようじ」を引いてみてください。

 ようじ【用事】その時△第一に(さしあたって)しなくてはならないと前から予定されている事柄。「―を済ます/―を頼まれる/―で出かける/たいした―でもない/話に夢中になっている間に―を忘れてしまった/なんだったか―が有ったんだが」

 ようじ【要事】△必要(大切)な事柄。

とある。後者の「要事」を滅多に見かけない。本当にあるのだろうかと首をかしげてしまう。みんな「急に大切なようじができましたので、お先に退席させていただきたいと思います。」などと言って、頭に「用事」の字を書いているからだ。「大切なようじ」は「要事」じゃないの?。国語辞典は、これを教えてくれている。あなたは知っていましたか?また氣がつきましたか?ところで、このことばの実際用例は、古くは『今昔物語集』(岩波書店古典大系・五)に、

○物吉シテ食ハセ酒ナド呑セテ、語ヒケル樣、「和主ハ田舎人ニテ有ナレバ、京ニテハ常ニ物欲キ時モ有ラム、亦要事ナル事モ有ラム、極テ糸惜シ。[第廿九,放免共、為強盗入人家被補語第六,148頁]

○京ニ要事有テ上タリケルニ、身ニ敵有ケレバ、不緩ズシテ、我レモ調度負ヒ、郎等共ニモ調度負セナドシテ、人ニ手可被懸クモ无クテ、夜深更ル程ニ、物ヘ行ケルニ、下邊ニ花ヤカニ前追フ君達ノ馬ニ乗リ次キタルニ値ヒヌ。[第廿九,紀伊國晴澄、値盗人語第廾一,173頁]

と見える。近代では二葉亭四迷『浮雲』(新潮文庫)に、

○何か火急の要事が有るようでまた無いようで、無いようでまた有るようで、立てもいられず坐〔すわつ〕てもいられず、どうしてもこうしても落着かれない。[七十二頁J]

幸田露伴『寢耳鐵砲』(岩波文庫)に、

○近藤とは違つて察しよく、いや我等は何の要事〔えうじ〕もなき身、いづれまた伺ひませうほどに今日〔けふ〕は是〔これ〕で御暇〔おいとま〕といたしませう。[一五一G]

と見える。現代語のなかではこの用字は皆無に等しい。

1997年11月10日(月)晴れ。

小春日に しばし窓あけ 心地よさ

「世俗語」その2

『本朝世事談綺』菊岡沾凉著<文政六版>における「世俗」表現資料

道正解毒〔どうしやうのげどく〕

○片山隆盈〔かたやまたかみつ〕と云人、剃髪して道正と号す。越前永平寺の開祖道元和尚の弟子なり。道元入宋の時に従ひて宋に行く。道元中華〔もろこし〕の宿徳を参し、所々経歴の間、山中にてにわかに病発り息たへんとす。時に一人の老翁来りていふ。我が国にして近隣の名衲なり。いかにして此をうしなはんやと、一丸の薬をあたふ。病立所に癒〔いゆ〕。此時老翁道正にむかひていふ。爾〔なんぢ〕師〔し〕に従ふのこゝろざしふかし。今用ゆる所の一丸の薬方を授けん。本朝に帰り子孫に伝へて、もろ人の疾苦〔しつく〕をすくふべし。我は是日本稲荷の神〔しん〕なりと、いひ終つてその行く所をしらず。則ち今の解毒丸〔げどくぐわん〕是なり。道元和尚はじめは深草仏徳山興聖寺に住す。稲荷のやしろに遠からざれば、我が国の近隣と神託ありしなり。道正帰朝の後、第宅〔ていたく〕に稲荷を勧請〔くわんじやう〕し、今に存せり。此辺をいにしへは松木島といふ。松樹〔しようじゆ〕しげりて、その陰ふかきにより、木下といふ。世俗木下道正と称す。元祖道正より今に至つて二十九代、その家相つゞく。誠に奇なるかな。稲荷の神の冥助〔めいじょ〕によるものなり。興聖寺は、近世宇治郡宇治橋の上に再興あり。[本朝世事談綺巻之一飲食門451頁]

薮医〔やぶい〕

世俗未熟の医をさして薮医といふ。本源野巫医〔やぶい〕にて、薬功にまた咒〔まじな〕ひ加持等を加へて、病を療する医なり。麁末の医にかぎるべからず。[本朝世事談綺巻之五人事門523頁]

