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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1999年12月31日(金)薄晴れ。東京(八王子)

於菟と呼ぶ 三毛の摺り寄り 可愛げな

「須弥山(シユミセン)」と「蘓迷盧(ソメイロ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

須弥山(シユミセン)高廣三百六十万里。<元亀本321@>

須弥山(シユミセン)高廣三百六十万里。<静嘉堂本378B>

とある。標記語「須弥山」に語注記は「高廣三百六十万里」と地里の数値を示す。別名「蘓迷盧」には触れていない。が「楚部」に、

蘓迷盧(ソメイロ)須弥山事。<元亀本155B>

蘓迷盧(ソメイロ)須弥山事。<静嘉堂本170A>

蘓迷盧(ソメイロ)須弥山之事也。<天正十七年本中16ウB>

とあって、「須弥山」のことをいうとある。『下学集』には、

須彌山(シユミセン)一名蘇迷盧(ソウメイロ)。一名好光山。一名妙高山([メウ]カウ[サン])矣。有リ高サ八万四千由旬。ーー(ユジユン)トハ十六里。或ハ三十里ヲ曰フ一由旬ト。異説多シ也。<天地門21@>

とあって、「一名」という対応表現形式により「蘓迷盧」さらに「好光山」「妙高山」の別名を注記する。その次に、地里の高さを「八万四千由旬」と記し、単位「由旬」を「十六里」、あるいは「三十里」と説明し、この単位の数値には異説が多いことを示している。文明本『節用集』は、

須彌山(シユミセン/スベカラク、イヨ/\、ヤマ)西域記云。唐言妙高四寳合成在大海中據金輪ニ。與日月之所廻(メクリ)泊(セセル)。謂諸天之所游舎。七金七海。環州四面各有一色。東黄金。南瑠璃。西白銀。北頗黎。随其方面水同山色倶舎曰。七寳所成。故ニ名妙。出リ七金山。故名高ト。三百三十六万里。縦横亦尓。<天地門906A>

とあって、『下学集』の注記内容を継承せずに、全く別の観点で注記していることが知られる。そして、『運歩色葉集』の「須弥山」はまさにこの範疇にあって簡略化して収載するものであることが見えてくる。ただ、その数値が「三百六十万里」と「三百三十六万里」と異なっていることも注意せねばなるまい。さらに、『運歩色葉集』の「蘓迷盧」の語は、『節用集』に未収載であることから『下学集』に依拠するものということになる。この二元的な繋がりを見せない「須弥山」と「蘓迷盧」の記述は、引用資料の系統性を浮き彫りにしているのではあるまいか。

1999年12月30日(木)晴れ。東京(八王子)

穏やかに 夕陽仰ぎて 買出しす

「通草・木通(あけび)」と「郁子(むべ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の巻末「草名部」に、

通草(アケビ)。山女。<元亀本379@>

通草(アケビ)。山女(同)。<静嘉堂本>

とある。これも標記語「通草」と対象語「山女」並列記載にし、語注記載による対応表現形式による体裁は取っていない。『下学集』には、

通草(アケビ)又云フ山女(アケビ)ト。<草木門126A>

とあって、文明本『節用集』には、

通草(アケビ/ツウサウ。トヲル、クサ)或作木通。山女。寒冷病毒。<草木門745B>

とあって、対応表現形式「或作○○」を用いて、対象語「木通」を増補し、さらに、注記内容も「寒冷病毒」という効能をも増補している。これとは逆に対して『運歩色葉集』は消極的であり、簡略化改編の方向姿勢を見るのである。この対象語「山女」の表記由来が何に基づくものなのかは当代にあって知られずじまいにある。

現在、「あけび【通草・木通】」によく似た「むべ【野木瓜】」を知る人は少ない。正しくは「ときはあけび」というが通常口にする世俗表現は「むべ」、または、これが訛った「うべ」である。どこがどう異なるのかといえば、熟れた実が暗紫色した方が「むべ」であり、白い色の方が「あけび」という。現代の『日本国語大辞典』に「むべ」を「郁子」と表記して収載する。そして古辞書には、『倭名抄』『色葉字類抄』観智院本『名義抄』に「郁子(ムベ)」は収載されているが、室町時代の古辞書に「むべ」は未収載の語となっている。

ところで、この「あけび」を「山女」と表記する由来についても、室町時代の古辞書『下学集』を頂点とした『節用集』『運歩色葉集』などの古辞書群の語注記からは何も語られずじまいにある。「あけび」もこれより前に遡って見るに、『新撰字鏡』五十三に、「〓〔艸+開〕 山女也。阿介比」というのが本邦初出例である。「山女」の表記由来はまだ説き明かされていないのが現況である。

1999年12月29日(水)晴れ。東京(八王子)⇒河津

海眺む ことばの道に 遊びけり

「靴・沓・履・〓(くつ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久部」に、

(クツ)左ヨリハキ、右ヨリヌク。(同)。(同)僧。〓〔寫‐宀〕(同)。<元亀本198A>

(クツ)左ヨリハキ、右ヨリヌク。(同)。(同)。〓〔寫‐宀〕(同)。<天正十七年本中41ウF>

とある。標記語「」に語注記は「左よりはき、右よりぬぐ」という。『下学集』には、

(クツ)履也。<器財113A>

とある。「」は未収載にある。そして、『運歩色葉集』におけるこの注記内容は、人が足に履物をはくときとぬぐときの儀礼作法であり、何かしらの迷信に作用されているように思えてならない。そして、和語「くつ」を漢字表記する文字種として四種が見えている。『下学集』に一種あって、計五種となっている。それぞれの使い分けについては、「」が僧侶の履物に用いると注記がされているだけで、後の文字種の使い分けについては何ら示されていないのである。

1999年12月28日(火)晴れ。東京(八王子)

注連縄や 火焚きに煙る 和かさに

「嫁・婦(とつぐ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「登部」に、

(トツカウ)。(同)言ハ女人ノ適(ユク)ハ夫家ニ如シ己カ家ニ|。故曰―(カヘル)ト―ニ。<元亀本62D>

()。(―)言女人適夫家ニ如―己家故曰―ト。。<静嘉堂本71G>

(トツグ)。(―)言ハ女人適夫家如己家ニ故曰―。。<天正十七年本上36ウ@>

(トツグ)。(同)言ハ女人適(マサ)ニ夫ノ家ニ如―ルカ己カ家ニ|。故曰―。。<西來寺本112@>

とある。標記語「」に、語注記は「言うこころは、女人の夫家に適(ゆく)ことは己が家に婦(とつぐ)がごとし。故に婦という。『下…』」という。元亀本には最後の典拠を意味する「下」の字を書写者は見落としている。その『下学集』は、

(カストツグ)婦人(フジン)謂テ嫁ヲ曰(イフ)(トツグ)ト。言(イフココロ)ハ女人適(ユク)コト夫(ヲトコ)ノ家ニ(カヘル)カ己カ家ニ。故ニ歸ト也。<態藝77F>

