[2月1日〜2月29日迄]2002.10.13補正 BACK(「ことばの溜め池」表紙へ)
ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
2000年2月29日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
風に行く 人はぶらりと 梅の花
「引出物(ひきでもの)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「比部」に、
引出物(ヒキデモノ)晋顧栄字(アサナ)彦。在‖洛陽|。与‖同僚|飲ス引炙物。栄悉合∨之。同座咲∨栄―――自是始也。蒙求。<元亀本344G>
引出物(ヒキデモノ)晋顔栄字彦。在洛陽。与‖同僚。飲引炙物。栄悉食∨之。同座咲栄―――自是始也。蒙求。<静嘉堂本414C>
とある。標記語「引出物」の語注記は、「晋の顔栄、字(あざな)彦。洛陽にあり。同僚とともに炙物を飲引す。栄、悉(ことごとく)これを食す。同座、栄を咲ひて引出物是より始まるなり。蒙求」という。『庭訓徃來』正月十五日の状に見え、『下学集』は未収載にある。『庭訓徃來注』に、
賭引出物者亭主ノ奔走歟 賭ハ付∨的ニ義也。引出物者蒙求ニ曰晋ノ顧栄字彦先在‖洛陽ニ|。与‖同寮|飲ス見ルニ‖行テ炙者ヲ。有∨異‖於常|乃輟(ヤメ)テ‖巳カ炙者ヲ|咀(クラハ)シム∨之ヲ。同座悉咲テ∨栄ヲ曰。豈ヤ∨有ン‖終日|。取テ∨之不∨知∨味也。註ニ曰。有_人一人ニ不ルヲ∨引云也。引出物ハ自リ∨是始リ/ナリ。〔謙堂文庫藏七左B〕
とあって、『運歩色葉集』の語注記は、この注記の抜粋引用であることが知られる。
『節用集』類を見るに、広本『節用集』は、
引出物(ヒキデモノ/インシユツフツ)」<器財門1035D> 黒本本・弘治二年本・永禄二年本・尭空本・圖書寮零本・明応五年本・饅頭屋本も同じ。
と、収載するが標記語のみで語注記は未記載にある。天正十八年本『節用集』は、
引物(ヒキデモノ)又作引出物。<言語進退・下36ウF>
とあって、分類項目も「言語進退」にして、「作字」の注記となっている。『和漢通用集』は、
引物(ひきでもの) 賄賂(わいろ)也。<435D>
とあって、語注記の認識が全く異なっている。また、易林本『節用集』も、
引出物(ヒキデモノ)和語。<器財225C>
とあって、語注記を「和語」としてこれも異なっている。当代の『日葡辞書』には、
Fiqidemono. 引出物(ヒキデモノ).身分の高い人が身分の低い者に与える褒美,または,身分の同等な人がほかの人にやる進物.<238l>
とあって、「進物」すなわち「贈り物」という。江戸時代の『書字考節用集』は、
引出物(ヒキデモノ)[江次第]。<器財八78D>
として、典拠を『江家次第』におく。現代では、「引出物」は、結婚披露宴や酒宴の膳に添える物品として、招待客への手土産をさしていう。この語源を『運歩色葉集』は、『蒙求』に典拠をおくのである。
ことばの実際は、『北山抄』大饗に、「次尊者牽出物<注>馬二疋、若尊者好∨鷹者、馬一疋、鷹一聯加∨犬」とある。
2000年2月28日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
地蔵尊 今日も変わらぬ ご挨拶
「山鬘(やまかづら)」と「東細布(よこぐも)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「屋部」に、
山鬘(−カツラ)東細布(ヨコクミ)之亊。<元亀本201G> 「ミ」は「モ」字形相似による誤写。
山鬘(−カヅラ)東細布(ヨコクモ)之亊。<静嘉堂本228@>
山鬘(−カツラ)東細布(ヨコクモ)也。<天正十七年本中44オ@>
とある。標記語「山鬘」の語注記は、「東細布(ヨコクモ)のこと」という。暁に山の端にかかる雲を云う。『下学集』『節用集』は未収載にある。『日葡辞書』にも、
Yamacazzura.山鬘(ヤマカヅラ).詩歌語.すなわち、Acatcuqino cumo.(暁の雲)夜明け方の雲.<808l>
とある。また、連歌辞書『匠材集』に、
山かづら あかつきの雲の事也。夜分也。
と見えている。そして、『運歩色葉集』の注記文字「東細布(ヨコクモ)」は、「与部」に標記語として、
東細布(ヨコグモ)万。<元亀本133D>
東細−二字也布(ヨコグモ)万。<静嘉堂本140@>
東細布(ヨコクモ)万。<天正十七年本中2オF>
と別に収載され、ここには「山鬘」の語の説明は未収載になっている。そして、語注記の「万」は典拠である『万葉集』を示し、巻第十一2647「東細布(ヨコグモ)の空ゆ延き越し遠みこそ目言(めこと)と離(か)るらめ絶ゆと隔てや<作者未詳>」<大系三215頁>とある歌の冒頭の語をいう。この語については、『伊京集』に、
東細布(ヨコグモ)。<時節37A>
と標記語のみで収載を見るのである。
2000年2月27日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒経堂⇒駒沢)
先々の 通に着替えて 細身待つ
「鴬関(うぐいすのせき)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇部」に、
鴬関(ウクイスノセキ)河内。旅人於此関ニ|。啼而皈ル也。<元亀本181E>
鴬関(ウクイスノセキ)河内。旅人於テ‖此関ニ|。啼而皈ル也。<静嘉堂本203E>
鴬関(――ノセキ)河内。旅人於此関。啼而皈也。<天正十七年本中31オB>
とある。標記語「鴬関」の語注記は、「河内。旅人、この関において啼きて皈(かへ)るなり」という。場所は「河内国北河内郡寝屋川村」、現在の大阪府寝屋川市にあった関所で、奈良と京都を結ぶ要所であった。『下学集』『節用集』には未収載にある。古辞書の収載としては、この『運歩色葉集』が初出例となるか……。ことばの実際は、江戸時代の浮世草子『好色萬金丹』巻之五・第一「見ぬめの関」に、
関は不破の関・清見が関、霞の関・鶯の関、衣の関・なこその関、白川の関・須磨の関、下紐の関・見ぬめの関も憎からず。<大系・浮世草子133I>
とある。さらに、歌謡集『松の葉』第四巻一「浅黄帷子」に、
名にのみ聞きし鶯の關こえ過ぎてながむれば、すねて茂りしアイノテ松山の、かのわけ法師がそこはかと、かき集めにし徒然に、綸子鼻緒の足駄にて、作りし笛には鹿も寄る、肩なん過ぎにし黒髪の、綯れる綱には大象も、繋がるゝ習ひかや、玉世の姫を戀ひそめて、いつし帝位を振捨てゝ、草刈童の名に立ちし、色の御門の御陵とや、打越え行けば譽田の里、甲斐の黒駒たけくとも、しこなして乗る武士や、花の薹や紫の、雲と詠ぜし藤井寺、順禮が情をも、偏へに大慈の誓ぞと、思へばいとゞ袖しぼる<大系・中世近世歌謡集483F>
とある。
2000年2月26日(土)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢⇒経堂)
枝払ひ 見通し良きは 隠れなし
「小櫻威(こざくらをどし)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古部」に、
小櫻威(コザクラヲドシ)全体白色。其内薄紅梅糸也。<元亀本235G>
小櫻威(コサクラヲドシ)全体白也。其内薄紅梅糸也。金物黄也。<静嘉堂本271C>
小櫻威(コサクラヲトシ)全体白也。其内薄紅梅絲也。金物黄也。<天正十七年本中64オA>
とある。標記語「小櫻威」の語注記は、「全体は白なり。其の内、薄紅梅の絲なり。金物は黄なり」という。元亀本は、最後の「金物黄也」を欠く。鎧縅の一種で、小桜模様の染革を細く裁って、鎧の札を縅したものである。『下学集』『節用集』類には未収載にある。『庭訓徃來註』六月十一日の状に、
赤皮黄絲ノ腹巻唐綾小櫻 唐綾ハ裹物也。小櫻ハ全体白シテ而金物黄也。或ハ薄赤クモ有ル∨之也。〔謙堂文庫藏三七右A〕
とあり、また『庭訓徃來鈔』に、
所∨威毛者卯花威。洗革。小櫻威。小櫻ハ全体白シテ金物黄也。或ハ薄赤シテ有也。
とあって、この標記語「小櫻威」の語注記は、「小櫻は、全体白くして金物黄なり。或は、薄赤くして有り」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
小櫻(こさくら)/小櫻 啄木(たくぼく)に薄紅(うすこう)を打交たるなり。啄木とハ胡麻摺(ごますり)の根に打交せたる糸也。又白き内に少し赤ミさしたるをも小桜と云。又肩(かた)二段の糸ハ白(しろく)して中二段は薄紅梅(うすこうはい)に裳(すそ)二段ハ萌黄糸にておどしたるをも云。其外Kに紫耳(ミゝ)の糸を五色の啄木にておどしたるをも云。是を四つの小桜と云て源平藤橘に差別ある也。〔45ウ八〜46オ三〕