小児〔をに〕

世俗始めに喰ふ事を小児〔をに〕といへり。江家次第ニ云、正月御薬を供ず。薬子〔くすりこ〕は童女の未嫁せざる者、年齢符合するを求めてこれを用ゆ。一献に御酒をあたゝめ、御薬を酒に入るを屠蘇〔とそ〕と名付く。薬の女官。御酒をわけて薬子に甞〔なめ〕さしむ。本方小児より起こるゆへなり。次に御酒盞に盛りて、これを薬の頭に付す。又ゝ陪膳〔ばいぜん〕につたへて、上へ供すと也。よつてはじめに喰ふを小児〔をに〕と云ふは、これよりはじまる。[本朝世事談綺巻之五雑事門525頁]

茶湯〔ちゃたう〕

世俗仏に茶を供〔ぐう〕ずるを茶湯といひて、一物に覚ゆ。元来二物にして、茶は茶、、湯は蜜湯〔みつたう〕の事にて別也。蜜湯と云は、米粉、砂糖、寒薑等〔かんきやうとう〕の物を、湯に浮かめて飲〔いん〕す。是を湯と云ふ。禅家にもつぱら用之。[本朝世事談綺巻之五雑事門537頁]

1997年11月9日(日)晴れ。

物書きて 日暮し耽り 小春かな

「流行語」と「死語」

世の中の移り変わりと相俟って「死語」となる時間が早くなっている。民放フジテレビの番組「CHA2KEN-TV」(1997-11.8)で、「死語ベストテン」(「CHA」は加藤茶さん。「KEN」は志村けんさん。)をフリップカード(Flip Card)で次の如く表示していた。[()内は、著者が記した。]

 1位「チョウ○○」(「チョウバット」)

 2位「イケイケ」(「GO!GO!」)

 3位「ナウい」

 4位「チョベリバ」(「チョウベリーバット」の略)

 5位「ツーショット」(男と女の二人連れの意)

 6位「モロ○○」

 7位「まじ」

 8位「ギャル」(*「こギャル」にやられたか?)

 9位「いただきマンモス」

 10位「ニャンニャン」

 番外「ボインちゃん」

   「ハッスル」

   「態度ラージL」

 とにかく、なんでも知らないことは、常に氣を留めて記しておくことだ。

1997年11月8日(土)晴れ。

FAXの響き 報せは朝一 寒風会

「あやこ」の表記

 NHK朝のテレビドラマ『甘辛しゃん』に言葉だけで登場する人物「あやこ」は、100年以上続いた酒蔵元榊家当主信太郎の先妻である。信太郎のことばをかりていうと、

 ・京都から来た呉服屋さんの娘だった。おとなしいやさしい人だった。なんにでもいきとどいてきちんとしていて、最後はさびしい思いをさせてしもうた。「あやこ」にしてやれないぶん、「ふみ」さんにと……、せんないことやんかなあー。

 ・「あじさい【紫陽花】」の花が好きだったと「茂吉」さんもいうとった。[拓也の会話]

といった、重い病いにかかって早世した拓也君のお母さんの人物像である。この「あやこ」は、漢字で書くと「彩子」「綾子」「亜矢子」「文子」「絢子」などと表記する。どの字で書くか目下のところ不明である。だからいい。なんでもかんでも解っていると興味がわいてこないからだ。ふと思って字書を繙く。

 最初の「彩子」の「彩」の字音(呉・漢)は、「彩色〔サイショク〕」や「色彩〔シキサイ〕」の「サイ」。和訓は、「いろどり」とあるのみ。古くは国語調査会査定常用漢字(昭和6年5月)と旧小学読本採録漢字にも見える。基本漢字表順位1516で、この字に「あや」の訓は見えない。この疑問は、私だけでなく福井大学の岡島昭浩さんも「目に付く言葉」で取り上げている。

では、いつから「あや」の訓がこの字に与えられたのかを知りたい。中古「いろ、いろどる、うるはし、かげ、ひかり」中世・近世「いろ、いろどる、ひかり」。名乗りとして、「あや」「たみ」。難訓「彩絵〔だみえ〕」が使われる。熟語の「彩章〔サイショウ〕」に「あや。模様」の意がある。といったところである(角川書店『大字源』、講談社『新大字典』、大修館『大漢語林』を参照)。共通するところは、音訓索引の「あや」の項を引いても未収載なのが新しい訓であることを物語っている。逆に云えば、親のつけた名前を字書で確認するこどもにこの字典類は最初につまずきを与えているともいえよう。