「婦人を謂ひて嫁を(とつぐ)といふ。言ふ心は、女人夫(をとこ)ノ家に適(ゆく)こと、己が家に(かへる)がごとし。故に歸と云ふ」

とあって、『運歩色葉集』の最後の「下」の文字が典拠であるところの『下学集』を示すものである。文明本『節用集』は、

(トツグ/コン)。(同/イン)男−。(同/)女ノ−。<態藝門150G>

とあって、「姻」の字が増加され、『下学集』の語注記そのものを継承する編集姿勢にないことが知られる。弘治二年本『節用集』にも、

(トツグ)娶婦。戻婚。<C>

とあって、この語における『節用集』との連関性は薄く、むしろ、『運歩色葉集』『下学集』を直接典拠とした証しがこの最後の「下」の文字なのかもしれない。

1999年12月27日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

穏やかに 暮れ行く夕陽 年の暮れ

「歳・祀・年・稔・白(とし)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「登部」に、

(トシ)夏代曰−ト。()殷代曰−ト。()周代曰−。()音枕。()天竺曰−。<元亀本62A>

(トシ)夏代曰−。(トシ)殷代曰−。(トシ)周代曰−。(トシ)同。音枕。(トシ)天竺曰−。<静嘉堂本71C>

(トシ)夏代曰−。()周代之字−。(−)周代曰−。()唐代ニ用之。()天竺曰−。<天正十七年本上36オF>

(トシ)唐代ニ用之。<天正十七年本上36ウD>

(トシ)夏代曰−。(トシ)殷代曰−。(トシ)周代曰−。(トシ) 同(周代曰ー)。音ハ枕同。(トシ)天竺曰−。<西来寺本111D>

とある。標記語「歳・祀・年(季)・稔・白」で、いずれも和訓は「とし」だが、語注記は「夏代、と曰ふ」「殷代、と曰ふ」「周代、と曰ふ」「周代、と曰ふ。音は枕」(天正十七年本だけは、「唐代にこれを用ゆ」としている。さらに、別の後位置に「載」をも記載する。)「天竺、と曰ふ」といったように、その表記によって、中国における時代区分そして印度国の「とし」の表記法が示されている。『下学集』は未収載にある。文明本『節用集』には、

(トシ)夏(カ)ノ代(ヨ)ニ曰−。(トシ)殷代曰−。()周代曰−。()年也。音枕。(トシ)年也。天竺ニハ用白字ヲ也。<時節門126A>

とあって、語注記にその連関性を知る。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』には、

(トシ)夏ノ代ニハ曰−。()殷代ニハ曰−。()周代ニハ曰−。()唐代ニハ曰−。()。<時節門41A>

とあって、「」の前に「」を入れ、「唐代には載と曰ふ」とし、「」の語注記と標記語「」とその語注記を削除している。また、永禄二年本・尭空本・両足院本・村井本・慶長九年本『節用集』も、

(トシ)夏(カ)ノ代ニハ曰−。(トシ)殷ノ代ニハ曰−。(トシ)周ノ代ニハ曰−。(トシ)。<永禄二年本時節門41A>

とあって、これも「」の語注記と標記語「」とその語注記を削除している。このことからも、印度本系統諸本にあって、弘治二年本は「」を挿入することから特出し、これに廣本系の文明本がこの標記語及び語注記において、尤も『運歩色葉集』に近似た関係にあることをここに確認できるのである。

1999年12月26日(日)晴れ。東京(八王子)⇒市ヶ谷

ストーヴに 暖とりながら 文整理

「兜羅疂(トラデウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「登部」に、

兜羅疂(トラヂウ)八幡愚、蹈―――ヲ御足ニ。被履(ワラクツ)ヲ。又都。<元亀本58G>

兜羅疂(トラテウ)八幡愚童記、蹈―――ヲ御足。被召履。<静嘉堂本66E>

兜羅疂(トラテウ)八幡愚童記、蹈―――御足ニ。被召履。又都。<天正十七年本上34オC>

兜羅疂(−ラテウ)八幡愚童記、蹈―――御足。被召履ヲ。又都。<西來寺本105E>

とある。標記語「兜羅疂」の読み方は「トラデウ」と書いて「トラジョウ」。語注記は「八幡愚童記に、御足に兜羅疂を蹈む。履(わらぐつ)を召さる。又、都」という。静嘉堂本だけが、「又都」の部分を欠く。『下学集』『節用集』類には未收載にある。

この典拠である『八幡愚童訓』甲本(日本思想大系20)を見るに、

最物細キ御腰ニ太刀ヲ帯キ、都羅畳ヲ踏、御足ニ藁沓ヲ着、紅ノ御裳ノ上ニ唐綾威ノ甲〔金ノ御鎧〕ヲ奉ル。<八幡愚童記 上174下H>

と神功皇后の出で立ちを叙述する部分にあたる。この「兜羅疂」はこの部分からの採録であることが知られる。ここで、注記に「又都」とあるのは、この「兜羅疂」の「兜」の字を「都」で表記することを示している。

1999年12月25日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

午後の 山葵つんとす 粋のよさ

「温鳥(ヌクメトリ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「奴部」に、

温鳥(ヌクメドリ)鷹取テ生鳥ヲ。寒夜ニ握之暖(アタタム)翌日放之ヲ其日不鳥ヲ報ル恩ヲ也。<75C>

温鳥(ヌクメトリ)鷹取生鳥ヲ寒夜握之ヲ暖翌日放之其方ノ不取鳥ヲ報恩也。<静嘉堂本91D>

温鳥(ヌクメトリ)鷹取生鳥寒握之暖。翌日放レ之其方不取鳥報恩也。<天正十七年本上45ウD>

温鳥(ヌクメトリ)鷹取生鳥寒夜ニ握ル之。暖翌日放ツ之。其方ノ鳥ヲ不報恩也。<西来寺本>

とある。標記語「温鳥」に、語注記は「鷹、生鳥を取りて。寒夜にこれを握り、手[足]を暖(アタタ)む翌日これを放ち、其の日、鳥を取らず恩を報いるなり」という。元亀本だけが「足」を「手」とし、「手を暖(アタタ)む」とする。『下学集』『節用集』類『温故知新書』には未収載にある。

1999年12月24日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

イヴの夜に 作業する手は ゆったりと

「筥根・波姑祢(はこね)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「波部」に、

筥根(ハコネ)聖武天平聖暦三未立。至天文十六丁未八百十七年也。又波姑祢(ハコネ)。<元亀本29I>

筥根(ハコネ)聖武天平聖暦三未立。至天文十六丁未八百十七年也。又波姑祢。<静嘉堂本29F>

波姑祢(ハコネ)又筥根。<元亀本33I>

波姑祢(ハコネ)又筥根。到彼岸之義。則六度ノ行也。<静嘉堂本35G>

とある。標記語「筥根」に主要語注記が見られ、「聖武、天平、聖暦、三帝未立。至る天文十六年丁未八百十七年なり。又波姑祢」という、「又波姑祢」は、三熟語排列の標記語「波姑祢」に「又筥根」と注記載する。ただし、静嘉堂本は、標記語「婆羅密」の語注記「到彼岸之義。則六度ノ行也」を「波姑祢」の注記に続けて記載している。『下学集』には「筥根」「波姑祢」そして「婆羅密」も未収載にある。文明本『節用集』には、

筥根(ハコネ/リヨゲン)伊豆。或作波姑祢(ネ)ト。<天地門50E>

とあって、地名「伊豆」が記載され、「或作○○○ト」の注記表現によって「波姑祢」が示されているが、これを標記語として収載はされていない。いわば、『運歩色葉集』ならではの編纂方式とも云えるのである。

1999年12月23日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

冬至過ぎ 陽射しのなのめ 少し見ゆ

「籌(はかりごと)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「波部」に、

(ハカリコト)運(メクラシ)策クヲ於帷幄之中ニ决ス勝コト於千里ノ外ニ。<元亀本36D>

(ハカリコト)運−於帷幄之中ニ决勝於千里之外ニ。<静嘉堂本39@>

(ハカリコト)運−於帷幄之中决勝於千里之外。<天正十七年本上20オE>

(ハカリコト)運(メクラシ)−於帷幄之中决ス勝コトヲ於千里ノ之外。<西來寺本64@>

とある。標記語「」の語注記に概ね異同は見られず、「帷幄のうちに策を運(めぐら)し、勝(かち)を千里のそとに決す」という。この句の典拠は『史記』高祖紀にあって、当時尤も流布していた句表現であった。意味は、大将のいる陣営の幕の中で軍略をめぐらし、これによって遠く隔てた地の戦において勝利を勝ち取る。戦略に秀でていることをいう。典拠を示さずともよく周知していた内容であったのであろう。『下学集』に、「籌策(チウサク)」<態藝89D>は見えるが、この注記の語は未収載にある。『節用集』には、

