[2000年08月01日〜08月31日迄]

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

2000年8月31日(木)曇り。東京(八王子)

かしまずみ がけなすなけが みずましか

彼嶋住み 崖な砂ケが 水増しか

六具(ロクグ)

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「路部」に、

六具(―ク) 母衣(ホロ)。箙。决拾(ユガケ)。射手(イテ)旗(ハタ)。扇。鞭。〔元亀本23C〕

六具(―グ) 母衣。箙。决拾。射手旗。扇。鞭。〔静嘉堂本20E〕

六具(――) 母衣。箙。决拾。射手旗。扇。鞭。〔天正十七年本上11オD〕

六具(――) 母衣。箙(ヱヒラ)。决拾。射手(ユミヤ)旗(ハタ)。扇。鞭。〔西來寺本39@〕

とある。標記語「六具」の語注記は、「母衣(ホロ)。箙。臾拾(ユガケ)。射手(イテ)旗(ハタ)。扇。鞭」という。『下學集』には未收載にある。『庭訓徃來註』六月二十九日の状に、

中將軍家之御教書厳密之上下 御旗等之間 六具武羅第二第三(ユカケ)第四射手旗第五第六六具也。〔謙堂文庫藏34左F〕

とあって、注記は共通する。広本節用集』は、

六具(/ソナフ) 外記ニハ喉輪。脛當。筒丸。脇楯。籠手。゙也。小笠原流 。箙。滿。團扇(ウチワ)。小旗。拾(ユカケ)武勇記云、゙。鎧。籠手。半首。臑當。厭膝(ハイタテ)。〔數量門46A〕

とあって、連関する『下學集』に未收載のことから別資料による引用注記になっていて、近いところでは「小笠原流」を載せていて、「六具」の排列も異なりを見せる。また、印度本系統の『節用集』類がこの語を未收載にしていることは注目されよう。そのうえで、『運歩色葉集』が『庭訓徃來註』に依拠することは、伝統注記としての『下學集』が未收載の場合、次ぎなる選択注記として、この『庭訓徃來註』を考えていたことになる。そしてこれを裏付けるかのように、注記語のうち、『運歩色葉集』に「母衣・箙・射手・旗・扇・鞭」(「射手旗」の語では未收載で、「射手(イテ)」と「旗(ハタ)」に分散している)の語は標記語として立項するが、ここで「决拾(ユガケ)」は、標記語でなく注記語とし、「指懸」の語で立項する。このことは、『庭訓徃來註』に「决拾」の注記だけが未記載にあることで、ここからの引用ができない。そこで別資料に拠ったことで異なりを示しているともとれるのである。

 ところで、現代人の私たちにとって、「六具」といえば如何なるものになるのであろうか?ふと思いつつも列挙してみよう。「くつ【靴】。かばん【鞄】。サイフ、かね【財布、金】。ケイタイデンワ【携帯電話】。ペン【筆】。テチョウ、ホン【手帳、本】」というものか。みなさんが、もっとこれが必携と思われるのがあれば教えて欲しい。

[連関項目] 2000年7月17日(月)「指懸(ゆがけ)」参照。

 

2000年8月30日(水)晴れ。東京(八王子)

かるいなみ かたちみちたか みないるか

 軽い波 容貌通ちたか 皆海豚

・武羅・母衣 (ほろ)

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「保部」に、

(ホロ) 張良流(リヤウリウ)字。母羅(ホロ)。武羅()蘇武流。保衣()。保呂()。倍羅()。府衣(ホロ)。()。褓篭(ホロ)。風縷(ホロ)。〓〔衣+益〕(ホロ)。母衣() 樊會流(ハンクワイリウ)。作母衣|。孩兒(カイシ)在シ‖胎内ニ|頭(カウヘ)戴(イタヽキ)胞衣ヲ|。防(フセク)ヲ|。武士(フシ)臨(ノソン)テ‖戰場ニ|戴(イタヽイ)テ∨ヲ。懸也。向。胞(エナ)衣ノ|ニ∨ヲ|喩也。母胎内戰場生死之二也。〔元亀本47FG〕

(ホロ) 張良流字。母羅()。武羅()蘇武流。保衣()。保呂()。倍羅()。(ホロ)。()。()。()。風縷()。〓〔衣+益〕()曰一懸也。母衣() 樊會流。作母衣言孩兒在胎内時頭(カシラ)胞衣ヲ|。防毒ヲ|。今武士(フシ)臨ム‖戰場ニ|時戴母衣ヲ|。敵。喩胞衣毒。母胎与戰場生死二也。〔静嘉堂本53DE〕

(ホロ) 張良流字。母羅()。武羅()蘇武流。保衣()。保呂()。倍羅()。府衣(ホロ同)。(ホロ同)。褓篭(ホロ)。風縷(ホロ)。〓〔衣+益〕(ホロ)同。一懸。母衣(ホロ) 樊會流(ハンクワイナカレ)。作(ナ)ス母衣|。孩兒(カイシ)在胎内時頭戴(イタヽイ)テ‖胞衣ヲ|。ヲ|。武士臨戰場時戴母衣|。敵。喩胞衣。母胎与戰場生死之二也。〔天正十七年本上27ウB〜D〕

(ホロ) 良流字。母羅()。武羅()蘇武流。保衣(ホロ)。保呂()。倍羅()。府衣(ホロ)。()。褓篭()。風縷()。〓〔衣+益〕()一懸也。母衣(ホロ) 樊會流。作母衣|。言孩兒在胎内ニ|時頭戴ク‖母衣ヲ|。ク‖ヲ|。武士臨戰場ニ|時戴キ∨――ヲ。。喩胞衣(ホロ)ク∨。母胎与戰場|。生死之二也。〔西來寺本86E〜87B〕

とある。標記語「」の語注記は、「張良流(リヤウリウ)字」といい、「母羅(ホロ)。武羅()」は、「蘇武流」、「保衣()。保呂()。倍羅()。府衣(ホロ)。()。褓篭(ホロ)。風縷(ホロ)。〓〔衣+益〕(ホロ)。母衣()」は、「樊會流(ハンクワイリウ)」の表記という。そのあとに、「作母衣|。孩兒(カイシ)在シ‖胎内ニ|頭(カウヘ)戴(イタヽキ)胞衣ヲ|。防(フセク)ヲ|。武士(フシ)臨(ノソン)テ‖戰場ニ|戴(イタヽイ)テ∨ヲ。懸也。向。胞(エナ)衣ノ|ニ∨ヲ|喩也。母胎内戰場生死之二也」という。これは『下學集』に、

(ホロ) 作母衣(ホロ)ニ|。言孩兒(ミドリコ/カイニ)在ル‖胎(タイ)ニ|戴(イタヽヒ)テ‖胞衣(ハウエ)ヲ|防(フセク)諸毒(トク)ヲ|也。今武士臨(ノソム)戰場ニ|キニテ∨(ホロ)向(ムカフ)。蓋喩(タトヘ)テ‖胞衣ニ|ク∨也。母胎戰場生死二之之時也。〔器財門114C〕

とあって、共通する注記内容である。ここを『庭訓徃來註』六月二十九日の状に、

中將軍家之御教書厳密之上下御旗等之間 六具武羅第二箙第三拾(ユカケ)第四射手旗第五扇第六鞭云六具也。者字有三樣。張良流。樊會流ニハ母衣。蘇武流武羅也。惣シテ十二樣也。色々也。陰陽和合(エナ)ヲナリ。依其木火土金水是也。帝尺修羅時、修羅眷属集調既帝尺スル須弥焼上ニ、帝尺王神武羅着勢上給故大縄則滅スルニ敵自悪方打向時武羅上也。努々聊尓武羅可有。惣シテ法應三身如来十万億御座時変身袈裟也。兵軍場打死門出也。雖然此着候ハン武士貴僧高僧同前ナリ。縦无引導トモ、本来コト佳所故也。故タル打取コト大亊也。為赤白神宮皇后始金台兩部也。始也。日本ニハ山名家。旗日天月天天照大神八幡春日也。四尺八寸又七尺八分仕也。竿長一丈三尺、又一丈二尺八分仕也。源ニハ白布仕也。然間白布本也。乍去以絹仕也。又王御旗錦也。日天月天ナリ。廣一尺八寸也。是表八幡春日天照也。下家之文也。〔謙堂文庫藏34左F〜35右F〕

とあって、注記語としては、「六具」、「」そして「」の三語が見える。このなかで、『下學集』が標記語と語注記を示す語は「」についであり、他の語にはこのような詳細な語注記は見えない。いま、この「ほろ」について見るに、表記法として、十二樣あり、このうち三樣すなわち、張良流「」、樊會流「母衣」、蘇武流「武羅」がとりわけよく知られている表記法として示されている。これは『運歩色葉集』では、すべてその表記字様を標記語にして示しているものである。次に、「ほろは陰陽和合の袍(えな)を表すなり。それによる、木・火・土・金・水は是れなり。帝尺・修羅の戰さの時、修羅眷属を集め調へて、既に帝尺の座する須弥を焼き上る処に然りと雖も、帝尺王、神の武羅を着し勢ひ上げ給ふ。故に大縄則ち滅するに依りて、敵悪方により打向かふ時、武羅の勢いを上るなり。努々(ゆめゆめ)、聊尓に武羅の勢いを上る亊あるべからず。惣じては法應三身の如来、十万億に御座の時、変身を隠し給ふ袈裟なり。兵軍場に出づれは打死、門出なり。然りと雖も、此のを着し候はん武士は貴僧・高僧と同前なり。縦ひ引導无きと云へども、本来は佳所に至ることを上る故へなり。故に、を着たる兵を打ち取ること大亊なり。赤白となす亊は神宮皇后より始る金台兩部なり」というのだが、この箇所は『下學集』の注記とは異なることもあって、『下學集』にある注記内容を第一義とする姿勢からして、『運歩色葉集』は、これを採録しない編集方針にある。『節用集』類は、広本節用集』に、

(ホロ) 母衣。言孩兒母胎時、頭ヘニ胞衣|。以防諸毒也。今武士臨(ノソム)戰場ニ|時、戴。以向敵。蓋喩胞衣ナノクニ也。母胎與戰場生死之二時也。異名、金吐差(キントシヤ)。〔器財門99E〕

とあって、『下學集』に共通する注記内容であり、末尾に異名「金吐差(キントシヤ)」を増補する。また、同じく『下學集』に依拠する内容を有する『嚢鈔』は、

ホロヲ母衣(ホエ)ト書ハ母ノ小袖ナントヲ。ニ懸ケル古事ノアル歟。○未其由(ヨシ)ヲ不知事ニヤ。常ノ義ハ。孩兒(カイニ)ノ在胎内時。戴(イタヽキ)胞衣(ハウエ)ヲ諸毒也。亦武士ノ臨戰場時。被(カウフル)。以防。盖是胞衣スニ也。以此義。母衣共書トコソ申ル也。胎内(タイナイ)ト戰場(センヂヤウ)トハ。生死ノ二時也。〔巻第六29[日本古典全集二三二頁]〕

とあり、その書き出しを「常の義には」としてその内容を収載する。

[補助参考資料]

堀口育男さんは、「庭訓往来真名抄依拠資料小考―六月状の場合―」(雑誌「汲古」平成二年八月稿)のなかで、内閣文庫藏『訓閲集』(第二類七冊本)の第三冊「軍敗六具大亊」について示し、『庭訓徃來註』がこれを依拠資料としていた点について論及されている。さらに、当代の松田秀任作の仮名草子武者物語』巻下にも「一 古き侍の物語にいはく、武者の六具といふ事第一武蘿これは陰陽和合の胞衣なり。去によって一さいの悪難をのがれんためかる」と同様の箇所を引用する資料を揚げ、こういった資料が語注記編集に採択されていたことを明らかにされている。

注釈書を見るに、古版『庭訓徃來註』には、

將軍家御教書(ミゲフシヨ)厳密(ゲンミツ)之上シ‖(ホロ)御旗(ハタ)之際(アヒタ) ト云事。彼樊會(ハンクハイ)ガ母(ハヽ)ノ衣(コロモ)ナリ。女ハ臆病(ヲクベウ)ニシテ臆心アレトモ肝(キモ)ニ泌(タギリ)ヲ持(モチ)(ヲトコ)ハ心ニ健(ケナゲ)ナル心アレ共。胸(ムネ)ニ臆病(ヲクヒヤウ)ノ心アルガ故ニ樊會(ハンクハイ)ガ合戰(カツ―)ニ出シニ母ウヘノ衣ヲ脱(ヌヒ)デ。子(コ)ニヤリテ。汝(ナンヂ)ガ心吾(ワガ)心催(モヨ)ホシテ。ケナゲナレト云心也。其ヨリホロト云事出來タリ。旗(ハタ)ハ軍(イク)サノ験(シル)シナリ大事ナリ。〔下九ウ八〜十オ二〕

とあって、全く別な注記内容をここに収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)には、

シ‖(ホロ)御旗(ハタ)之際(アヒタ) ほろの起りいろ/\の説ありて擬定(ぎでう)しかたし。其仕立やうもいろ/\の習(なら)ひあり。ある書に五幅(はゞ)五尺七幅七尺八幅八尺にすといへり。近代と云幅七尺に仕立日の緒奮威の緒四天の緒波不立の緒なとをつけるなり。籠(かこ)の骨(ほね)ハ三拾本なり。今ハ大概(たいかい)三拾?本にするなり。上古(じやうこ)ハほろに篭もあらさりしか武者のふるまひにより風吹入て圓(まどか)なり。中興(ちうこう)より其着樣(つけやう)を失ひ籠を入るゝなり。又雨なとの節しほたれて見くるしきゆへ籠を作りしともいふ。ほろの文字に四姓(しせい)の差別(しやべつ)ありて源家に武羅(ほろ)と書。平家に~衣(ほろ)と書。藤氏に綿衣(ほろ)と書。橘氏に母衣(ほろ)と書となり。色は上古は赤白の二色を用ひたりしか、近代ハいろ/\の色を用ゆ。ある書に昔(ほろ)と言し物あり。當代の羽織(はをり)のことくにして單(ひとへ)に襟(ゑり)(をくひ)を付たる物なり。母羅(ほろ)の代(かわ)りに用ひての上に着たりしか今ハ廃(すた)れたりと云。されハと母衣とハ其仕立方別なりと見へたり。なをくわしき事ハ圖説(づせつ)にて見るへし。〔40ウ五〜41オ四〕

とし、これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(なか)(づ)將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)(くだ)(たま)(の)(あいだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)一族(いちぞく)際一揆(いつき)(し)むる(もの)(なん)中將軍家御教書厳密之上下御旗等之際内戚外戚之一族ムル一揆者也。▲ハ其(その)(せい)(す)十種ありて式(しき)(さた)めかたし。大抵(たいてい)今の制ハ六幅(はゝ)七尺に緒(を)をつけ是を負(お)ふ。串(くし)に籠骨(かこほね)等乃品あり。其発端(はじまり)ハむかし漢(かん)の樊會(はんくわい)出陣(しゆつちん)の時其母(はゝ)衣を脱(ぬき)て餞別(はなむけ)とせしかハ鎧(よろひ)に被(かつ)けて戦(たゝか)ひしより後(のち)馳駆(はせかけ)の武者(むしや)ハ是を用ゆとそ。〔三十一ウ八〜三十二オ三〕

(づ)く∨(なか)ん將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(くだ)し(たま)ふ(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)を(の)(あひだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)の一族(いちぞく)(し)むる一揆(いつき)せ(もの)(なり)。▲ハ其(その)(せい)(す)十種ありて式(しき)(さた)めかたし。大抵(たいてい)今の制ハ六幅(はゝ)七尺に緒(を)をつけ是を負(お)ふ。串(くし)に籠骨(かこほね)等乃品あり。其発端(はじまり)ハむかし漢(かん)の樊會(はんくわい)出陣(しゆつちん)の時其母(はゝ)衣を脱(ぬき)て餞別(はなむけ)とせしかハ鎧(よろひ)に被(かつ)けて戦(たゝか)ひしより後(のち)馳駆(はせかけ)の武者(むしや)ハ是を用ゆとそ。〔五十六ウ二〜四〕

とあって、標記語「」にして、その語注記は、やや異なるものである。

[ことばの実際]

長刀の鉄はよし、長刀を取りのべて、向かふ者の真向(まつかう)、逃ぐる者の押し付け、母衣(ほろ)付け、高腰、胴中、草摺の余りを、当るを幸いに、はらめかひてぞ切つたりける。〔舞の本『八島』新大系四二〇I〕

2000年8月29日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

まきすてつ うかぶやぶかう つてすきま

巻き捨てつ 浮ぶ藪買う 伝手隙間

粉骨(フンコツ)

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「浮部」に、

粉骨(フンコツ) 忠義也。〔元亀本224E〕

粉骨(フンコツ) 忠儀。〔静嘉堂本257B〕

粉骨(フンコツ) 忠儀。〔天正十七年本中57ウD〕

とある。標記語「粉骨」の語注記は、「忠の義なり」という。『庭訓徃來』に「粉骨」が見え、『下學集』には、

粉骨(フンコツ) 忠節之義。〔態藝87@〕

とある。次に 古辞書『節用集』類は、広本節用集』に、

粉骨(フンコツ/コ・シロシ、ホネ) 。〔態藝門636A〕

とあって、この注記を未記載にしている。印度本系統の弘治二年本節用集』には、

粉骨(フンコツ) 忠節。〔言語進退183A〕尭空本〔139F〕も同様。

とあって、『下學集』の注記の冠頭箇所「忠節」だけを注記しているし、永録二年本節用集』は、

粉骨(フンコツ) 忠節義。〔言語進退149G〕

とあって、『下學集』の注記により基づく記載を示す。このことは、『運歩色葉集』が必ずしも『庭訓徃來註』の注記に従うのではなく、時には、『節用集』と同じく、尤も信頼をおく語注記の指針として仰ぐ『下學集』に依拠し、これをもって語注記の編集姿勢としていることも見て取れることになる。