「彩子」と命名した親御さんに是非その由来をたずねてみたい。なぜこの名前をつけたのか?と。ルーツはこのあたりから見い出せるのではないかとも思うのだが……如何。

文学作品に「あやこ」はあるかなと調べてみる。

1.川端康成『掌の小説』の「バッタと鈴虫」に、

 ・四角な堤燈は古代模様風に切り抜かれ、花模様に切り抜かれているばかりでなく、たとえば「ヨシヒコ」とか「アヤコ」とか製作者の名が片仮名で刻み抜かれているのである。[三十五頁J新潮文庫]

2.三島由紀夫『夜会服』(昭和41〜42)のヒロイン「稲垣絢子」。

この二例は、カタカナ表記と「絢子」と漢字表記されていて、お目当ての「あやこ」ではなかった。

 「ことばのあや」は、「綾」と書く。この「綾子」は女流作家の名前に曽野綾子さん、三浦綾子さんと尤も多い「あやこ」の表記であろう。

 最後に、教え子の名前に「彩」のつくものに、「彩恵〔たみえ〕」「彩綾香〔あやか〕」がある。

今は、お目当ての「彩子さん、やーい」というところか。

1997年11月7日(金)晴れ。

寒む景色 陽の光さえ 間に合はぬ

「ゆば【湯葉】」の表記「湯波」

大槻文彦編『大言海』に、

ゆば【湯葉】,和語名詞,〔ゆだる、うだる、ゆでる、うでると同趣〕うば(豆腐皮)の訛。豆腐の液に、灰汁〔あく〕を少し入れて煮れば、上面に薄皮を生ず、それを徐に巻き取りて乾したるもの。皺ありて黄色を呈し、檀紙の如し。再び煮て食ふ。うば。,*骨董集(文化、京伝)上編、下、後、おかべ、豆腐田楽、豆腐上物「俗説に、豆腐皮〔トウフヒ〕をゆばといふは、訛言なり、本名は也。其色、黄にて皺あるが、姥〔うば〕の面皮に似たる故の名なりといへるは、みだりごとなり。異制庭訓往来に、豆腐上物〔うはもの〕とあるこそ、本名なるべけれ、豆腐をつくるに、上にうかむ皮なれば、さは云へるならん、略て、とうふのうはと云ひ、音便には、文字濁りて、うばと云へるより起れる俗説なるべし、ゆばと云ふも、うとゆと横にかよへば、甚しき訛にもあらず」,豆腐皮,,4-724-4,食品>文化,924a56,32689

とある。以下国語辞典の「ゆば」の表記は「湯葉」である。さらに、『学研国語大辞典』の「ゆば」の参考の条には、「京都・日光などのものが有名」とある。ところで、本日お昼の番組(東京テレビ)「いい旅夢気分」で、日光が紹介されていた。ここでの「ゆばの会席料理」が紹介され、テロップカード(「Television Opaque projector Card」の略)に湯波と表記されている。日光では、「ゆば」を「湯波」と書くのかとふと目を留めた。

1997年11月6日(木)雨のち薄晴れ。

鈴かけ葉 大きく散りぬ 朝の道

「尻取り歌」

「いろはにこんぺいとう」「こんぺいとうはあまい」「あまいはさとう」「さとうはしろい」「しろいはうさぎ」「うさぎははねる」「はねるはかえる」「かえるはあおい」「あおいはきゅうり」「きゅうりはながい」「ながいはへび」「へびはこわい」「こわいはかみなり」「かみなりはひかる」「ひかるはおやじのはげあたま」と「〜は」で連想することばを繋ぐ尻取り歌。頭出しの「金平糖」、ついぞ見かけなくなっている菓子である。近年、子どもたちの舌が甘いものより辛い刺激性の強いものに取って代ってきている。ピリカラは大人の味だなどと言ってはいられない昨今である。連想尻取り歌も嗜好品の異なりにともなって、たどり着くところがひょんなことばとなる可能性を有している。

1997年11月5日(水)曇り雨。

どんよりと 暗き空にて 照る陽待つ

「三寒四温」

 本日の朝日新聞朝刊、社会面掲載の四コマ漫画「ののちゃん」いしいひさいち作212のことばである。

「さて今日は寒いのかな。」(パパ)

「朝は肌寒うて、昼間はポカポカで、夜はひえ込む」(ママ)

「一日のうちでも温度に差があって、まそうやって冬になんていくんですやろな。」(ママ)

三感四温だな。」(パパ)「いってらしゃい。」(ママ)「ワー」(娘)

こんなふうに、四字熟語は誤字変形して行くのかもしれない。みなさんは、正しく書いていますか?それとも、感じたままに表記していますか?

