[11月1日〜11月30日迄&2002.10.05更新]
ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
2000年11月30日(木)曇り晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
いいみれば ときすぐすきと はれみいい
云い見れば 時過ぐ隙と 晴れ身良い
「征矢(ソヤ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「楚」部に、
征矢(ソヤ)。〔元亀本153F〕
征矢(ソヤ)。〔静嘉堂本168B〕
征矢(―ヤ)。〔天正十七年本中15ウC〕
とある。標記語「征矢」は、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』に、
征矢(ソヤ)。〔器財116E〕
とあって、やはり語注記は未記載にある。これを『庭訓徃來註』六月十一日の状に、
石打ノ征矢(ソ―) 鷹ノ尾ニ有リ。鵄ニモ尾ニ有リ。〔謙堂文庫藏三七左C〕
として、語注記を「鷹の尾に有り。鵄にも尾に有り」という。広本『節用集』には、
征矢(ソヤ/セイシ、ユク・チカイ)。〔器財門386G〕
とあって、これも語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』両足本『節用集』では、
征矢(ソヤ)征伐之時用也。无根。〔弘・(財宝)120D〕
征矢(ソヤ)。〔永・財宝101C〕
征矢(ソセ)。〔尭・財宝91F〕
征矢(ソヤ)。〔両・財宝111F〕
とあって、なぜか弘治二年本だけに「征伐の時に用るなり。无根」と全く異なる独自の語注記が見えているのである。
2000年11月29日(水)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
いいにくき まことはとこま きくにいい
云い難き 実は常間 聞くに善い
「上人(シヤウニン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
上人(―ニン) 釈氏要覽ニ云、内ニ有‖コ智|。外ニ有‖勝行|。在人之上ニ|。故曰‖上人ト|也。〔元亀本314B〕
上人 (―ニン) 釈氏要覽ニ云、内ニ有‖コ|。外ニ有‖勝行|。在‖人之上|。故曰‖上人ト|也。〔静嘉堂本368C〕
とある。標記語「上人」の語注記は、「釈氏要覽に云ふ、内にコ智有り。外に勝行有り。人の上にあり。故に上人と曰ふなり」という。『庭訓徃來註』四月三日の状に、
智者上人 上人ハ菩薩地也。釈氏要覽ニ曰、内ニ有‖コ智|。外ニ有‖勝行|。在‖人之上ニ|。故曰‖上人ト|。又般若經ニ何ヲカ名‖上人ト|。佛言ク若ンハ‖菩薩|一心ニ行‖阿耨菩提ヲ|。心不ンハ‖散乱セ|者是ヲ可∨名‖上人ト|也云云。〔謙堂文庫藏二五左G〕
とあって、『運歩色葉集』はここに依拠する。広本『節用集』には、
上人(シヤウニン・カミ/ノボル、シン・ヒト) 内ニ有‖智惠|。外ニ有‖勝行|。在‖人之上ニ|。名‖上人ト|云々。〔官位門920A〕
とあって、同じくここをもって継承する。広本『節用集』は、典拠名『釈氏要覽』を欠く。そして、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』は未収載にある。
2000年11月28日(火)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
といにやき このはにはのこ きやにいと
戸井に焼き 木の葉庭の子 帰やにいと
「職原(シキゲン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
職源(―ゲン) 自‖清和天王|六番目貞紀天皇之〓〔日+之〕始之也。〔元亀本309E〕
職原(―ゲン) 自清和天皇六番目貞能親皇之時始也。〔静嘉堂本361C〕
とある。標記語「職原」の語注記は、「清和天皇より六番目貞能親皇の時始るなり」という。ここで元亀本と静嘉堂本において表記上の異なりとして、「貞紀天皇」と「貞能親皇」とがあり、さらに、『庭訓徃來註』三月三日の状には、
監物丞源 官ハ見‖職原|。源氏ハ仁王五十六代自‖清和天王|六番目自‖貞純ノ親王|始也。仁王五十五代文徳ノ御子惟仁源氏ノ先祖也。文徳ノ子本后子惟高親王、中宮ノ后染殿ノ御子惟仁親王、兄弟位争アリ。相撲競馬有∨之。惟仁ノ〓〔者+羽〕蒋良雄長ケ不∨足‖三尺ニ|。惟高ノ名ノ虎ノ右丞尉七十五人力也。彼兩人位争ニ取ル‖相撲|也。爲‖祈祷|惟仁比叡山惠亮和尚憑焚‖護摩ヲ|。平生有‖大威コ明王ノ加護|也。惟高ハ高野山柿本ノ貴僧正ヲ憑祈祷也。是モ護摩ナリ。惟仁思食樣我微力也。不∨叶思謀以母ノ染殿泪ヲ流。僧正ノ至∨前ニ申給樣ハ、和尚ハ祈不シテ∨叶∨皈リ給テ申給ハ、其時僧正早ヤ勝ヌト思テ油斷也。其時惠亮碎ハ∨腦ヲ。二帝即ト∨位ニ云々。和尚當∨壇碎∨腦祈也。故惟仁勝也。是故僧正思死也。本尊ハ不動也。不動ノ負也。僧正ハ美人染殿ヲ見テ戀ノ心起歟。惣シテ惠亮ハ可ト∨勝定也。其ノ故ハ叡山ニハ四王ノ灰ト云物アリ。大江山酒点童子爲∨灰ト。封シテ山ニ置也。負蒔‖此ノ灰ヲ|鬼~国ニ可成爲也云々。〔謙堂文庫藏一二右E〕