 これを『庭訓徃來註』六月廿九日と六月十一日の状には、

326并御乗替等御助成候者可然也今度_ニ/ハ當家眉目一門先途也門葉人々粉骨合戰旨 摧也。又自常不輕菩薩之行起也云々。〔謙堂文庫藏三四左D

389油-單等-具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、その注記内容を「粉は、摧なり。また、常不輕菩薩自ら骨を摧き之れに行き起つなり云々」という具合に異注記にすることから、この語の取込みに関しては、『庭訓徃來註』を採択していないことが歴然としている。

 古版『庭訓徃来註』では、

-(ヨフ)人々粉骨(ブンコツ)之合戰(カツせン)ヲ|旨令(シメ)‖門葉(モンヨウ)ノ人トハ。主ノ紋(モン)ヲ著(キ)ル人ノ事ナリ。此人々ハ粉骨(フンコツ)ノ合戰ヲセヨトナリ。〔下9ウ三・四〕

とあって、この標記語「粉骨」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

門葉(もんよう)人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)合戰(かつせん)(いた)(へき)(むね)約諾(やくだく)(しめ)候/門葉人々紛骨之合戰ヲ|之旨令約諾セ| 紛骨ハ骨を粉にくだくをいふなり。〔40ウ五〕

とあって、標記語「紛骨」で、その語注記は「紛骨は、骨を粉にくだくをいふなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

門葉(もんよう)人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)合戰(かつせん)(いた)(へき)(むね)約諾(やくだく)(しめ)(さふら)門葉人々紛骨之合戰ヲ|之旨令約諾セ|。〔三十一ウ五〕

門葉(もんよう)の人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)合戰(かつせん)(いた)す(へき)の(むね)約諾(やくだく)せ(しめ)。〔五十六オ四〕

とあって、標記語「紛骨」にして、その語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Funcot.フンコツ(粉骨) Foneuo coni su.(骨を粉にす)すなわち,大きな奉公とか非常な骨折りとかの意.§Funcotuo tcucusu.(粉骨を尽す)全力を注いで働いたり,奉公したりする.§Fucotno co>uo tcumu.(粉骨の功を積む)非常に骨折って働いた,または,非常な労苦を凌いで来た.〔邦訳277r〕

とあって、標記語「粉骨」を収載し、その意味を「大きな奉公とか非常な骨折りとかの意」という。

[ことばの実際]

殿原事何(サラ)ン(クタカ)(−/フンコツ)ヲ。〔『雲州往来』第三十六通返状、勉誠社文庫(宮内庁書陵部藏)22G〕

道蘊(ダウウン)は、吉野の城を攻落(せめおと)したるは、専一(センイチ)の忠戦(チユウセン)なれ共、大塔(おほタフ)の宮を打漏(うちもら)し奉りぬれば、猶(なほ)(やす)からず思(をもひ)て、軈(やがて)高野山へ押寄(おしよせ)、大塔(ダイタフ)に陣を取(とつ)て、宮の御在所(ゴザイシヨ)を尋求(たづねもとめ)けれ共(ども)、一山(イツサン)の衆徒(シユト)、皆心を合(あはせ)て、宮を隠し奉りければ、數(ス)日の粉骨(フンコツ)甲斐もなくて、千剣破(ちはや)の城へぞ向ひける。〔『太平記』巻第七「吉野の城軍の事」〕

随分(ずいぶん)武勇(ぶゆう)を勵(はげま)し、一命(めい)を捨(すて)て、粉骨(ふんこつ)を盡(つく)し、名譽(めいよ)を世(よ)に顯(あらは)す人の、恩賞(をんしやう)の輕重(きやうぢう)、所領(しよれう)の大小を論ずる輩(ともがら)あり。〔鈴木正三反故集』仮名法語集・大系282O〕

僧、眼藏(めんざう)より持出でて、「これは山賎(やまがつ)粉骨(ふんこつ)をつくし作るところ、始の稲をわせといふ。その疾藁(といわら)を幾重も編みかけ、焙炉(ほいろ)の紙につつみ詰めおき候まま、といわら壷と号するなり」。〔咄本安楽庵策傳醒睡笑』巻八、岩波文庫下258頁〕

川の面、前後に堅く番を居置(すゑを)き、奉行人粉骨申すばかりなし。〔『信長公記』卷十五・角川文庫407M〕

2000年8月28日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

はまやとさ むしなきなしむ さとやまは

浜屋とさ 虫鳴き馴染む 里山は

(う)

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の補遺篇「鳥名部」に、

() ―使亊人皇卅七代孝徳天皇時始也。哥云、シマハ鳥ウキ世ヲ波カケテミヨ魚漁(イサリ)火カケ。鵜亊也。〔元亀本370E〕

() ―使亊人皇卅七代孝徳天皇時始也。哥曰、嶋津浮世トノ漁火影。鵜事。〔静嘉堂本450A〕

とある。標記語「」の語注記は、「を使亊、人皇卅七代孝徳天皇時より始むるなり。哥に曰ふ、嶋津浮世の浪に懸て見よ魚と水との漁火の影。鵜の事」という。『下學集』には、

(ミサゴ) 能(トル)也。〔氣形門60C〕

とあって、読み方と注記内容を異にしている。『庭訓徃來注』六月二十九日の状で、

抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入 仁王卅七代孝徳天王時始也。哥曰、嶋津浮世篝火。[後略す]〔謙堂文庫藏33左E〕

とあって、『運歩色葉集』の「」の語注記はこれを引用する。広本節用集』は、

() 捕(トル)也。〔氣形門475A〕

とあって、『下學集』の「みさご」の読みを「う」とし、注記の「能く」を削除し、最後に「鳥」を付加している。この「みさご」は、鳶(とび)に似て、水上を飛んで魚類を捕食する猛禽である。易林本節用集』に、「(ミサゴ/クワンシヨ)。()」〔氣形199@〕とある。『下學集』は「」の字をなぜ、「みさご」と読んだのであろうか?この鳥とその名前を正しく認知していないことに由来するとすれば、作者の有する博識の一面を露呈するものであり、かつ人物像を知る手がかりとなる。この誤りを次の『運歩色葉集』『節用集』ともに、いともさりげなく訂正し、正しく「ウ」としている姿勢がまさに絶妙である。また、写本『下學集』は、ただこの辞書を筆写するものであるのに対し、春良本下學集』は、

(ウ/テイ)。(ウ/ジ)。(ウ/ロ)。三字之義同。取水中ノ魚ヲ也。〔氣形門49E〕

と見事に改編し、「みさご」も、「〓〔允+鳥〕(ミサゴ)」〔氣形門49B〕と収載する。

[ことばの実際]

一院、鳥羽院にわたらせおはしましける比、みさご日ごとにいできて、池の魚を取りけり。或日これを射させんとおぼしめして、「武者所に誰か候」と御尋ありけるに、折節むつる候けり。召にしたがひてまいりたりけるに、「此池に、みさごのつきて、おほくの魚をとる。射とゞむべし。但射ころさん事は無慙なり。鳥もころさず、魚もころさじと思食すなり。あひはからひて、つかうまつるべし」と勅定ありければ、いなみ申べき事なくて、即罷立て、弓矢を取て参たりけり。矢は狩俣にてぞ侍りける。池の汀の辺に候て、みさごをあひ待所に、あんのごとく来て、鯉を取てあがりけるを、よく引ていたりければ、みさごはいられながら、猶飛行けり。鯉は池に落て、腹白にてうきたりけり。則ちとりあげて叡覧にそなへければ、みさごの魚をつかみたる足を、いきりたりけり。鳥は足はきれたれども、たゞちにしなず。魚もみさごの爪たてながらしなず。魚も鳥も殺さぬやうに勅定ありければ、かくつかふまつりたりけり。「凡夫のしわざにあらず」とて、叡感のあまりに禄を給けるとなむ。〔『古今著聞集』巻第九「弓箭」第十三の五「源むつる勅定に依りて鯉とみさごを射る事」〕

2000年8月27日(日)薄晴れ。東京(八王子)

いかとりを つまみはみまつ をりとかい

烏賊鳥を 摘み食み待つ 居り都会

鷹量(たかばかり)

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「多部」に、

鷹量(タカハカリ) 鷹生。而在巣アリ。其子生長スルンハ有食之氣。畏之居一尺木上子。故呼一尺。曰ーー|。鷹之落餌是也。〔元亀本139E〕

鷹量(タカバカリ) 鷹生子。而在巣。其子生長スル之氣|。鷹聖有意巣一尺木上子。故呼一尺。曰ーー落餌是也。〔静嘉堂本148D〕

鷹量(―ハカリ) 鷹生子。而在巣。其子生長スルンハ有食之氣。畏之鷹聖居去巣一尺木上養子。故呼一尺曰ーー|。鷹落餌是也。〔天正十七年本中6オD〕

とある。標記語「鷹量」の語注記は、「鷹子を生ず。しこうして巣あり。其の子生長する則んば、食親の氣を食するあり。これを畏れて居ますに巣を去りて一尺、木の上にて子を養なう。故に一尺と呼んで鷹量と曰ふ鷹の落餌は是れなり」という。この注記に天正十七年本は、「これを畏れて居ますに」の箇所に「鷹聖」を挿入し、静嘉堂本は、「鷹聖有意」を挿入して構成する。このことは、『下學集』に、

鷹秤(タカバカリ) 鷹猛悪(マウアク)之鳥也。生シテ(ス)ニ。其子生長スル則(トキ)食(クラウ)親(ヲヤ)ヲ|義。父畏(ヲソレ)居去巣()一尺而養。故一尺(ハカリ)ヲ鷹秤(タカハカリ)ト云傳ルナリ也。〔器財門109D〕

とあって、後の増補部分であることが解る。『庭訓徃來注』六月二十九日の状で、

抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入 仁王卅七代孝徳天王時始也。曰、嶋津浮世篝火仁王十七代仁徳天王御悩時以相者相者曰、河内国片野三足。彼雉奉悩之由申也。就其唐岱山道清頼云者鷹使天下流布。帝遣シテ保昌相傳。天竺摩訶陀国人也。佛檀婆羅蜜砌、鷹鴿来科(ハカル)義也。其後清頼鷹有時、巣毎日見之不審也。子在巣。其子生長シテ之気之去ルコト巣一尺之ニシテ而養子也。此養鳥猛悪也。謀之使也。故呼一尺鷹科保昌傳来使‖∨彼雉也。逍遥自得云也。〔謙堂文庫藏33左E〜34右A〕

とあって、『下學集』の「鷹秤」の語注記を後半部分に排列順序を換えて、「子生ず、巣に在り。其の子生長しての気を食すことあり。これを畏れて巣を去ること一尺のにして子を養ふなり。此の養鳥、猛悪なり。謀りてこれを取り使ふなり。故に一尺の量を呼んで鷹科と曰ふなり」としている。ここでは、『運歩色葉集』が増補した「鷹聖に意あり」の主語説明内容ではなく、「謀りてこれを取り使ふなり」という述部説明となっている。また、この『庭訓徃來註』の注記内容には、鷹使いの「清頼」のことについて記述が見えるが、『運歩色葉集』では、この人名表記を「政頼」として記載し、これとは別なる資料を引用している。また、『運歩色葉集』には肝心の「鷹(タカ)」の語は補遺篇「鳥」部にも未收載である。次に、広本節用集』には、

鷹秤(タカバカリ/ヨウシヨウ) 鷹(タカ)ハ猛悪鳥也。生(ウン)テ(ス)ニ。其子生長スル則有之氣|。之居(サル)コト()ヲ一尺之而養(ヤシナ)フ也。故一尺|。鷹秤鷹落是也。〔器財門342A〕

とあって、「有之氣|。ルコト巣一尺之ニシテ而養子也」の「」の箇所は、『運歩色葉集』は「親」とし、「一尺の」の箇所は「木上」としているが、『庭訓往来註』に等しい。逆に末尾の「鷹落是也」は、『庭訓往来註』にはないことから、『運歩色葉集』と共有する注記語となっているかと思われる。これは同じく『節用集』類の印度本系統の永禄二年本節用集』が

鷹秤(タカバカリ) 尺也。―(タカ)猛悪鳥也。生子在巣。其子生長。則有之氣|。之居()ヲ‖一尺之而養子也。故一尺|。――。〔財宝93C〕尭空本節用集』〔財宝85D〕、兩足院本節用集』〔財寳103B〕も此れに共通する。

とある以上に、弘治二年本節用集』には、

鷹科(タカハカリ) 尺。〔財宝104B〕

鷹量(タカハカリ) 鷹生子在巣。其子生長則有|。之居去巣一尺木上。故呼一尺――。(エ)是也。〔財財宝104C〕

とあって、より『運歩色葉集』の注記に共通する内容となっていることがここに確認できよう。易林本節用集』は、「鷹権(タカバカリ)」と標記語のみの収載となる。当代の『日葡辞書』には、

Tacabacari.タカバカリ(鷹秤) 大工や裁縫師などの使う、長さ2palmos(palmoは約22cm)の物さし.〔595r〕

とある。

[連関資料]1999.10.18(月)「政頼(セイライ)」を参照。

2000年8月26日(土)晴れ。東京(八王子)

ぶどうのみ かわごとごわか みのうどぶ

葡萄の実 皮ごと強か 美嚢溝

幔幕(マンマク)

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「滿部」に、

幔幕(マンマク) ――トハ内幕之亊也。竪長五尺也。上布一可通。竪数十二也。乳之数十二也。横之幅ニ家之出也。〔元亀本208E〕

幔幕(マンマク) ――トハ内幕之亊也。竪長五尺也。上横布一(トヲス)。竪(タツ)幅數(ノヽカス)十二也。乳之數十二也。横之幅(ノ)ニ也。〔静嘉堂本237E〕

幔幕(マンマク) ――トハ内内幕之事也。竪ノ長五尺也。上横ニ布一可通竪ノ數十二也。乳之數十二也。横之幅ニ家之五ツ出也。〔天正十七年本中48オE〕

とある。標記語「幔幕」の語注記は、「幔幕とは、内幕の亊なり。竪の長さ五尺なり。上の横布一幅の通(トヲ)すべし。竪(タツ)幅數(ノヽカス)十二なり。乳の數また十二なり。横の幅 (ノ) に家が紋五つ出すなり」という。『下學集』には、「(マク)」〔絹布門98C〕が記載されるに過ぎない。『庭訓徃來註』五月五日の状に、

縵幕 内幕之亊也。竪五尺也。上横布通。竪〓〔田田+丁〕[野カ]数十二也。乳十二也。横〓〔田田+丁〕五ケ所。手縄已前亊。十二廣十二光佛ヲ|。串十二本也。九廣九山九字シテ九本也。七廣七星七佛七本也。八廣八海八葉八本也。長三丈六尺。地三十六義。乳数上五十六。中三十六義。下廿八宿物見七ハ表七星芝打也。〔謙堂文庫藏31右A〕

とあって、標記語「マンマク」の「幔」の字を「縵」に作る。前半部の語注記が『運歩色葉集』の注記に引用されている。語注記のなかでは「家の紋」を「家の文」としている。そして、「手縄」以降の部分を省略する。ただし、『運歩色葉集』では、「天部」に、

手縄(−ツナ)。〔元亀本243G〕静嘉堂本と天正十七年本は、「手継」を収め、「天部」にこの語を未收載とする。

と、標記語のみだが「手縄」の語を収載する。次に、『節用集』類では、広本節用集』に、

縵幕(マンマク/−バク.カトリ、タレヌノ)。(マク)士臻切。又音廉。異名、青油幢。青油幕。擇勝亭。〔器財門570@〕

とあって、標記語のみ収載し、表記は『庭訓徃來』と同じく「縵幕」としている。そして、元亀本運歩色葉集』の収載する「手縄」の語は未記載とする。

[補足資料]

物ノモント云ニ文ノ字ヲ用ル常ノ事也。アヤトヨム。アヤハ即モンナレハ子細无ケレ共、委ク云ハ糸篇ノ紋ノ字ヲ用ベシ。物ノモンヲハ織(ヲリ)出セルカ故ニト云云。〔『嚢鈔』巻一65「武士幕ノ文ノ中ニ文字難キ知リ多シ。定テ字可有歟」〕

2000年8月25日(金)曇りのち薄晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(東京)

 さもいとさ はびろまろびは さといもさ

 さも愛さ 葉広円びは 里芋さ

黄牛(あめうし)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の補遺「獣名部」に、

黄牛(アメウシ) −之見樣、高鼻舌天角地目一黒歯()十耳小歯()違如此牛吉。〔元亀本371H〕

黄牛(アメウシ) −〔牛(ウシ)〕之見樣、高鼻黒舌角地一黒歯(ハ)耳小歯違如此牛吉。〔静嘉堂本451E〕

とある。標記語「黄牛(アメウシ)」の語注記は、「牛の見樣、高き鼻、黒き舌、天の角地、目一黒、歯(ハ)十、耳小き、歯(ハ)違、此くの如き牛は吉」という。『庭訓徃來』に「甲斐駒、長門牛」とあるものの、『下學集』はこの語を未收載とする。『庭訓徃來註』四月十一日の状に、