とあって、標記語「小櫻」の語注記は、上記の如くである。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
赤革(あかがハ)黄糸(きいと)乃腹巻(はらまき)唐綾(からあや)小櫻(こざくら)K革縅(くろかハおどし)大荒目(おほあらめ)の筒丸(どうまる)/赤革黄絲ノ腹卷。唐綾小櫻。黒革威。大荒目ノ筒丸。▲小櫻威昔ハ小き桜花の形(かた)を染たる革(かハ)にて綴(つゞ)りたり。今ハ啄木(たくぼく)に淡紅(うすくれない)を打交(うちまじ)へて縅すをいふ。此外猶数品(すひん)あり。〔三十五オ一〕
赤革黄絲ノ腹卷。唐綾小櫻。黒革威。大荒目ノ筒丸。▲小櫻縅昔(むかし)ハ小(ちいさ)き桜花の形(かた)を染たる革(かハ)にて綴(つゞ)りたり。今ハ啄木(たくぼく)に淡紅(うすくれなゐ)を打交(うちまじ)へて縅すをいふ。此外猶数品(すひん)あり。〔62オ二〕
とあって、標記語「小櫻」の語注記は、「小櫻威は、昔は、小さき桜花の形を染たる革にて綴りたり。今は、啄木に淡紅を打交へて縅すをいふ。此外、猶数品あり」と記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Caraaya.コザクラ(小櫻) .〔邦訳r〕
とあって、標記語「小櫻」の意味は「」としている。江戸時代の『書字考節用集』には、
小櫻威(コサクラヲドシ)鎧ニ所∨言。〔服食七33E〕
とある。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
こ-ざくら(名)【小櫻】山櫻の一種、花の色、淡くして、密に咲くもの。〔0676-5〕
とあって、標記語「小櫻」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「こ-ざくら【小櫻】[名]@櫻の一種か。花が細かくて色の淡いもの。A植物「ひがんざくら(彼岸桜)」の異名。B模様の一種。革や布帛(ふはく)に染め出す、小さい桜の花の小紋。多く、鎧(よろい)に用いられた。C天和期(一六八一〜八四)前後、京都の桔梗屋から売り出された和菓子の名。D明治二七〜二八年(一八九四〜九五)の日清戦役後、婦人の間に行われた束髪の一種」とあって、『庭訓徃来』の用例はBの意味用例として記載されている。
《ことばの実際》
「義經が住み馴らしたるところに天魔の住處とならん事憂かるべし。主の爲に重き甲冑を置きつれば、守となりて惡魔を寄せぬ事のあるなるぞ」とて、小櫻威の鎧四方白の兜、山鳥の羽の矢十六差して、丸木の弓一張添へて置かれたりしぞかし。<『義経記』巻第六・大系249B>
判官伊勢三郎を召して、小櫻威、卯花威の鎧を二人に下されけり。<『義経記』巻第六大系365L>
2000年2月25日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
東風吹きて 漣の瀬に 白き鳥
「箕裘(キキウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「記部」に、
箕裘(キキウ)礼記。良治之子必斈為キケウト|。良弓之子斈為キキウト|。<元亀本284H>
箕裘(キキウ)礼記。良治之子必学為−。良弓之子必学為−。<静嘉堂本329F>
とある。標記語「箕裘」の語注記は、「『礼記』に良治の子は、必ずキケウトつくることを学び、良弓の子は必ずキキウトつくることを学ぶ」という。『下学集』には、
箕裘之業(キキウノギヨウ)不ルヲ∨墜(ヲトサ)‖父祖ノ之旧業ニ|謂フ‖箕裘ノ之業ト|也。礼記ニ良冶([リヤウ]ヤ)ノ之子ハ必ス學(マナブ) ∨爲(ツクル)コトヲ∨裘(カワコロモ)ノ。良弓ノ之子ハ必ス学ブ∨爲ルコトヲ∨箕(ミ)ヲ。注ニ補(ヲキノフ) ∨器ヲ者ハ其ノ金柔弱(ジウシヤク)ニシテ有リ∨似タルコト‖於爲ルニ|∨裘ヲ。撓(タワマス) ‖角幹([カク]カン)ヲ|者ノハ其ノ材宜ク/ヘシ∩調テ有ル⊂似ルコト∪∨爲ルニ‖楊柳ノ之箕ヲ|也。<態藝91C>
父祖の旧業に墜(ヲトサ)ざるを「箕裘の業と」謂ふなり。『礼記』に良冶の子は必ず裘(カワコロモ)の爲(ツクル)ことを學(マナブ)。良弓の子は必ず箕(ミ)を爲ることを学ぶ。注に器を補(ヲキノフ)者は其の金、柔弱(ジウシヤク)にして裘を爲るに似たること有り。角幹([カク]カン)を撓(タワマス)者のは其の材宜しく調へて楊柳の箕を爲るに似ること有るべしなり。
と詳細な語注記があり、鍛冶屋の子は、父のすることを見習って獣皮を繋ぎ合せて皮衣を作り、弓作工の子は、父に習って柔らかい柳枝を撓めて箕をつくることを学ぶものだということから転じて、「父祖の遺業を継ぐこと」に用いられた表現であることを示している。広本『節用集』にも、
箕裘之業(キキユウノギヨフ/ミ、カワゴロモ、ナリワイ・シワザ)不(ザル)∨墜(ヲトサ)‖父祖ノ之旧業ヲ|謂‖之―――ト|也。礼記ニ良冶([リヤウ]ヤ)ノ子ハ必学 ∨爲(ツクル)コトヲ∨裘。良弓子ハ必学∨爲∨箕(ミ)。注ニ補 ∨器者。其ノ金柔弱ニシテ有∨似‖於爲|∨裘ヲ也。撓(タヲマス) ‖角幹ヲ|者ノ其材宜調(トヽノウ)。有ル∨似コト≡爲(スル)ニ‖楊柳之箕(ミ)ヲ|也。<態藝91C>
とあって、『下学集』の語注記内容を継承する。そして『運歩色葉集』は、標記語とその語注記内容をさらに簡略化して示したものといえよう。鎌倉時代の『色葉字類抄』『伊呂波字類抄』に標記語「箕裘(キキウ/ミ、カハコロモ)」<雄松堂巻八526A>として収載が見られ、逆に江戸時代の『書字考節用集』になると、
箕裘業(キキウノギヨフ) 承ルヲ‖父祖之所業ヲ|云∨爾。出[禮記]又見[列子湯問篇]。<言辞十一61G>
とあって、注記の典拠も『禮記』学記の他に『列子』湯問篇を示している。
ことばの実際は、『太平記』巻第三十三「新田左兵衛佐義興自害ノ事」に、
其(ソノ)家に生(ウマ)れて箕裘(キキウ)を継ぎ弓箭(ユミヤ)を取るは、世俗の法(ハフ)なれば力なし。<大系三273H>
とある。時代が降って、曲亭馬琴『苅萱後傳玉櫛笥』文化四年刋に、
射藝(しやげい)は祖父(おほぢ)繁氏(しげうぢ)の箕裘(ききう)を承(うけ)て。三世(さんぜ)その妙奥(みやうおう)を究(きはめ)。百發(ひやくはつ)かならず百中(ひやくちう)の手段(しゆだん)あり。<高木 元『苅萱後傳玉櫛笥』?解題と翻刻?より>
とみえ、明治時代の大槻文彦編『ことばの海』のおくがき文章にも、
まして、箕裘を繼ぎつる上はこの文學の道にかくてあらむは、おのれが分なり。
と用いられている。
2000年2月24日(木)晴れ午後曇り、強風。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
風空舞ふ 鳩の翼は まま闊達
「輙時(テフシ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「天部」に、
輙時(テツシ)只今之義也。<元亀本245I>
輙時(テツシ)只今之義也。<静嘉堂本284B>
輙〓〔日+之〕(テツシ)只今之義也。<天正十七年本中71オ@>
とある。標記語「輙時」の読みは三本とも「テツシ」とし、語注記は、「只今の義なり」という。この読みの「テツシ」の「ツ」は、「ウ」の字形相似による誤写とみておく。正しくは、『下学集』に、
輙時(テウシ/スナワチノトキ)只今ノ義也。書札返報ノ之畢(ヲワリ)ニ書∨之。<時節33@>
とあり、読みは「テウシ〔チョウシ〕」が良い。語注記も「ただいまの義なり。書札・返報の畢りにこれを書く」とあって、返書の末尾にこの語を添え、時を移さず即座にご返事申し上げますといった発信者自身の気持ちをこれによって表現している。『節用集』では、広本『節用集』が未収載、弘治二年本に、
輙時(テウジ)即刻義。<時節門196C>
同じく。印度本系の永禄二年本に、
輙時(デウジ)即刻義。書札奥書之。<天地門196C>
とあり、読みを「デウジ〔ヂョウジ〕」と語頭濁音化とし、「即刻の義、書札の奥にこれを書す」とする。尭空本<時節門151F>は「テウシ」で注記は同じ。
易林本『節用集』に、
輒時(テフジ)即時也。<言辞門166D>
とあって「テフジ〔チョウジ〕」の読みで、表記も「輒時」とする。江戸時代の『書字考節用集』には、
輒時(テフジ)即時義同。<時候二73D>
とあって、注記内容を継承している。
2000年2月23日(水)晴れ夜一時雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
香にて知る 梅園近き 里山に