とあって、この箇所を「貞純ノ親王」としている。これは、『本朝皇胤紹運録』巻第六十によれば、清和天皇の第六番目の御子は「貞純親王」が正しい。とすれば、『運歩色葉集』の編者、そして書写者は、この点を概して気にもとめずに書写していたのであろうか。確かに「純」と「紀」は字形が相似ている。また「能」とした静嘉堂本は、元の手控えの書が行書に近い表記であったため、これも誤ったのであろうか。いずれにせよ、この表記の揺れは編纂検証の怠りが招いた結果なのかもしれない。『運歩色葉集』の辞書編纂における孫引きの所為なのかもしれない。また、『庭訓徃來註』の清和天皇(惟仁親王)と惟高親王の皇位継承争いの譚は、『運歩色葉集』にはなぜか引用されずじまいにあるようだ。この譚は、『江談抄』二・二九七に見えている。広本『節用集』と印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』では、『下學集』同様、未収載にある。
2000年11月27日(月)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
といにしち ひだまりまだひ ちしにいと
都井二七 陽だまり未だ日 千路に緯度
「成實(ジヤウジツ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
成實(ジヤウジツ) 天竺之可利跋羅三蔵之所立也。――論是也。〔元亀本319I〕
成實(ジヤウシツ) 天竺ノ可利跋羅三蔵之所∨立也。――論是也。〔静嘉堂本377A〕
とある。標記語「成實」の語注記は、「天竺の可利跋羅三蔵の立つ所なり。成實論是れなり」という。ここで、『成實論』の著者の名を「可利跋摩(カリバツマ)」から「可利跋羅(カリバツラ)」に置き換えている点が異なりとしてある。『下學集』はこの語を未收載にする。『庭訓徃來註』卯月五日の状に、
或禪律兩僧 自‖方等部|禪出也。達磨惠可僧〓〔玉+粲〕道信弘忍惠能也。律宗ハ自‖四阿含|出也。道宣律師也。日本ニハ仁王四十六代孝謙天王ノ時自‖大唐鑑真和尚|渡也。八宗ハ法相三論倶舎成實律宗花厳天台真言也。倶舎成實律宗ノ三ハ小乗也。法相三論花厳天台真言ノ五ハ大乗也。倶舎成實律宗法相三論真言六宗ハ天竺ニ所∨立也。天台花厳二宗ハ震旦所∨立也。倶舎ハ天竺天親菩薩所∨立倶舎論是也。成實ハ天竺可利跋摩三蔵所∨立成實論是也。律宗ハ天竺菊多三蔵五人弟子所∨立四分五分等是也。法相宗ハ如来滅後提婆菩薩出世為‖阿育大王|。説‖諸方實相状ヲ|。又阿僧伽師出世奉請都卒天弥勒菩薩ノ時夜分降。天竺説法所∨謂瑜伽論等是也。又護摩菩薩出世説此宗唯識論等是也。三論ハ如来入滅ノ後竜猛菩薩出世宣諸皆空之旨所謂百論等是也。又青辧菩薩出世同宣此義文殊馬(メ)鳴竜樹提婆羅什等皆為‖租師|。天台ハ震旦隋代、智大師自南岳惠恩大師又名惠文禅師。爰三種止観篭居於大蘓道場開發霊山之聽弘宣法花深義玄義文句等是也。花厳ハ震旦禅門寺花厳和尚所∨立。又唐代法蔵大師奉詔講‖花厳經|。至‖世界品|。大地震動ス。爰則天皇後貴∨之下∨勅令∨製‖疏釈|。施宣此經所∨謂花厳是也。蓋シ法相花厳天台真言ハ依∨經ニ立∨之。倶舎成實三論ハ依∨律ニ立∨之也。〔謙堂文庫藏二四左D〕
とあって、「律宗」「八宗」「倶舎」(2000.11.25)「法相」「三論宗」(2000.06.16)といった語注記と同じく、『運歩色葉集』は、この箇所から引用する。広本『節用集』及び、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』にあっては、『下學集』と同じように未收載の語である。いわば、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』といった接点で継承が見られる語である。
[ことばの実際]
「蓋倶成二宗。亦能叙‖置三寳四諦|。摂‖諸名相|而設‖于理|者。成實也」《虎関師錬『元亨釋書』二七・会儀》
2000年11月26日(日)晴れ。八王子⇒世田谷(玉川→駒沢)
といにろく ふくろふろくふ くろにいと
対に鹿 梟六分 黒に亥と
「竪者(シユシヤ)」と「竪議(シユギ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』に「竪者」は未収載の語である。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は標記語のみで語注記未記載にする。これを『庭訓徃來註』九月十五日の状に、
竪者(シユ−) 禪ノ首座ノ位也。註記竪者ハ竪義會ヲ行テ八講ノ役ヲ成シテ而後ニ爲ル也。竪議音ハ主也。然日本之教ノ家、呼爲‖立音|大誤也。竪ト与∨豎同也云々。〔謙堂文庫蔵五二左E〕
として、その語注記に「禪の首座の位なり。註記に竪者は、竪義會を行ひて八講の役を成して、しかる後に爲るなり。竪議、音は主なり。然れば日本の教えの家に、呼びて立の音に爲り、大いに誤るなり。竪と豎とは同じきなり云々」という。この『庭訓徃來註』の語注記には、既にある「註記」の書にとあって、これが一つは『下學集』の語注記を云うのであることは、
竪議(シユギ) 竪ハ音(コヘ)_主也。然ルニ日-本ノ教-家ニ呼テ爲‖立ノ音ト|大_誤(アヤマリ)カ_歟。竪ト与∨豎同シ音也。〔態藝八四5〕
とあって明かである。そして、広本『節用集』には、
竪議(シユギ/タテ、ハカル) 竪音主也。然ヲ日本教家ニ、呼(ヨン)テ爲‖立音(リツノコヱ)ヲ|。大ニ誤レル也。竪與豎同豎(タツ)横。〔態藝門976B〕
とあって、『下學集』の語注記を継承し、この『庭訓徃來註』の語注記後半部に合致する。印度本系統の永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』にあっては、
竪(リウ) ―儀。―(リツ)者 竪ハ音主也。然日本俗教宗呼爲∨立音大誤歟。竪与豎同。〔永・言語58D〕
竪議(リウギ) ―者竪音主也。然日本俗教宗呼爲立音大誤乎。竪与豎同。〔尭・言語53@〕
とあって、語注記が指摘する日本の世俗の教家に「立(リウ・リツ)」の音で呼び大いに誤るとしながら、世俗の読みを指示し、「利」部に収載している。さらに、改編『下學集』である春良本を見るに、