長門牛 高鼻黒舌天角地目一黒歯十耳小歯違如此牛ノ見樣也。〔謙堂文庫藏29右G〕

長門牛 高鼻黒-舌天角地目一-黒歯十耳小、歯違是牛ノ見樣也。〔左貫註本27右F〕

とある。この冠頭と末尾の文言置換による記載で、『運歩色葉集』はこれに依拠する注記内容であることが知られる。広本節用集』には、

黄牛(アメウジ/クワウキウキナリ)。〔氣形門747E〕

とあって、語注記は未記載にある。『節用集』類は、概ね標記語のみの収載にある。ここで、注目したいのは、『庭訓徃來註』の「長門牛」を『運歩色葉集』が「黄牛」と標記語を置換して収載したことと、そして相方の牛が果して同種のものなのかどうかといった検証確認が必要になる。

[補遺]古版『庭訓徃來註』卯月十一日の状に、

長門牛(ナガトウシ)ノ事。東大寺ノ柱(ハシラ)ヲヒキタル車(クルマ)牛也。シロタノ庄(シヤウ)ヨリ出タリ。額玉掻(ガクキヨクサウ)トテ額(ヒタヒ)ニ玉アル牛也。長門(ナカト)ヨリ出(イテ)タリ。今ノ世ニモヨキ牛(ウシ)アルナリ。巨細(コサイ)ハ大佛殿ノ縁起ニアリ。〔下3ウ五〕

という。

[ことばの実際]

周防の前司これを取りて、御所に向かひ一拝して退出す。水火は御所に儲けらる。童女はこれを略す。また黄牛を牽く(御牛飼いは、青き狩衣を着しこれに相副ふ)。内藤左衛門の尉盛時これを役す。その後供奉人以下庭上に列座すること元三の式の如し。〔『吾妻鏡』嘉禄元年十二月二十日〕

[連関補足参考資料] 甲斐の「黒駒」については、1999年6月27日(日)の「ことばの溜池」で取り扱っている。

2000年8月24日(木)曇りのち薄晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(東京)

くものすは かぜなかなぜか はすのもく 

蜘蛛の巣は 風中何故か 斜の苜

(まゆ)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「麻部」に、

(マユ) 蒙求曰張敝畫−註云。前漢敝字子高。為京兆ノ尹ト經術ヲ自輔ス其政ヲ。又為−長安中傳京兆眉之始也。〔元亀本211C〕

(マユ) 蒙求曰張敝畫−註云。前漢張敝字子高。為京兆尹以經術ヲ自輔ス其政。又為婦−長安中傳京兆眉之始也。〔静嘉堂本240G〕

(マユ) 蒙求曰張敝畫−註云。前漢張敝字子高。為京兆(ケイチウ)ノ尹ト經術(−シュツ)ヲ自輔ク其政ヲ。又為−長安中傳張京兆眉之始也。〔天正十七年本中49ウB〕

とある。標記語「(マユ)」の語注記は、「蒙求に曰く、張敝−眉を畫く註に云ふ。前漢の張敝、字は子高、京兆(ケイチウ)の尹と為す。經術(−シュツ)を以って自から其の政を輔く。又、婦人の為に−を畫く。長安中に張京兆傳ふ。眉の始めなり」という。『下學集』には、

(マユ) 。〔支躰68E〕

とあるのみで、語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』四月十一日の状には、

仁和寺ノ眉作 北山ニ在眉ヲ掃(ハラウ)物也。蒙求張敝畫云。前漢張敝字ハ子高。為京兆ノ尹。以經術自輔其ノ政。又為婦畫眉ヲ長安中ニ傳張京兆カ尹眉媚(コヒ)タリト眉自始也。〔謙堂文庫藏29右@〕

仁和寺(ニナジ)ノ眉作 北山ニ在眉ヲ掃ウ物也。蒙求云、張敝畫眉云。前漢張敝字子高、為京兆ノ尹。以ツテ經術自輔其政。又為婦畫眉ヲ長安中ニ傳張京兆カ眉媚作眉自始也。〔左貫本26左I〕

とあって、前半部の「北山に在り。眉を掃(ハラ)う物なり」を削除し、『運歩色葉集』は「蒙求ふ」からの引用となっている。そして、最後の「又、婦の為に眉を畫き、長安中に張京兆が眉媚(コヒ)たりと傳ふ。眉を作り是れより始まるなり」で、「媚(コヒ)タリト眉自」の箇所を削除している。『節用集』類では広本節用集』に、

(マユ/) 合紀、末猶(マユ)。〔支體569D〕

とあって、語注記内容を「『国花合紀集』に末猶(マユ)」ということで異にする。印度本系統の弘治二年本節用集』は、「(マユ) 」〔支体169C〕と語注記を未記載にする。

[ことばの実際]「」「自然な眉の描き方」「化粧史」「眉を掃う」

前漢張敝、字子高。平陽人、徒杜陵、為京兆尹。長安市偸盗尤多敝視事、窮治所犯、盡行法罰枹鼓稀鳴、市无偸盗、敝本治春秋。以經術自輔其政。頗雑儒雅表賢顯善、不醇用誅罰、以此能自全、然無威儀、罷朝會、走馬章臺街、使御史驅、自以便面拊馬、又為婦畫眉、長安中傳張京兆眉有司以奏、宣帝問之、對曰、臣聞閨房之内、夫婦之私、有過於畫眉者、上愛其能弗備責也。後為冀州刺史盗賊禁止、守太原々々郡清。〔文禄五年刊『徐状元輔補註蒙求』541、五五八F〕

又為婦−我ガ女房ニ。眉(マユ)ヲ。作テ。トラスルソ。眉撫。應劭カ曰。撫ハ。大ナリ也。孟康カ曰。撫。音()。北方人。謂テ媚好ヲ畜(クキウ)ト。蘇林カ曰。撫。音。師古カ曰。本以好媚ヲ禰コトヲ何ソ説ン於太平ヲ。蘇カ音是(シ)ニ。宋祁カ曰。撫。音ハ舞。々音ハ舞。必竟吾カ女房ノ眉ヲ。イカニモ。ウツクシク。ツクルヲ云ソ。〔『蒙求抄』巻十「張敝畫眉」989G〕

2000年8月23日(水)曇りのち晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(東京)

うつしよに ことほくほとこ によしつう

現世に 寿ぐ程子 如私通

(すみ)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「須部」に、

(スミ)始作也。異名烏銀(ウキン)。紅獣(コウセウ)。<元亀本362D>

(スミ)始作也。異名烏銀。紅獣。<静嘉堂本441G>

とあって、語注記に「羊始めて作るなり。異名、烏銀(ウキン)・紅獣(コウセウ)」という 。『庭訓徃來』四月十一日の状に、「小野ノ炭」とあるが、『下學集』はこの「」を未収載とする。広本節用集』には、

(スミ/タン)始焼之。異名烏銀。薪名−。紅麟。<器財門1125E>

とあって、異名の最後の「紅獣」と「紅麟」の異なりのほかはほぼ共通する。そして、この「異名」以下の注記を後からの増補改編とすれば、『庭訓徃來註』の、

嵯峨土器(カハラケ)奈良刀高野剃刀大原薪小野 炭ヲ始也。爰ニ有雑談|。内裡女房筑紫ニ下リ小貮殿ヘ奉公ス。有時彼女房以箸ヲ炭ヲ置。小貮殿ノ曰、何ソ以箸置乎問給ヘハ女房ノ曰、爰ニ哥アリ、何トシテ々ト焼テン河内ナル横山炭ノ白ク成ン。〔謙堂文庫藏28左E〕

とあって、これと共通する。そして、「爰に雑談あり」ではじまる話が引用されているが、この典拠は掴めない。ただし、連関する資料を以下「ことばの実際」におく。ここで『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との連関性については、検証してきたが、『節用集』と『庭訓徃來註』との連関性については、いまだその検証は完結していない。この語をもって検証をしてみよう。印度本系統の弘治二年本節用集』は、「(スミ)火」〔財宝269F〕とあり、広本節用集』とも注記内容を異にしている。天正十八年本節用集』は、「(スミ)茶湯―」〔財宝下41ウE〕とし、永禄二年本節用集』は、「(スミ/タン)」〔財宝231C〕で易林本節用集』の「(スミ/タン)」〔器財240C〕と同じく標記語のみで収載する。この注記内容から見るかぎりでは、『節用集』類では、広本節用集』語注記そのものが、『運歩色葉集』の注記内容に近似ていて、それ故に『庭訓徃來註』とも近似ているにすぎない。とすれば、広本節用集』の系統本なるものがあってよさそうである。

 また、江戸時代の『書字考節用集』には、

(スミ) [順和名]仙人嚴青所造者。〔乾坤二46D〕

とある。これは源順の『倭名抄』の

(スミ)炭籠附、蒋魴切韻云、炭他案反、和名須美、樹木以火焼之、仙人嚴青造也、野王按、〓〔羊+灰〕、乍下反。字亦作、炭籠也。〔『和名類聚抄』十二〕

を引用する注記である。

[連関する記載] 2000年6月5日(月)「銀烏(ギンウ)」参照。

[ことばの実際]「炭の書」「炭焼き

本歌と思われる歌

なにとしていかにやけばかいづみなるよこ山すみのしろくみゆらん〔590『新撰和歌六帖』第二帖、藤原光俊〕

何としていかにやけばかいづみなるよこ山ずみのしろくみゆらん〔8378『夫木和歌抄』巻20雜部2、光俊朝臣〕

なにとしていかにやけばかいづみなるよこ山ずみのしろくなるらん〔3507『歌枕名寄』横山新六 炭、光俊〕

なにとしていかにやけばか和泉なる横山ずみの白くみゆらん〔354『三百六十首和歌』光俊〕

横山炭(白炭) 和泉国横山荘(現在の和泉市の南部あたりか)から産出する炭。

泉州光の滝炭を、定家卿の歌とや、 和泉なる横山炭(よこやまずみ)のしろくしてとる手につかず飛ぶ事もなし また古歌に、 いかにしていかに焼けばかいづみなる横山炭の白くあるらん 夢庵(むあん) わかばうめぬるく炭を置きかへよ汲みたらんほど水をさすべし〔咄本『醒睡笑』巻八、岩波文庫下252頁〕

白炭ハ上古より和泉の横山にて焼出し、公卿官女の手にふれられてもよごれざりしゆゑ、御堂上にて用ひられしなり、萬葉集の歌に♪いかにしていかにやけばやいづみなる横山ずみの色のしろさよ宣家卿の歌にも♪和泉なる横山炭の白ければとふともつかずとふこともなし、又河内國千劔破よりも白炭を焼出し、同國光瀧寺の谷よりも白炭を焼出せり、是れをば今の世に光の瀧炭といへるなり。〔『茶窓間話』三・九〕

白炭ハ本草にも出で、むかしよりこゝにも用ひし物と見えて、新撰六帖源光俊♪何としていかにやけばかいづみなる横山ずみの白くなるらん、今ハ此處河内なるにや、光の瀧より出づ、本朝食鑑に、白炭ハ躑躅の木を炭となし、再び火におこし、灰に埋めて白霜を生ずといへり。〔『嬉遊笑覧』十下20〕

2000年8月22日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(東京)

みよやみよ ふたつはつたふ よみはよみ

身よや見よ 二つは伝ふ 詠みは冥府

西王母(セイワウモ)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「勢部」に、

西王母(セイワウモ) 。《能名》〔元亀本359@〕

西王母(セイワウボ) 。《能名》〔静嘉堂本436G〕

とある。標記語「西王母」のみで、語注記は未收載にある。これは《能名》という題名語群のなかに収載されている。『下學集』には、

青鳥(セイテウ) 西王母之書使。〔氣形60E〕

というように、標記語「青鳥」の語注記に用いられている一例を見るにすぎない。『庭訓徃來註』三月十二日状に、

梅桃 七月七日ニ西王母降ス帝宮ニ禺強得之以立ス北極ニ禺強ハ水神ノ名也。亦曰、禺強ハ人面鳥身ニシテ乗竜行与〓〔?+頁〕〓〔王+頁〕並軒轅ノ胤也。雖亦得ト|∨道不居帝位ニ而為水神。水ハ位ス北方。故号北極。命侍女ニ索ム桃須臾ニシテ盤ニ乗七枝ヲ母喫其ヲ以五与帝ニ今留検ヲ欲種。母云用此ヲ何カ為ン。此桃ハ三千年ニ一タヒ花三千年ニ結子ヲ。非下土宜キニ殖云々。西王母ハ女子也。身ハ如シテ豹ノ有尾。歯ハ如虎ノ齒。能々笑者也。〔謙堂文庫藏19右F〕

とあって、注記内容を異にしている。広本節用集』は、「西王母」を立項していない。弘治二年本節用集』や易林本節用集』は、「西王母(セイワウボ)」〔人倫233D〕と標記語のみを収録する。江戸時代の『書字考節用集』には、

西王母(セイワウボ) 仙女之長。諱ハ囘。字ハ婉?状如ク∨人ノ。豹ノ尾。虎ノ齒。見[山海經][太平廣記]。〔人倫四90A〕

とあって、上記『庭訓徃來註』の「西王母」における注記内容と等しい。

[ことばの実際]

武帝故事云ク、西王母指(サシ)テ東方朔ク、仙桃三タヒ(シキ)、小兒三度偸。又云、王母?(せイ)(モテ)(モヽ)五枚以獻帝々以(サネ)ヲ(ウヘ)ムヤヲ。王母笑(ワラフ)テ(キ)一千年(オ)ヒ一千年(ハナサク)一千年(ミナル)。人壽幾(イクハク)カ何能ハム之乎。〔観智院本『世俗諺文』178「東方朔三偸西王母桃」〕《コメント》『庭訓徃來註』の「三千年」は、本来この「生・華・実」を足した数の表現であろう。また、「西王母」の故事として「青鳥使」が知られる。

2000年8月21日(月)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(東京)

暑き夏 汗は程ほど やる氣のみ

菅丞相(カンセウジヤウ)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀部」に、

菅丞相(カンセウシヤウ) 延喜元辛酉正月廿九日左遷。同三年癸亥二月廿五日於テ筑紫太宰(サイ)府ニ薨ス。五十八歳也。后經テ四十年ヲ。天暦元丁未六月九日影向北野ニ。村上天皇代也。自天暦元年。至天文十六年丁未六百三年也。〔元亀本101C〕

菅丞相(カンセウシヤウ) 延喜元辛酉正月廿日左遷。同三季癸亥二月廿五日於筑紫太宰府ニ薨ス。五十八歳也。經テ后四十季ヲ。天暦元丁未六月九日影野ニ。村上天皇代也。自天暦元。至天文十六丁未六百三季也。〔静嘉堂本127D〕

菅丞相(カンセウシヤウ)延喜元辛酉正月廿九日ニ左遷。同三年癸亥二月廿五日於筑紫太宰府ニ薨。五十八歳也。經后四十季。天暦元丁未六月九日影向北野ニ。村上天皇代也。自天暦元。至天文十六丁未六百三季也。〔天正十七年本上62ウC〕

菅丞相(カン――) 延喜元辛酉正月廿九日ニ左遷(サセン)。同三季癸亥二月廿五日於筑紫太宰府薨五十八季也。経后四十季ヲ。天暦元丁未六月九日影向北野。村上天皇代也。自天暦元。至天文十六丁未六百三季也。〔西來寺本180D〕

とある。標記語「菅丞相」の語注記は、「延喜元年辛酉、正月廿九日に左遷さる。同じく三年癸亥、二月廿五日、筑紫太宰(サイ)府に於て薨ず。五十八歳なり。のち四十年を経て。天暦元年丁未、六月九日、北野に影向す。村上天皇の代なり。天暦元年自り、至ること天文十六年丁未、六百三年なり」という。『下學集』には、人名門の標記語として「菅丞相」は未記載にある。標記語としては、草木門の最終部分に、

一夜松(イチヤノマツ) 天暦([テン]リヤク)九年三月十二日ニ菅丞相(カンシヨウジヤウ)神託ニテ而北野右近(ウコン)ノ馬場(ババ)ニ一夜ニ松千本生スル也。〔草木門136A〕

とあって、この語注記「天暦九年三月十二日に菅丞相、神託にて北野右近の馬場に一夜に松千本生ずるなり」として、「菅丞相(カンシヨウジヤウ)」の名が収載されている。『庭訓徃來註』には、

詩聯句者乍菅家江家之旧流ハ弘仁天王御宇也。先祖不分明。但古老傳ニ云、文章博士是兄ハ菅原ノ院ト申也。黄昏程見ニ前栽五六歳ノ有小童。容顔美麗ニシテ非只人ニ。是ヲ呼白問曰、君ハ誰人ノ子ソ。自何処來ト問給ヘハ、児答曰、我ハ是无親无位処、願ハ奉菅相。則為子詣天皇ヘ。軈テ賜姓ヲ。然ニ才智日ニ新ニシテ生年七歳ト申ニ始テ作詩給。菅丞相ハ上野高田庄白雲山下菅原ト云処ニ八月四日化生ス。故ニ今マ足跡在彼ノ所也。江家祖、吉備大臣也。大江ノ千里是也。故日本儒道ハ菅丞相吉備大臣也。〔謙堂文庫藏十一右E〕