策(ハカリコト)定(サダマツテ)禁中(キンチウ)ニ功(コウ)成ル野戦ニ文選運(メグラシ)策(ハkリコト)ヲ於帷幄(イアク)之中(ウチ)ニ决(ケツ)ス勝(カツ)コトヲ於千里(センリ)ノ外(ホカ)ニ子房(シバウ)之功(コウ)ナリ也。史記<文明本態藝門78G>

(ハカリコト)運−。(同)定−。<弘治二年本>

とある。ことばの実際を見るに、『太平記』巻第十七「山門南都に牒送する事」に、

早く両寺一味の籌策を廻らし、朝敵源尊氏・直義以下の逆徒を追罰して、いよいよ仏法・王法の昌栄を致さんと請ふ状。

とあるのが確認できる。

1999年12月22日(水)晴れ。東京(八王子)⇒板橋(国立国語研究所)

年の暮れ 車の風に 木の葉舞ひ

「國司(コクシ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古部」に、

国司(コクシ)三――也。阿波――一宮。伊勢之北畠殿。飛騨――姉ノ小路殿也。<元亀本232I>

國司(コクシ)三――也。阿波(アハ)――一色(イツシキ)。伊勢ノ――北畠(キタバタケ)殿。飛騨ノ――姉(アネ)ノ小路殿也。<静嘉堂本267G>

國司(コクシ)三国司也。阿波(アハ)−−一ノ宮(ミヤ)。伊勢(イセ)ノ畠殿(トハタケトノ)。飛騨(-タ)ノ−−姉小路(アネカコウチ)殿也。<天正十七年本中62ウF>

とある。標記語「國司」の語注記は「三国司也。阿波国司、一ノ宮。伊勢の国司、北畠殿。飛騨の国司、姉が小路殿なり」という。ここで、「阿波の国司」を元亀本と天正十七年本が「一宮」としているのに対し、静嘉堂本は「一色」として異なりを示している。また、注記語「三国司」を繙くと、

三國司(−コクシ) 阿波――。伊勢北畠殿。飛騨――姉ノ小路殿。<元亀本277G>

三國司(−コクシ) 阿波――。伊勢北畠殿。飛騨――姉ノ小路殿。<静嘉堂本317D>

と、「國司」での注記語が標記語となってもいる。注記内容は、ほぼ同じと言えるのではないか。

『下学集』にあっては、ただ

國司(コクシ)。<態藝90D>

とあって、語注記は未収載にあり、文明本『節用集』には、

國司(コクシ)君王ノ御名。<態藝90D>

とあって、語注記はあるものの、「君王の御名」としてなぜかその注記内容を異にしているのである。『運歩色葉集』は、当代の三国司として、阿波国・伊勢国・飛騨国が注視され、一宮家・北畠家・姉小路家を記す。この歴史的な記録である典拠そのものを今後求めていかねばなるまい。

1999年12月21日(火)晴れ。東京(八王子)⇒板橋(国立国語研究所)

白化粧 富士山見つつ 足運ぶ

「面向不背珠(メンゴウフハイのたま)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「免部」に、

面向不背珠(メンガウフハイノタマ)大織冠(シヨクワン)之時、自大唐渡之。<元亀本298@>

面向不背珠(メンガウフハイノタマ)大織冠之時、自大唐渡之。<静嘉堂本346D>

とある。標記語「面向不背珠」に語注記は「大織冠の時、大唐よりこれを渡す」と標記語「管絃磬」とまったく同じ内容の語注記になっている。『下学集』『節用集』『温故知新書』には未収載にある。文明本『節用集』には、「面向(メンカウ/ヲモテ、キヤウ・ムカウ)」<態藝門877A>という語は見えるが、この標記語「面向不背珠」と語注記は見えない。

当代の謡曲集『海人』に、「玉中に釈迦の像まします、いづかたより拝み奉れども、同じ面なるによつて、面を向かふに背かずと書いて、面向不背の玉と申し候」とある。この玉は前後どこから見ても申し分がなく、美しいという。

1999年12月20日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

桑の葉も ドサリと伏す 霜の冬

「卯精進(うショウジン)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇部」に、

卯精進(ウシヤウジン)昔八幡食魚肉ヲ。獺ハ献。兎可献物無之入火焼身而献之。八幡感其志ヲ至今爲―――ヲ。被肉食者也。<元亀本183G>

卯精進(ウシヤウシン)昔八幡食魚肉ヲ。獺献ル魚。兎ハ可献物無之入火焼身而献之。八幡感其志ヲ今爲―――ヲ。被禁肉食者也。<静嘉堂本206E>

とある。標記語「卯精進」に、語注記は「昔し八幡、魚肉を食す。獺は魚を献ず。兎は献ずるべき物これ無くして火に入り、焼身してこれを献ず。八幡、其の志を感じて、今に至りても卯精進を為す。肉食を禁じらるる者なり」という。この内容は、標記語「月兎」<1999年11月24日(水)>で取り上げた内容と連関している。「月兎」では、「釋尊菩薩」とするところを、この「卯精進」では、「八幡(大菩薩)」に置換している。三獣も、「獺」と「兎」の二獣にして示す。そして、この譚の最後を八幡大菩薩がその志に感じいりて「肉食」を禁じられる者という結末が異なっている。それは、八幡信仰者のなかで、卯の日に肉食を禁じて、身を清めることへと発展してきている。いわば神仏融合譚の一つでもある。『下学集』『節用集』類『温故知新書』には未収載にある。

1999年12月19日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

昼さがり 蜜柑艶やか 縁の内

「管絃磬(カンゲンケイ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久部」に、

管絃磬(クワンゲンケイ)大織冠之時、自大唐渡之ヲ。<元亀本197E>

管絃磬(クワンゲンケイ)中庸。大織冠之時、孫氏、元朝人斈自大唐渡之ヲ長遠夏珪ヲ。<静嘉堂本222E>

とある。標記語「管絃磬」に、語注記は「大織冠の時、大唐よりこれを渡す」というのだが、静嘉堂本は、標記語「君澤畫(グンタクガエ)」の語注記である「孫氏、元朝人斈長遠憂陸」を混在して収載していることが元亀本の記載内容から知られるのである。『下学集』『節用集』類には未収載にある。

 実際は「華原磬」と表記して、「クヮゲンケイ」と呼んでいたのが訛って「クヮンゲンケイ」となったものである。『わらんべ草』巻四に、「なら正法院に、唐よりわたしたる、くゎんげんけいあり、此一けいより十二調子いづるといへど」と見えているのに相当する。

1999年12月18日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

電車にて 行き来する夜は 霙かな

「杓叛(シャクム)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

杓叛(シャクム)人之面。<元亀本320A>

杓叛(シャクム)人之面。<静嘉堂本377B>

とある。標記語「杓叛」に、語注記は「人の面」とあるにすぎないが、顔の表面でいうところの中央部分が凹面のような状態となることを云うのである。「しゃくみがお【杓み顔】」「しゃくみづら【杓み面】」ともいう。『下学集』は未収載にある。近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