竪議(リウキ) 竪之音ヘ_主也。然ニ日-本之教-化ニ、呼テ爲(ナス)‖立ノ之音ヘヲ|大ニ_誤(アヤマリ)_歟。竪ト与ト∨豎(シユ)同_也。〔態藝七二4〕
とあって、やはり世俗の読みを優先する傾向にあるようだ。そして、弘治二年本『節用集』、両足院本『節用集』は、『運歩色葉集』と同様に、この語を未収載にする。
これを以って鑑みるに、『庭訓徃來註』が引用した「註記」の書には、どうも二種類あって、後半部の語注記が『下學集』を母体として共通するものであり、前半部の語注記が如何なる「註記」の書に基づくものなのかを今後明かにしなければなるまい。そして、何故『運歩色葉集』そして、印度本系統の『節用集』弘二二年本と両足院本にこの語を収載していないのかを今後同じく問わねばなるまい。
江戸時代の『書字考節用集』に、
竪者(リツシヤ) 竪音ハ主。今所ノ∨呼音ハ立。是レ台家從來之謬リ矣。○台家歴‖沙彌戒ヲ|補シテ‖――ニ|僧正法印モ又-時補スル‖當職ニ|。謂‖之ヲ逆退(ケキタイ)ト|。〔官位三38C〕
とある。
2000年11月25日(土)晴れ。八王子⇒西新宿(三省堂文化会館2F)第18回 語彙・辞書研究会
といにごか くはのはのはく かごにいと
問いに期か 桑の葉の吐く 蠶に絲
「倶舎(クシヤ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久」部に、
倶舎(クシヤ) 天竺、天観菩薩之所立也。――論是也。〔元亀本194E〕
倶舎(クシヤ) 天竺、天-親菩-薩之所立也。――論是也。〔静嘉堂本220E〕
倶舎(クシヤ) 天竺、天観菩薩之所立也。―――是也。〔天正十七年本中39ウF〕
とある。標記語「倶舎」の語注記は、「天竺、天-親菩-薩の立つ所なり。倶舎論是れなり」という。ここで、三写本のうち元亀本と天正十七年本は、「天観菩薩」に作るのに対し、静嘉堂本は「天親菩薩」に作り、異なりを見せている。『下學集』は未收載にある。『庭訓徃來註』卯月五日の状に、
或禪律兩僧 自‖方等部|禪出也。達磨惠可僧〓〔玉+粲〕道信弘忍惠能也。律宗ハ自‖四阿含|出也。道宣律師也。日本ニハ仁王四十六代孝謙天王ノ時自‖大唐鑑真和尚|渡也。八宗ハ法相三論倶舎成實律宗花厳天台真言也。倶舎成實律宗ノ三ハ小乗也。法相三論花厳天台真言ノ五ハ大乗也。倶舎成實律宗法相三論真言六宗ハ天竺ニ所∨立也。天台花厳二宗ハ震旦所∨立也。倶舎ハ天竺天親菩薩所∨立倶舎論是也。成實ハ天竺可利跋摩三蔵所∨立成實論是也。律宗ハ天竺菊多三蔵五人弟子所∨立四分五分等是也。法相宗ハ如来滅後提婆菩薩出世為‖阿育大王|。説‖諸方實相状ヲ|。又阿僧伽師出世奉請都卒天弥勒菩薩ノ時夜分降。天竺説法所∨謂瑜伽論等是也。又護摩菩薩出世説此宗唯識論等是也。三論ハ如来入滅ノ後竜猛菩薩出世宣諸皆空之旨所謂百論等是也。又青辧菩薩出世同宣此義文殊馬(メ)鳴竜樹提婆羅什等皆為‖租師|。天台ハ震旦隋代、智大師自南岳惠恩大師又名惠文禅師。爰三種止観篭居於大蘓道場開發霊山之聽弘宣法花深義玄義文句等是也。花厳ハ震旦禅門寺花厳和尚所∨立。又唐代法蔵大師奉詔講‖花厳經|。至‖世界品|。大地震動ス。爰則天皇後貴∨之下∨勅令∨製‖疏釈|。施宣此經所∨謂花厳是也。蓋シ法相花厳天台真言ハ依∨經ニ立∨之。倶舎成實三論ハ依∨律ニ立∨之也。〔謙堂文庫藏二四左D〕
*天理本「倶舎ハ天竺、天親ササ所∨立。倶舎論是也」とある。
とあって、「律宗」「八宗」といった語注記のなかで、この「倶舎」の語注記が見えている。そして、『運歩色葉集』は、まさにこの語注記を引用するものである。そして、静嘉堂本の「天親菩薩」と同じく「親」に作り、「観」ではない。『節用集』類の広本『節用集』そして、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』にあっては、『下學集』と同じように未收載の語である。
2000年11月24日(金)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
といつよき ききしにしきき きよついと
都逸良き 聞きし錦樹 黄よ遂と
「賞罰(シヤウバツ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
賞罰(−バツ) 。〔元亀本316H〕
賞罰(−バツ) 。〔静嘉堂本372C〕
とある。標記語「賞罰」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見えているが、『下學集』は未收載にある。そして、『庭訓徃來註』卯月十四日の状に、
賞罰厳重ニシテ而 黄帝蚩尤ヲ平ケテ以来厳重也。雖∨然三皇ノ間ハ无∨賞、无∨罰。五帝ハ有賞有罰也。〔謙堂文庫藏二〇左C〕
とある。語注記は、「黄帝、蚩尤を平げて以来、厳重なり。然りと雖ども三皇の間は賞なし、罰なし。五帝は、有賞有罰なり」という。『節用集』類の広本『節用集』には、標記語としての「賞罰」は見当たらない。
賞罰(―ハツ)明(アキラカ)ニシテ而不(ズ) ∨可(ベカラ) ∨欺(アザムク) ‖法禁(ハウキン) |行(ヲコナワレ)テ不(ズ) ∨可(ベカラ) ∨犯(ヲカ)ス 孝経。〔態藝門九六〇8〕
賞罰(シヤウハツ)必(カナラズ)信(シン)アルコト如(ゴト)ク∨天(テン)ノ如(ゴトク)シテ∨地(チ)ノ乃(スナワチ)可(ベシ) ∨御(ヲサム) ∨人(ヒト)ヲ 三略。〔態藝門九五九7〕
賞罰(―ハツ)不(ズ) ∨可(ベカラ) ‖輕(カロ/\)シク行(ヲコナウ) | 政要。〔態藝門九六〇7〕
賞罰(―バツ)ヲバ如(ゴトク)セヨ∨加(クワフル)ガ於身(ミ)ニ賦〓〔僉+欠〕(フレン)ヲバ如(ゴトク)セヨ∨取(トラ)ルヽガ己(ヲノレ)ガ物(モノ)ヲ此(コレ)愛(アイ)スル民(タミ)ヲ之道(ミチ)ナリ也。同(六韜)〔態藝門九六〇4〕