とあって、日本の儒道者として、「菅丞相」と「吉備大臣」を示す。前半部は、「菅丞相」の縁起譚となっている。この注記内容と『運歩色葉集』は接触を示していない。かつまた、『下學集』も『庭訓徃來』の「菅家・江家」の語との接触を見せないでいる。ただ、注記にあって、「菅丞相」の名を取り上げているに過ぎない。次に、『節用集』類は、印度本系統の弘治二年本節用集』に、

菅丞相(カンシヨウジヤウ) 延喜元正月廿九日ニ左遷。〔人名D〕

とあって、『運歩色葉集』の注記の前半分部と一致する。「同三年」以下の注記内容をもたないが、そこには連関性を見出せるようだ。逆に、広本節用集』には、「一夜松」も「菅丞相」の語も未收載にある。易林本節用集』も未收載。江戸時代の『書字考節用集』に、

菅丞相(カンシヨウジヤウ) 参議是善ノ男。−原ノ姓。字ハ三.名ハ道眞。文才博識。以故ヲ登庸任シ右大臣ニ奉ル政事ヲ。贈ラル正一位太政大臣。天滿大自在威徳天神ト。〔人倫四25E〕

と注記する。

2000年8月20日(日)晴れ。東京(八王子)

静かにも 人気より上 蝉の声

「八幡(ハチマン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「波部」に、

八幡)乃チ應神天皇也。其母神功皇后蒙古(モウー)十万八千艘(ソウ)ニ而襲来ル。退治之後仲天皇九年十二月十四日於テ筑前宇佐宮ニ誕ス。皇后合戦之時御腕ニ、懸テ鞆(ユカイ)ヲ、彎(ヒク)弓ヲ。此故ニ皇子ノ御腕ニモ、鞆ノ形在之。似リ腫物(ハレー)ニ。名テ鞆ヲ曰誉田(ヨー)ト|。依之ニ曰誉田ノ天皇愚童記仲哀天皇第四子也。四歳ニ而東宮立七十二歳而即位。治世四十一年也。百十歳ニ而崩御大和国高市郡召島之豊明之宮而崩ス。誉田山陵ニ薨也。清和天皇貞観元年巳卯遷(ウツ)ス男山。至天文十六丁未六百八十九年也。孝謙女帝天平勝宝五年癸巳自宇佐入洛。至天文十六丁未七百五十五年也。〔元亀本32E〕

八幡)乃應神天皇也。其母神功皇后于時蒙古十万八千艘而襲来。退治後、仲哀天皇九年十二月十四日於筑前宇佐宮ニ誕生ス。皇后合戦之時、御腕懸鞆彎弓。此故皇子ノ御腕鞆形在之。似腫物。名鞆曰誉田依之曰誉田天皇ト愚童記仲哀天皇第四子也。四歳而立東宮ヲ七十二歳而即位。治世四十一季也。百歳而崩御。大和国高市郡召島之豊明之宮而崩。誉田山陵薨。清和天皇貞観元季巳卯遷男山。至天文十六丁未六百八十九季也。孝謙女帝天平勝宝五季癸巳自宇佐入洛。至天文十六。〔静嘉堂本34@〕

八幡)乃應神天皇也。其母神功皇后于時蒙古十万八千艘而襲来(ヲソイー)テ。退治之後チ仲哀天皇九季十二月十四日於筑前宇佐宮誕生ス。皇后合戦之時御腕懸鞆彎弓。此故皇子之御腕ニ鞆形在之。似腫物ニ。名鞆曰誉田依之曰誉(ヨ)田天皇也。愚童記。仲哀天皇第四子也。四歳而立東宮。七十二歳而即位。治世四十一年也。百十一歳而崩御。大和国高市郡召嶋之豊明之宮而崩。誉田山陵薨也。清和天皇。貞観元季巳夘遷男山。至天文十六丁未六百八十九季也。孝謙女帝。天平勝宝五季癸巳自宇佐入洛。至天文十六丁未七百五十五季也。〔天正十七年本上17ウF〕

八幡(ハタ) 乃應神天皇也。其母神功皇后蒙古十万八千艘襲イ来。退治ノ後仲哀天皇九季十二月十四日於筑前宇佐宮一誕生ス。皇后合戦之時御腕ニ懸鞆(ウツホ)彎(ロク)弓ヲ。此ノ故ニ皇子ノ御腕ニ鞆ノ形在之。似腫物ニ。名テ曰フ鞆ト。誉由依之曰誉由天皇ト愚童記ニ仲哀天皇第四子也。四歳ニシテ立東宮ヲ。七十二歳ニシテ即位。治世四十一季也。百十歳ニシテ崩御。大和国高市(タカシ)ノ郡リ召(メシ)嶋(シマ)之豊明(トヨアキ)ノ之宮ニ而シテ崩(ホウ)ス。誉田(ホメタ)山ノ陵薨之。清和天皇。貞観元年巳卯遷男山ニ。至天文十六丁未六百八十九季也。孝謙女帝。天平勝宝五季亥巳自宇佐入洛。至天文十六丁未七百五十五也。〔西來寺本57C〕

とある。標記語「八幡」は、西來寺本のみが立項する。そして読みを「ハタ」とする。その語注記は、「すなはち應神天皇なり。その母神功皇后の時、蒙古(モウコ)十万八千艘(ソウ)にて襲い来たる。退治の後、仲天皇九年、十二月十四日、筑前宇佐宮において誕生す。皇后、合戦の時、御腕に、鞆(ユカイ)を懸けて、弓を彎(ヒ)く。これ故に皇子の御腕にも、鞆の形これ在り。腫物(ハレー)に似たり。鞆を名づけて誉田(ヨー)と曰ふ。これに依りて誉田の天皇と曰ふ。愚童記、仲哀天皇第四子也。四歳にして東宮立ち、七十二歳にして即位す。世を治ること四十一年なり。百十歳にして崩御す。大和の国、高市郡召島の豊明の宮にて崩ず。誉田山陵に薨るなり。清和天皇貞観元年巳卯、男山に遷(ウツ)す。至ること天文十六丁未六百八十九年なり。孝謙女帝天平勝宝五年癸巳、宇佐入洛自り至ること天文十六丁未七百五十五年なり」という。

 この記載内容の前半部の始まりに、「蒙古十万八千艘而襲来」の記事は、鎌倉時代の「蒙古襲来」と同一視化している。誰もが周知の事象ではなかろうか?これをあえて虚飾して構成する。この手法は、今でいえば近い過去の出来事を喩えて想起させ、話して聞かすが如くである。すなわち、「その母神功皇后の時、あの蒙古(モウコ)十万八千艘(ソウ)にて九州に襲い来たときのように、退治した後、……」といった説き聞かせの技法内容であろうと私は考える。本来であれば、『下學集』の「神馬草」の記述のように、「神宮皇后異國ヲ時」であり、『運歩色葉集』も「獅子狛犬」の語注記の記述に従えば、「神功皇后異国退治之時」とすべき内容なのである。これを後半部に引用が見られる『八幡愚童記』上に基づいてみれば、

倩(ツラツラ)異国襲来ヲ算(カゾウ)レバ、人王第九開化天皇四十八年ニ二十万三千人、仲哀天皇ノ御宇ニ二十万三千人、神功皇后ノ御代ニ三万八千五百人應神天皇ノ御宇ニ二十五万人、欽明天皇ノ御宇ニ卅四万余人、敏達天皇ノ御宇ニハ播磨ノ国明石浦マデ着ニケリ。其子孫ハ今世ノ屠(ト)児也。推古天皇八年ニ四十三万人、天智天皇元年ニ二万三千人、桓武天皇六年ニ四十万人、文永・弘安ノ御宇ニ至マデ、已上十一箇度競(キソイ)來ト云ヘドモ、皆被(サレ)∨追歸|、多ハ滅亡セリ。〔『八幡愚童記』甲、日本思想大系170下B〕

とあって、「異国襲来」として、より細かい記述内容である。次に後半部の「應神天皇」についての注記内容を『八幡愚童記』からの引用箇所についてみれば、

抑(ソモソモ)八幡大菩薩、仲哀天皇第四、御母儀ハ神功皇后ニ御座(オワシマ)ス。先皇ハ異国ノ流矢ニ当テ崩御アリ。母后ハ手自(テズカラ)挑戦シ遂ニ討勝給キ。去バ父母ノ御敵ナルガ故ニ、異国降伏ノ御志深シテ、末代儘(マデ)モ防ガント神明ニ顕レ給フ。神功皇后三年ニ四歳ニテ東宮ニ立チ、七十ノ御歳、第十六代ノ帝位ニ備テ、應神天皇ト仰ガレ、天ガ下ヲ治給フ事四十一年。此御宇ニ、始テ文字ヲ書テ縄ヲ結シ政ニ替ヘ、衣裳ヲ縫事始リキ。百済国ヨリ衣縫工并五経ノ博士ヲ奉ル故也。其徳被シム四方厚恩覆ヘリ一天御年百十ト申(モウシシ)二月十五日、大和国高市郡軽嶋豊明ノ宮ニテ崩御アリ。天下啼泣スル事、如父母ニ喪ルガ。烏瑟(ウシツ)ノ月隠レニシ双樹泥〓〔水+亘〕(ナイオン)ノ烟ニハ五十二類ノ恋慕アリ。竜顔雲ヲ下シ一人晏駕ノ天ニハ百千万人ノ悲哀アリ。雖誉田山陵ニ、後ニハ人聞(ニンモン)菩薩ト顕レ、六郷山(ロクゴウサン)ニテ修行シ給フ事八十余年、次ニハ種々ノ御形様々ニ示現シ給フ。雖∨然時ヲ量リ人ヲ待テ、隠シ明徳ヲ威力ヲ顕給。〔同上178下L〕

とあって、大筋ではこの記録に忠実である。が、年齢数値などに異なりが見えている。また、地名「大和国高市郡軽嶋」とあって、『運歩色葉集』の示す「大和国高市郡召嶋」と異なっている。『古事記』應神天皇条「品陀和気命、坐軽島之明宮、治天下也」や、現在の地名「奈良県橿原市大町」に見れば、『八幡愚童記』の表記が正しい。

 『下學集』には、この語は未收載にある。『庭訓徃來』八月十三日の状に、「其体殆令関東岳八幡宮ノ参詣ニ候畢」が見えているが、『下學集』の編者はこれにも目を向けない。そして、『庭訓徃來註』に、

其体殆令関東岳八幡参詣候畢 八幡ハ善記二年癸丑日本ニ始渡給也。仁王三十代欽明天王御宇九州豊前国宇佐郡蓮臺寺ノ麓菱形ノ池ニ八幡雲立也。然而六七歳童子ニ託宣アリ。我ハ人王十六代應神天王也。自天帝尺弓矢ノ司給也。我ヲ敬可守不信當罰云也。是ヲ内裡ヘ奏ス。勅使ニテ宇佐八幡ト祝也。京八幡行教和尚其後勧請スル也。鎌倉ヘハ其後也。又云、弓矢八幡ハ本地阿弥陀。正八幡ハ正観音。若宮八幡ハ十一面也。又云、大神宮ハ昔、自‖高間原|天降セ給ヲ垂仁(スイー)天王御宇廿五年三月上旬ニ大和国笠縫里ヨリ伊勢国渡會ノ郡五十鈴川上下津岩根ニ大宮柱太キ立祝初奉シ自以降、日本六十余州ニ三千七百五十餘社ノ神祇冥道ノ中ニハ八幡ハ猶勝給也。ノ八幡供膳六膳也。一膳ハ行教和尚ノ膳也。〔謙堂文庫藏47右F〕

とあって、全く別の資料から引用している。「宇佐八幡」に付随して「京八幡」を中心として「弓矢八幡」「正八幡」「若宮八幡」と及ぶ。そして、『運歩色葉集』の編者もこの記事を採録しようとしない立場にある。次に、『節用集』類を見るに、『下學集』同様、この種の内容は一切採録を見ない。このあたりに、それぞれの編者の編纂姿勢が見え隠れしていよう。

また、行誉編『嚢鈔』巻七21「同キ躰ヲ尾籠(ビロウ)ト云ハ。難心得詞也。何ナル謂ソ」には、

是ハ本朝ニ云始ル詞ト申セリ慥ナル記録ヲ見侍ネ共。或説ニ應神天皇。海神ノ御末(スヘ)ナル故ニ。龍(レウ)尾御座シテ。是ヲ隠サン爲ニ装束(シヤウソク)ニ裾(キヨ)ト云者ヲ作リ始テ。是ヲ引キ彼ノ尾ヲ令隠サ給ケル也。以下略。〔日本古典全集259頁〕

とあり、「或説に」として、これまた別の話を記載する。

2000年8月19日(土)曇り。東京(八王子)

蟻の巣に 皮を運ぶや 二三匹

「神馬藻(ジンバサウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」に、

神馬藻(−バサウ) 。〔元亀本321I〕

神馬藻(ジンハサウ) 。〔静嘉堂本379E〕

とある。標記語「神馬藻」のみで、語注記は未收載にある。これは『庭訓徃來』十月日の状に「神馬藻」とあって等しい。『下學集』には、

神馬草(ジンバサウ) 神宮皇后([ジン]グウクワウグウ)攻(セメ)玉フ異國(イ[コク])ヲ。時(トキ)ニ船中ニ無シ馬ノ秣(マクサ)。取テ海中ノ之藻(モ)ヲ飼(カウ)馬ニ。故ニ云フ神馬草也。〔草木130A〕

とあって、注記内容は「神宮皇后、異國を攻めたまふ。時ニ船中に馬の秣無し。海中の藻を取りて馬に飼ふ。故に神馬草と云ふなり」という。『下學集』が「ジンバサウ」の「サウ」の字を「」から「」へ置換して編纂することは、如何なる要因に基づくものであろうか。先出資料として、鎌倉時代成立の『塵袋』(文永元年1264)に、

神馬草ト云フモノヲナノリソト云フ心如何。万葉集等ニハ名ノリスルニヨソヘテ哥ニモヨメリ。但本朝式ニハ莫鳴菜ト書テナヽリトヨメリ。食スル時ハラ/\トナルカ、六借ケレハナヽリソト制スル心也。ナトノトハ通音ナレハ、ナヽリソヲ今ハナノリソト云ヒナシタル也。和名ニハ神馬(シンメ)ハ莫騎之義也ト云ヘリ。恐アレハ神馬ヲハ人用ニアツルコトナケレハナノリソト云フ心ニテ神馬草トハカキナせリ。〔巻三・草鳥203頁〕

本朝式莫鳴菜[割注:奈々里會漢語抄神馬藻三字云奈之里會今案本文未詳但神馬莫騎之義也](元和本『和名類聚抄』) 楊氏漢語抄云、神馬藻、[割注:奈能利會、今案本文未詳、但神馬莫騎之義也。○](箋注本巻9・31)

というように、「」の字で記されている。これも、引用する『和名類聚抄』には、『楊氏漢語抄』を引いて「神馬藻」と表記される。これを受けて行誉の『嚢鈔』(文安二年1445〜三年1446)には、この記載はなく、後の『塵添嚢鈔』巻九の卅九「神馬草ノ事」〔37E〕に引き継がれていく。ここでも、洛東観勝寺行誉が編『嚢鈔』には、先行する同じ真言宗僧侶が手に成る『塵袋』をふんだんに引用し、これに東麓破衲編の『下學集』(文安元年1444)の注記を織り交ぜるといった積極的な編纂姿勢を他の語では示しているのにも関わらず、この両書に別々の注記内容の記載がみえるこの「神馬草」の語を収載から除外した意図的観点がここで問われてくる。

 そして、語注記についてだが、『庭訓徃來註』に、

神馬藻神宮皇后異国退治始也。舩中馬ノ。取海中藻馬。故云。〔謙堂文庫藏59右B〕

神馬藻神宮皇后異国退治時。舩中ニ。取海中馬。故云尓。〔左貫本〕

とあって、『下學集』の注記内容を「始也」を追加したり、「馬の」を「馬の」にしたりとやや替えてはいるが、やはり『下學集』そのものからの引用である。これを広本節用集』は、

神馬屮(ジンバサウ) 神宮皇后異国時。無馬秣。取海中之藻。故名―――。〔草木237B〕

とあって、標記語も注記語も『下學集』をそのまま継承している。印度本系統の弘治二年本節用集』は、

神馬草(ジンバサウ/タマシイ・カミ.ムマ.クサ) 神宮皇后異國時。(ヨツ)舩中秣(マクサ)。取海中之藻(モ)飼(カウ)。故曰―――也。〔草木門914A〕永禄二年本〔197F〕・尭空本〔187F〕も略同じ。

とあって、「舩中ニ」の部分を脱する。易林本節用集』は標記語のみの収載にある。こうした『下學集』からの引用状況は、『節用集』類と『庭訓徃來註』とはそれぞれ別に進められていたともいえよう。そして、『運歩色葉集』は、標記語を『庭訓徃來』と同じ「神馬藻」としていることからも、この語についてだけは印度本系の『節用集』類というよりも、『庭訓徃來註』に依拠しているものと見たい。ただ、語注記を未記載とした点についていかなる編纂意図がはたらいたかについては、『運歩色葉集』が収載する「神宮皇后異国攻めの譚」を総括して、その編纂姿勢を検討する余地があろう。