しゃく・む(自動、四)〔杓子の、中凹(くぼ)なるより云ふ、杓(シャク)ふを自動に活用したるもの〕中,凹(くぼ)みて、丈(たけ)、ちぢむ。「顔、しゃくむ」<0978-4>

しゃくみ(名)しゃくむこと。又、次の條の語の略。<0978-4>

しゃくみづら(名)しゃくみたる顔。上下、高く、中、窪みたる顔。杓子づら。「假面の凹面(しゃくみづら)」。<0978-4>

といった記載が見える。『運歩色葉集』の標記語「杓叛」の表記は、いったい何に拠ったかを今後検討せねばなるまい。

1999年12月17日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

寒き朝 陽のぼり来て 温かき

「白拍子(しらビョウシ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

白拍子(シラビヤウシ)鳥羽院時鳥ニ千歳和哥ノ舞始テ舞也。白キ水干立烏帽子白鞘巻刀指之人皆男舞ト云也。自中比女房白キ水干計着(キ)テ之歌イ舞也。伎女之類也。<元亀本321G>

白拍子(シラビヤウシ)鳥羽院時鳥ニ千歳和哥ノ舞始舞也。白水干立烏帽子白鞘巻刀指之人皆男舞ト云也。自リ中比女房白水干斗着之歌舞也。伎女之類也。<静嘉堂本379B>

とある。標記語「白拍子」に、語中記は「鳥羽院の時鳥に千歳和哥の舞、始めて舞ふなり。白き水干、立烏帽子、白鞘巻刀指しの人、皆、男舞ひと云ふなり。中比より女房、白き水干計り着(き)て、これを歌い舞ふなり。伎女の類ひなり」という。『下学集』には、

白拍子(シラヒヤウシ)歌舞(ウタイマフ)テ而衒‖_賣(テライウル)女色ヲ之者也。<人倫39F>

とあって、『運歩色葉集』のような成立年代とそのあらましの記載はなく、当代における「白拍子」について、「歌ひ舞ふて女色(ニョショク)を衒賣(てらいうる)の者なり」という記載をとっている。文明本『節用集』には、

白拍子(シラヒヤウハクハク・ウツ、コ)妓女。後鳥羽(ゴトバ)ノ院ノ時、歌舞而衒‖-賣(ケンマイ)スル女色ヲ之者也。<人倫門916F>

とあって、「妓女」を先に置き、「後鳥羽院」とあるところを『運歩色葉集』は「鳥羽院」と訂正している。「歌舞」の語注以下は『下学集』を継承する。いわば、中間的過程ともいえる語注記内容を示しているのである。永禄二年本では、

白拍子(シラビヤウシ)歌舞シテ而衒(テライ)‖_賣(ウル)女色ヲ者也。<人倫門199@>

(尭空本<人倫188H>) もほぼ同じ。

とあって、『下学集』を継承するに留まり、弘治二年本は語注記を欠く。また、易林本『節用集』は、

白拍子(シラビヒヤウシ)妓女。<人倫204E>

とあって、文明本語注記の頭冠部だけを注記した、まさに簡略化した記載となっている。以上のことから、『運歩色葉集』の「白拍子」注記内容は、簡略する方向でなく、むしろ語史注釈という立場で増補改編がみられ、当代の「歌舞にて女色を衒賣する」という記述内容を意識的に、初めて削除していることにも気づかせられるのである。また、『土+盖嚢鈔』には、

白拍子傀儡ナント云ハ其品如何。○鳥羽院ノ御時ヨリ出來ト云々。平家ノ物語ニ委ク侍リ。重テ不注。傀儡トハ術藝也ト尺セリ。傀ヲハアヤシトヨム。奇術ヲ施コス義也。敗壞ト尺セリ。一旦人ノ目ヲ驚シテ現スル所ノ事始終ナキ也。儡ノ字ヲハ子ノ戲レ也ト云々クヽツト云也。昔ハ樣々術共ヲ成ス也。今ハ無其ノ義男ハ〓〔急攵〕生ヲ業トシ。女ハ偏ヘニ遊女ノ如シト云リ。サレハサレハ遊女傀儡相似タル故ニヤ。歌道ニハ遊女ヲハ水邊ニ定メタリ。定家卿ノ此二首ノ題ヲヨミワケラルヽ歌ニモ  寄遊女ニ|戀  心ロカヨウ行來ノ舟ノナカメマテサシテカハリ物ハオモハシ  寄傀儡ニ戀  一夜カス野上ノ里ノ草枕ムスビステケル人ノチキリヲ  如∨此遊君ノ類樣々ナレ共皆是傾城也。不近ツク、不遊フ、人非(アラ)木石ニサレハ皆情アリ。不シ如傾城ノ色ニ不ランニハト云ヘルハ樂天カ妙言文集ノ名文也。豈ニ是ヲ忘レン哉。妙音院大相國禪門ノ曰ヒケルハ舞ヲ見、歌ヲ聞テ國ノ治亂ヲ知ルハ漢家ノ常ノ習也。而ルヲ世間ニ白拍子ト云舞アリ。其曲ヲ聞ケハ五音ノ中ニシテ商ノ音也。此ノ音ハ亡國ノ音也。舞ノ姿ヲ見レハ立廻テ空ヲ仰キ見ル其躰甚タ物思ヘル姿也。然レハ詠曲見體共ニ不快ロ舞也ト云。<日本古典全集二五頁>

とあって、「鳥羽院の御時より出來と云々。平家の物語に委しく侍り。重ねて注するにおよばず」と実にあっさりとしていて、ここでも『下学集』及び『節用集』類にみる、上記注記内容「歌舞にて女色を衒賣する」を示していないことが知られるのである。

1999年12月16日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

霜露の 朝日に解けて ひた落つる

「蓮薹野(レンダイノ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「禮部」に、

蓮薹野(―――)日本五三時之内。聖徳太子開之。<静嘉堂本164F>

蓮臺野(―タイノ)日本五三時之内。聖徳太子開之。<天正十七年本中14オD>

とある。この標記語「蓮薹野」は、元亀本には未収載であり、静嘉堂本と天正本に収載する。語注記は「日本五三時の内。聖徳太子これを開く」という。この「五三」が何を意味するのか未詳である。『下学集』には未収載にある。易林本『節用集』に、

蓮薹野(レンダイノ)。<乾坤門97C>

と、語注記は未収載であるが収録されている。意味は、蓮台に乗って赴く野、すなわち墓場となる。江戸時代の『書字考節用集』にも、

蓮薹野(レンダイノ)城州愛宕ノ郡。<乾坤門一62@>

とあって、語注記は「山城の州、愛宕の郡」という。

1999年12月15日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

ボロ市や 来慣れた道が 人の波

「湯起請(ゆギシヤウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遊部」に、

湯起請(ユギシヤウ)武内臣舎弟甘美之宿祢何モ事(ツカウ)應神天皇。甘美内宿祢致讒依之銅湯ニ入手决之。武内臣不損。甘美内之手忽損落也。――自此始也。八幡放生。<元亀本294A>

湯起請(ユギシヤウ)武内臣舎弟甘美之宿祢何(イツレ)モ亊(ツカウ)應神天皇ニ。甘美内宿祢致讒依之銅湯ニ入手决之。武内臣ノ不損。甘美内之手忽損落ス也。−――自此始也。八幡放生記。<静嘉堂本341F>

とある。標記語「湯起請」に、語中記は「武内臣、舎弟甘美内之宿祢、何(イツ)れも應神天皇に亊(ツカ)う。甘美内宿祢、讒を致し之に依りて銅湯に入手し之を决す。武内臣の手、損ねず。甘美内の手忽(たちま)ち損落すなり。湯起請、此より始まるなり。八幡放生記。」という。『下学集』『温故知新書』には未収載にある。『〓〔土+蓋〕嚢鈔』巻一の48「起請(キシヤウ)ノ事」に、