「决前称後詞(ケツゼンセウゴのことば)」と「抑(そもそも)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇部」に、
决前称後詞(ゲツゼンセウゴノコトハ)抑之字。<元亀本220D>
决前称後詞(ケツゼンセウゴノコトハ)抑之字。<静嘉堂本251B>
决前称後詞(ケツセンセウゴノコトハ)。<中54オG> 語注記は未記載。
とある。標記語「决前称後詞」の語注記は、「抑の字」という。逆に、標記語「抑」を見るに、
抑(ソモ/\)决前称后詞。<元亀本156A>「詞」の字の扁を「さんずい」に作る。
抑(ソモ/\)决前称后詞。<静嘉堂本171A>
とあって対応している。どちらが本来、標記語で語注記なのかを明確に決定できない語である。『下学集』は未収載にある。広本『節用集』に、
决前生後(ケツゼンシヤウゴ/――セイコウ。サクル、マエ、ムマルル、ノチ)。<態芸門596A>
とあって、「セウゴ【称後】」の部分を「シヤウゴ【生後】」に作っている。そして「詞」の語は見えない。『運歩色葉集』の語注記「抑」を同じく広本『節用集』で見ると、
抑(ソモ/\/ヨク)意也。按也。疑辞也。發語ノ辞也。决前生後ノ辞。<態藝門408@>
と語注記「决前生後ノ辞」に依拠する注記語であって、これを広本そして、『運歩色葉集』の編者が再度標記語にして載録したものと見ることができるのではあるまいか。
現代の国語辞書には、この語は未収載にあり、諸橋轍次著『大漢和辞典』巻六の「決」の熟語に「【決前】64 ケツゼン 決然と進むこと〔日本外史、源氏後記、北條氏〕臨∨發問∩遇‖親征|則何爲∪、曰、降∨之、否則決前」と見えるのが唯一である。この「决前称後詞」や「决前生後」が如何なる典拠に基づく語なのか現時点では定かではない。
2000年2月22日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
昨日より 人動く数や 上乗ぞ
「雲泥(ウンデイ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇部」に、
雲泥(−デイ)天地違。<元亀本179B>
雲泥(−デイ)。<静嘉堂本200B>
雲泥(−デイ)。<天正十七年本中29ウ@>
とある。標記語「雲泥」の語注記は、元亀本だけが「天地の違い」という。すなわち、天にある雲と地にある泥のように大いに異なっていることの譬えである。『下学集』には、
懸隔(ケンガク/ハルカニヘタヽル)雲泥(ウンデイ)ノ義ナリ也。<言辭155A>
と標記語「懸隔」の注記中に「雲泥(ウンデイ)ノ義ナリ也」と見えている。『節用集』類では、黒本本<言語126@>が『下学集』を継承していて、広本『節用集』には未収載にある。江戸時代の『書字考節用集』に、
雲泥(ウンデイ) 猶∨言カ‖天地ト|。出[白文集][李太白集]。<乾坤門一73E>
とあり、白居易の詩「鵬背負∨天龜曳∨尾、雲泥不∨可∨得‖同遊|」を示している。
ことばの実際は、『菅家文草』巻第二92「山家晩秋」に、
養性有餘空偃蹇。我情多恨相知晩。雲泥不計地高卑。風月只期天久遠。<大系180I>
門地の高さ低さをくらべれば、あなたと私とは雲泥の違いがあるけれども、それを問題にしないで、天上の悠遠なるごとく、風月を友とした世界にいつまでも遊びたいものだ。
と見えている。『和漢朗詠集』巻下・慶賀に、
私注に「雲泥―天地也」と記す。
とある。仮名草子『身の鏡』<万治二(1659)年刊>下に、
又それがしは迚(とても)君天下を取せ給ふ事は成まじけれ共、数代(すだい)相伝(そうてう)の主君(しゆくん)なれば見すて申さしと義理(ぎり)の奉公仕たる心ざしは一人の者の奉公とは天地(てんち)雲泥(うんでい)ならんと申けれは、頼朝此理(り)にふくし給ひ則(すなはち)国をあておこなわれしとかや。<869行>
とある。現代でも「雲泥の差」「雲泥の違い」「雲泥の相違」「雲泥の懸隔」と用いて、非常に大きな違いとして表現されることばである。
2000年2月21日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
北風に 煽り煽られ 走り来て
「金余呂木磯・古余呂木磯(こよろぎのいそ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古部」に、
金余呂木磯(コヨロギノイソ)古金集之名所。洛。<元亀本237I>
古余呂木磯(コヨロギノイソ)古金集名所。<元亀本238@>
古余呂木磯(コヨロキノイソ)古今集名所。洛。<静嘉堂本274D>
天正十七年本は未収載。
とある。標記語「古余呂木磯」が両本共通する表記で、これに、元亀本は「金余呂木磯」の表記を収載している。語注記の内容は「古今集の名所。洛」という。この語は、典拠である『古今和歌集』巻第十七雜上874に、
たまだれのこがめやいづらこよろぎの磯のなみわけおきにいでにけり 藤原敏行。<大系278>
と見えている。
『下学集』は未収載にある。広本『節用集』には、
小餘綾磯(コヨロキノイソ/――レウ、キ) 相。<天地門652G>
とある。これを受けてか、江戸時代の『書字考節用集』には、
小餘綾磯(コヨロキノイソ) 相州淘綾(ユルキ)ノ郡。大磯ノM。<一98A>
とあって、「相州淘綾郡大磯のM」とあって、現在の神奈川県中郡大磯付近の浜をいうのである。『運歩色葉集』の語注記最後「洛」の字は不明である。
ことばの実際は、『太平記』巻第二の俊基朝臣二度関東下向の事に、
清見潟(キヨミガタ)を過(スギ)給へば、都に帰る夢をさへ、通(トホ)さぬ波の関守(セキモリ)に、いとど涙を催(モヨホ)され、向(ムカヒ)はいづこ三保(ミホ)が崎、奥津(オキツ)、神原(カンバラ)打過(ウチスギ)て、富士の高峯(タカネ)を見給へば、雪の中より立煙(タツケブリ)、上(ウヘ)なき思(オモヒ)に比(クラ)べつゝ、明(アク)る霞に松見へて、浮島が原を過行(スギユケ)ば、塩干(シホヒ)や浅き船浮(ウキ)て、をり立(タツ)田子(タゴ)の自(ミヅカラ)も、浮世を遶(メグ)る車返(クルマガヘ)し、竹の下道(シタミチ)行(ユキ)なやむ、足柄山(アシガラヤマ)の巓(タウゲ)より、大磯(オホイソ)小磯(コイソ)直下(ミオロシ)て、袖にも波はこゆるぎの、急(イソグ)としもはなけれども、日数(ヒカズ)つもれば、七月廿六日の暮(クレ)程に、鎌倉にこそ着(ツキ)玉(タマヒ)ひけれ。<大系一69N>
とあって、鎌倉時代の『平家物語』巻第十の「こゆるぎの森」<大系下260I>、平安時代の『源氏物語』と同じく「こゆるぎ」と読み、「こゆるぎのいそ」に「いそぐ」を懸け詞として用いている。和歌集では、『拾遺集』巻十四戀と巻十九雜に、「こゆるぎのいそぎ」が見えている。
2000年2月20日(日)雨、午後晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
雪とならず 冷えも少しく 梅の花
「太山府君(タイサンブクン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、
太山府君(ダイサンフク)地蔵也。在天曰輔星ト|。在地曰―――ト|。<元亀本145F>
太山府君(――ブクン)地蔵也。在天。曰‖輔星ト|。在地。曰‖――――ト|。<静嘉堂本157@>
太山府君(――サンフクン)地蔵也。在ヲ∨天ニ曰‖輔-星|。在∨地曰‖―――ト|。<天正十七年本中10オD>
とある。標記語「太山府君」の読みは「ダイサンブク」「タイサンブクン」「タイサンフクン」と区々で、語注記は、「(本地は)地蔵(菩薩)なり。天にあるを輔星と曰ふ。地にあるを太山府君と曰ふ」という。本来は、中国山東省泰山の山神で、道教にいうところの人の寿命をつかさどる神の名である。日本では仏教・陰陽道でこれを祭り、地獄の閻魔王の書記とも太子ともいう。『下学集』には、
太山府君(タイサンフクン)本地々藏菩薩ナリ也。在テハ∨天ニ云フ‖輔星ト|。在テハ∨地ニ曰‖ーーーー(タイサンフクン)ト|。<天地20E>
とある。広本『節用集』には、
太山府君(タイサンフクン/ハナハダ、ヤマ、フミクラ、キミ)本地地藏菩薩也。在テハ∨天ニ云‖輔星(ホセイ)ト|。在∨地云‖ーーーート|也。<天地門329G>
とあって、読みは「たいさんふくん」と清音で、『下学集』の語注記内容を継承するものである。そして、異なりで云えば、『運歩色葉集』は「ダイサンフクン」や「タイサンブクン」と濁音化していることと、巻頭の「本地」の語と「地蔵菩薩」の「菩薩」の語を省いている点にある。当代の古辞書における意味付けは、本地垂迹説に従うところの「地蔵菩薩」としていることが伺える。『日葡辞書』(邦訳)にも、