ことばの実際

文藻とは、文章の事なり。藻は海のくさの名なり。日本の人正月にほだはらと云ものにつくる草なり。神宮皇宮の馬のまぐさにし給ひしゆへに、このくさを神馬草ともいふ也。そのくさ見事なる紋ありて、文章のかきつらねたるによく似たるゆへに文藻といふと、洪武正韻、あるひは顔師古漢書にかけり。《『實語教童子教諺解』新日本大系三四八上》 

[「ことばの溜池」の参照箇所] 1999.11.04「獅子高麗戌(シヽコマイヌ)」

2000年8月18日(金)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

声続く アブラの強気 我も欲し

「庖丁(ハウチヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「波部」に、

(ハウチヤウ) 。〔元亀本28@〕

庖丁(ハウチヤウ) 。〔静嘉堂本27@〕

庖丁(ハウチヤウ) 。〔天正十七年本上14ウB〕

庖丁(ハウチヤウ) 。〔西來寺本48C〕

とある。標記語「庖丁(ハウチヤウ)」のみで、語注記は未收載にある。『下學集』には、

包丁(ハウチヤウ)。〔態藝門85C〕

とあって、標記語「庖丁」の「」の字を「」に作り、これは『庭訓徃來』五月状に「包丁」とあって等しい。やはり語注記は未收載となっている。語注記についてだが、『庭訓徃來註』に、

料理包丁 莊子ニ曰、包丁能解牛。又包丁文惠君牛。手ノ所觸。肩ノ所倚。足ノ所履。膝ノ所(サス)。生石(ケキ)然トシテ嚮然タリ。奏刀ヲ(クワク)然タリ。ニ云包丁トハ謂掌テ厨ヲ丁(アテラル)役人ヲ。今ノ供膳也。言ハ丁ハ名也。文君ハ梁惠王也。此時用鑾刀ヲ。鑾ハ鈴也。鈴ヲ付タル刀也。拍子ニ會テ好也。包丁ハ解牛三年ニシテ其数々千疋。是ハ日ニ一疋當歟。良包ハ歳コトニ更刀ヲ割(サケ) ハナリ。ニ曰良ハ善也。包ハ猶未中(ア−)理ニ。經一歳。更-易其刀ヲ。小学人也。包丁ハ大草入唐シテ傳也。莊子ニ曰、包丁ト云字ハ解ノ字ヲ用也。言ハ包丁牛以也。解ノ字ヲ能ク見ニ角刀牛ノ心也。又易四季也。包丁ヲ九寸五分ニ作ル亊ハ九重ノ煩悩為切也。箸ヲ一尺二寸ニスル亊ハ十二因縁也。箸ト刀ハ金壱兩部是也。〔謙堂文庫藏31左F〕

とあって、冠頭に『莊子』養生主篇を引用した「包丁」なる人物とその因縁譚を記述する。次に「包丁」のサイズを九寸五部に作ることと「箸」のサイズを一尺二寸に作ることの由縁についてで記述を結んでいる。このようにとりわけ長い注記を有するのだが、当代の古辞書は、実にあっさりしている。ただ、『節用集』類である広本節用集』に、

庖丁(ハウチヤウ/クリヤ.ヒノト・ウツ) 魚ノ刀也。本ノ名ハ屠児。名見莊子。〔器財門60B〕

とあって、本邦における「庖丁」は、牛をさばくより、魚肉をさばくのに用いることからして、冠頭に「魚の刀なり」とし、本統の名前を「屠児」といい、その典拠を同じく『莊子』に見ゆとしている。これを少し簡略化記載しているのが、印度本系統の『節用集』類で、弘治二年本節用集』には、

庖丁(ハウチヤウ) 刀也。本名屠刀。〔財宝20G〕

とし、永祿二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本節用集』は、

庖丁(ハウチヤウ) 屠児名也。見于莊子。〔永、財宝19A〕〔尭、財宝17D〕表記「ハウチウ」〔両、財宝21E〕

とある。古辞書では、古くは源順和名類聚抄』十にこの語の注記をする。

[ことばの実際]

庖丁文惠君牛。〔『莊子』養生主篇〕

家成卿、右兵衛督にて侍りけるに、庖丁すべきよし沙汰ありけれども、辞申けるを、ある殿上人、鯉を彼卿のまへにをきてけり。〔『古今著聞集』巻第十八・飲食二八「保延六年十月白河仙洞に行幸の時右兵衛督家成鯉を調理の事」〕《解釈》料理。

庖丁(テイ)ト云者カ牛ヲトイテハウチヤウシタソ。此ニヨツテ魚鳥ヲレウリスル者ヲ庖丁人(ハウチヤウニン)ト云ソ。ハダイ所ソ。クイモノシタツル所ソ。食ヲヲク所ヲ云ソ。ハヲトコソ。ソコニイテキツヽタヽイツスル者ナリ。投トル刃ヲ皆虚ハ牛ヲトク時ニハウチヤウノ刀ヲ骨ト肉トノアイタノスキマエヤツテトクソ。臣解―牛トイテハウチヤウスルコトハヤ三年ナリ。ソレヨリ後、牛ヲ目ニミルニ目ノ中ニ金牛ヲミヌソ。スク十五体ノソロウタ牛ハナイソ。ドツコモカシラカ尾マテキリハナシヲロイタホトニ、スクナ牛ヲミヌソ。十九年ノアイタハウチヤウシタソ。《『玉塵抄』16第39四二〇E》

[今日、氣づいたことばの表現]

 新「出羽守」〔毎日新聞夕刊「憂楽帖」玉木研二、2000.08.18〕

2000年8月17日(木)晴れ。東京(八王子)⇒

扇風機 そよに送るや 日がな声

「扇(あふぎ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「阿部」に、

(アウギ) 。〔元亀本264B〕

(アヲギ) 。〔静嘉堂本299G〕

とあって、標記語「(アウギ)」のみで、語注記は未收載にある。『下學集』には、

(アフギ) 本朝ノ之初メ無シ扇キ。見テ蝙蝠(コウムリ)ノ之羽ヲ学フ之ニ。故ニ扇ノ形チ相似タリ蝙蝠ノ羽ニ又タ商ノ代ニハ雉尾扇(チビセン)。周ノ代ニハ鵲翅(シヤクシ)扇也。〔器財門109F〕

とあって、読みも『運歩色葉集』が元亀本は「あうぎ」とウ音便化表記、静嘉堂本は「あをぎ」の表記に対し、「あふぎ」とし、語注記は、「本朝の初め扇ぎなし。蝙蝠(コウムリ)の羽を見て、これに学ぶ。故に扇の形ち、蝙蝠の羽に相似たり。また商の代には雉尾扇(チビセン)。周の代には鵲翅(シヤクシ)扇なり」という。最後の「また、商の代には雉尾扇(チビセン)。周の代には鵲翅(シヤクシ)扇なり」の箇所は、『下學集』編者による『韻府群玉』からの引用と見る。この語注記も『庭訓徃來註』卯月十一日の状に、

小柴黛城(キ)殿扇ハ日本巧也。唐ノ扇圓也。骨ヲ為十二表十二月。自日本始渡唐ヘ。其ノ返ニ差笠渡也。文選ニ曰、班、カ詩ニ曰、新ニ裂齊ノ皎潔トシテ如霜雪ノ。栽シテ為合歓扇團々トシテ似明月ノ扇ハ日本ニハ蝙蝠ノ羽ヲ之。故ニ形相似蝙蝠。又五明ハ舜之作也云々。〔謙堂文庫藏28左G〕

とあって、『下學集』の冠頭注記にいう「本朝の初め扇ぎなし」説を疑い、これを削除し、前半部の「扇ハ」ではじまる注記内容「日本は巧みなり。唐の扇は圓なり。骨を十二に為す。十二月を表す。日本より始め唐へ渡る。其の返しに“差し笠”を渡すなり。文選に曰く、班、が詩に曰く、新に齊の素を裂いて、皎潔として霜雪の如し。栽して合歓扇と為す。團々として明月に似たり」は、別文献資料からの採録によるものであり、今は未審とする。ただし、『文選』を引用する注記箇所については、『韻府群玉』の「扇」に「(吟詠)新裂齊ー團圓似明月云云」とあって共通する。後半部の同じく「扇ハ」ではじまる注記内容「日本には、蝙蝠の羽を見てこれを学ぶ。故に形ち蝙蝠に相似たり」の箇所が『下學集』からの引用となっている。最後の「又五明は舜の作なり云々」は別文献資料(『韻府群玉』)からの引用となっている。次に、広本節用集』には、

(アホギ/セン・アホグ) 楊雄法言ニ扇自開而東ニシ謂之称(セフ)ト。自開南西ニハ謂之扇ト四聲字苑ニ所-以取|∨風也。又作。一名音ハ接。作ル〓〔竹+姜〕。異名。輕(セフ) 。白羽。蒲葵。仁風。團雪。團霜。雪蕉。九花。合歓扇。桃花扇。鳳尾扇。同心扇。白團。蝉扇。。輕羅。京霜。五明。雪懐。風裁。?尾児。羽。班詩。犀牛。雉尾。條融。仄影。龍枝。青羅扇。鵲翅。懐風。裁雪。五薄。白綺。蜂翼。比翼。招凉。同舎。〔器財門749D〕

とあって、注記内容を『楊雄法言』や『四聲字苑』といった全く別の資料から引用して編集している。最後に「異名」語群を配置する。印度本系統の弘治二年本節用集』は、「扇子(アフギ)」〔財宝A〕として、語注記は未記載にする。ただし、弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』には、本部の後補遺部「器財并食物異名」に、

 五明。九花。團雪。同心。合歓。〔弘二・279D〕

 五明。九花(キウクワ)。團雪。〔永二・267D〕

と記載が見られ、「異名語」としての関心が他の器財・飲食である「硯・筆・墨・茶・酒・笋・瓜・茄子」とともに収載されている。また、より簡略化をめざすところの易林本節用集』であっても、

(アフギ) 五明(メイ)。雉尾(チビ)。以上異名。〔器財171F〕

とあって、「五明」と「雉尾」といった二種類の異名語を記載する。『嚢鈔』巻五39「扇ヲ。五明ト云ハ。何事ソ」には、

○五明ハ。只是扇ノ異名也。加之ス。名多ク侍リ。明月。團扇雪。九花。樹膚。合歡。同心。鵲翅(シヤクシ)。雉尾(チヒ)ナント云也。但扇ニ。アマタノ作リアルト曰。舜ノ御門ノ造給ヘルヲ。五明扇ト云。其形。日本ノ扇ニ似タリト。後ノ人呼テ之レヲ曰旋風扇ト云云。商ノ代ニハ雉尾扇。周ノ代ニハ。鵲翅扇アル也。是等皆其形ノハ。團扇ナル歟。當時ノ扇ハ。日本ニテ。造始ル也。見テ蝙蝠(ヘンフク)ノ羽ヲ之ヲト云(イヘ)リ。故ニ其形。蝙蝠ノ羽ニ似タル也。爰ヲ以テ。源氏ニハ。扇ヲ。カハモリト云也。其比ハ。ヲシナメテ皆角云ケルニヤ。  此蝙蝠百年ノ後ニ成テ白蝙蝠ト倒ニニ懸テ枝タ或ハ岩崖見テ人ノ正ク往ヲ。却テ以テ。爲倒行ト云リ。サレハ文集ニ。寺ノ古キ事ヲ云侍ル詩ニ。  驚出白蝙蝠。双飛如雪飜。廻首見寺門。青崖夾朱軒ト。曰ク。是白蝙蝠ト云ヲ以テ。寺ノ舊タル事ヲ顯シ侍リ。〔日本古典全集183頁〕

とあって、ここでも『下學集』の注記内容を引用するが、冠頭注記にいう「本朝の初め扇ぎなし」説を「當時ノ扇ハ。日本ニテ。造始ル也」と改め、「見テ蝙蝠(ヘンフク)ノ羽ヲ之ヲト云(イヘ)リ。故ニ其形。蝙蝠ノ羽ニ似タル也」の箇所を引用する。さらに、最後の「また、商の代には雉尾扇(チビセン)。周の代には鵲翅(シヤクシ)扇なり」の箇所については、前に「商ノ代ニハ雉尾扇。周ノ代ニハ。鵲翅扇アル也」と配置変更して記載する。次に広本節用集』が最も多く掲載するところの異名語群を見るに、「明月」「」「樹膚」が『嚢鈔』特立の語となる。『嚢鈔』末尾の「蝙蝠」の話も、『下學集』〔氣形門65E〕による引用であることは言うまでもない。当代の『日葡辞書』には、

Vo<gui. ワゥギ(扇) 扇子。〔704l〕

とあるにすぎない。この辞書を見る限りでは、西欧の異邦人にとって、日本の「扇」という携帯具に対しての関心は実に薄い。「扇」は本来、機能的に煽ぐことで涼風を求める具であるが、邦人にとっては、顔の口元あたりを隠す遮蔽具でもあり、絵や文字をあしらうことで美的鑑賞具でもあり、紋所を描くことで身分や権威の象徴具ともなる。舞の具でもある。その使用範囲は実に広く奥が深い。

[ことばの実際]

 式戦切扉也(記月令)乃修闔−。又?〓〔竹+?〕也。舜作五明ー商雉尾扇(並古今注)周鵲翅ー(拾遺記)漢九華ー(桓帝)(吟詠)新裂齊?ー團圓似明月云云。棄將熱時用秋來掛壁上却被風吹動(張芸叟)松着織ー清相似(黄)〔『韻府群玉』霰韻四272左H〕

中心ぼそくおぼしみだれたりける比、粟田関白、いまだ殿上人にて蔵人弁と申けるが、に、 妻子珍寳ヨリブマデ‖王位ニ| 臨ミ‖ニ|ルナリ∨ といふ文(もん)をかきてもたれたりけるを、御覧ぜられけるよりこそ、いとど御心おこりにけれ。〔『古今著聞集』巻第十三・哀傷二十一「花山院出家事」角川文庫107B〕《典拠》大集經の偈。

2000年8月16日(水)晴れ。東京(八王子)⇒(聖蹟桜ヶ丘)

茄子の実に 蓮の咲くや えもなきに

「茄子(なすび)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の補遺「草花部」に、

(ナスビ) 。〔元亀本381C〕

(ナスヒ) 。〔静嘉堂本459G〕

とある。標記語「」のみで、語注記は未收載にある。『下學集』には、

茄子(ナスビ) 又名ク落蘇(ラクソ)ト。又名ク崑崙瓜(コンリン[クワ])ト。花ノ時ニ取テ葉(ハ)ヲ布(シキ)路(ミチ)ニ人踐(フム)トキハ之ヲ則其ノ實(ミ)多ク生スル也。〔草木129B〕

とあって、「また落蘇(ラクソ)と名づく。また崑崙瓜(コンリン[クワ])と名づく。花の時に葉(ハ)を取りて、路(ミチ)に布(シキ)、人これを踐(フム)ときは則はち其の實(ミ)多く生ずるなり」という。この注記内容の典拠は、下記『韻府群玉』の「」と「嫁茄」の注記に拠っている。ここで別名である「ラクソ」を「落酥」から「落蘇」、「コンリンシクワ」を「崑崙紫瓜」を「崑崙瓜」と文字表記を置換していることに気づく。この置換表記文字は、『下學集』編者自身の漢学素養に基づくものか?はたまた、これに順ずる副資料に基づくものかはここではまだ明らかにできない。この語注記も『庭訓徃來註』十月日の状に、

(ムシ)物茹(ユテ)茄子落蘇。又名ル崑崙瓜ト也。〔謙堂文庫藏59右A〕

とあって、語注記は、「落蘇と名づく。また崑崙瓜と名づくるなり」で『下學集』の注記内容の前半部分に一致する。後半部分「花の時に葉を取りて、路に布き、人これを踐むときは、則はち其の實多く生ずるなり」については、これを削除する。次に、広本節用集』には、

茄子(ナスビ/) 異名天蘇。銀瓜。落蘇。銀茄。崑崙瓜。寥百。紫膨亡斑。西窓。比蓼。四冊生。〔那部、草木門434G〕

とあって、『下學集』に見える「落蘇」「崑崙瓜」の語を同じく収載はするが、注記内容は全く異なる異名語群からなる。印度本系統の『節用集』類は、尭空本節用集』は、

茄子(ナスビ) 又名落蘇。又名崑崙瓜。花時取葉、布路人踐之、則其實多生ナリ。〔草木100F〕

とあって、『下學集』の語注記内容を継承するが、弘治二年本節用集』や易林本節用集』では、標記語「茄子(ナスビ)」とあって語注記は未記載にある。この『運歩色葉集』の記載もこれらと同じ傾向にあって、この語の注記をもはや必要としない世俗をみつめた世相背景にあったものと思われる。すなわち、「茄子」の異名「落蘇」や「崑崙瓜」で呼称する高尚なことば文化よりも、現実味ある植栽として庶民から武士、そして公家・僧侶まで浸透していた季節の食材であったのではなかろうか。

[ことばの実際]