太宗(タイソウ)ノ曰(イワク)國家(コツカ)ノ大亊(タイジ)ハ唯(タヾ)賞(シヤウ)ト與トナリ∨罸(ハツ)。若(モシ)賞(シヤウ)當(アタルトキ)ハ‖其(ソ)ノ労(ラウ)ニ|无(ナキ) ∨功(コウ)者(モノ)自(ヲノヅカラ)退(シリゾク)罸(ハツ)當(アタルトキ)ハ‖其(ソノ)罪(ツミ)ニ|為(スル) ∨悪(アク)ヲ者(モノ)誡(イマシメ)_懼(ヲソル)則(スナワチ)賞罰(シヤウハツ)不(ズ)可(ベカラ) ‖∨軽(カロ/\) シク_行(ヲコナ)ウ|也。貞観政要〔態藝門三四七2〕
有(アツ)テ∨―不(ズ)∨賞(シヤウ)せ有(アツ)テ罪(ツミ)不(ズ)ハ∨誅(チウ)せ雖(イフ)トモ‖君(キミ)ト不(ズ) ∨能(アタワ)以(モ)テ化(クワ)スルコト‖天下(テンカ)ヲ|栄辱(エイジヨク)ハ者賞罰(シヤウハツ)ノ之精萃(セイスイ)ナリ 左傳。〔態藝門六七九4〕
といったように、金言名句の語として引用するにすぎない。そして、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』にあっては、
―(常)罸(―ハツ)。〔弘・言語進退249B〕
賞翫(シヤウクワン) ―罸。〔永・言語209F〕
賞翫(シヤウクワン) ―罸。〔尭・言語193H〕
とあって、永禄二年本と尭空本とは、標記語「賞翫」のなかで注記されている。『運歩色葉集』と同様、語注記は見えない。当代の『日葡辞書』には、
Xo<bat.シャゥバッ(賞罰) 褒賞することと処罰することと.〔邦訳787r〕
とある。
[ことばの雑学]産経新聞夕刊「ことばの雑学」の欄、「かき」と「こけら」の漢字表記【柿】の異なりについて取り上げている。
2000年11月23日(木)晴れ。勤労感謝の日 八王子
といふみか いらふみふらい かみふいと
問い文か 応文無頼 紙筆と
「鏡(かがみ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀」部に、
鏡(−) 昔有テ∨人、亀ノ腹ノ光ヲ見テ鋳∨之也。故ーノ裏(ウラ)ニ通(トヲ)ス∨緒ヲ所ニ成∨亀ノ形ヲ也。荘子ニ云亀ー(キケイ)者只鏡也。又天照太神自ラ鋳(イ)∨鏡ヲ、移シテ‖其形ヲ|守‖護ス天下ヲ|。始テ鋳ニ∨鏡ヲ不可有疵也。紀伊國肥前國有∨社。后ニ鋳∨ー写ス‖形容ヲ|。曰我ハ是岩戸ノ住今之神也。天照皇太神后曰彼二神可シ‖守天下ヲ|云々。故ニ毎ニ‖正月|大圓ーヲ二ツ用之祝也。〔元亀本107B〕
鏡(−) 昔有人、見テ‖亀腹ノ光ヲ|鋳(イル)∨之也。故ニーノ裡ニ通ス∨緒ヲ所ニ成‖亀ヲ|也。荘子ニ云亀ノー(ケイ)者只―也。又天照太神自鋳(イ)テ∨ーヲ、移‖其形ヲ|守‖護天下|。始鋳∨―ヲ不∨可∨有疵也。紀伊国肥前国有∨社。后ニ鋳∨ー写‖形容ヲ|。曰我是岩戸住今之神也。天照皇太神曰彼二神可∨守‖天下ヲ|云々。故ニ毎(コト)ニ‖正月|大圓ー二用∨之祝也。〔静嘉堂本134C〕
鏡(−) 昔有人見‖亀之腹之光ヲ|鋳ー也。故ー之裏ニ通∨緒所ニ成‖亀形|也。荘子云亀ー者只ー也。又天照大神自鋳ー移‖其形ヲ|守護天下。始鋳ー不可有疵也。紀伊国肥前国有社。后鋳ー写形容曰我是岩戸住今之神也。天照大神曰彼二神可∨守‖天下ヲ|云々。故ニ毎正月大圓ー二用之祝也。〔天正十七年本上66オ@〕
鏡(カヽミ) 昔有∨人見‖亀ノ腹ノ光ヲ。鋳∨ーヲ也。故ーノ裏(―ラ)ニ通∨緒ヲ処ニ成‖亀形|。荘子ニ云ク亀ー(キキヤウ)者(ハ)只ー也。又天照太神自ラ鋳ル∨ーヲ移ス‖其ノ形ヲ|守‖護天下ヲ|。始テ鋳ー不可∨有∨疵|也。紀伊國肥前国有リ∨社。后ニ鋳∨ーヲ写‖形容ヲ|。曰‖我ハ是レ岩戸ニ住(スム)今ノ神也。天照太神曰彼ノ二神可∨守‖天下ヲ|云々。故毎正月大円ー二ツ用∨之視也。〔西來寺本187@〕
とあって、標記語「鏡」の語注記は、「昔人有り。亀の腹の光を見て。鏡を鋳るなり。故に鏡の裏に緒を通す処に亀形を成す。荘子に云く、亀鏡(キキヤウ)は、只鏡なり。また天照太神自ら鏡を鋳て其の形を移し、天下を守護す。始めて鏡を鋳るに疵あるべからずなり。紀伊の國、肥前の国に社有り。后に鏡を鋳て形容を写す。曰く我は是れ岩戸に住む今の神也。天照太神曰く、彼の二神天下を守るべし。故に毎正月大円鏡二つこれを用ゆ。祝いなり」という。『庭訓徃來』に見えているが、『下學集』は未收載にある。そして、『庭訓徃來註』六月十一日の状に、
油-單等ノ雜-具心-之所∨及奔‖-走之|兼-又定被ル‖存知|歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅ノ之軍致(チ)也棄‖一命|被∨竭(ツク)粉骨|者書‖-載テ證判ノ状ニ|可∨被∨備‖後-胤(イン)之亀-鏡ニ|也 昔有∨人、龜ノ甲ノ光ヲ見テ鏡ヲ鑄也。故ニ鏡ノ裡ニ緒ヲ通処ニ龜ノ形ヲ成也。荘子ニ曰、龜鏡ハ只鏡也。我朝ニハ天照大~自被∨鑄移‖我形ヲ|。守‖-護ントナリ日本ヲ|、始鑄ハ少疵有リ。故紀州日前国見ノ社ニ有。後ニ鑄給ハ、伊勢ニ移‖形容|。我ハ入‖天ノ岩戸|今ノ~是也。太~ノ云、彼二~ニシテ可∨守也。胡ニ正月ノ大圓鏡モ二ヲ用也。三種ノ~祗ヲ爰ニ可∨引。〔謙堂文庫藏三八左H〕
とあって、この「鏡」の語注記から引用抜粋したものと見てよかろう。広本『節用集』は、
鏡(カヾミ/ケイ)鑑(同/カン) 君壽始鋳。異名、明鸞(ラン)。菱花魏武有‖――|。清明。鸞影。青銅。軒轅。鶴文。秋潭。五薄。百錬。方諸全。碧銅。清鑑杜。容成侯。變影。保三。火齊。見心。寳粧成。和尚鏡。玉光。法明。〔器財門268A〕
とあって、上記『庭訓徃來註』および『運歩色葉集』の語注記とは異なっている。そして、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』にあっては、