とあって、「武内宿祢と弟甘美内宿祢」譚として、鎌倉時代の『塵袋』巻六の「探湯(イカタチ)トイフ事イカナル心ソ」、

ミコノユツカフトイフ事アリ。ソレテイノ事也。犯人ノトカヲアラカフヲ决シテ、イツハリヲアラハス。ハカリコト也。昔シ允恭天皇ノ御時キ、ヨノ人オホク我カ種姓ノイヤシキヲイタミテ、他姓ニ入ニヨリテ、本姓ヲウシナフ。御門此ノ事ヲミタリカハシキ事ヲナケキ、オホシメシテ、其ノ實否ヲサタメンカ、タメニ大和國〓〔甘+力〕櫓(ヒノ)丘トイフ所ニ大ナルカマヲスエテ、探湯ヲセラレケルニ、イツハリテ他姓トナレルモノ皆ナ湯ニ身ヤケテ損シタヽレケリ。マコトノ姓アルモノハ、ヤケヌ。コレニヨリテ姓ヲアラタムル事ハ、トヽマリニケリ。ソノユワカシタリケル大カマハ、高市郡ニアリト見エタリ。今ハイカヽナリヌラム。コノ御門ノイカタチヨリ、ハシマリテ、ノチ/\ノ御門ノ代ニ一度諸姓ノ氏文ヲメサレテ、圖書寮ニオサメラレケリ。譽田ノ天皇ノ御宇云々。武内宿祢筑紫ニクタリケルニ、オトヽノ甘美内(ムマシウチ)ノ宿祢ト云フ人、武内ヲウシナハントテ、高麗、百済ヲカタラヒ、御門ヲカタフケタテマツラントスト讒シ申スニヨリテ、御使ヲツカハシテ、武内ヲウチテ、マイラセヨト、オホセラルヽニ、真根子(マネコ)トイフ人カタチ、タケウチニ、タカハサリケルカ、アヤマチナクシテ、命ヲウシナハムコトヲ、アハレミテ、武内ニカハリテ、シニヽケリ。武内ハミヤコニノホリテ、アヤマリナキコヽロヲ申シヒラキケリ。ヲトヽノ甘美内(ムマシウチ)ヲメシアハセラルヽニ、カタク、アラカヒ申ケレハ、ソノトキモ探湯(イカタチ)ヲシタリケルニ、甘美(ムマシ)ヤケニケリ。武内コロサントシケルヲ、御門アハレミ給ヒテ、ヒトニアツケラレケルトカヤ。万葉集ノ寄霜戀ニ哥ニ  ハナハタモヨフケテユクナミチノヘノ 湯小(ユシ)竹ノヽウヘニシモノフルヨハ  トイヘルハユツカフトキ、湯ニ竹ノ枝ヲサシイレテ身ソヽギカクル事アリ。ソノ竹ニスルシノタケトイフ心歟。イカタチニモ竹ノ枝ヲヤ用ヒツラン。オボツカナシ。天竺ニ犯否ヲワキマフル法ハ、水火稱毒トテ四ノ樣アリ。ソレモ探湯ノ風情也。一ニ水ト云フハ犯人(/ボンカヲカス)ト石トヲフクロニイレテ水ニシツムルニ實犯ノモノハシツム。不犯ハウカフニ火ト云フハ鐵ヲ赤ク焼テソノ上ニ坐(サ)セシヌ。或ハ足ヲ以テフマス。或ハ舌ニテネブラスルニ、ヲカセルハヤク。ヲカサヽルハヤケス。身ヨハキ人ノ火氣ニタエサルヲハ、火ニムケテツボメルハナ(花)ヲハナゲサスルニ、不犯ハ花ヒラク。實犯ハハナコガル。三ニ稱トイフハハカリノ一方ニハ石ヲツケ、一方ニハ人ヲツケテ軽重ヲミルニ犯スルモノハ石サガル。無實ナルハ石アガル。四ニ毒トイフハ、羊ノ右ノモヽヲサキテ、モロ/\ノ毒ヲ入テクハシムルニ、ヲカシアルモノハシヌル(死)。トカナキハシナズ。<日本古典全集『塵袋』下439〜443>

から引用改編した内容がここに見られるのである。

1999年12月14日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

朝雲に 彩美しく 広がれり

「師趨【シわす】」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

師趨(−ワス)十二月者一年之終也。諸人亊繁(シケシ)。不暫(シハラク)居(キヨ)セ家ニ|。悉使弟子ヲ雖トモ師匠ト亦タ趨走。故ニ曰フ師趨(/シハス)ト。<元亀本307B>

師趨(シワス)十二月者一季之終也。諸人亊繁。不暫居悉使弟子ヲ師匠ト亦趨走ス。故曰――ト。<静嘉堂本358A>

とある。標記語「師趨」に、語注記は「十二月は一年の終りなり。諸人亊繁(シケシ)。暫(シハラク)、家に居(キヨ)せず。悉く、弟子を使ひ師匠と雖ども、亦た趨走す。故に師趨(シハス)と曰ふ」という。『下学集』に、

師趨(シワス)十二月ハ一年ノ之終ナレハ諸人事繁(シケウ)シテ而不暫(シハラク)モ居|∨家ニ。雖師匠ト亦趨走(ハシリハシル)。故ニ云師趨ト也。<時節門30F>

とあって、語注記の原形を見ることができる。そして、文明本『節用集』は、

師趨(ハス/モロ〃、スウ)一年ノ之終也。諸人亊(シ)繁而不暫(シハラク)モ居(キヨ)セ|∨家ニ。雖師匠ト亦趨走(ハシリハシル)。故ニ云――ト也。斗建丑孝經緯小寒後――。日在斗。異名。氷霜惨選――正−棲。日躔女菓子雲歳暮賦――度。年景凋選急景凋――。大呂月令季冬律中――。季冬。抄冬。窮冬。残冬。三冬。調年。調季。歳暮。極月。〓〔虫+昔〕月。王侯臘。歳除。爆竹。興龍節八日也。寒天。凝寒。積雪。畋猟。賞雪。衣錦。大臘。流年。霜角。雪充。蒼冬。暉冬。窮陰。大〓〔虫+昔〕。晩月。窮臘。圓月。沈夜。迢路。霏雨。餘寒。残臘。二暮。除月。暮冬。急景。寒冬。除(シワス)。<時節門911F>

とあって、『下学集』を継承するが、増語「斗建丑孝經緯小寒後――。日在斗。」があり、さらに「異名」語群を増補する。この典拠として「選」は『文選』を云う。他に『古文孝經』『月令』などが銘記されている。

1999年12月13日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

旭日に 白き大地が 目を覚ます

「つなぐ【繋・〓〔糸+段〕】」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「津部」に、

(同/ツナグ)−(ツナク)馬ヲ於花山之陽ニ。放(ハナ)ツ牛ヲ於桃林之野ニ。<元亀本161I>

〓〔糸+段〕(ツナグ)−馬於花山之陽ニ。放ツ牛於桃林之野ニ。<静嘉堂本178B>

とある。両本における和語動詞「つな・ぐ」の標記語を「」と「〓〔糸+段〕」とで表記し異なる。語注記は「馬を花山の陽(みなみ)に繋{〓〔糸+段〕}(つなぐ)。牛を桃林の野に放つ。」といった、ある漢詩句からの引用であり、前半の詩句は、『尚書』武成篇に「馬を華山の陽に帰す」とある文からの引用であろう。この「華山」は、中国陝西の山を云う。この対の詩句は、天下が平和であることを意味示唆する内容である。この語注記は、『下学集』『節用集』類、『温故知新書』には未収載にある。(文明本『節用集』には、「(ツナグ/コレ)。(同/カヽル)−舟」<態藝門424B>とある)