求迦切菜名又曰落酥随煬帝改爲崑崙紫瓜(芝田録)張浮休頌身累百贅頚附千疣(黄謝送銀瓜)蜀人生疎不下筋吾與北人但眼明。〔『韻府群玉』巻十二歌韻二136B〕

嫁茄 樹開花時取葉布於過路以灰圍之子多謂――(物類相感志)。〔『韻府群玉』巻十二歌韻二136D〕

草鼈甲 芝田録茄子方家治瘧謂之草鼈甲落蘇 崑崙紫瓜 崑味 清異録落蘇本名茄子、隋煬帝縁飾爲崑崙紫瓜人間但名崑味而已。〔『事物異名録』巻二三〕

惣別(ソウベツ)茄子(なすび)の枯るるをば、百姓みな、まふといふなり。和泉にての事なるに、道のほとりに茄子を植うる者あり。下手らしき舞々(まひまひ)の通りあはせ、見れば大いなる徳利(トクリ)に盃を添へてあり。ちとこれをなん望みにや思ひけん、畠へたちより、「さらば一ふしまはん」といふ。百姓、「門出あしし」と大いに腹立しけれど、とかく言ひ寄り、酒をのみ飲ませけるが、立ちて行きさまに、「さきの腹立は互ひに根も葉もおりない」と。はなぬりをした。〔安楽庵策傳『醒睡笑』巻七「いひ損ひはなほらぬ」岩波文庫下109頁〕

宗牧(ソウボク)へ、ある方より小角豆(ささげ)と茄子(なすび)とを送りたれば、 ささき殿(どの)なすび与一給はりてお使がらと賞翫(シヤウクワン)ぞする 〔安楽庵策傳『醒睡笑』巻八「秀句」十七、岩波文庫下248頁〕

 河豚汁に去年のなすびの香の物あな塩辛し人の心は。〔仮名草子『仁勢物語』下50、大系194B〕

[ことばの補遺編]

 ある草庵にいざなはれて  秋涼し手毎にむけや瓜茄子 〔芭蕉奥の細道』最終稿本(西村本)〕

 ある草庵にいざなはれて  秋すゞし手毎にむけや天茄 〔芭蕉奥の細道』自筆稿本(中尾本)〕

上記、「うりなすび」をめぐる表記について、赤羽 学さんが“「茄子」と「天茄」贅言”《雑誌「就実国文」1999年11月号105〜119頁》をもって、中尾本は貴重な資料だが、芭蕉自筆本説を否定している。

2000年8月15日(火)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

糸トンボ 川辺近きに 水遊び

「檜楚(ヒソ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「比部」に、

檜楚(ヒソ) 。〔元亀本340B〕

檜楚(ヒソ) 。〔静嘉堂本411F〕

とある。標記語「檜楚」のみで、語注記は未收載にある。『下學集』には、

檜楚(ヒソ)日本ノ俗呼テ細木ヲ曰フ檜楚(ヒソ)ト。楚ハ作ス曽ニ非ナリ也。〔草木134C〕

とあって、「日本の俗、細木を呼びて檜楚(ヒソ)と曰ふ。楚は曽に作すは非なり」という。この語注記も『庭訓徃來註』三月十二日の状に、

檜曽(――)俗呼細木。楚ヲ作ス曽ニ誤歟。竹ノ如ニ小木ヲ不削而垂木ニ懸也。〔謙堂文庫藏十八右E〕

とあって、標記語「檜楚」を「檜曽」に置換し、語注記の冠頭部分「日本ノ俗」の「日本ノ」を省き、続けて「俗呼細木檜曽ト。楚ヲ作ス曽ニ誤歟」と注記する。末尾の「非ナリ也」のところを「誤歟」とし若干変更が見られる。そして、「竹の如きに小木を削らずして垂木に懸るなり」の注記内容を増補する。次に、広本節用集』には、

檜楚(−ソ/−スワイ)日本ノ俗呼テ(ホソキ)ヲ檜楚ト。或楚ヲ作曽。〔草木門1031@〕

とあって、『下學集』を継承する注記だが、末尾の「或は、楚を曽に作す」の部分を「非也」と否定していない。また、『庭訓徃來註』のように、「誤歟」ともいわない。その表記状況を単に示す形態表現をとる。印度本系の弘治二年本節用集』も同様の末尾表現としている。ただし、注記の簡略化をめざす易林本節用集』は、

檜楚(ヒソ/ヒノキ−)日本ノ俗呼テ細木ヲ曰フ――ト。楚ヲ作ス曾ト非。〔草木223F〕

としていることから、この「楚」を「曽」と表記する是非の判別は重要であったと見たい。さて、『運歩色葉集』がこの「檜楚」の注記を全く削除した要因は何であったのだろうか?「草木門」を末尾に補遺尽しにして編集する姿勢であれば、本色葉部分には標記語のみの収載でもよかろう。しかし、補遺尽し「花木名」には、未收載にある。さらに、大きな要因があって、これを意図的に削除した注記内容なのかを収載語全体を見通して今後考えねばなるまい。

2000年8月14日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

何見ても 変る気配は 蝉の声

「鈴(レイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「利部」に、

(リン) 。〔元亀本74A〕     (スヽ) 。〔元亀本362B〕  (レイレキ) 。〔元亀本151H〕

(リンリウ) 。〔静嘉堂本89B〕 (スヾ) 。〔静嘉堂本441D〕 (レイ) 。〔静嘉堂本165C〕

とある。標記語「」の読みに応じて、「リン」「すず」「レイ」と三種に収載し、いずれも語注記は未收載にある。『下學集』に、

(レイ)以上眞言(シンゴン)ノ之具也。鈴(リン)ハ禪律(リツ)ノ具。鈴(スス)ハ御子(ミコ)ノ之具也。〔器財121C〕

とあって、「以上(漿粉・御衣木・獨鈷・三鈷・五鈷・火舎・杵・鈴)、真言の具なり。鈴(リン)は禪律の具。鈴(スヽ)は御子の具なり」という。この語注記も『庭訓徃來註』に、

()学佛ノ音ヲ宝鈴和鳴云々。鈴々真言道具也。禪律同。御子具ソ。〔謙堂文庫藏四十一右@〕

(スヽ、−イ)仏学音ヲ宝鈴和鳴ト云々。鈴真言道具也。禪律同。御子具←{不審也}。〔左貫本三十八右H〕

とあって、注記の冠頭部分「佛の音を学び、宝鈴和鳴云々」は増補され、「真言の道具なり。禪律も同じ。御子の具ぞ」は略一致を見るが、左貫本の再注記に「御子具」を不審なりというように、『下學集』をあまりにも簡略化しすぎて、却って意味理会ができなくなってしまったものと考えられよう。『下學集』の示した「以上真言の具なり」について『庭訓徃來註』は、次の

佛具如意 仏具獨鈷三鈷五鈷火舎ケツ。閼伽桶ケ・乳木。標。此ノ八ハ真言ノ道具也。<已下略>。〔国会図書館(故榊原芳埜納本)右A〕

次に、広本節用集』に、

(レイ/スヾ) 禪家(−ケ)ハ唐音(タウイン)。聖家(シヤウ−)ハ漢音(カンヲン)。〔器財門375G〕

(スヾ/レイ) 異名。丁當声。檐島全。風筝同。風鐘。〔器財門1125B〕

とあって、全く別の注記内容を示している。

《補遺2003.04.24》

 古写本『庭訓徃來』七月日の状に、

鐃鉢錫杖仏具如意香爐水精半装束念珠帽子直綴鼻高草鞋〔至徳三年本〕

鐃鉢錫杖仏具如意香爐水精半装束珠帽子直綴鼻高草鞋〔宝徳三年本〕

鐃鉢錫杖佛具如意香爐水精半装束帽子直綴鼻高草鞋〔建部傳内本〕

鐃鉢錫杖(シヤク―)佛具如意香爐水精(―シヤウ)半装束珠数帽子(モウス)直綴(―トツ)鼻高(ビ―)草鞋(―アイ)〔山田俊雄藏本〕

鐃鉢(ニユウハチ)錫杖佛具如意香爐水精(スイシヤウ)半装束(―シヤウゾク)ノ念珠(ジユズ)帽子直綴(ヂキトツ)鼻荒(ビカウ)草鞋(―カイ)〔経覺筆本〕

鐃鉢(ネウハチ)錫杖(シヤクシヤウ)(レイ)佛具(ブツグ)如意香爐(―ロ)水精(―シヤウ)半装束(―シヤウソク)数珠(シユズ)帽子(ボウシ)直綴(チキトツ)鼻廣(ヒクワウ)草鞋(サウカイ)〔文明本〕「珠(ヅ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(れい) ふりならす仏具也。佛の音聲(おんしやう)をまなぶといへり。〔55ウ三

とあって、標記語を「」とし、語注記は、「ふりならす仏具也。佛の音聲をまなぶといへり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(にやう)(はち)錫杖(しやくぢやう)(れい)佛具(ぶつぐ)如意(によゐ)香爐(かうろ)水精(すいしやう)半装束(はんしやうそく)の念珠(ねんしゆ)帽子(もうす)直綴(ちきとづ)鼻高(びかう)草鞋(さうあい)錫杖佛具如意香爐水精半装束念珠帽子直綴鼻高草鞋。▲ハ柄(え)と舌(した)とありて振鳴(ふりな)らすもの天台(てんたい)真言(しんごん)に用ゆ。〔41オ五〕

(にやう)(はち)錫杖(しやくぢやう)(れい)佛具(ぶつぐ)如意(によい)香爐(かうろ)水精(すゐしやう)半装束(はんしやうぞく)の念珠(ねんしゆ)帽子(もうす)直綴(ぢきとづ)鼻高(びかう)草鞋(さうあい)。▲ハ柄(え)と舌(した)とありて振鳴(ふりな)らすもの天台(てんだい)真言(しんごん)に用ゆ。〔73ウ六〜74オ四〕

とあって、標記語「」の語とし、語注記は、「は、柄と舌とありて振鳴らすもの天台・真言に用ゆ」と記載する。

2000年8月13日(日)晴れ一時霧雨。伊豆(河津)⇒東京(八王子)

沖つ波 岩に跳ねて 白き糸

「榑(くれ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久部」に、

(クレ) 。〔元亀本198E〕

(クレ) 。〔静嘉堂本〕

とある。標記語「」のみで、語注記は未收載にある。『下學集』には、

(クレ)日本ノ俗爲葺(フク)屋ヲ之板ト。不ルナリ知ラ本據ヲ|。字書ニ曰ク榑飜神木日ノ所出也。〔家屋門56E〕

とあって、語注記「日本の俗、屋を葺(フク) にこれを板に爲す。本據を知らざるなり字書に曰く、榑繧ヘ神木の日の出る所なり」という。この語注記についても、『庭訓徃來註』三月十二日の状に、

組押榑(クミヲソイノクレ)襲 日本ノ俗爲屋板。不本拠|。字書ニ曰−(クワイ)ト也。〔謙堂文庫藏十八右D〕

とあって、『下學集』の注記語から「飜神木日ノ所出」を削除しているが、まさしく注記内容を継承する。次に『節用集』類は、広本節用集』に、

(クレ) −辮_木也。〔家屋門498A〕

とあって、『庭訓徃來註』が省略した注記語部分をもって、『下學集』の語注記から、後半部分の一部を抜粋依拠したものである。印度本系統の弘治二年本節用集』や易林本節用集』は、これを未收載にする。

2000年8月12日(土)晴れ。東京(八王子) ⇒伊豆(河津)

冨士麓で 風爽やかに 歩みけり

「蔀(しとみ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」に、

(シトミ) 。〔元亀本333F〕

(シトミ) 。〔静嘉堂本397E〕

とある。標記語「」のみで、語注記は未收載にある。『下學集』には、

(シトミ) 歩口ノ反。王弼([ワウ]ヒツ)カ曰ク覆曖(フクアイ)障(ササフル)光明ヲ之物也。〔家屋門56C〕

とあって、語注記「歩口の反(切)。王弼([ワウ]ヒツ)が曰く、覆曖(フクアイ)して光明を障(ササフル)の物なり」という。この語注記は、『庭訓徃來註』三月十二日の状に、

() 王弼曰覆曖障光明之物也。或云、蔀(ハシハミ)ト云草ヲ畫紋アリ。故云尓也。〔謙堂文庫藏十八右B〕

とあって、注記内容の右半分の箇所は、『下學集』からの継承語注記である。そして、左半分の「或云ふ、蔀(ハシハミ)ト云ふ草を畫く紋あり。故に尓に云ふなり」の注記内容を別に増補する。次に『節用集』類は、広本節用集』に、

(シトミ/ホウ) 戸也。歩(ホ)口切。王弼曰覆曖シテ障光明ヲ物。〔家屋門908A〕

とあって、冠頭部に「戸なり」を増補し、「反」の字を「切」に置換し、末尾の「也」を省くが、これも『下學集』に依拠する語注記となっている。さらに、印度本系統の弘治二年本節用集』は、

(シトミ) 戸。〔家屋E〕

として、広本節用集』の増補注記部分を示すといったきわめて簡潔な注記を採っている。易林本節用集』になると、

(シトミ) 。〔乾坤202G〕

とあって、『運歩色葉集』と同様に語注記を未記載にしている。ここで、『運歩色葉集』の語注記の記載状況が問題となってくる。何故、未記載としたのか?『庭訓徃來註』の右半分の増補注記に見える草の名「はしばみ」についても何等記載を見ない。『下學集』『庭訓徃來註』『節用集』いずれの注記内容をも、ここでは語注記の継承を無にするといった編纂形態をとっていて、上記の注記内容をまったく必要としない世俗的時代空間がここに生まれてきている。弘治二年本節用集』類の示す注記の「戸」という簡略化以上にこれを無記載にする強い編纂意図が見え隠れしている。それは、易林本節用集』も同様である。

 

 

2000年8月11日(金)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

汗流る 紙に腕置き ふと氣づき

「長押・承塵(なげし)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「奈部」に、

長押(−ケシ) 。承塵(同) 唐ニ書之ヲ。〔元亀本166E〕

長押(ナゲシ) 。琢塵(ナゲシ)。〔静嘉堂本185A〕

長押(−ケシ) 。承慶(同) 塵。承塵(同) 唐ニ書之ヲ。〔天正十七年本中22ウG〕

とある。標記語「長押」そして「承塵」の語注記は、「唐に之を書く」という。『下學集』に、

長押(ナケシ) 漢ニハ云承塵(シヤウヂン)ト。〔家屋56@〕

とあって、継承をこれまで即座に、この『下學集』に置いて見ていた。しかし、『庭訓往来註』三月十二日の條を見るに、

作亊者桁(ケタ)梁柱長押(ナケシ)棟木板敷材木ハ者爲虹梁之間 長押漢ニハ云承塵ト|。〔十七左@〕

とあって、この注記内容が『下學集』に依拠するものであることが確認できる。とすれば、広本節用集』や弘治二年本節用集』などの、

長押(ナゲシ/チヤウアフ・ナカシ、ヲス) 或作擲石(ナゲシ)。漢ニハ云承塵。〔広本・家屋門433F〕

長押(ナゲシ) 或作擲石(同)。漢云承塵(ゼウヂン)。〔弘治本・天地門137A〕

といった、『節用集』類における「或作擲石(ナゲシ)」の冠頭部分増補による継承も、この『運歩色葉集』の「漢」を「唐」に置換しての継承も含めて、

この継承連関について考察を試みる好材料ともいえよう。

すなわち、

             ◆……………………………………………………⇒◆

             ↑                     ↓

 『庭訓徃來』標記語⇒下學集漢文注記⇒『庭訓徃來註』漢文注記⇒『運歩色葉集』語注記

             ↓           ‖         ↑↓

             ◆…………………………⇒◆…………………⇒広本『節用集』系統本⇒広本『節用集』

                                   ↓

                                  弘治二年本『節用集』。永禄十一年本『節用集』

といった、編纂継承の相関図が推定できる。まだ、この相関図は、『節用集』諸本間の問題を完全にはクリアしていない点もあり、さらに修正せねばなるまい。だが今回、室町時代の古辞書研究にあって、この『庭訓徃來註』の位置付けが辞書の編纂継承に大きく関与の度合いを見せてくれていることは云うまでもない。このささやかな指摘は、古辞書研究の側からは、はじめてであり、むしろ、これまでは『庭訓徃來註』の研究によるものであった。

 [従来の『運歩色葉集』と『庭訓徃來註』の相関研究資料]

川口久雄「庭訓徃來考」(二)に、「又朱表紙背に、 此書の注釋の時代考 猿楽の註に今ノ宮王ハといふ事みえたりさればこの宮王の現在の頃の註なりこの宮王の女(ムスメ)ハ千利休の妻なりされは享禄天文の頃の註なるべし永樂銭の話ハ虚談なるべけれど天正の頃までも世にいひふらしゝ事とおぼしく色葉集にも此話を載たり とある。」(雑誌「書誌学」12巻第3号7頁 昭和十四年四月)

中田千代子「庭訓徃來真名抄の業平伝・人丸伝」に、「最後に、人丸伝承のうち先学の指摘に漏れたものに運歩色葉集があるので、これについて触れておきたい。 本書所載の人丸伝は、真名抄に記す12に相当するものを要約した形である。<用例引用箇所中略> 右は、真名抄ものとは順序が逆であるが、両文の近似性は明瞭である。人丸の没年を「大長四季丁未(静嘉堂本、大長四年丁亥)」と記し、真名抄の「大長四十年丁未」と相違してはいるものの『運歩色葉集』の記事より天文十六年には、人丸末期の一句一首が世間に存していたことは確かなこととなる。もっとも真名抄の成立が大永五(1525)年以降のことであり、『運歩色葉集』が真名抄に依拠したと見ることもでき、また、同一祖伝の存在も考えられるが、今のところ、両書の関係は不明である。(雑誌『實践國文學』第35号 平成元年三月)