鏡(カヾミ) 鑑(カヽミル) 鑒同。〔弘・財宝84@〕
鏡(カヾミ) 鑑(カヽミル) 。〔永・財宝80G〕
鏡(カヾミ) 鑑(同) 。〔尭・財宝73E〕
鏡(カヾミ) 鑑(同) 。〔両・財宝88@〕
とあって、広本『節用集』の標記語を収載するに留まり、語注記は未記載になっている。このことからも、『運歩色葉集』の『庭訓徃來註』からの引用継承度合いが強いことを確認できよう。当代の『日葡辞書』に、
Cagami.カガミ(鏡・鑑) 鏡.§Cagamiga cumoru.(鏡が曇る)鏡に雲がかかる,または,光沢がなくなる.§Cagamini muco<.(鏡に向かふ)鏡に自分の姿をうつして見る.§また,Cagami(鏡・鑑)善徳などの鏡,すなわち,模範.§Ienno cagami.(善の鏡・鑑)善徳などの鑑、すなわち,模範。§Fitono cagamito naru.(人の鏡となる)ほかの人々に良い模範を示す.〔邦訳77r〕
とある。
2000年11月22日(水)曇りのち晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
といつつみ はるかにかるは みつついと
問い鼓 遙かに駈るは 見続いと
「平安城(ヘイアンジヤウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遍」部に、
平安城(−アンジヤウ) 京名。〔元亀本51G〕
平安城(−アンジヤウ) 京名。〔静嘉堂本57G〕
平安城(−アンジヤウ) 京名。〔天正十七年本上29ウE〕
平安城(―――) 京名。〔西来寺本93@〕
とある。標記語「平安城」の語注記は、「京名」という。『庭訓徃來』にはなく、これを受けて『下學集』も未収載にある。『庭訓徃來注』卯月十一日の状の語注記に、
仁王五十代桓武天皇御宇、延暦十三年甲戌遷‖平安城|也。彼平安城ハ九重東西十八町也。南北三十八町也・横小路、一條・正親町・土御門・鷹司・近衛・勘解由小路・中御門・春日・大炊・御門・冷泉・二条・押小路・三条坊門・姉小路・三条六角・四条坊門・錦小路・四条綾小路・五条坊門・高辻・五条通{樋}口・六条坊門・楊梅・六条目牛(サメウシ)・七条坊門・北小路・七条塩小路・八条坊門・梅小路・八条針小路・信乃(ノ)小路・唐橋・九条・巳上三十八町也。堅小路、朱雀・坊城・壬生・櫛笥・大宮・猪熊・堀川・油小路・西洞院町・室町・烏丸・東洞院・高倉・万里小路・冨小路・京極・朱雀、巳上十八町也。以‖内裡|爲‖中央ト|。町人之置樣ハ、一水・二火・三木・四金・五土・六水・七火・八木・九金也。〔謙堂文庫藏二七右H〕
*天理本「樋(ヒ)口」。「目牛(サメウシ)」。
とあって、実に詳細な内裏を中心とした町の名称を記載している。『節用集』類の広本『節用集』は、「へ」部に「平安城」の語は未収載にして、巻末に「洛中横小路」と「洛中竪小路」に、
洛中横小路 一条・正親町(ヲヽキマチ)・土御門(ツチミカト)・鷹司(タカツカサ)・近衛(コノヱ)・勘解由(カンケユ)小路・中御門(ナカノミ−)・春日・大炊(ヲヽイノ)御門・冷泉・三条・押小路(ヲシノ)・三条ノ坊門・姉小路(アネカ−)・三条・六角・四条ノ坊門・錦小路(ニシキノ−)・四条綾(アヤ)ノ小路・五条ノ坊門・高辻・五条樋口(ヒクチ)・六条ノ坊門・楊梅(ヤマモヽ)・六条佐目牛(サメウシ)・七条ノ坊門・北小路・七条塩(シホ)ノ小路・八条ノ坊門・梅ノ小路・八条針(ハリ)ノ小路・信乃(シナ) ノ小路・唐橋・九条巳上南北三十八町。〔補末部1150@〕
洛中竪小路 朱雀・坊城・壬生(ミフ)・櫛笥(クシケ)・大宮(ヲヽミヤ)・猪熊(イノ−)・堀川・油(アフラ)ノ小路・西ノ洞院町・室町(ムロ−)・烏丸・東ノ洞院・高倉(タカクラ)・万里(マテ)小路・冨(トミ)ノ小路・京極・朱雀巳上東西十八町。但シ以‖大裡|爲‖中央ト|。東京也。西京者略而不∨記∨之乎。〔補末部1151@〕
とあって、上記『庭訓徃來注』の注記に合致する。そして、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』にも、「京中小路名」として、
南北三十八町 東西ニ通弘仁九年戊戌被定之
一条(デウ)・正親町(ヲウキマチ)・土御門(ツチミカト)・鷹司(タカツカサ)・近衛(コノヱ)・勘解由小路(カデノコウチ)・中御門(ナカノミカト)・春日(カスガ)・大炊御門(ヲヽイノミカト)・冷泉(レイゼン)・二条・押小路(ヲシコウチ)・三条ノ坊門・姉小路(アネカ−)・三条・六角(カク)・四条ノ坊門・錦小路(ニシキノ−)・四条綾(アヤ)ノ小路・五条坊門・高辻(タカツシ)・五条樋口(ヒクチ)・六条ノ坊門・楊梅(ヤマモヽ)・六条佐目牛(サメウジ)・七条ノ坊門・北小路・七条塩小路・八条坊門・梅(ムメ)小路・八条針(ハリ)ノ小路・信濃(シナノ)ヽ小路・唐橋(カラハシ)・九条〔弘・281@〕
東西竪十八町 但以‖大内ヲ|為ス中央ト|。東京ノ分也。西京ハ畧シテ不記焉
西朱雀(シユシヤカ)・坊城(バウジヤウ)・壬生(ミブ)・櫛笥(クシゲ)・大宮(ヲウミヤ)・猪熊(イノクマ)・堀川(ホリカワ)・油(アフラ)ノ小路・西ノ洞院町(マチ)・室町(ムロマチ)・烏丸(カラスマル)・東ノ洞院・高倉(タカクラ)・万里(マデ)ノ小路・冨(トミ)ノ小路・京極(キヤウゴク)・東朱雀。〔弘・282D〕
とある。
2000年11月21日(火)晴れのち曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)
といにいき たきびとびきた きいにいと
都井に生き 焚き火飛び来た 黄に絲