Taisanbucun.タイサンブクン(太山府君) 天にある一つの星で、ゼンチョ(gentios 異教徒)は、それが昔は地蔵菩薩(Gizo<bosat)であったる神(Cami)だとして、この地上から礼拝するのである。‡Taisannbucunno matcuri.(太山府君の祭)その神(Cami)に対して行なう一種の祭、あるいは、供物奉納の式であって、この時に多くの財宝を神に捧げて焼くことになっている。<605r>
も同様である。
ことばの実際は、『太平記』巻第三十三「将軍御逝去の事」に、
陰陽頭(オンヤウノカミ)・有験(ウゲン)の高僧集ツて、鬼見(キケン)・太山府君(タイサンブクン)・星供(シヤウク)・冥道供(ミヤウダウク)・薬師(ヤクシ)の十二神将の法・愛染明王・一字文殊・不動慈救(フドウジク)・延命(エンメイ)の法、種々の懇祈(コンキ)を致せ共、病(ヤマヒ)日に随て重くなり、時を添へて憑(タノミ)少なく見ヘ給ひしかば、御所中の男女機(キ)を呑(ノ)み、近習の従者涙を押へて、日夜(ニチヤ)寝食(シンシヨク)を忘れたり。<大系三254C>
とあって、ここでは「太山府君祭」を云うのである。また、謡曲『花筺』に、
シテ李夫人は元はこれ、地上界の辟妾、くゎすひ國の仙女なり、一旦人間に、生まるるとは申せども、終に元の、仙宮に帰りぬ、泰山府君(たいさんブク)に申さく、李夫人の面影を、暫らくここに、招くべしとて、九華帳の内にして、反魂香を焚き給ふ。<大系上355E>
とあり、「泰山府君」と表記している。これは、鎌倉時代の『平家物語』巻第九「知章最期」の、
新中納言にあづけられたりしを、中納言あまりに此馬を秘蔵して、馬の祈のためにとて、毎月つゐたちごとに、泰山府君(たいざんぶくん)をぞまつられける。<大系下224C>
とあってこの漢字表記は共通する。院政時代の仏教説話集鈴鹿本『今昔物語集』には、
大山府君ノ廟堂ニ行キ、宿シテ、新譯ノ仁王經ノ四无常ノ偈ヲ誦ス。<巻第七・大系二135F>
夜ニ至テ、僧、夢ニ「大山府君来テ示シテ宣ハク、『我レ、昔シ、佛前ニ有テ、面リ此ノ經ヲ聞シニ、此レ、羅什ノ翻譯ノ詞及ビ義理ニ等クシテ違フ事无シ。我レ、此ノ讀誦ノ音ヲ聞クニ、身心清涼ナル事ヲ得タリ、喜ブ所也。然レドモ、新譯ノ經ハ猶、文詞甚ダ美也ト云ヘドモ、義理淡ク薄シ。然レバ、汝ヂ猶、舊譯ノ經ヲ可持シ』ト。亦、毘沙門天、經巻ヲ与ヘ給フ」ト見テ、夢覺ヌ。<巻第七・大系二135G>
景ガ云ク、「道ノ天帝ハ、六道ヲ惣ジテ統タリ。此レヲ天曹ト示フ。閻羅王ハ人ノ天子ノ如キ也、太山府君ハ尚書ノ如シ。我ガ輩ハ、國ノ大洲郡ノ如シ。人間ニ事无クシテ適マ[v.9p.101-102]福ヲ請ヘバ、章[セウ]、此レヲ受テ、閻羅王ニ下シテ云ク、『其ノ月日ヲ以テ某甲ガ訴ヲ得タリ。宜ク為ニ理ヲ盡シテ狂監セシムル无カレ』ト。<巻第九・大系二251O>
とある。詳細は、大系本二の補注<396頁>に詳しい。
2000年2月19日(土)薄晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
冷え増しき 温まる猫らは 段ボール
「巾子(コジ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「於部」に、
巾子(コシ)冠ニ入髻之物。<元亀本234A>
巾子(コジ)冠(カンフリ)入髻(モトヽリ)ヲ之物。<静嘉堂本269D>
巾子(コシ)冠入髻之物。<天正十七年本中63ウC>
とある。標記語「巾子」の語注記は、「冠に髻を入るる物」という。『下学集』に、
巾子(コジ)冠ノ入ルル∨髻(モトヽリ)ヲ処也。<器財110D>
とあり、広本『節用集』にも、
巾子(コジ/キン・カザル・ツヽム。コ)冠入∨髻(モトヽリ)ヲ処。<器財門662G>
とあって、『下学集』をそのまま継承する。『運歩色葉集』は注記の最後の箇所である「処」を「之物」へと置き換えている。古くは平安時代の『和名類聚抄』巻十二に、
巾子 弁色立成云巾子此間 巾音如渾〓(巾-僕)頭具、所‖以挿|∨髻者也。<693左E>
と見えている。さらに観智院本『類聚名義抄』に、
巾子 コンシ[平平上濁]<法中102B>
とあって、読みは「こんじ」と古形を示している。ことばの実際は、『今昔物語集』巻第二十八第41に、
大學ノ衆(シウ)、「イデ然リトモ、然樣(サヤウ)ニハ人ヲコソ謀(タバ)カルトモ、我レヲバ謀(タバカリ)テムヤ」ト云(イヒ)テ、平(ヒラ)ミ居(ヰ)ル蝦蟇(カバ)ヲ踊リ越(コユ)ル程ニ、押入(オシイレ)タリケル冠(カムリ)也(ナリ)ケレバ、冠(カムリ)落(オチ)ニケルヲ不知(シラ)ヌニ、其ノ冠(カムリ)沓(クツ)ニ當タリケルヲ、「此(コノ)奴(ヤツコ)ノ人倒スニ、己(オノレ)ハ々(オノレ)ハ」ト云(イヒ)テ、踏(フミ)□ニ、巾子(コジ)ノ強クテ急(キ)トモ不□ザリケレバ、「蟾蜍(ヒキ)ノ盗人ノ奴(ヤツコ)ハ、此(カ)ク強キゾカシ」ト云(イヒ)テ、无キ力ヲ發(オコシ)テ、无下(ムゲ)ニ踏入(フミイル)ル時ニ、内ヨリ、火ヲ燃(トモ)シテ前(サキ)ニ立(タテ)テ上達部(カンダチベ)ノ出(イデ)給ヒケレバ、大學ノ衆(シウ)橋ノ許(モト)ニ突居(ツイヰ)ヌ。<大系五123I>
とあり、『宇治拾遺物語』巻十五ノ三に、
いかに/\と待(まち)けるに、幔の上より冠のこじばかり見えて南へわたりけるを、人々、猶すぢなきものの心ぎはなりと、ほめけりとか。<大系416J>
とあり、『平家物語』巻第十に、
臣下卿相(しんかけいしやう)かぶりのこじをかたぶけ、南都六宗の賓、地(ち)にひざまづゐて敬恪す。<大系下300O>
とあって、「ん」は表記していない。
2000年2月18日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
かくもあり 日差しに温もる 春の音
「大野浦梨(おほのうらなし)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「於部」に、
大野浦梨(ヲヽノウラナシ)在伊勢。一木兩枝隔∨年ヲ結∨實。<元亀本83A>
大野浦梨(ヲウノウラナシ)在伊勢。一木南枝隔∨年結∨実ヲ。<静嘉堂本102C>
大野浦梨(ヲウノウラナシ)在伊勢一本兩枝隔年結∨実ヲ。<天正十七年本上50ウC>
大野浦梨(ヲヽノウラナシ)伊勢。一本兩枝隔季結∨實。<西來寺本149B>
とある。標記語「大野浦梨」の語注記は、「伊勢にあり。一木の兩枝に季[年]を隔てゝ実を結ぶ」という。『下学集』『節用集』は未収載にある。この典拠は未審である。
2000年2月17日(木)晴れ一時曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
多摩川の 水面光りて 風冷やし
「烏布(かぢめ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「加部」に、
烏布(カヂメ)海藻(ウミノモ)。<元亀本97G>
烏布(カヂメ)海藻。<静嘉堂本122A>
烏布(カチメ)海藻。<天正十七年本上60オB>
烏布(カジメ)海藻。<西來寺本174@>
とある。標記語「烏布」の語注記は、「海藻(うみのも)」という。類標記語に
未滑海藻(カヂメ)。<元亀本102F>
未滑海藻(カヂメ)。<静嘉堂本129A>
未滑海藻(カチメ)。<天正十七年本上63オG>
未滑海藻(カチモモ)。<西來寺本182D>
がある。古くは、平安時代の古辞書『和名類聚抄』に、
滑海藻未附本朝令云滑海藻阿良女俗用荒布未滑海藻加知女俗用搗布搗者搗末之義也。<巻十七17オE>
とあって、「未滑海藻」が正標記であり、「加知女」と清音で訓読し、世俗の標記語としては「搗布」を用いているとある。
2000年2月16日(水)晴れ一時曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
のんびりと 日長に見るや 影法師
「烏頭布(うとめ・うどめ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇部」に、
烏頭布(ウドメ)自酉酉出也。煮荒和布也。<元亀本182H>
烏頭布(ウトメ)自醍醐出也。煮荒和布也。<静嘉堂本205C>
運頭布(ウトメ)自リ‖醍醐|出也。煮荒和布也。<天正十七年本中32オ@>
とある。標記語「烏頭布」の読みは、元亀本が「うどめ」と第二拍を濁音とし、静嘉堂本と天正十七年本は清音として異なりを示している。語注記は、「醍醐より出づるなり。荒和布(あらめ)を煮るなり」という。阿部に「荒和布」は「海草」<元亀本262@・静嘉堂本297C>という。『下学集』には、
烏頭布(ウドメ)。<飲食100E>