堀口育男「庭訓徃來真名抄依拠資料小考−六月状の場合−」補注13に、「また、『運歩色葉集』「六具」の項には「母衣・箙・決拾・射手旗・扇・鞭」とあり、これは、「真名抄」に言うものと、品名、順序が、略、一致している。」(雑誌「汲古」18号18頁 平成二年十二月)

[ことばの実際]

 承塵ハ。ナゲシソ。上ヘカラ。ヲツル塵(チリ)ヲ。ウクルソ。屋ヲフクトテ見付タソ。《『蒙求抄』巻五「雷義送金」531B》

2000年8月10日(木)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

競ひさま 鳴く蝉たちの 昼も夜も

ことばの省略表現「賦物(ふしもの)・一字露見(イチジロケン)・二字反音(ニジヘンオン)・三字中略(サンジチュウリャク)など」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「福部」に、

賦物(フシモノ) 路。舩。木。山。人。此五ケ之表ル五形ヲ。此外有リ小賦物。〔元亀本225B〕

賦物(フシモノ) 路。舩。木。山。人。此五ケ表五形ヲ|。此外有小――。〔静嘉堂本258A〕

賦物(フシモノ) 路。舩。木。山。人。此五ケ表五形。此ノ外カ有リ小賦物。〔天正十七年本中58オE〕

とある。標記語「賦物」の語注記は、「路。舩。木。山。人。此の五ケの五形表はる。此の外、小賦物有り」という。『下學集』『節用集』類は未收載にある。『庭訓徃來註』に、

執筆發句賦物以下賦物者、賦何、山・路・木・人・舟、此五ケ也。山計賦ノ下ニ書也。其・餘・朝・夕・花・白・唐・青・手(タ)・下・初・屋・処・草・馬・色・心・衣・文・物・世・千・玉。此二十三ケヲハ皆何ノ字ノ下ニ畫也。賦ニ用亊、一字露見。言ハ日・火。蚊・香。名・菜是一字訓類也。二字反音。言ハ花ヲ反縄ト。夏ヲ反綱ト。水ヲ反罪ト。如此。反読シテ二字成ス名ヲ。有体ノ字類也。三字中略。言ハ霞ヲ爲紙ト。菖蒲(アヤメ)ヲ爲雨ト。桂ヲ爲唐ト。如此。三字假名(カナ)ノ中チヲ一字略シテ成二字字体也。四字ノ上下略。言ハ鴬ヲ爲?〔木+厥〕(クイ)ト。玉章ヲ爲松ト。苗代(ナハ−) ヲ爲橋ト。是モ假字ノ四字ヲ上一字略シテ中二字ヲ以爲字体也。〔謙堂文庫藏11左H〕

とあって、「賦物者、賦何、山・路・木・人・舟、此五ケ也。山計賦ノ下ニ書也」の箇所を改編採録したものとみる。そして、「一字露見。言ハ日・火。蚊・香。名・菜是一字訓類也」の箇所を、『運歩色葉集』は、

一字露見(−ジロケン)。〔元亀本17C〕

一字露見(−シロケン)。〔静嘉堂本11C〕天正十七年本と西来寺本は、この語を未収載にある。 

と標記語のみ採録する。「二字反音。言ハ花ヲ反縄ト。夏ヲ反綱ト。水ヲ反罪ト。如此。反読シテ二字成ス名ヲ。有体ノ字類也」の箇所を

二字反音(―ジヘンヲン)花ヲ反ス縄ト。夏ヲ反ス綱ト。水ヲ反ス罪ト。〔元亀本40D〕

二字反音(――ヘンヲン)花反縄。夏反綱。水反罪。〔静嘉堂本44C〕

二字反音(――ヘンノン)花反縄。夏反綱。水反罪。〔天正十七年本上22ウD〕

二字反音(――――)花(ハナ)反縄(ナハ)。夏(ナツ)反綱(ツナ)。水反{罪}。〔西来寺本〕

と前の「言ハ」と後の「如此。反読シテ二字成ス名ヲ。有体ノ字類也」とを削除して収載する。「三字中略。言ハ霞ヲ爲紙ト。菖蒲(アヤメ)ヲ爲雨ト。桂ヲ爲唐ト。如此。三字假名(カナ)ノ中チヲ一字略シテ成二字字体也」の箇所を、

三字中略(―ジチウリヤク)玉章(ツサ)中ヲ略シテ松ト云類也。霞ヲ爲紙ト。菖蒲(アヤメ)ヲ爲雨ト。桂ヲ爲唐ト。〔元亀本278@〕

三字中略(―――リヤク)玉章(タマツサ)中ヲ略シテ松ト云類也。爲紙。菖蒲(アヤメ)ヲ爲雨ト。桂爲唐。〔静嘉堂本317G〕

と次の「四字ノ上下略」の注記語を先頭に置き、前の「言ハ」と後の「如此。三字假名(カナ)ノ中チヲ一字略シテ成二字字体也」を削除して収載する。これにより、次の「四字ノ上下略」の標記語及び注記語は未收載とするといった引用形態になっている。また、『撮壤集』歌道部の連歌に、

賦物(フシモノ)。發句。脇(ワキ)。第三。指合打躰。嫌物(キライモノ)。折合。一字露見。二字反音三字中略四字上下略。執筆。打越。百韻。竟。宴折名残折、四折之亊也。〔185B〕

と標記語のみで収載する語をみても「四字上下略」という用語が使われていて、『庭訓徃來註』が注記に用いたこの表現が当代の連歌通常の表現語として認知されていたことを確認すると同時に、当代の古辞書がこうした連歌詞から、採録編纂する過程状況がここに知られる。

[補遺参考]

金子金治郎連歌考叢『連歌総論』(桜楓社刊)の「連歌の表現−端作と賦物」に、

一字露見。二字反音三字中略四字上下略は、後鳥羽院時代の古い賦物で、上賦・下賦の常の賦物の類ではない。兼良(一条禅閤)によって復活され、千句などに用いている。(284頁G)

「千句」については、大山祇神社『法樂連歌』上下(愛媛大学古典叢刊3・4)が知られ、これらの用語の記載を見る。

とあって、当代の学才である一条兼良の関与したことが知られる。兼良と『庭訓徃來註』編者との何らかの接点関係がこの語によって考えられよう。これを継承する古辞書『運歩色葉集』及び『撮壤集』にも繋がりがある。

さらに、『運歩色葉集』には、別の「ことばの省略」語群がある。次に示す。

上畧(シヤウリヤク)寢(イヌル)―(ヌル)。項打烏帽子・梨(ナシ)打烏帽子(エボシ)。獺(カハウソ)−。腸(ハラハタ)−。鎖(トザス)−。限(カギリ)−。金(コカネ)−。刃(ヤイハ)−。鹿(シカ)−。馬(ムマ)−。舂(ウスヅク)−。籠(カゴ)−。抱(イダク)−。溲(イバリ)−。犠(イケニエ)−。持(タモツ)−。格(タクラブル)−。靴(フカクツ)−。觜(クチハシ)−。神(カミノミ)−。〔元亀本320G〕

上畧(――)寢―。項打烏帽子梨打烏帽子。獺−。腸−。鎖−。限−。金−。刃−。鹿−。馬−。舂−。籠−。抱−。溲−。犠−。持−。格−。靴−。觜−。神――子。〔静嘉堂本377G〕

中略(−リヤク)柳(ヤナキ)青柳(アヲヤキ)。獣(ケタモノ)−(ケモノ)。喉(ノント)−(ノト)。己(ヲノレ)−(ヲノレ)。〓〔門+鬼〕(ソヨメク)−(ソヨメク)。眸(マナシリ)−(マシリ)。佛(ホトヲリケ)−(ホトケ)。〔元亀本64G〕

中略(−リヤク)柳青−。獣−。喉−。己−。〓〔門+鬼〕−。眸−。佛−。〔静嘉堂本75D〕

天正十七年本及び西来寺本は、この語を欠く。

下略之字 菴(イヲリ)ヲイヲ。絲(イト)蛛(クモ)ノイ。髪(カミ)白ー(シラカ)。砂(スナ)白ー(シラス)。夜(ヨル)ー(ヨ)。裳(モスソ)−(モ)。枝(エタ)ー(エ)。水(ミツ)ー上(ミナカミ)。肉(シヽムラ)ー(シヽ)。眼(マナコ)ー尻(マシリ)。真(マコト)ー向(-カウ)。背(セナカ)ー(セ)。肌(ハタエ)ー(ハタ)。見(ミル)ー(ミ)。垂(タルヽ)ー(タル)。平(タヒラクル)ー(タヒラ)。蹴(ケル)ー(ケ)。猪(イノシヽ)ー(イ)。牙(キハ)ー(キ)。居(イル)ー(イ)。滑(ナメラカ)ー(ナメ)。鼠(ネツミ)ー(ネス)。六(ムツ)ー(ム)。虚(ウツクル)ー(ウツ)。来(キタル)ー(キ)。栖(スミカ)ー(スム)。束(ムツカル)ー(ツカ)。羽(ハネ)ー(ハ)。顔(カヲハセ)ー(カホ)。形(カタチ)ー(カタ)。司(ツカサトル)ー(ツカ)。弓(ユミ)ー(ユ)。〔元亀本218B〕

下略之字 菴(イヲリ)ヲ−(イヲ)。絲(イト)蛛(クモ)ノ−(イ)。髪(カミ)白ー(シラゲ)。砂(スナ)白ー(シラ)。夜(ヨル)ー(ヨ)。裳(モスソ)−(モ)。枝(ヱタ)ー(ヱ)。水(ミツ)ー上(ミナカミ)。肉(シヽムラ)ー(シヽ)。眼(マナコ)ー尻(マシリ)。真(マコト)ー向(マンカウ)。背(セナカ)ー(セ)。肌(ハタエ)ー(ハタ)。見(ミル)ー(ミ)。垂(タルヽ)ー(タル)。平(タヒラクル)ー。蹴(ケル)ー(ケ)。猪(イノシヽ)ー(イ)。牙(キハ)ー()。居(イル)ー(イ)。滑(ナメラカ)ー(ナメ)。鼠(ネツミ)ー(ネス)。六(ムツ)ー(ム)。虚(ムナシ)ー(ムナ)。来(キタル)ー(キ)。着(キル)−(キ)。栖(スミカ)ー(スム)。束(ツカヌル)ー(ツカ)。羽(ハネ)ー(ハ)。顔(カハセ)ー(カ)。形(カタチ)ー(カタ)。司(ツカサトル)ー(ツカ)。文(フミ)−(フ)。弓(ユミ)ー(ユ)。〔静嘉堂本249@〕

下略之字 菴(イヲリ)ヲ−(イヲ)。絲(イト)蛛(クモ)ノ−(イ)。髪(カミ)白ー(シラカ)。砂(スナ)白ー(シラス)。夜(ヨル)ー(ヨ)。枝(エタ)ー(エ)。水(ミツ)ー上(ミナカミ)。肉(シヽムラ)ー(シヽ)。眼(マナコ)ー尻(マシリ)。真(マコト)ー向(マムカウ)。背(セナカ)ー(セ)。肌(ハタエ)ー(ハタ)。見(ミル)ー(ミ)。垂(タルヽ)ー(タル)。平(タイラクル)ー(タイラ)。蹴(ケル)ー(ケ)。猪(イノシヽ)ー(イ)。牙(キハ)ー()。居(イル)ー(イ)。滑(ナメラカ)ー(ナメ)。鼠(ネツミ)ー(ネ)。六(ムツ)ー(ム)。虚(ウツクル)ー(ウツ)。弓(ユミ)ー(ユ)。来(キタル)ー(キ)。栖(スミカ)ー(スム)。束(ツカヌル)ー(ツカ)。羽(ハネ)ー(ハ)。顔(カハセ)ー(カ)。形(カタチ)ー(カタ)。司(ツカサトル)ー(ツカ)。文(フミ)−(フ)。〔天正十七年本中53オB〕

とあって、書写本に若干の異なり語の出入りが見えるが大筋は適合する。次にまた、

断頭調(ダンヅノコトハ)項打烏帽子(ウナシウチエボシ)梨打烏帽子。寝(イヌル)―(ヌル)。抱(イタク)−(タク)。腸(ハラハタ)−(ワタ)。鎖(トザス)−(サス)。金(コカネ)−(カネ)。刃(ヤイハ)−(ハ)。鹿(シカ)−。馬(ムマ)−(マ)。舂(ウスヅク)−(ツク)。籠(カゴ)−(コ)。犠(イケニエ)−。持(タモツ)−。靴(フカクツ)−(クツ)。觜(クチハシ)−(ハシ)。神(カミ)−(カミ)。獺(カハウソ)−(ウソ)。限(カギリ)−(カキ)ノ類(タクヒ)。〔元亀本145@〕

断頭詞(ダンヅノコトハ)項打烏帽子・梨打烏帽子。寝―。抱−。腸−。鎖−。金−。刃−。鹿−。馬−。舂−。籠−。犠−。持−。靴−。觜−。神−。獺−。限−。類。〔静嘉堂本156B〕

断頭詞(ダンツノコトハ)項打烏帽子(ウナシウチヱボシ)・梨打烏帽子。寝(イヌル)ヲ―(ヌル)。抱(イタク)−(タク)。腸(ハラハタ)−(ワタ)。鎖(トザス)ヲ−(サス)。金(コカネ)ヲ−(カネ)。刃(ヤイハ)ヲ−(ハ)。鹿(シカ)ヲ−(カ)。馬(ムマ)ヲ−(マ)。舂(ウスツク)−(ツク)。籠(カコ)ヲ−(コ)。犠(イケニ)−(ニヘ)。持(タモツ)−(モツ)。靴(フカクツ)−(クツ)。觜(クチハシ)−()。神(カミ)−子(ミコ)。獺(カハウソ)−(ソ)。限(カギリ)−(キリ)ノ類(タクヒ)。〔天正十七年本中11オF〕

断腰調(ダンユウコトハ)佛(ホトヲリ)−(ホトケ)。瞼(マナフタ)−(マフタ)。柳(ヤナキ)−(ヤキ)青−。獣(ケダモノ)−(ケモノ)。喉(ノンド)−(ノド)。己(ヲノレ)−(ヲレ)。眸(マナジリ)−(マシリ)。〔元亀本145B〕

断腰詞(ダンユウコトハ)佛−。瞼−。柳−青−。獣(ケタモノ)−。喉(ノント)−。己(ヲノレ)−。眸−。〔静嘉堂本156C〕

断腰詞(−ヨウノコトハ)佛(ホトヲリ)−(ホトケ)。瞼(マナフタ)−(マフタ)。柳(ヤナキ))青柳(アヲヤキ)。獣(ケタモノ)−(ケモノ)。喉(ノント)−(ノト)。己(ヲノレ)ヲ−(ヲレ)。眸(マナシリ)−(マシリ)。〔天正十七年本中11ウA〕

が別に収載されているが、これについては、連歌辞書など別資料からの採録ということになろう。これには、「断尾詞(ダンビのことば)」が見えないのだが如何なものか。

以上、「ことばの省略」に関わる『運歩色葉集』の編纂状況をここに紹介してみた。上記に掲げた「上畧中略下略之字」とこれとは別称表現にして、「断頭詞」「断腰詞」については、今後の解析を必要とする。そして、実際の収載語中にみえる「外浜」を「トバマ」〔元153@〕⇒上略《静嘉堂本・天正十七年本は「ソトノハマ」167D・中15オE》、「横」を「ヨコタル」〔元134C〕⇒中略《静嘉堂本は「ヨコタハル」140G》、「下弟」を「−(ゲ)テ」〔元213D〕⇒下略《静嘉堂本は「下第(-ダイ)唐人不及第亊」242E》などがあることからして、『運歩色葉集』の編者が語訓読の記述面にあってどう記述していたのか、これを近後に書写する立場にあって、意図的に書写改編していったのかを文字表記の観点から今後再分析することにもなろう。

2000年8月9日(水)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

昼顔の 美しき色は 陽に強き

「廻文(クワイブン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久部」に、

廻文(クワイフン) ムラクサニ、クサノナハモシ、ソナハラハ、ナソシモ、ハナノ、サクニ、サクラム

   ナカキヨノ、トヲノ、ネフリモ、ミナメ、サメ、ナミノリフネノ、ヲトノ、ヨキ、カナ

   キシノ、カタモヽ、タカノシキ。〔元亀本195D〕

廻文(クワイフン) ムラクサニ、クサノナハモシ、ソナハラ、ナシモ、ハナノ、クサニ、サクラム

   ナカキヨノ、トヲノ、ネフリノ、ミナメサメ、ナミノリフネノ、ヲトノ、ヨキカナ

   キジノ、カタモヽ、タカノジキ。〔静嘉堂本221E〕

廻文(――) ムラクサニクサノナハモシソナハラハ、ナソシモハナノサクニサクラム

   ナカキヨノトヲノネフリノミナメサメナミノリフネノヲトノヨキカナ

   キシノカタモモタカノシキ。〔天正十七年本中42ウD〕

とある。標記語「廻文」の語注記は、「村草に草の名はもし備らばなぞしも花のさくに咲くらむ」と「長き夜の」との二首の歌と「雉の片腿、鷹の喰」という一句の文からなる。これを見るに、第一首は、『奥義抄』上に、