 ところで、単漢字「」と「〓〔糸+段〕」とだが、『字鏡抄』に、

(ケ・ケイ)ツナク正。カク。トラフ。カヽル。アカル。ユル。<白河本802A>

〓〔糸+段〕[平声](カ)。<白河本804@>

とある。

1999年12月12日(日)晴れ。東京(八王子)

寒さ増し 暖房の火ともし 恋しきぞ

「永樂銭(エイラクセン)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「衛部」に、

永樂銭(―――)岡辺六弥太忠澄(ヲカベノロクヤタースミ)始メ可生女子ヲ変成男子法ヲ。即生ス男子ヲ。面ハ女人也。上野國世良田之村建立ス長楽寺ヲ。依テ此徳ニ生ス唐ノ王ニ。有時其王ノ夢ニ本朝渡シテ生者ヲ彼長楽寺ヲ可修理。夢醒也。長楽寺ノ字ノ替讀音号永楽ト。鋳銭ヲ渡シ日本我朝濁乱ノ故長門國赤間カ関而奪取之終ニ不達長楽寺ニ。慙愧々々。<元亀本337H>

永樂銭(―――)岡邊六弥太忠澄始メ可生女子行変成男子ノ法ヲ。即生ス男子。面ハ女人也。上野国也。世良田之村建立長楽寺。依此徳ニ生唐王。有時其王ノ夢本朝渡使者ヲ|。彼長楽寺可修理云々。夢醒也。長楽之長字替讀音借讀号永楽銭鋳渡日本ニ|。我朝濁乱國故長門国赤間関而奪取之。終ニ不達長楽寺。慙愧々々。<静嘉堂本404C>

とある。標記語「永樂銭」には読み方は両本とも示されていないが、「エイラクセン」と読む。語注記は、「岡邊六弥太忠澄、始めて女子を生ずべし。変成男子の法を行じて、即ち男子を生ず。面は女人なり。上野国なり。世良田之村に長楽寺を建立す。此の徳によりて唐の王に生ず。有時、其の王の夢に本朝に使者を渡し、彼の長楽寺を修理すべし云々。夢から醒るなり。長楽の長の字を讀音を替え借讀して永楽と号す。銭を鋳して日本に渡す。我が朝、濁乱の國故、長門の国赤間が関にてこれを奪取らる。終に長楽寺に達せず。慙愧々々。」という。『下学集』には未収載にある。文明本『節用集』には、「永樂(ヱイラク/ナガシ、タノシム)」<態芸門704A>とあって、語注記はない。これを『左貫註庭訓』(国会図書館藏、室町期古鈔本)に、川口久雄「庭訓徃來考(二)」(「書誌学」昭和14年)で本文内容をあげて記述するなかに、

湊々替銭永樂銭ハ岡部六彌太忠澄ヨリ始ル。忠澄ハ可女子。變成男子ノ行法ヲ生男子ト。故面女人也。上野國世良田ノ村建立長。故今又依此徳ニ唐ノ王ト生ス。六弥太也 有時其王夢其謂ヲ|、王夢醒テ云然ハ本朝ニ渡使者。彼寺ニ可修理由詔也。長ニ長ノ字ノ替音ヲ借讀ヲ永ト云字ヲ以鋳銭而渡我朝濁亂國ノ故長門國赤間關ニテ彼ノ代ヲ無理ニ取也十八貫來也。終長寺ニ不來。

とあり、また、『庭訓徃來註』卯月十一日の条にも、

湊々替銭(カワシ)永樂銭ハ崗部ノ六弥太忠澄ヨリ始。忠澄ハ可ヲ女子。変成男子ノ行法ヲ生男子。故ニ面ハ女人ノ也。上野国世良田ノ村建‖-立長楽寺。故今又唐ノ王ト生ス有時其王夢其謂ヲ|、王夢醒テ云ク、然ハ本朝ニ渡使者。彼寺ヲ可修理由詔也。長楽ノ長ノ字ノ替音ヲ借讀ヲ永楽ト云字ヲ以鋳銭ヲ而渡ス。我朝濁乱国ノ故長門国赤間関ニテ彼ノ代ヲ無理ニ取也。終長楽寺ニ不ソ來。

とあって、この『運歩色葉集』(天文十六(1547)年成)の注記内容に相当する説話がこれら『庭訓徃來』の真字註釈に引用されていることをここに確認できるのである。とりわけ、上部に引用した『左貫註庭訓』の朱表紙裏の後人の覚書に、「此書左貫註庭訓――ト云ヘシ三ノウ上野ノ國左貫といふ處にて註したるよしのあれば也」とあって、上野の国博雅なる人物によって註釈がなされたことを知る。この説話自体、本文の『庭訓徃來』とは直接関係を持つものでないことから川口久雄博士は、「或は著者上野國なる縁によつて引用したものかと思われる」と記述している。さらに、同じく『左貫註庭訓』の朱表紙背に、「此書の注釈の時代考 猿楽の註に今ノ宮王ハといふ事見えたり。さればこの宮王の現在の頃の註なり。この宮王の女(ムスメ)ハ千利休の妻なり。されは享祿天文(1528〜1532年)の頃なるべし。永樂錢の話ハ虚談なるべけれど、天正の頃までも世にいひふらしゝ事とおぼしく(運歩)色葉集にも此話を載たり」とある。

 この注記に見える「長楽寺」は、『日本国語大辞典』によれば、

一群馬県新田郡尾島町にある天台宗の寺。はじめは臨済宗。山号は世良田山。承久三年(1221)栄西の弟子、栄朝が新田氏の帰依をうけて創建。寛永十七年(1640)天海が再興して現宗に改宗。

とある寺で、この時代、臨済宗の寺であったことがわかる。この長楽寺岡部六弥太忠澄、そして、「永樂銭」の関係がどのように繋がっているのかをもっと知る必要があろう。また、江戸時代の『書字考節用集』に、

永樂銭(エイラクセン)大明ノ大祖九年鋳――通寳ノ銭ヲ。益配ス其年号ヲ。于時本朝相國寺ノ僧中方明(ミン)ニ。帝勅シテ令其ノ四字ヲ。<八76A>

とあり、語注記の記述内容を異にする。『和漢三才図絵』巻五十九「金類」にも、

(せに/ツエン)〔前略〕相國寺の中正藏主、大明に入り尤も楷書を善くす。明人曰く、書法第一なり。乃ち永樂通寳の錢の文を書かしむ。永樂元年は應永十年に當る。永樂錢を呼んで、俗に比太(ビタ)と曰ふ。<原文は漢文体であるが、書き下しにして示した。

と見えていることからも、どうも時代によって、諸説あるようである。

1999年12月11日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

樟脳の 匂ひ放つや 新畳

「閻浮檀金(エンブダンゴン)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「衛部」に、

閻浮檀金(エンブタンコン)此樹在須弥山上ニ露落テ轉物為ル金ト也。<元亀本337E>

閻浮檀金(エンフダンゴン)此樹在須弥山上ニ露落テ轉物為ル金ト也。<静嘉堂本403G>

とある。標記語「閻浮檀金」の読み方だが「エンブダンゴン」と云い、語注記は「この樹須弥山の上に在り。露落ちて轉ずる物、金と為るなり。」という。『下学集』に、

閻浮檀金(エンブダンゴン)須弥山(シユミセン)ノ頂(イタヽキ)ニ有リ閻浮樹(エンブジユ)。其ノ露(ツユ)落(ヲチ)テ成ル此ノ金ト|。故ニ云フナリ也。<器財103B>