とあって、読みは元亀本と同じく「うどめ」であり、標記語のみで語注記は未記載にある。易林本『節用集』<服食118A>も同じである。広本『節用集』も、
烏頭布(ウトメ/カラス。トウ・カウベ。フ・ヌノ)。<飲食100E>
とあって、読みは静嘉堂本・天正十七年本と同じく「うとめ」とし、語注記は未記載にある。このことから、『運歩色葉集』だけが、この語についての注記を示していることが知られる。『庭訓徃來注』に、
醍醐ノ烏頭布黒和布也。<29ウB>
昆布。荒布。黒煮(ニ)ノ烏頭布(カチメ/ウトメ)。<58オG>
とあるが、「醍醐の烏頭布」の注記は「黒和布なり」で、次に「黒煮の烏頭布」に対する注記は見えない。この二語をもって『運歩色葉集』との連関を類推考察するのだが、「黒煮」と「黒和布」といったの「黒」の色彩表現語が用いられていないが、@海草である「荒和布」を煮た煮漬物、A醍醐の名産品ということが共通する。
ことばの実際は、狂言『宗論』に、「浄土僧その事足ろうたお方より、お齋(とき)を下さるるとあって行けば、膳のまわりには、中には麩(ふ)、鞍馬の木の芽漬(きのめづけ)、醍醐(だいご)の獨活芽(うどめ)、牛蒡(ごぼう)・はべん、種々様々な物を取り調(ととの)えて下さるるによって、アラうまやと 思うて、まんまと齋を行う。」<大系下229L>、「浄土僧まず膳に向かい、目をふさぎ、南無 一念彌陀佛、即滅無量罪 菜(サイ)と言うて、目をぽっちりと開いて見れば、最前のごとく 膳のまわりには、中には麩、鞍馬の木の芽漬、醍醐の獨活芽、牛蒡・はべん、種々様々の物が滿ち滿ちて、有る 有ると思うて、まんまと齋を行う。」<大系下230B>とあり、ここでは、「獨活芽」の表記となっている。
2000年2月15日(火)曇り後晴。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
いざ知らず 地蔵の背に 紅き梅
「購問(つのりとふ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「津部」に、
購問(ツノリトフ)――莫∨知ニ誰子ト云コトヲ。史記。<元亀本159@>
購問(ツノリトウ)――莫∨知‖誰子ト|云−ヲ。史記。<静嘉堂本176G>
購問(――)――莫∨知‖誰子|。<天正十七年本中18ウG>*「云コトヲ 史記」の句欠脱す。
とある。標記語「購問」の語注記は、「購問(賞金を懸けて尋ねる)するに誰の子と云ふことを知ることなし。史記」という。典拠を『史記』刺客、聶政伝「購問莫∨知‖誰子|」<新釈漢文大系九411頁>としている。『下学集』には未收載にある。広本『節用集』は、
購問(ツノリトウ)史記。――莫(ナシ)∨知(シル)コト‖誰子ト云コト|。<態藝門419F>
とあって、前に典拠を示し、その後に引用句を示すという前後置換するだけで、『運歩色葉集』注記内容と合致していることが判る。また、弘治二年本『節用集』では、
購(ツノル)史。<言語進退129G>
購問(ツクリトウ)――莫∨知‖誰子|。史。<言語進退132B>「ツノリトフ」の第二拍を「ク」と誤記。
とあって、一つは「購」の単漢字を「つのる」と訓読し、典拠を同じく『史記』としている。さらにも一つは、天正十七年本と同様に、「云コトヲ」を付さない注記となっている。易林本は未収載にある。
2000年2月14日(月)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
曇り空 咲き初めし梅 白優り
「兎足(トソク)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「登部」に、
兎足(−ソク)拂∨塵(チリ)ヲ物也。<元亀本54D>
兎足(ト−)拂塵物。<静嘉堂本60F>
兎足(トソク)拂塵物。<天正十七年本上31オF>
兎足(トソク)拂∨塵ヲ物也。<西來寺本96E>
とある。標記語「兎足」の語注記は、「塵を拂ふものなり」という。『下学集』は未收載にある。広本『節用集』には、
兎足(トソク、タル/ウサギ・アシ)盆掃(ボンハライ)也。<器財門131A>
とある。『庭訓徃來注』に、
兎足(トソク)茶釜盖置也。又云盆掃也。<十月の条・58オA>
とあって、茶器のひとつを指し、「又云」以下の注記内容は、「盆拂ひ」と広本の注記と等しいが、『運歩色葉集』の注記内容「塵を拂ふもの」とは同様のものを表現したものであるが、その表現は異なっていることに特に注目しておきたい。江戸時代の『書字考節用集』にも、
兎足(トソク)。<器財八14F>
とある。
2000年2月13日(日)晴れ午後曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
六地蔵 花手向けきは 朝の人
「齒黒(はぐろ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「波部」に、
齒黒(ハグロ)山海經云、海中ニ有リ‖黒齒國|。人間齒黒染ム。日本ハ則東海之中ノ国也。今習之也。<元亀本29A>*「人間」に作る。
歯黒(――)山海經云、海中有黒歯国。人皆齒悉黒染。日本則東海之中国也。今習之也。<静嘉堂本28D>
歯黒(ハクロ)山海經云、海中有黒歯国。人皆悉歯黒染。日本則東海之中国也。今習之也。<天正十七年本上15オF>
歯黒(ハグロ)山海經曰、海中有‖黒_歯(クロキハ)|。国ノ_人皆悉ク歯(ハ)黒ク染ル。日本則東海之中也。今習∨之也。<西來寺本50E>*「東海之中也」として「国」の字脱。
とある。標記語「歯黒」の語注記は、「山海經に云ふ、海中に黒歯国あり。人皆悉く歯を黒く染む。日本、則ち東海の中の国なり。今これに習ふなり」という。『下学集』には、
齒黒(ハグロ)。<彩色137C>
と、標記語のみの収載にある。易林本『節用集』も、同じく
齒黒(ハグロ)。<人倫15C>
とあって、注記は未記載にある〔広本・弘治二年本は欠語〕。この「齒黒」の風俗について、近代の国語辞書である新潮『国語辞典』は、「おはぐろ【御歯黒・鉄漿】」の項目に、
(「はぐろめ」の女房ことば)@歯を黒く染めること。古く上流婦人が行なったが、中古、院政期の初め(十一世紀末)ごろから男子も行い、ついで民間に流行。室町時代には女子は九歳になると、成年の印として黒く染め、江戸時代には結婚した婦人がすべて行なった。かねつけ。「−とは公家方より申しならはしたり〔婦人養草四〕」A「@」に用いた液。鉄漿(テツシヨウ)。〔大上臈御名之事〕〔日ポ〕
と、その風俗史を記述している。その用例は、室町と江戸時代が主となっている。そこで、古い用例をみると、源順『和名類聚抄』巻14に、
黒齒 文選注云黒齒國在東海中。其土俗以草染齒。故曰黒齒俗云波久路女。今婦人有黒齒具故取之。<元和三年古活字版二十巻本616E>
とあって、『文選注』に「黒齒國在東海中」とあることからも典拠は異なるが注記の一致を見るのである。降って当代の『全浙兵制日本風土記』(延寶五年写)巻第二に、
染牙 其土官本身宗族子姪并首領頭目。皆以銹鉄水浸烏陛〓〔柆+口〕子末悉染黒牙。与民間人以黒白分其貴賎。女子年及十五已上不分良賎。亦染黒牙始嫁。
と記載し、ここでは「女子年十五歳已上に及びて」としている。『日本一鑑』窮河話海巻三・身體にも、
俗男女人齒喜黒齒黒之法乃以爛鐵置於醋中伺其油浮加五倍子如法煎之恒染齒黒故有黒齒之名。昔詰此夷答曰飯白齒黒自欲齒潔為之語曰今俗之人大為姦偸有汚黒齒尤宜速潔。<219G>
とある。さらに、余談だが、戦国時代には、「齒黒の首」をもって戦さの恩賞としたこともあって、『おあん物語』に、
また味かたへ。とつた首を。天守へあつめられて。それ/\に。札をつけて。覚えおき。さい/\。くびにおはぐろを付て。おじやる。それはなぜなりや。むかしは。おはぐろ首は。よき人とて。賞翫した。それ故。しら歯の首は。おはぐろ付て給はれと。たのまれて。おじやつたが。くびもこはいものでは。あらない。その首どもの血くさき中に。寝たことでおじやつた。
といった記事が見えている。
2000年2月12日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
遅咲きや ほころび出づる 梅が枝は
「土公(ドクウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「登部」に、
土公(−クウ)春三月在釜。夏三月在門。秋三月在井。冬三月在∨庭。歴土公入トハ本地ニ帰ル也。<元亀本54G>
土公(トクウ)春三月在釜。夏三月在門。秋三月在井。冬三月在庭。暦土公ニ入ト本地ニ皈也。<静嘉堂本61@>
土公(トクウ)春三月在釜。夏三月在門。秋三月在井。冬三月在庭。暦ニ土公ニ入ルト本地ニ皈ル也。<天正十七年本上31オG>