「市町(イチマチ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「伊」部に、
市町(イチマチ) 仁皇卅代持統天皇之時諸國始ル也。〔元亀本14C〕
市町(イチマチ) 仁皇卅代持統天王之時諸国――始也。〔静嘉堂本7B〕
市町(イチマチ) 人皇卅代持統(チトウ)天皇ノ時諸国――始也。〔天正十七年本上5ウG〕
市町(イチマチ) 仁皇卅代持統天皇之時諸國始ル也。〔西来寺本〕
とある。標記語「市町」の語注記は、「仁皇卅代、持統天皇の時、諸國市町始るなり」という。ここでは、本邦における「市町」の起源を説明する注記であることが見て取れる。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來注』卯月五日の状に、
凡先日被‖仰_下|市町興行 仁王四十代持統天王ノ時諸国路、田町始ナリ。〔謙堂文庫藏二〇左H〕
凡先日被‖仰_下|市町興行 仁王卅代持統天王ノ〓〔日+之〕諸国路、田町始也。{頭注書込み}市トハ斉ノ桓公之管仲ト云者市ヲ立テハシムル也。是大乱起時土民皆餓ス。其時市ヲ始也。〔天理本右@〕
凡先日被‖仰_下|市町興行 仁王卅代持統天王ノ〓〔日+之〕諸國路、田町始也。{頭注書込み}市トハ斉ノ桓公之管仲ト云者市ヲ立テハジムル也。是ニ−ハジムル也。是レ夫乱起〓〔日+之〕、土民皆餓ス。其〓〔日+之〕市ヲ始也。〔国会図書館藏左貫注左E〕
とあって、持統天皇の代の数が「卅」を「四十」としている点は、天理本・左貫注では「卅」とあることから、謙堂文庫の誤写であることが知られる。また、「諸国路田町始」の「路田町」を欠いている以外は『運歩色葉集』によく共通する。そして、巻頭書込みには、中国における「市町」の起源を収載していることから、当代の上流知識層にあっては、中国の起源と本邦の起源とが常に対をなすことで学習されてきており、こうした修学形態が根強く茲にも関わっていたことを示唆するものである。次に『節用集』類の広本『節用集』、そして印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』に、この語は未収載にある。これにより、『庭訓徃來注』から『運歩色葉集』が『節用集』より遙に多くの語を引用していることが裏付けられるのである。江戸時代の『書字考節用集』に、
市町(イチマチ)。〔乾坤一10@〕
とあって、語注記は未記載にある。
2000年11月20日(月)雨。八王子⇒世田谷(駒沢)
といつおき つりふねふりつ きおついと
渡一冲 釣り舟振りつ 氣落つ絲
「年預(ネンヨ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「袮」部に、
年預(−ヨ/アヅカル) 。〔元亀本163I〕
年預(−ヨ) 。〔静嘉堂本181C〕
季預(−ヨ) 。〔天正十七年本中21ウC〕
とある。標記語「年預」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未收載にある。『庭訓徃來註』卯月十一日の状に、
節-李ノ年-預ヨ 国々ノ倉主ヲ一年中ノ代ノ利倍ヲ勘定シテ其ノ餘リヲ内裏ヘ節季ニ進-貢スルヲ云也。預ノ字心ハ代ヲ人ニ預ル之義也。〔謙堂文庫藏二七右G〕
とある。『節用集』類の広本『節用集』は、
年預(ネンヨ/トシ、アヅカル) 。〔態藝門429A〕
とあって、標記語のみで語注記は未記載にある。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』には、
年預(−ヨ) 。〔弘・言語進退135D〕
とあって、永禄二年本、尭空本は未収載にある。江戸時代の『書字考節用集』に、
年預(ネンヨ) 又出‖人倫|。〔時候二64D〕
年預(ネンヨ) 院ノ御所。関白家ノ次官ヲ輔ル‖政事ヲ|之職也。又諸大寺掌ル‖年中ノ諸雜事ヲ|者。〔人倫四39B〕
とある。
2000年11月19日(日)曇り後晴れ。八王子⇒世田谷(玉川⇒駒沢)
といいくに つめたくためつ にくいいと
訪い行くに 冷たく溜めつ 憎い絲
「月迫(ゲツハク)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣」部に、
月迫(−ハク) 。〔元亀本215I〕
月迫(ゲツハク) 。〔静嘉堂本245G〕
月迫(ケツハク) 。〔天正十七年本中52ウA〕
とある。標記語「月迫」は、語注記を未記載にする。『庭訓徃來註』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』卯月十一日の状に、
公事・臨-時之課-役・月-迫之上分 迫ハ見‖暦圖|迫ハ‖臘月|也。上分一国一郡ヨリ定年貢之外ニ、臘月ニ|内裡ヘ進貢スルヲ云也。〔謙堂文庫藏二七右E〕
とあって、「迫は暦圖を見、迫は臘月なり。上分一国一郡より定めて年貢の外に、臘月に内裡へ進貢するを云ふなり」という。『節用集』類の広本『節用集』は、
月迫(ゲツハク/ツキ、セマル) 臘月。〔時節門589G〕
とあって、その注記には「臘月」とあり、『庭訓徃來註』の「迫は臘月なり」に合致する。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』には、
月迫(ゲツハク) 臘月。〔弘・時節172C〕
月迫(ゲツハク) 臘月。〔永・時節141F〕
月迫(ゲツハク) 臘月。〔尭・時節131C〕
とあって、広本『節用集』をそのまま継承する。当代の『日葡辞書』には、
Gueppacu.ゲッパク(月迫) Tcuqi,xemaru.(月,迫る)すなわち,Tcuqino fate.(月の果て)月々の最後,すなわち,Xiuasu(師走).〔邦訳296r〕
とある。