とあって、「上」を「頂」として「閻浮樹(エンブジユ)」が記載され、最後に引用典拠を示す「故に尓云ふなり」といった記載となっているのである。これを文明本『節用集』弘治二年本『節用集』には、

閻浮檀金(ヱンダンゴン/ノキ・サト、ブウ・ウカブ、マユミ、キン・コガネ)須弥山ノ頂閻浮樹ノ露落成金ト故云尓。<器財門701F>

閻浮檀金(エンブダンゴン)須弥山頂ニ閻浮樹アリ。露_落成金故云―――。<財宝門C>

とあって、ここでも「……有り。其の…」(文明本)や「…」(弘治本)の部分を削除しているが、『下学集』の注記内容を継承する語であり、その継承度合いは簡略削除する方向にあることがここからも伺える。江戸時代の『書字考節用集』には、

閻浮檀金(エンブダンゴン)[觀經疏]超-過スト紫磨金ノ色。百千万倍者云々。<八76A>

1999年12月10日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

畳替え 家を開きつ 大掃除

「捐舘(エンカン)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「衛部」に、

捐舘(エンクワン)曰大人ノ遠行ヲ也。<元亀本336I>

捐舘(ヱンクワン)曰大人之遠行ヲ。<静嘉堂本402F>

とある。標記語「捐舘」の読みだが、元亀本はア行の「エ」、静嘉堂本はワ行の「ヱ」で表記する。語注記は、「大人の遠行を曰ふなり」という。『下学集』に、

捐舘(エンクワン)新圓寂([シンエン]ジヤク)ノ義也。人死シ去テ捐(スツ)平生ノ舘屋ヲ。<態藝92F>

「新圓寂([シンエン]ジヤク)の義なり。人死し平生の舘屋を去て捐(ス)つ」

とあり、『節用集』類は文明本に、

捐舘(ヱンクワン/ステ、タチ)新圓寂之義也。去(サツ)テ捐(スツ)ル平生之舘屋義也。<態藝703F> 圓寂(ヱンジヤク/マロシ、シヅカ)同上義。<態藝703G>

とあって、『下学集』を継承する注記内容にある。弘治二年本には、

捐舘(エンクワン) 死去而捐(スツル)平生ノ之舘(タチ)ヲ也。<言語進退F>

とあって、『下学集』の前半部を削除して後半部を記載する注記となっている。意味は、『下学集』の示すように、平生住み慣れた館を捐て去ることをいい、転じて貴人の死去をいうのであるが、『運歩色葉集』と語注記の記述内容を全く異にすることに注意されたい。語注記はないが「大人(―ニン)」<多部、元亀本136G>、「大人(―ジン)」<多部、静嘉堂本144C>と「遠行(―カウ)」<衛部、元亀本336@・静嘉堂本401C>という語注記の語も収載され、さらに、「圓寂(―ジヤク)」<元亀本336C・静嘉堂本401F>も同じく収載されている。

1999年12月9日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

明け烏 柿の熟しを 抜き身食ひ

「目付石(めつけいし)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「免部」に、

目付石(−ツケイシ)ヒノキコ。有口傳。<元亀本297F>

目付石(メツケイシ)ヒノキヨ。有口傳。<静嘉堂本346@>

とある。標記語「目付石」に語注記として片仮名で「ヒノキコ」(元亀本)或いは「ヒノキヨ」(静嘉堂本)そして、「口傳あり」という。これは、「碁石」を用いた遊戯の一つだとされているが、具体的にはどういうものなのか検討したい。この片仮名の部分についてだが、『下学集』『節用集』類『温故知新書』には未収載にある。

 

1999年12月8日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

木枯らしや 去りて再び 温む朝

「丸太産衣(ガンダがうぶぎぬ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、

丸太産衣(カンタカウブギヌ)源氏代也。号ス御小袖ト也。<元亀本102F>

丸太産衣(ガンダガウボギヌ)源氏代也。号御小袖也。<静嘉堂本129@>

丸太産衣(カンタカウブギヌ)源氏代也。号御小袖也。<天正17年本>

丸太産衣(カンタカウブギヌ) 源氏代之。号御小袖也。<西来寺本>

とある。標記語「丸太産衣」に、詠み方は、総体的に「ガンダがうぎぬ」になる。ただし、静嘉堂本は、「ガンダがうぎぬ」と第六拍目の「ぶ(U音)」を「ぼ(O音)」と表記する。語注記は「源氏、重代[童代]なり。御小袖と号すなり」という。静嘉堂本と天正十七年本が「童代」のところを、元亀本と西来寺本は「重代」に作る。そして『運歩色葉集』に「重代(−ダイ)」<元亀本65D・静嘉堂本76D>とあって、祖先から代々伝わることの意になる。逆に「童代」の語は未記載にあり、ここは前者の意ととりたい。また、「御小袖」も遠部・見部にも未記載にある。この標記語だが『下学集』『節用集』類、『温故知新書』には未収載にある。

1999年12月7日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

銀杏の実 熟して今 匂ふ夜ぞ

「名残・餘波・浪残(なごり)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「那部」に、

名残(ナゴリ)。餘波(同)其ノ波及晋国ニ者君之餘(ナコリ)也。左傳。浪残(同)。<元亀本165I>

名残(ナゴリ)。餘波(同)其波及晋國ニ者君之餘也。左傳。浪残(同)。<静嘉堂本184C>

とある。標記語「名残」「餘波」「浪残」とあるうちの、「餘波」について、語注記があって、「其の波、晋国に及ぶは君の餘(ナコリ)なり。[左傳]」という。引用典拠を示したものである。『下学集』文明本『節用集』には未収載にある。『節用集』類では、『伊京集』に、

名残(ナゴリ)。餘波(同) 晋重耳曰其波晋国者君之餘也。<言語進退53B>

とあり、『左傳』という典拠を示すのではなく、「晋の重耳が曰く」で、注記説明をしている。次に、弘治二年本『節用集』に、

名残(ナコリ)。餘波(同) 左傳云其晋國者君之餘也。<言語進退53B>

とあって、『左傳』という典拠を示すというものである。また、天正十八年本『節用集』では、

名残(ナゴリ)又作餘波。<言語進退上37ウB>

とあって、注記そのものが簡略化されているし、黒本本にあっては、

名残(ナゴリ)。餘波(同)。<言語93F>他に明応本<100F>、易林本は個別に収載。

とあって、語注記を未記載にしているのである。この点からいえば、『運歩色葉集』と近似た語注記の資料といえるのは、『伊京集』弘治二年本『節用集』ということになる。

1999年12月6日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

ゆったりと 寛ぎ走る 朝の道

「落題(ラクダイ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「羅部」に、

落題(ラクダイ)讀落題歌和泉式部桃四ト云顔ニ落題鹿ノ野原ヲ走ニハ股羅ニモ隠(カクレ)佐里鳬桃ヲ鹿ノ股ニヨミタル亊是――之躰也。<元亀本172I>

落題(ラクダイ)。<静嘉堂本190B。天正17年本中26オB>

とあって、元亀本は標記語「落題」に語注記「和泉式部落題の歌を讀みて、“桃四”と云題に落題、鹿の野原を走るには股羅にも隠(カクレ)佐里鳬(サリケリ)。桃を鹿の股によみたる亊是――の躰なり」というのに対し、静嘉堂本と天正17年本は語注記を欠いているのである。『下学集』には、