土公(――)春三月在∨釜。夏三月在門。秋三月在井。冬三月在∨庭。暦ニ土公ニ入トハ本地ニ皈也。<西來寺本97A>
とある。標記語「土公」の語注記は、「春三月釜にあり。夏三月門にあり。秋三月井にあり。冬三月庭にあり。暦に土公に入るとは本地に皈るなり」という。これは、陰陽道における土の神で、春は竃(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭に居まして、この季節にその場所を動かせば災いが齎されるというものである。他に「ドグジン【土公神】」ともいう。『下学集』には未收載にある。江戸時代の『書字考節用集』に、
土公(トクウ)事ハ見[左傳]。出∨計。<三5G>
堅牢地神(ケンラウチジン)土公(トクウ)。<三18B>
とあって、典拠を『左傳』としている。
ことばの実際は、『吾妻鏡』文永三年丙寅十月大卅日に、
丁巳霽レ 戍ノ刻於‖御-所ノ御地ニ|有リ‖大土公(ダイドクウ)ノ祭(マツリ)|。伊賀(イガ)ノ四郎左-衛-門ノ尉朝行(トモユキ)爲ル‖奉-行ト|。(866上右H)
とある。
2000年2月11日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
茶話をして 寛ぎ増せば 閑心
「四書(シシヨ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、
四書(−シヨ)論語。孟子(マウシ)。大斈。中庸。<元亀本327@>
四書(――)論語。孟子。大学。中庸。<静嘉堂本387D>
とある。標記語「四書」の語注記は、「論語。孟子。大学。中庸」という。『下学集』には、
四書(シシヨ)論語(ロンゴ)。孟子(マフジ)。大學(タイガク)。中庸([チユウ]ヨウ)。<數量143D>
とあってこれに等しい。易林本『節用集』も、
四書(−シヨ)論語(ロンゴ)。孟子(マフシ)。大學(タイカク)。中庸(チウヨウ)。<数量211D>
と同じくしている。この注記だが、『尺素往来』にも、「中庸。論語。孟子。大学。孝經。爾雅」と六書を掲載しているが、ここでは「四書」という名目の区分はまだ見えていない。『臥雲日件録』宝徳元年閏十月三日「笠華曰。吾翁大椿筑紫人也。少年東遊就常州師学四書五経、始学孟子」と見えてきているのである。
2000年2月10日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
受験日や 校門目指す 人の列
「南風北風(おほつまくつゝ)」と「飛雲不飛雲」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遠部」に、
南風北風(ヲホツマクツツ)。飛雲不飛雲(同)関東書之。<元亀本82F>
南風北風(ヲヽツマクツ)。飛雲不飛雲(同)関東書之。<静嘉堂本101E>
南風北風(ヲホツマクツヽ)。飛雲不飛雲(――――)関東書之。<天正十七年本上50オF>
南風北風(ヲツヽマクツヽ)。飛雲不飛雲(同)関東書之。<西來寺本148@>
とある。標記語「南風北風」には語注記はなく、「飛雲不飛雲」の語注記に「関東これを書く」という。この「関東」すなわち、「鎌倉」ではこの用字を使用するということか。いずれの文面でこのような用字で表記するかがまだ見えてこない。時代は降って、江戸時代の『書字考節用集』には、
南風北風(カケツカヘシツ)。<九・加64@>
飛雲不飛雲(ヲヲツマクツツ)。西風東風(同)。<九・遠50D>
として、別の読み方となって収録されている。また、『増補大和言葉』(延宝九年刊)にも、
南風北風(カケツカヘシツ)。<437@>
東風西風(ヲフツマクツ)。<438D>
とあり、『運歩色葉集』のいうところの関東の用字が故か「飛雲不飛雲」の語は未採録となっている。『常陸帯』(元禄四年刊)には、
西風東風(ヲフツマクツ).南風北風(カケツカヘシツ)。<時分225@>
とあって、さらに『反故集』(元禄九年刊)巻下になると、
西風東風(ヲフツマクツ)太平記。<諺―378@>
とあって、その典拠を『太平記』と示しているが、実際該当の文字表記の文は見えていない。
2000年2月9日(水)晴れ。東京(八王子)⇒上野(東京国立博物館)
雪化粧 陽の射すに連れ 斑なる
「追儺(ついな/おにやらひ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「津部」に、
追儺(ツイダ)詳ヲノ字所。<元亀本157F>
追儺(ツイナ)詳ヲノ字所。<静嘉堂本172G>
追儺(――)ヲノ字ニ記之。<天正十七年本中18オ@>
とある。標記語「追儺」の読みは、元亀本は「ツイダ」、静嘉堂本は「ツイナ」とし、語注記は、「詳くは「ヲ」の字の所」としている。そこで、次に「遠部」を繙くと、
追儺(−ヤラウ)節分夜。以テ‖桃(モモ)ノ弓ニ葦葉矢ヲ|。畫袴朱衣ニシテ。而四隊ニ行テ。驅ル‖悪鬼ヲ|故ニ尓云。<元亀本78E>
追儺(ヲニヤライ)節分夜。以桃弓葦矢|。畫袴朱衣。而四隊ニ行。馳‖悪鬼ヲ|故云。<静嘉堂本96A>
追儺(ヲニヤライ)節分ノ夜。以桃弓葦矢。畫袴朱衣。而四隊ニ行。驅‖悪鬼ヲ|故之。<天正十七年本>
追儺(ヲニヤライ)節分之夜。以桃ノ弓葦ノ矢ヲ|。畫袴朱衣ニシテ。而四ツ隊ニ行。馳[駆本]‖悪鬼故也。<西來寺本141@>
とある。ここでも元亀本だけが「をにやらう」と異なりの読みを示している。語注記は、「節分の夜。以桃の弓に葦の矢をもって。畫袴を朱衣にして。四つ隊に行きて。悪鬼を驅る故に云ふ」という。『下学集』に、
追儺(ヲニアライ) 節分ノ夜於‖禁中殿上ニ|侍臣以テ‖桃ノ弓葦(アシ)ノ矢ヲ|驅(カル) ‖悪鬼ヲ|。謂‖之ヲ追儺ト|也。<時節31A>
とあり、広本『節用集』には、この語を欠脱未收載にする。弘治二年本『節用集』には、
追儺(ヲニヤライ) 節分ノ夜於禁中殿上之侍臣以‖桃弓葦(アシ)ノ矢(ヤ)ヲ|驅(カル)‖悪鬼ヲ|。謂‖之――|也。儺(ヲニヤライ)<時節31A>
とあって、『運歩色葉集』が「於‖禁中殿上ニ|侍臣」の部分を削除していることがわかる。
2000年2月8日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
梅の香に 人も小鳥も 集ふ木々
「譏嫌戒(キゲンカイ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「記部」に、
譏嫌戒(キケンカイ)在∨經也。<元亀本286@>
譏嫌戒(キケンカイ)在∨經ニ也。<静嘉堂本331B>
とある。標記語「譏嫌戒」の語注記は、「経にあるなり」という。この経とは何をさしているのか。そして、「譏嫌戒」の意味はどういうものかを検討する必要があろう。
まず、仏教の戒律のなかに、この「譏嫌戒」という戒めがあって、「行為それ自体は罪悪ではないのだが、世の人たちからそしり嫌われないために制定された戒律の一つである。人が不愉快に思うような言動は自から慎みなさいという戒律」ということをいう。『運歩色葉集』の注記が示す「經」については、『涅槃經』に「戒有二種。一性重戒。二息世譏嫌戒。性重戒者謂四重禁也。息世譏嫌戒者。不作販売。軽秤小斗不取於他、不畜七宝種種家業田宅」とあるをいう。現代社会にあっても「機嫌伺い」「機嫌買い」「機嫌取り」「機嫌直し」などというように慣用句として、口にすることばの原語である。表記については、正徳六年刊『世説故事苑』巻一に、
律ニ息世譏嫌戒ト云フアリ、是レヨリ出タリ(倭鈔ニ訛テ機嫌ノ字ニ造多シ、已ニ梵網古迹鈔ニモ機嫌ノ字ナリ。支那ノ書ニハ皆譏嫌ノ字ニ作ル)息世譏嫌戒トハ僧トシテ商シ田(タツク)ル如ハ世間ノ譏嫌(そしりきらふ)ナリ。此ヲ息(ヤムル)ヲ息世譏嫌戒ト云。不息之。氣マカセニ放(ホシヒマヽ)ニスルヲ俗語ニ譏嫌戒ト云。是ハ聞(キコエ)タリ。倭俗コヽヨリ訛出タリ。彼氣マカセニスルヲ譏嫌戒ト云ヲ以テ譏嫌ハ気色ト云ト同意トオボエテ人ノ気色ヲ窺ヲ譏嫌ヲ伺ト云誤レリ(是レ不知字義、只口ニ唱ル仮名ニ依テ気色ノ義ニセシモノナリ)其後有心(ココロアル)モノ本拠ヲ不正シテ譏嫌ノ字気色ノ義ニ相当セズト思ヒ憖ニ譏ノ字ヲ機ノ字ニ相改ムト見(ミヘ)タリ。機ハキザシト訓シテ気色ノ意ニ応ス。然レドモ機嫌ノ二字不連続。然ルニ今時機嫌ノ字ヲ強テ穿鑿スルモノアレトモ遂ニ本意ニアラズ。此レハ是レ展転謬訛ニシテ倭俗ノ語若斯ノ類多シ。不可泥字義。以訛従訛ベシ。
と詳細な記述を見るのである。『下学集』『節用集』類には未収載にある。鎌倉時代の『色葉字類抄』に、
氣験キケン。譏嫌同。計形勢之儀也。<黒川本下52オA>
とあって、鎌倉時代には、現代の国語辞書にみえる「時機」の意義に近づきつつあることを、この注記が示している。