[ことばの実際]
御仏名之間。可∨企‖参仕|之由相存之処。月迫之習。云‖方々公事|。云‖元三料宮|。乱暇不∨候之間。空以罷退畢《『明衡徃来』中末》
2000年11月18日(土)晴れ。八王子⇒板橋(国立国語研究所)
といいやも さむさはさむさ もやいいと
訪い厭も 寒さは寒さ 舫い絲
「顕密(ケンミツ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣」部に、
顕密(ケンミツ) −ハ天台、−ハ眞言、天台宗ハ自‖南天竺|傳来。音聲短故。曩謨(ナム)三滿多(サマタ)讀。眞言宗ハ自リ‖天竺|傳法来ル。音声長故。曩謨(ナウホウ)三滿多(サンマンタ)ト讀也。〔元亀本215E〕
顕密(ケンミツ) −(ケン)ハ天台、−(ミツ)ハ眞言ナリ、天台宗自‖南天竺|傳∨法来ル。音声短故ニ。曩謨(ナム)三滿多ト讀。眞言宗ハ自天竺|傳法ヲ来ル。声長キ故ニ。曩謨三滿多ト讀也。〔静嘉堂本245C〕
とある。標記語「顕密」の語注記は、「顕は天台、密は眞言、天台宗は南天竺より法を傳へし来る。音声短し。故に曩謨(ナム)三滿多(サマタ) と讀む。眞言宗は天竺より法を傳へし来る。音声長き故に、曩謨(ナウホウ)三滿多(サンマンタ)と讀む」という。ここで、「曩謨三滿多」の読みそのものが異なることを注記しているのであるからして、元亀本の如くこの部分に読みを付すのが本来ではなかろうか。これを静嘉堂本はすべて付さずじまいにある。元亀本に従えば、天台宗は「ナムサマタ」、真言宗は「ナウホウサンマンタ」と読むのである。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未收載にある。『庭訓徃來注』卯月五日の状に、
顕教密宗之學匠 顕ハ天台、密ハ眞言、天台宗ハ自‖南天竺|傳法シ来。音声短シ。故ニ曩謨(ナウマク)三滿多(サマ―)ト讀ム。眞言宗ハ自‖中天竺|傳法シ来。音声長。故ニ曩謨(ナウマク)三滿多ト讀ム。〔謙堂文庫藏二五左A〕
とあって、『運歩色葉集』はここからの引用であることが知られる。ただし、「曩謨三滿多」の読みについてだが、謙堂文庫本は、「ナマサマタ」と「ナウマク――」とあることから全ての識別は不可能である。これを天理図書館本では、「ナマ――」と「ナウマク――」と冒頭部「曩謨」の読みの区別を示ししている。国会図書館左貫注は、「ナマ――」と「ナフマクサンマン−」とし、いずれも元亀本とその読みを異にしている。次に『節用集』類の広本『節用集』は、
顕密(ケンミツ/アラワス、ヒソカ)。〔態藝門600G〕
と標記語のみで、語注記は未記載にある。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』には、標記語そのものを未收載にする。
当代の『日葡辞書』に、
Qenmit.ケンミツ(顕密) Arauare cacururu.(顕はれかくるる)顕現と秘密と.仏法語(Bup).〔邦訳486l〕
とある。
[ことばの実際]
圓觀上人と申(まうす)は、元(もと)は山徒(サント)にて御座(おはし)けるが、顕密(ケンミツ)両宗(リヤウシユウ)の才(サイ)、一山(サン)に光(ひかり)有(ある)かと疑はれ、智行(チギヤウ)兼備(ケンビ)の譽(ほま)れ、諸寺(シヨジ)に人無(なき)が如(ごと)し。《『太平記』巻第二・三人の僧徒関東下向の事、大系一63E》
2000年11月17日(金)小糠雨。八王子⇒世田谷(駒沢)
とひいなば うつつよつつう ばないひと
問い否ば 現世頭痛 場無い人
「酒(サケ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「左」部に、
酒(サケ) 杜康(トク)杜燕(トエン)夫婦(フウフ)始造也。杜康(トク)死ス。杜燕(トエン)哀∨之、木蓮木之本ニ而日備∨飯ヲ。鳥含∨之ヲ、置テ‖杉(スギ)洞天水懸ル爲∨酒。故ニ酒字水鳥書(カク) ∨酉ヲ也。〔元亀本279@〕
酒(――) 杜康(トカウ)杜燕(トヱン)夫婦始テ造也。杜康死ス。杜燕哀∨之ヲ、木蓮木云本而日々備∨飯。鳥含∨之、置‖杉洞天水懸爲∨酒。故ニ酒之字水邊(ヘン)書∨酉ヲ也。〔静嘉堂本318F〕
とある。標記語「酒」の語注記は「杜康・杜燕夫婦始めて造るなり。杜康死す。杜燕これを哀れみ、木蓮の木の本に日々飯を備ふ。鳥これを含み、杉の洞に置き、天水を懸る酒と為す。故に酒の字水邊{扁}に酉を書くなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未収載にある。
『庭訓徃來註』卯月五日の状に、
酒沽(ウリサケ) 杜康杜燕ト云夫婦ノ者、或時杜康死也。杜燕哀ミ∨之、木蓮ト云木ノ本ニ日々備∨飯ヲ。小鳥含∨之、置‖杉洞|暦‖日数|熟天水懸テ爲ル∨酒ト。故ニ水ニ酉ヲ書也。山人是ヲ見取飲ムニ甘也。〔謙堂文庫藏二一左C〕
とあって、この箇所からの引用である。最後の「山人是れを見、取りて飲むに甘きなり」を省いていることも知られる。次に『節用集』類の広本『節用集』は、