廻文歌 哥さかさまによむに同歌也。詠草花古歌に云、むらくさにくさの名はもしそなはらばなぞしもはなのさくにさくらむ

とあるのを筆頭に、『八雲御抄』『和歌色葉』『和歌大綱』『和歌肝要』『悦目抄』『三五記鷺末』『代集』などに収載を見る。第二首は、上記のなかで『代集』(成立は、弘安元(1278)年〜十一年の間か)に見える。さらに、『庭訓徃來註』に求めると、二月の條に、

連歌者雖无情寂忍之舊徹輪廻 歌曰、長夜十ノ眠ノ皆目醒波乗舟ノ音ノ善哉。此ノ歌ハ順逆讀也。〔東大国語研究室藏〕

輪廻 哥ニ云、長キ夜ノ十ノ眠(ネムリ)ノ皆目醒波乗リ舟ノ音トノ善哉。此ノ哥ハ順逆ニ読哥也。云々。〔謙堂文庫藏十一右A〕

と『庭訓徃來』の「輪廻」という語の注記にあって、ここでも『運歩色葉集』の注記した二番目の"回文歌"「長き夜の遠の眠りの皆目醒め波乗り舟の音の善きかな」が例示され、「この歌は順逆に読むなり」と注記している。すなわち、上から読んでも下から読んでも同じ内容であることをいう。実際、『運歩色葉集』の記載方法は、此歌を収載し、これをさらに逆さに表記して再度記載するといった、誰もが見てもすぐに理会できるよう仕立ててある。最後の回文句「雉の片腿、鷹の食」については、この証例を確認できていない。

[ことばの雑学]「回文」については、この情報言語学研究室HP「言葉の泉」⇒「ことばの遊び〔回文〕」を参照されたい。

 

2000年8月8日(火)晴れ。東京(八王子) ⇒永田町(国会図書館)

真夏の陽 古き書にと 藏向かひ

「楊弓(ヤウキウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「屋部」に、

楊弓(ヤウキウ) 唐玄宗ノ時楊貴妃始テ射ル之ヲ。依之曰――ト也。〔元亀本201I〕

楊弓(ヤウキウ) 唐ノ玄宗ノ時楊貴妃始テ射之ヲ。依之曰――ト也。〔静嘉堂本228C〕

楊弓(ヤウキウ) 唐玄宗之時楊貴妃始射之。依之曰――也。〔天正十七年本中44オB〕

とある。標記語「楊弓」の語注記は、「唐の玄宗の時、楊貴妃、始めてこれを射る。これに依りて楊弓と曰ふなり」という。『下學集』には、

楊弓(ヤウキウ) 小弓也。〔器財116D〕

とあり、『下學集』からの直接引用収載でないことを示している。広本節用集』には、

楊弓(ヤウキユウ/ヤナギユミ) 或作樣弓(ヤウキウ)ト小弓(コユミ)也。唐ノ玄宗ノ之時始(ハシマル)。貴妃(キヒ)調伏(テウフク)ノ之弓(ユミ)也。〔器財557C〕

とある。『運歩色葉集』の注記内容と比較するに、より詳細であり、『節用集』類との連関性が見て取れる。そこで、印度本系統の弘治二年本節用集』を見るに、

楊弓(ヤウキユウ) 樣弓(同)。〔財宝D〕

とあるにすぎず、ある種の『節用集』との接点での連関に絞られ、ここで広本節用集』と『運歩色葉集』とにおける増補か、簡略かの注記記載方法を問ううえで、尤も注目したいのが『庭訓徃來註』からの採録となる。『庭訓徃來註』正月五日の条に、

將又楊弓・雀小弓ノ勝負楊弓説多シ。唐ノ玄宗ヨリ始ル。雖愛スト宗三千人ノ后妃ヲ、楊貴妃一人寵愛也。餘ノ妃妬貴妃ヲ小弓ヲ射ト貴妃ヲ云テ爲調伏。又楊妃春之遊ニ用小弓也。是ヲ人謂テ号ス楊弓ト。此時ノ的ハ云堋ト。面四寸ノ桐ノ木ヲ以テ作也。雀ハ禽也。禽ハ鳥ノ惣名也。言ハ此遊ハ禽ヲ立物ニシテ射ト也。カ三十二様ノ雀(コアテ)ノ弓有。雀ノ字弓法ニ雀(コアテ)ト讀ム也。其時ハ者禽ニ不限也。何立物シテ而射也云々。〔四左F〕

とあって、出だしの「楊弓は説多し」には触れずに、「唐ノ玄宗ヨリ始ル」を採り、次に広本節用集』は、「貴妃」説を採用し、「楊妃」説を棄却する。此れに対し『運歩色葉集』は、いずれの説注記をも示さず、正式名「楊貴妃」とし、纏め上げたものといえよう。そして、後半部の「雀小弓(すずめのこゆみ[撮壤集』遊楽部185Fに見える]&こあてのこゆみ)」注記については、いっさいの語である「あづち【堋】」「禽」をも採録しない編纂の方針を示している。

 

2000年8月7日(月)晴れ一時曇り雷雨。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

 にわか立ち 大蓮の葉莖 雨を呼び

「匂肩白(にほひかたじろ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「尓部」に、

匂肩白(ニヲイカタジロ) 具足。一段白、一段紅。〔元亀本40@〕

匂肩白(ニヲイカタシロ) 具足。一段白、一段紅。〔静嘉堂本43F〕

匂肩白(ニヲイカタシロ) 具足。一段白、一段紅。〔天正十七年本上22ウ@〕

匂肩白(ニヲイカタシロ) 具足。一段白ク、一段紅イ。〔西來寺本72D〕

とある。標記語「匂肩白」の語注記は、「具足。一段は白く、一段は紅い」という。『下學集』『節用集』類には見えない。『庭訓徃來註』の六月の条に、

匂肩白(―――)一段白而、一段紅也。〔37右@〕

とあって、注記内容もまさに合致する。まずこの『庭訓徃來註』に依拠するところの採録収載と見て良かろう。

2000年8月6日(日)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

汗じわり かいて暑気は 夜半の月

「蘖(もやし)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「毛部」に、

(モヤシ) 米。麥。〔元亀本351B〕*実際は、「薛」の下は、「米」と書く。

(モユル) 米。麦。〔静嘉堂本422E〕

とある。標記語「」の読み方は、元亀本が「もやし」、静嘉堂本が「もゆる」としている。その語注記は、両書とも「米・麥」という。これは、現代でも豆類・麦などの種子を水に浸し、筵に巻いて包み、日光を遮った苗床に播いて、発芽させた食材をいう。『下學集広本節用集』はこの語を未収載にする。『節用集』類では、天正十七年本節用集』に、「(モヤシ)」〔草木下37ウB〕と易林本節用集』に、「(モヤシ/ゲツ)麹−」〔食服230B〕と見える。当代の『日葡辞書』にも、

Moyaxi.モヤシ()例,Mngui,l,mameno moyaxi.(麦,または豆の蘖)上のようにして発芽した小麦,または,大豆の芽.〔邦訳428l〕

Moyaxi.モヤシ()例,Mnguino moyaxi.l,Moyaxi mugui. (麦の蘖.または,蘖麦)水でしめらせたあと覆いをし、芽を出させてはじけさせた大麦.〔邦訳428l〕

とある。古くは、『本草和名』に、「〓〔薩+子〕米 和名毛也之」とあり、『色葉字類抄』『類聚名義抄』にも見える語である。江戸時代の『書字考節用集』には、

蘖芽(モヤシ)米。麥。黄巻(同)大豆。(同)仝上。 (同)出莫。〔生殖六66@〕

で表記するとあって、標記語によって、その「もやし」の原料を厳密に区分している。すなわち、米麦の「もやし」は、「蘖芽」で表示し、大豆の「もやし」は、「黄巻」「」「」となる。そして、静嘉堂本運歩色葉集』の「もゆる」の読みは、その原義であり、『名語記』巻八に見える「小麦のおひいてたるをもやしとなつく。如何、もやは萌也。草木のめくみいつるを、もゆとはいへるにや」の語源に関係した訓というものである。

2000年8月5日(土)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

白き花 ゆらりとすべる 夕闇に

「青番羅(セイハンロ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「勢部」に、

青羅(−ハンロ) 庭訓之。青地之上同色ニ紋在之。〔元亀本356A〕

青番羅(セイハンロ) 庭訓在之。青地之上同色之紋在之。〔静嘉堂本432E〕

とある。標記語「青番羅」だが、元亀本は「番」の字を脱す。語注記は、「『庭訓(往来)』にこれあり。青地の上に同色の紋これあり」という。すなわち、青色の地に同色による模様をつけた織物をいう。『下學集』や『節用集』類はこの語を未収載とする。実際、『庭訓徃來註』十月の条に、

青番羅(シンハンロ) 青地之上ニ同色ノ紋有リ。〔57右D〕

とあって、読み方を「シンハンロ」としているが、注記内容も『運歩色葉集』に合致する。現代の国語辞書である小学館日本国語大辞典』は、見出し語「せいばんろ【青番羅】」でこの『庭訓徃來』と古辞書『運歩色葉集』を用例として引用記載し、また、「しんばんろ【青番羅】《名》青色の模様のある舶来のうすもの」では『庭訓徃來』のみを引用している。

2000年8月4日(金)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

 栗の実や ぽつんと緑は ひとすじ道

「惠美酒(エビス)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「衛部」に、

惠美酒(エビス) 神名。〔元亀本337D〕

惠美酒(ヱビス) 神名。〔静嘉堂本403E〕

とある。標記語「惠美酒」の語注記は、「神名」という。これは、「七福神」の一つ、風折帽子に狩衣、指貫を着け、釣竿で鯛を釣る姿をしている神であり、商家の福の神として祭られる。また、異郷から訪れて漁をもたらす神として漁師にも信仰される神でもある。このほか「ヱビス」の訓での標記語としては、「蝦夷(ヱビス)」〔静嘉堂本403@〕を収載するが語注記は、未記載にある。『下學集』には、標記語には未記載だが、「入鹿大臣」の語注記に、

入鹿大臣(イルカノ――)天智天皇ノ時ノ人也。蝦夷(エヒイ)ノ御子。〔人名46E〕

と「蝦夷(エヒイ)ノ御子」という記載があるにすぎない。この意味は、都から遠く離れた地の住人、異国人をいう。

次に、広本節用集』には、

惠比酒(ビスケイ−シユウ。メグミ、タグイ、サケ) 神名。〔神祇門699E〕

とあって、標記語中の「美」の字を「比」で表記し異なるが、注記語は『運歩色葉集』と共通する。印度本系統の弘治二年本節用集』にも、

惠美酒(ヱビス) 神名。戎三郎() 同。〔人名門193C〕

とあって、さらに「戎三郎」の語を添えて収載する。『運歩色葉集』はこの語を収載しないことから、この語を増補収載する前の『節用集』との関連が考えられるのである。また、永祿二年本節用集』は、

惠比{←美イ}酒(ヱビス) 神名。〔人名門159F〕

とある。尭空本節用集』は、

惠比酒(ヱビス) 神名。〔人名門148G〕

とある。ここで、「美」の字を用いるのは、弘治二年本となり、これに共通する永祿十一年本節用集』(学習院大学図書館藏)の記載状況が知りたいところでもある。当代の『日葡辞書』には、

Yebisu. エビス(惠美酒・恵比須)漁師(漁業者)の偶像.〔邦訳815l〕

とある。

2000年8月3日(木)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

やっこらさと 暑き夏空に 百日紅

「葉月(はづき)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「波部」に、

葉月 (ハヅキ) 八月。尽月也。〔元亀本27C〕

葉月 (−ツキ) 八月。〔静嘉堂本25G〕

葉月 (−ツキ) 八月。−尽月也。〔天正十七年本上14オB〕

葉月 (ハツキ) 八月。−ノ尽ル月。〔西來寺本47@〕

とある。標記語「葉月」の語注記は、「八月、葉の尽きる月なり」という。これを静嘉堂本は、「八月」とだけ注記し、元亀本は、「尽きる月なり」とだけ注記する。天正十七年本、さらには西來寺本の注記には「葉の尽きる月」と尽きる対象語を「−」印によって示している。『下學集』には、標記語として、この語は見えないが、標記語「南呂」の語注記に、「又、云く葉月(ハツキ)。落葉の時節故に云ふなり」と見える。広本節用集』も、標記語「八月」の語注記に見える異名語群の最後尾に「葉月」とだけ見える。また、弘治二年本節用集』には、

葉月 (ハツキ) () 八月異名。日本語。〔時節17E〕

とあり、注記内容に「八月異名」とし、さらに「日本語」という注記語が用いられている。易林本節用集』は未收載にある。

2000年8月2日(水)晴れ時々曇り。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

蝉時雨 聞くも胎にも 染み込むや

「南呂(ナンリヨ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「那部」に、

南呂 (―リヨ) 八月。〔元亀本165A〕

南呂 (―リヨ) 。〔静嘉堂本183A〕

南呂 (―リヨ) 八月。〔天正十七年本中22オD〕

とある。標記語「南呂」の語注記は、「八月」の月の異名をいう。静嘉堂本は注記語を未記載にする。『下學集』は、

南呂 (ナンロ) 八月ナリ也。又云ク葉月(ハツキ)。落葉ノ時節故ニ云フ也。〔時節30A〕

とあり、この異名語を標記語とし、「八月」の方を注記説明の語とする。読み方は、『運歩色葉集』が「ナンリヨ」と表示するのに対し、「ナンロ」と表示する。広本節用集』は、逆に標記語「南呂」は、未收載にあり、印度本系統の弘治二年本節用集』に、

南呂 (―リヨ) 八月名。〔那部・時節C〕

とあり、天正十七年本節用集』にも、

南呂 (ナンリヨ) 八月異名。〔那部・時節360E〕

とあり、易林本節用集』にも、

南呂 (―リヨ) 八月。〔乾坤108F〕

とあることから、広本節用集』では、この語を意図的編纂のなかで欠いていることを思わねばなるまい。むしろ、標記語であると同時に統括語でもある「八月」の注記内容にすべて集約せしめている編纂姿勢がここに見えている。古くは、鎌倉時代の古辞書『色葉字類抄』天部に、

南呂 天部 ナンリヨ 八月名。〔疊字・中37オG〕

と見える。また、『伊呂波字類抄』(室町初期写)には、「南呂 八月」〔疊字・五65D〕とある。『塵荊鈔』に、

南呂ト云、南者佐(タスクル)也。言ハ陽氣任(ジン)アリ。万華長也。八月物皆秀ヲ含懐妊之象在。〔国会マイクロ写真2176コマ〕

と見える。

[ことばの実際]

昏南斗中暁畢中斗建酉位之初律中南呂八月氣至則南呂之律應南呂者大蔟之所生三分去一管長五寸三分其日其音其數並同孟秋。〔『太平御覧』巻二四、時序部九、秋上・一一三下右I〕

◯中秋之月。日在角。昏牽牛中。旦觜中。其日庚辛。其帝少。其神蓐收。其蟲毛。其音商。律中南呂。其數九。其味辛。其臭腥。其祀門。祭先肝〔『禮記月令第六〕

 

2000年8月1日(火)晴れ。北海道(天売島→増毛→札幌)⇒東京(八王子)

島廻り 走りの道は 心地よき 

「八月(ハチグワツ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「波部」に、

八月 (――) 葉月。南呂。仲律。仲商。仲秋。桂月。〔元亀本30H〕

八月 (――) 葉月。南呂。仲律。仲商。仲秋。桂月。〔静嘉堂本31B〕

八月 (――) 葉月。南呂。仲律。仲商。仲秋。桂月。〔天正十七年本上16ウB〕

八月 (――) 葉月。南呂。仲律。仲商。仲秋。桂月(ケイ−)。〔西来寺本〕

とある。標記語「八月」の語注記は、「葉月。南呂。仲律。仲商。仲秋。桂月」という月の異名を記載する。『下學集』は未收載にある。広本節用集』は、

八月 (ハチグワツ/−、ツキ) 異名、南呂月令仲秋律中――。鳴鳫來月令――賓。蓼風(レウ)秦人謂――盲風。仲商纂要仲秋曰――。鳥獣書――毛。豆雨歳時記八月為--ト。剥棗(ハクサウ)詩八月――。献裘仲秋献良――。宵中虚尭典−星以殷仲秋。迎寒仲秋――。秋半。桂秋。桂月。桂夕十五日也。仲律。仲秋。仲和。仲月。金凉。圓月。大梁。洛律。團月。凉秋。夜長月。洞裏西月。杜月。酉月。呂月。近寒。雁來。白露八月節也。莊月。葉月。〔時節門52A〕

とある。「異名」と記述し、異名語を排列する。そして、それぞれの異名語の典拠を詳細に注記する。『運歩色葉集』における注記語の排列は異なるが、すべてここに含まれている。また、易林本節用集』には、

八月 (―クワチ/―ケツ) 仲秋。深秋。桂秋。秋半。秋高秋中秋清秋凉。〔数量18B〕

とあって、広本節用集』に見える異名語三例と、見えない異名語五例とがある。このうち、「秋凉」は、広本節用集』の異名語「凉秋」の逆排列の語である。

[今日、氣づいたことばの表現]

札幌地下鉄麻布駅に向かう車中から、「トトロ」という看板の店、手前の三角の煙突が丁度、点を打ったようで「トドロ」と読める。近づいてみてまたびっくり、店の正面には"海転寿司"と表記してあり、"回転すし""回転寿司"は、以前に取り上げたことがらだが、この表記は、初めてお目にかかった。

 

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