1997年11月4日(火)晴後曇り雨。苫小牧。

歩く街 景色は窓辺に 干しだいこん

「カッパ」の文字「河伯」

朝の番組に「伊万里の酒造元」に「カッパ」のミイラが祀られている映像が流れた。この「カッパ」が保管されている木箱の表に「河伯」と記されていた。この「河伯」の表記について今後もうちょっと調べてみようと思う。ところで、「カッパ」は、通常「河童」と表記する。「kawawappa」の「わわ」のところが省略されて「kappa」と転成したのである。他に「小童」を「こわっぱ」という。この番組中、この家には跡取りができないという異常な事態が紹介され、現在の当主が屋根裏にあった木箱をとりだし祀ったところ、双子の男児を二代続いて授かったという触れ込みであった。河童は水の神、酒屋は水が商いの源であるというのだ。この河童のミイラ、人間とちがって肋骨の数が多く、手足に水掻きがあるという。これが本物ならば、近代国語辞典の記載内容である「想像上の動物」でないことになる。そして、水陸に生きる大きさは人間の子どもぐらいで、泳ぎは勿論のこと、角力が大好き。頭の窪みに皿があって、水が皿に保水されているあいだは力が強い。他の生き物を水中に引きずり込み生き血を吸い、尻から腸をぬくという伝承動物、「水虎〔すいこ〕」とか「川太郎」とも呼称されてきたこの生き物は、俄然実証を帯びる生き物となってくるのである。以前、岩手県盛岡宮沢賢治の里の古老が「河童」に出会ったという話しをしていたことが思い出された。関西では「カワタロウ」から変じて「ガタロ」という。

1997年11月3日(月)晴れ。

いろ景色 土のにおいか いやし道

白と赤の国語辞典

本日、発売の国語辞典といえば、三省堂新明解国語辞典第5版のこと。書店で買い求める。買うときの話し。この辞典同じ内容で、箱と中味の表装が白と赤の二種が用意されている。これに特別革装を加えると三種類となるのだが、この辞典はまさに買い手の好みで選ぶことになる。三種類すべてもとめる方は普通はない。私もこの二種類、両方手に取りしばし眺めてこの違いを確認したうえで、白を購入した。なにかワインの選び方みたいだと思う。ワインは白と赤とで中味が異なる。この辞書もワインが食材との関わりにあるように、白と赤とでどういう持ち味や異なりを今後派生していくことかとこれまた楽しみでもある。

1997年11月2日(日)晴れ。道南福島町・函館・長万部。

海景色 潮風やわら ゴメが舞う

聞き違えと洒落ことば

「足」と「兄」は、一瞬過ぎ去る車窓の光景で読み取る文字として、見間違いやすい類似した文字のひとつである。これを口にのぼらせて「あし」と「あに」で、これまた聞き違えてしまうと奇異な表現が生まれてくる。「あしなみ」と「あになみ」、「あしこし」と「あにこし」、「あしからず」と「あにからず」など。ことばの極致ここにありであろうか。

「恩知らず」と「親知らず」も二拍めが「onshirazu」、「oyashirazu」と聞き違えの元となっている。

『世俗類聚』の最初にある諺「壁に耳あり、障子に目あり」の下の句を、「syoji」を「jyoji」として「情事に目あり」と聞き違える。

追記「書き違え」もあった] 海外旅行でのこと、人の名「絹子〔KINUKO〕」が「キノコ〔KINOKO〕」と名札に誤表記されている。一字違えて苦笑!

1997年11月1日(土)晴れ所により雨。道南福島町へ。

冬景色 狐の嫁入り 虹のはて

同じおなじ、どう使う

ことばは上下の入れ替わりで、示す内容が異なるものもあるが、まったく変化しないことばも多々ある。漢語の「命運」と「運命」や「留保」と「保留」「西南」と「南西」、和語の「おもてうら【表裏】」と「うらおもて【裏表】」、「てつくず【鉄屑】」と「くずてつ【屑鉄】」。カタカナ語の「カレーライス」と「ライスカレー」。混種語の「板ガラス」と「ガラス板」。「消しゴム」と「ゴム消し」。調べていくとちょっと奥が深いようだ。二つのことばが一つに合成されて一つのことば表現となるものを複合語(合成語)という。この折、どちらを上にどちらを下にするか、上下の力関係が働くようである。企業の合併による社名や地域の合併による地名は言うまでもない。なかにはまったく両者を継承しない新種となって表現されるものもあるようだ。「変わりばんこに使いましょう」というのもある。このように上下交互に使うのも人と人の心栄えに左右されているかのようだ。

[補遺]:「ライスカレー」と呼ぶのは戦前戦中派で、「カレーライス」と呼ぶのは戦後派と同僚の先生から聞いた。落ちに「カレーのめし」はオレの言い方だって言うから面白い。

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