ことばの実際は、院政時代の鈴鹿本『今昔物語集』巻第七に、「道[ソン(孫+心)]ガ云ク、「聖人ハ食ヲ要シ給フ事无シト云ヘドモ譏嫌(キゲン)ノ為ニ求メ給フカ」ト。」<大系U172E>とある。鎌倉時代にあっては、延慶本『平家物語』中宮御産有事付諸僧に加持事に、「今ノ法皇ノ御験者ニ御物ノ氣ノ譏嫌事返々目出クソ覚ヘシ」とある以外は、「譏嫌」の表記から「機嫌」の表記に変貌している。実際『徒然草』第百五十五段に、「世に従(シタガ)はん人は、先(マ)づ、機嫌(キゲン)を知るべし。序悪(ツイデ ア)しき事は、人の耳にも逆(サカ)ひ、心にも違(タガ)ひて、その事成らず。 さやうの折節(ヲリフシ)を心得(ココロウ)べきなり。但(タダ)し、病(ヤマヒ) を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、序悪しとて止む事なし。」や『吾妻鏡』建長二年十一月大十一日壬申にも、「無-慙ザンノ之俗ゾク爲リト雖トモ。盍ナンゾ公-私ノ機キ-嫌ゲンヲ存ぜレ哉ヤ。」。当代の『庭訓徃來』にあっても、「負贔窺‖機嫌ヲ|」と表記する。さらに用例とその意味について詳細を極めねばなるまい。
2000年2月7日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
一湿り 花の蕾みも ゆくりなし
「手洗水(たらひみづ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、
手洗水(タライミツ)深草。<元亀本142I>
手洗水(タライミツ)深草 上。<静嘉堂本153A>
手洗水(タライミツ)深草。<天正十七年本中8G>
とある。標記語「手洗水」の語注記は、「深草」という。通常、「深草」は京都伏見区北部の地名で、歌には鶉そして月の名所として知られている。そして「手洗水」は、現在の京都市中京区烏丸通錦小路上ル手洗水町という地名のことを指しているのかと考えてみた。だが、読み方が異なっていている。そこで逆に『運歩色葉集』の標記語「深草」を見るに、「深草(フカクサ)」<元亀本225A>とあって、注記そのものが未記載にある。この「深草」と「手洗水」との関わりをどう結びつけていくかが今後の課題でもある。
2000年2月6日(日)薄晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)
グランドの 土煙り立ち 紅梅は
「當麻曼陀羅(タイマのマンダラ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、
當麻曼荼羅(タイママンダラ)天平勝宝七癸卯六月十三日爲中將姫織∨之。至天文十七戌申七百九十四年也。宝亀六年乙卯中將尼往生。至天文十七戌申七百七十四年也。<元亀本146C>
當麻曼荼羅(タイマノ―――)天平勝宝七癸卯六月十三日爲中將姫織之。至天文十七戌申七百九十四季宝亀六季乙卯中將尼往生。至天文十七戌申七百七十四季也。<静嘉堂本157G>
當麻曼荼羅(タイマノ―――)天平勝宝七癸卯。六月十三日爲中將姫織之。至天文十七戌申七百九十四季。宝亀六季乙卯中將尼往生。至天文十七七百七十四季也。 天文十七七百八十四季也。<天正十七年本中10ウE>
とある。標記語「當麻曼荼羅」の語注記は、「天平勝宝七癸卯六月十三日、中將姫これを織り為す。至る天文十七年戌申、七百九十四年なり。宝亀六年乙卯、中將尼往生。至る天文十七年戌申、七百七十四年なり」という。「當麻」は「當岐麻(たきま)」のイ音便化「タイマ」で、標記語も中の字を省略している。「當麻寺」の「曼荼羅」(小学館『日本の美術』CD−ROM版に収載)こと「観経浄土変相図」に纏わる譚が知られている。『運歩色葉集』のこの内容と先に取り上げた「尼上嵩」の内容とともに、そこで引用した『和漢三才図絵』と比較してみるに、
@曼荼羅を織り成した日付を「天平勝宝七癸卯六月十三日」に対し、『和漢三才図絵』では「同(六月)廿三日化女來て藁(ワラ)三把、油二升を設け、乃ち油を藁に浸して燈と爲す。亥子丑の三時に曼陀羅を織り成す。」と日付にずれが見えている。
A中將尼の往生は、『運歩色葉集』では「宝亀六年乙卯」に対し、『和漢三才図絵』では「寳龜六年三月十四日法如尼寂す」と日程を明記している。これは『當麻曼荼羅縁起』に基づく。
となっているのである。このことから、先行する『運歩色葉集』が如何なる資料に基づく記載なのかが今後の課題でもある。
ことばの実際は、『古今著聞集』巻第二36「横佩大臣女當麻寺曼陀羅を織る事」に、
曼荼羅(まんだら)の出現は、當時建立の後百五十三年をへて、大炊天皇御時、横佩(よこはぎの)大臣藤原尹胤といふ賢智臣はべりけり。彼大臣に鐘愛の女あり。其性いさぎよくして、偏に人間の栄耀をかろしめて、只山林幽閉を忍び、終に當寺の蘭若をしめて彌陀の浄刹をのぞむ。天平寳字七年六月十五日、蒼美をおとして、彌(いよいよ)往生浄土の勤(つとめ)ねんごろなり。誓願を起ていはく、「我もし生身(しやうじん)の彌陀をみたてまつらずは、ながく伽藍の門圃を出(いで)じ」と。七日祈念のあひだ、同月廿日酉剋に、一人の比丘尼忽然(こつねん)として來(きたり)ていはく、「汝九品(くほん)の教主をみたてまつらんと思はゞ、百駄の蓮莖を設(まうく)べし。佛種縁より生ずる故也」といふ。本願禪尼歡喜身にあまりて、化人(けにん)の告(つげ)を注(しるし)て公家に奏聞す。叡感を垂(たれ)て宣旨を下されにけり。忍海勅命を奉(ほうじ)て、近國の内に蓮の莖を催しめぐらすに、わづかに一兩日の程に九十餘駄いできにけり。化人みづから蓮莖をもて絲をくりいだす。絲すでにとゝのをりて、始(はじめ)てきよき井を堀(ほる)に水出で、いとをそむるに其色五色也。みる人嗟嘆せずといふことなし。同(おなじき)廿三日夕、又化人の女忽(たちまち)に來(きたり)て、化尼に、「絲すでにとゝのをれりや」と問(とふ)。則(すなはち)とゝのへるよしをこたふ。其時、彼絲を此化女に授(さづけ)給(たまふ)。女人(によにん)藁二把を油二升にひたして、燈(ともしび)として此道場の乾角(いぬゐのすみ)にして、戌(いぬ)の終より寅(とら)の始に至るまでに、一丈五尺の曼陀羅を織(おり)あらはして、一よ竹を軸にして捧持(ささげもち)て、化尼と願主との中に懸(かけ)たてまつりて、彼女人はかきけつごとくに失(うせ)て、行方をしらず成(なり)ぬ。其(その)曼陀羅の樣、丹青色を交(まじへ)て金玉光をあらそふ。南の縁は一經教起の序文、北の縁は三昧正受の旨歸、下方は上中下品來迎の儀、中薹は四十八願荘厳(しやうごん)の地也。これ觀經一部の誠文、釋尊誠諦の金言也。化尼重(かさね)て四句偈を作て示ていはく、
徃昔迦葉説法ノ所 今來法起シテ作ス‖佛事ヲ|
響ニ懇ナルガ‖西方ニ|故ニ我來レリ 一タビ入レバ‖是ノ場ニ|永ク離ル∨苦ヲ云々
本願禪尼宿願力によりて、未曾有なる事を見、化人の告(つげ)によりて、不思議の詞を聞(きき)て問(とひて)云(いはく)、「抑(そもそも)我(わが)善智識(ぜんぢしき)は、いづれの所より誰の人の來(きたり)給へるぞ。」答(こたへて)曰(いはく)、「われはこれ極樂世界教主也。織姫は我(わが)左脇の弟子觀世音也。本願をもての故に、來(きたり)て汝が意を安慰するなり。深く件(くだんの)恩をしりて、よろしく報謝すべし」と、再三告(つぐる)事ねんごろなり。其後比丘尼西をさして雲に入(いり)てさり給(たまひ)ぬ。本願禪尼、宿望すでに遂(とげ)ぬる事をよろこぶといへども、戀慕のやすみがたきに堪(たへ)ず。禪客去リテ無シ∨跡。空シク向ヒテ‖落日ニ|流ス∨涙ヲ。徳音留リテ不∨忘レ。只仰ギテ‖變像ヲ|消ス∨魂ヲ。そのゝち廿餘年をへて寳龜六年四月四日、宿願にまかせてつゐに聖衆の來迎にあづかる。其(その)間の瑞相くはしくしるすにおよばず。<大系73D〜74P>
とある。ここでは、「中將姫」という名は用いられていないし、その「中將姫」の往生のことを記していない。現在も「當麻寺」では、5月14日に、“中将姫譚”に因んだ「二十五菩薩練り供養」の行事が催されている。
2000年2月5日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
昼下がり 紅白梅に 小鳥鳴く
「芥々(けげ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「計部」に、
芥々(ケヾ)草之亊。<元亀本218@>〔草のあとに「履」の字脱。〕
芥々(ケヾ)草履之亊。<静嘉堂本248E>
芥々(ケヽ)草履之亊也。<天正十七年本中55オB>
とある。標記語「芥々」の読みは「けげ」とし、語注記は「草履のこと」という。『下学集』『節用集』類には未収載にある。当代の『日葡辞書』(邦訳)には、