落題(ラクダイ)詩歌ニ所ロ言フ。<態藝81E>

とあり、『節用集』類(『伊京集』・明応本・天正十八年本・饅頭屋本・黒本本・易林本など)のなか文明本『節用集』には、

落題(ラクダイ)詩歌ニ所言。<態藝81E>

とあって、いずれも『下学集』の語注記内容を継承している。このことは、『運歩色葉集』だけが独自の注記内容で編纂したものと受け止めてよい語となるのである。そして、語注記の内容を大いに検討すべきものといえよう。この「落題」は、和歌や詩歌において題の心を詠み落とすことであり、その話しとして和泉式部が「桃」を「鹿の股」に詠むという故事がここに引用されているがこの内容についての傍証を今後に待たねばなるまい。

1999年12月5日(日)晴れ。東京(八王子)

栗林 落ち葉の葉盛り ゆたかなり

「日影絲(ひかげのいと)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「比部」に、

日影絲(ヒカゲノイト)賀茂神祇也。以也。河海云。以日影草為鬘也。<元亀本344A>

日影絲(ヒカゲノイト)賀茂神祇也。以也。河海云。以日影草為鬘也。<静嘉堂本413D>

とある。標記語「日影絲」に語注記は「賀茂(神社)の神祇なり。蔦葛をもってるなり。『河海(抄)』に云ふ。日影草をもって鬘(かづら)と為すなり」という。これを「ひかげのかづら」という。『下学集』『温故知新書』には未収載にある。『河海抄』巻九の乙通女に、

ひかけにも 以蘿葛(ヒカケ)為手襁(タスキ) 古語拾遺

諸社祭にもひかけ草を鬘とする也。苔の類也。    <377上F>

とあって、ここに依拠する。また両本に異同の見える「以蔦[茗]也」のところも、「蘿葛(ヒカケ)為手襁(タスキ)」からも「蔦葛」の方が良かろう。

1999年12月4日(土)晴れ。東京(八王子)⇒高輪

大樹の下 散り敷く葉盛り 吾が迹は

「勢樓・星樓(セイルウ・−ロウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「勢部」に、

勢樓(セイルウ)星樓()張九齢摘――詩。危樓高百尺。手可摘星辰ヲ|。敢高聲語|。恐驚天上人。<元亀本353@A>

勢樓(−ロウ)星樓()張九齢摘――詩。危樓高百尺。手可摘星辰ヲ|。不ス敢高声ニ語|。天上人ヲ。<静嘉堂本428C>静嘉堂本「恐驚」の「恐」の字を欠く。

とある。標記語「勢樓」「星樓」と二種あり、読み方も元亀本は「セイルウ」、静嘉堂本は「セイロウ」とそれぞれ異なっている。語注記は「張九齢の――を摘む詩に、危樓高百尺、手星辰を摘むべし。敢えて高声に語らずして天上人を恐れ驚かす」という詩句を収載する。『下学集』『温故知新書』には未收載にある。天正十七年版『節用集』に、「征樓(セイロウ)」、『伊京集』に同音異表記の語で「征樓(セイロウ)又井−」なる語が見えていて、この語は、「戦陣で井桁に組んだ物見櫓(ものみやぐら)」をいうと現代の国語辞書にも収載されているが、この『運歩色葉集』の二種の標記語「勢樓」と「星樓」を未収載にしている。この『節用集』類の「征樓」「井樓」といった標記語との連関についても見ておく必要があろう。因みに三省堂『時代別国語大辞典』<室町時代編>は、「勢樓」と「星樓」を見出し語にはしないものの、両者を収載しているのである。

1999年12月3日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

蝶の様 ハラヒラと舞ふ 落ち葉かな

「勝利(セウリ)」と「小利(セウリ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「勢部」に、

小利(−リ)敵ニハ書之。勝利(セウリ)御方書之。<元亀本354D>

小利(−リ)敵ニハ書之。勝利(−リ)御方書之。<静嘉堂本430C>

とある。この二種の標記語「小利」と「勝利」といった表記法は、敵に用いる場合と味方に用いる場によって意識的に書き換えることを示したものである。『下学集』『節用集』類、及び『温故知新書』は、未收載にある。実際に、軍記物語である『太平記』に、

現在生中には十種の勝利を得、臨命終の時には、九品蓮台に生れ、十禅師宮は、無仏世界の主、地蔵薩*睡の応化なり。<巻第十八、北野通夜物語の事付青砥左衛門が事>

後日に、これを聞きて、『十文の銭を求めんとて、五十にて松明を買ひて点したるは小利大損かな』と笑ひければ、青砥左衛門眉を顰めて、『さればこそ御辺達は愚かにて、世の費えをも知らず、民を恵む心無き人なり。<巻第卅五、北野通夜物語の事付青砥左衛門が事>

といった各々一例ずつを拾い出すことができた。この二種の「ショウリ」のうち、「小利」は、いわば銭儲けの意として表現されているに留まっている。

1999年12月2日(木)小雨。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

 塞ぎ行く 傘と自転車 いと辛き

「洛叉(ラクシヤ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「和部」に、

洛叉(−シヤ)唱ル文殊ノ真言十万返之ヲ亊。〓〔口+奄〕阿羅(アラ)。波闍那(ハシャナウ)。<元亀本171A>

洛叉(ラクシヤ)唱文殊ノ真言十万返ヲ|之亊。〓〔口+奄〕阿羅。波闍那。<静嘉堂本190A>

とある。『下学集』に、

洛叉(ラクシヤ)洛叉ハ梵語(ボンゴ)也。云(イフ)一億([イチ]ヲク)ノ名ヲ也。<數量148@>

とあり、さらに、文明本『節用集』には、

洛叉(ラクシヤ/ミヤコ、サヽウ)――梵語。此翻‖十萬ト|也。<態藝門455F>

と全く異なる記載をする。

1999年12月1日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

 種蒔くに 鳥も培えし 猫ふんじゃ

「王昭君(オウショウクン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「和部」に、

王昭君(ワウゼウクン)漢之元帝宮女。<元亀本89H>

王昭君(ワウゼウクン)漢元帝宮女也。<元亀本110E>

王昭君(ワウゼウクン)漢元帝宮女也。<天正十七年本>

とある。標記語「王昭君」の故事については、触れない極めて簡略的な語注記内容にある。これに対し、『下学集』は、

王昭君(ワウセウクン)漢ノ元帝ノ宮女也。爲メニ畫工ノ毛延壽([マウ]エンジユ)カ所マル悪(ニク)。出ル塞(サイ)ヲ時馬上ニ彈(タン)スル琵琶(ビワ)ヲ者ナリ。又云明妃([ミヤウ]ヒ)ト也。<人名門52C>

漢の元帝の宮女なり。畫工の毛延壽がために悪まる。塞(サイ)を出づる時、馬上に琵琶(ビワ)を彈(タン)ずる者なり。又明妃と云ふなり。

とその顛末の故事を添えて示している。文明本『節用集』も、

王昭君(ワウゼウクンタスケノキミ/キミ、アキラカ、キミ)漢ノ元帝ノ宮女也。畫工毛延壽カ所悪(ニクム)。出塞ノ之時。馬上ニ彈琵琶者也。又云明妃ト。<人名門235G>

とあって、『下学集』を継承し、増補改編はこの語に付いてはしていないのである。この点で、同じく語注記の簡略化を図る易林本『節用集』を見るに、

王昭君(−シヨウクン)漢元帝宮女。又云明妃。爲畫工毛延壽所悪。<人倫門65B>

として、「馬上に琵琶を彈ずる者なり」の箇所を省略し、「又云明妃」の語を先に置くに留まっている。この点から言えば、『運歩色葉集』は、「王昭君」の故事に対し、最も短く簡略に注記した語といえよう。

 *『西京雑記』巻第二に見える。

 

 

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