Guegue.ゲゲ(げげ) Iori(草履)に同じ。草鞋(わらじ)に似た藁製の履物。婦人語。‡Guegueuo faqu.(げげをはく)この藁製の草履をはく。<294r>
とあって、一致する。また、鎌倉時代の語源辞書『名語記』五に、
下臈のはき物にゲゲ、如何。げきといふをケケといいなせる也。
とある。ことばの実際は、『平家物語』巻第九・二度之懸に、「下人どもよびよせ、最後のありさま妻子のもとへいひつかはし、馬にものらずげゞをはき、弓杖をつゐて、生田森のさかも木をのぼりこえ、城のうちへぞ入たりける。」<大系下206H>とある。
2000年2月4日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
梅の香を 漂はす咲きに 会話あり
「〓〔食+専〕〓〔食+兆〕(ホウタウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「保部」に、
〓〔食+専〕〓〔食+兆〕(ホウタウ)食物。飽〓〔食+壽〕(同)。<元亀本44G>
〓〔食+専〕〓〔食+兆〕(ホウタウ)食物。飽〓〔食+壽〕(同)。<静嘉堂本49G>
〓〔食+専〕〓〔食+兆〕(ホウタウ)食物。飽〓〔食+壽〕(同)。<天正十七年本上25ウF>
〓〔食+専〕〓〔食+兆〕(ホウタウ)食物。飽〓〔食+壽〕(同)。<西来寺本81C>
とある。標記語「〓〔食+専〕〓〔食+兆〕」の語注記は、ただ「食物」という。「はくたく」の変化したもので、茹でない手打ち饂飩(平打ちの腰の強い麺)と、たっぷりの根菜を一緒に味噌汁で煮込んだ物をいう。具としては、南瓜・茄子などを入れる。古くは、小麦粉を水で練り、これを手延べして、適度な形にして用いた。院政時代の『色葉字類抄』に、「〓〔食+専〕〓〔食+ノ七〕(ハウタウ)又作〓〔麥+専〕〓〔麥+ノ七〕」とある。
ことばの実際は、能因本『枕草子』319段に、「前の木立高う庭広き家の「しばしほうちはうたうまゐらせんなどととどむるを」」とある。このことからも、中国から日本への伝来した食品としては、平安時代とかなり早いものであったといえよう。そして、戦国時代には甲斐の武田信玄がこの「ほうとう」を戦闘必備食として用いたことから、現在でも山梨県の名物として親しまれている。土地の人は、「のしいれ」とも呼んでいる。そして、近代では、太宰治が以下のエピソードを残している。「当時、天下茶屋に滞在中の太宰治に、ほうとうを出したところ、「僕のことを言っているのか」と不機嫌になったとのこと。けれど、ほうとうは「甲州の食べ物である」と説明し、これを食べてからは大変気に入った様子で、次からは「ほうとう、ほうとう」と言って食べたがったそうである。ちなみに太宰は「ほうとう息子」と勘違いしていたという。」<天下茶屋より>
2000年2月3日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
梅の花 つぼみ膨らに かをり待つ
「二上嵩・尼上嵩(ニジヤウたけ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「丹部」に、
二上嵩(ニジヤウダケ)。尼上嵩(−ジヤウガタケ)於‖此所ニ|中將姫逢フ‖阿弥陀ニ|也。<元亀本39I>
二上嵩(ニジヤウタケ)。尼上嵩(同)於此所中將姫逢‖阿弥陀|也。<静嘉堂本43E>
二上嵩(ニシヤウカタケ)。尼上嵩(同)於此所中將姫逢阿弥陀也。<天正十七年本上22オG>
二上嵩(ニシヤウタケ)。尼上嵩(ニ−タケ)於此処ニ|中将姫逢弥陀也。<西来寺本72B>
とある。標記語「二上嵩」と「尼上嵩」があって、読み方も「ニジョウだけ」と「にじょうがダケ」とあり、その語注記は、「此所において、中將姫、阿弥陀に逢う」という。この「中將姫」は、小学館『古語大辞典』他の資料によれば、「伝説上の人物。藤原豊成の女。十六歳の時、大和の二上山の東側に位置する当麻寺の実惟法師について尼となり、法如と号し、「称讃浄土經」数百巻を書写し、さらに夜の初更から四更に至る間に蓮根の糸で曼荼羅を織ったと云われている。宝亀六年没、二十九歳。御伽草子『中將本地』、謡曲『雲雀山』『当麻』、浄瑠璃『中將姫本地』『当麻中將姫』『〓〔庚+鳥〕山姫捨松』などがあり、また、浄土説教の有力な素材ともなった。」とある。
この「尼上嵩」と「中將姫」について、さらには浄土教の「阿弥陀仏」との関係を記す資料がこの注記の要となろう。そして、江戸時代の『書字考節用集』には、
尼上嶽(ニジヤフカダケ)本字ハ二上。○和州葛下郡。<乾坤一22E>
とあって、注記内容は、表記と所在地でしかないが、『和漢三才図絵』には、
當麻寺(タヘマテラ)
曼荼羅(マンダラ)堂 中將姫 法如比丘尼と名づく。蓮の絲を以って織り成せる曼陀羅なり。
とあって、「葛下郡」に詳細な記述が見えている。
2000年2月2日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
ウイルスと 苦戦苦闘す 日の長さ
「白雲・白屑(しらくも/ぼ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「支部」に、
白雲(−クモ)頭病。白屑(同)移。<元亀本313D>
白雲(−クモ)頭病。白屑(シラクボ)不病。福。<静嘉堂本367B>
とある。標記語「白雲」「白屑」について、元亀本は、両語とも「しらくも」と読む。これに対し、静嘉堂本は、前語を「しらくも」、後語を「しらくぼ」と区別して読んでいる。語注記は、前語「頭の病(頭髪部に発生する白癬菌の寄生によって起る皮膚病の一種)」は共通するが、後語の方は「移」と「不病。福」と異なりを見せている.。とりわけ静嘉堂本の「福」の語は、典拠である『有林福田方』を示している。『下学集』には未収載にある。広本『節用集』には、
白禿(シラクモ/ハクトク、シロシ・ツブル)。<支躰門923C>
とあって、標記語も異なり、語注記も未記載にある。また、『伊京集』にも、
白禿(シラクボ/ハクトク)。<支躰111D>
とあって、広本と同様な収載であることがわかる。『節用集』では饅頭屋本が「白雲」と表記する。
ことばの実際は、仮名草子集『仁勢物語』下105に、「をかし、男、「頭を禿ぐべし」と云やりたれば、外境(げきやう)、 白雲(しらくぼ)に禿げば禿げなん禿げずとて藥代呉るゝ人も有らじを と云へりければ、頭は滑(なめし)になれうと思ひて、心憂さはいや勝りにけり。」<大系224B>
とあって、『運歩色葉集』の表記漢字と合致する。
2000年2月1日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
訃報聞き 返す恩なき 人の身は
「修験行者(シユケンギヤウジヤ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「支部」に、
修験行者(シユゲンギヤウジヤ)雖無(ナシ)∨‖才能ト|行体堅固之山伏事也。<元亀本324B>
修験行者(シユケンキウジヤ)〓〔ム+虫〕無‖才能行体堅固之山伏事。<静嘉堂本383C>
とある。標記語「修験行者」の語注記は、「才能なしと雖ども行体堅固の山伏のことなり」という。この「才能」とは、智慧の働きが優れていることをいうのだから、ここでは、智慧の働きが無いけれど、行体堅固である山伏をこういうのだということであろうか。『下学集』には、「修験行者」は未収載だが、「行者(アンジヤ)」<人倫40E>なる語が見えている。広本『節用集』には、やはり「修験行者」では未収載だが、ただ「行者」で、
行者(ギヤウジヤ)欲(ネガウ)∨求‖出家ヲ|未∨得‖衣鉢ヲ|。依∨寺住持ス者。晋ノ時有‖此人。東林遠有‖辟蛇――|。<態藝門852C>
とあって、読みは「ギョウジャ」だが語注記は、『運歩色葉集』の「修験行者」とは異なっている。因みに、『運歩色葉集』には、「行者」の語は未収載にある。『庭訓徃來註』に、
修験ノ行者〓〔ム+虫〕∨無‖才能行体堅固ナルヲ云也。又ハ山伏也。山伏ハ役行者ノ末流也。役行者ハ賀茂役公民也。文武帝ノ時ノ人也。年此余ニシテ棄∨家入‖葛城山ニ|居持‖孔雀明王ノ咒ヲ|乗‖五色ノ雲ニ|。優‖-遊仙府ニ|駆‖-逐シテ鬼神ヲ|以爲‖使令|。今云‖山臥|者此末流也。修ハ々正始覚修行験者本有ノ本覺験徳也。始末備テ无‖欠滅|故ニ曰‖山伏|也。云々。<25オC>
とあって、冠頭注記の部分が『運歩色葉集』に一致することから、ここからの転記による収載と考えられる。
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