酒(サケ/シユウ)百詠云、飲膳標題ニ酒者、天之美禄ナリ。帝王所‖-以ナリ。享祀シテ所∨福扶∨老(サケ) ヲ交∨歓ヲ百福之會。非∨酒ニ不∨行。酒ニ有‖清濁厚薄之不同|。故清者曰∨〓〔酉+票〕。清而甘白∨〓〔酉+巳シ〕ト。濁(ニコル) ヲ曰∨〓〔酉+央皿〕ト。厚曰∨醇。重醸曰∨酣。薄曰∨〓〔酉-漓〕。一宿熟曰∨醴(ホウ)ト。美者曰∨〓〔酉+胥〕。紅者曰∨醍。緑者曰∨〓〔酉+雨品〕ト。白者曰∨〓〔酉+差〕。麥酒ノ不∨去滓(シル)ヲ而飲曰∨醪。食療經云、五穀華味之至也。故能益シ∨人ヲ亦能損∨人ヲ也。異名。松醪杜。村醪。烏程荊南--。烏祈。魯薄。魯〓〔酉-温〕。魯温。竹葉。浮蟻万。浮蛆谷。緑蛆。紅朋。紅友。緑友。歓伯。新〓〔酉-倍〕寸。蘂落。浮蝋。麹塵。麹秀才。麹生同。鵞黄恠之杓写――。青州従亊谷。闌玉。玉液万。玉友。盈墫。蟻香。浮甕。洞庭春色。督郵谷悪酒。清聖。濁賢。蘭亭。上尊。中尊。下尊。南岸曰上若。北岸曰下若。〓〔勹+米〕酒。緑酒。〓〔手+尤力〕青。三清。桂香。十旬。線茂。〓〔酉-祿〕〓〔酉-倍〕。流霞。流漿。陽燧。去憂。銷憂。酒泉。郡九〓〔酉-温〕酒。明君。齊醸。琥珀。美酒。一壺酒。禅花。白々。薄々。錦江春色黄封白。紫霞。新蒭寸。春蒭。舜泉谷。忘憂君又草トモ。忘憂ノ物。雪泉。金魚。雲〓〔土+而大〕。小道士寸。般若湯。焼春。玉蛆玉篇。杏霞。洗泥酒。碧香酒同。真一先生白酒。屠蘇寸。春蟻。麟脂。狂藥寸。黄直杯ノ情。桐馬。蘭王漢武ノ酒曰‖--。鵬黄。蒲萄。鵞児酒杜。蔗漿坡六蔗テ酒ヲ造ル。豫北。竹葉。臘味万。松花酒。春酌杜。麹〓〔薛+子〕尓雅。〓〔酉+需〕〓〔酉-祿〕寸。醇醴同。瓊液同。荷心苦金。玉東西隹人斗南美酒――艶シ下。瑞露珎坡云酒汚I下。酪母酒滓謂之−鴛。玉〓〔月+高〕。釣詩鈎坡。茅柴金薄酒。雪液同。雲液。〓〔酉+余〕〓〔酉+縻〕酒寸。宣春同。官〓〔酉-温〕悪谷。醗〓〔酉-倍〕寸。白波酒令同。藥長百薬ノ長同。芳醪同。大送美同。良薬同。玉脂同。玉漿玉海。白搗波。碧友。掃愁箒坡。清酌史。官泥赤親折‖--ヲ|坡十六。羅浮春杜。洞庭ノ春。呉醴。楚瀝金。平原。〓〔旱+阜〕筒坡〓〔旱+阜〕ヨリ大竹ノ筒ニ酒ヲ入ルヽ苔トモ作也。玉屑十六巻。藥郎トナス。又索郎谷注。榴花酒。蒲城谷。酉水分字。消臺藥。平樂香。絳霞。梨花。春雪。宿醸古酒ヲ云。瓊漿同。杜康始作合紀。沙掲(サケ)玉露。沙嬉(サケ)。〔飲食門779B〕
とあって、その語注記は大いに異なるものである。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』には、
酒(サケ)。〔弘治二年本・食物212F〕
酒(サケ) 釣∨詩鈎。掃∨愁箒。皆_是号∨―也。−ハ是万病藥也。但不可過也。〔永禄二年本・食物178@〕
酒(サケ) 釣詩鈎。掃愁箒。皆_是云―也。−ハ是万病藥也。但不可過也。〔尭空本・食物166H〕
とあって、弘治二年本は語注記は未記載にあり、永禄二年本と尭空本は同じ注記内容であり、冒頭の箇所は広本『節用集』の異名に見える『東坡集』「洞庭春色詩」の詩句「應呼釣詩鈎」をもって「酒」の呼称としていることが知られ、次に「酒はこれ万病の藥なり、但し過ぎるべからず」という。この箇所は別資料からの引用である。
さて、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』における共通のこの「杜康・杜燕夫婦」譚だが、広本『節用集』に「杜康始作合紀」とあって、典拠を『国花合紀集』としている。また、「三寸」のところで引用した『河海抄』に、
又云、三木 杜康造酒蒙求杜康か妻男のほかへゆきける間に男の日々の飯を園木の三またにそなへをきけるか、雨露に潤て酒となりける也。
とあって、ここでは『蒙求』を典拠として引用する。
[参考] 2000年6月2日(金)「天野(あまの)」1999年10月26日(火)「三寸(みき)」
[ことばの実際] 杜康酒(トコウシュ)河北省。
據文物考古発現,中國公元前 5000 年至公元前 7000 年遺存的文物中,便有盛酒的陶器,説明酒的歴史之久遠。從漢代的文字資料看,人們認爲儀狄和杜康是中國最早掌握併傳布釀酒技術的人。《世本》説:“儀狄始作酒醪,變五味,少康作[禾朮]酒。”〔酒文化より抜粋〕
酒は詩を鈎針〔『譬喩尽』六〕
2000年11月16日(木)曇り一時晴れのち雨。八王子⇒世田谷(駒沢)
といいろの むすみてみすむ のろいいと
訪い色の 結みて身棲む 呪い絲
「蠶(カイコ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の補遺「虫名」部に、
蠶(カイコ)。〔元亀本373@〕
蠶(カイコ)。〔静嘉堂本453B〕
とある。標記語「蠶」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、
蠶(カイコ) 支-那ノ員-〓〔山+喬〕-山(インケウ[サン])ニ有‖氷蠶(ヘウサン)|。以‖霜-雪ヲ|覆(ヲヽフ) ∨之ヲ。作ス∨絲(イト)ヲ長サ一尺織(ヲリ)テ為‖文-錦([ブン]キン)ヲ|。入レトモ∨水ニ不∨濡(ヌレ)。入モ∨火ニ不ズ∨燒(ヤケ)。東-坡カ句ニ云ク氷-蠶不ス∨識(シラ)∨寒ヲ。火-鼠([クワ]ソウ)不スト云∨知∨暑。即チ_是也。〔氣形66B〕
とあって、その語注記に「支-那の員-〓〔山+喬〕-山に氷蠶有り。霜-雪を以ってこれを覆ふ。作ス∨絲を作す。長さ一尺、織りて文-錦を為す。水に入れども濡れず。火に入るも燒けず。東-坡が句に云く、氷-蠶寒を識らず。火-鼠暑を知らずと云ふ。即ち是れなり」と收載説明がなされている。これを『庭訓徃來註』卯月五日の状に、
巧匠・番匠・木道 (コノ/キノ―)并金銀銅(キンギントヲ)ノ細工・紺掻(コウ―)・染殿・綾織・蠶養 蠶支那ニハ員〓〔山+喬〕山有‖氷蠶|。以‖霜雪|覆∨之。作∨絲ヲ。長一尺織テ爲‖文錦|。入∨水ニ不∨溺、入∨火不∨燒也。〔謙堂文庫藏二一右E〕
とし、『下學集』から「東-坡カ句」の前部分を引用している。次に『節用集』類の広本『節用集』は、
蠶(カイコ) −與‖蠶〓〔无4+日〕蚕|同字也。支那員〓〔山+喬〕山ニ有‖氷山|。以‖霜雪ヲ|覆∨之。作∨絲長一尺織為‖紋錦ト|。入トモ∨水不∨濡。入∨火不∨燒(ヤケ)。東-坡句云、氷山不∨識∨寒ヲ。火鼠不∨知∨暑ヲ。是也。〔氣形66B〕
とあって、これも『下學集』を継承し、冠頭部に同語異表記の文字を増補し、簡略削除は見えない。異なる表記箇所として、「氷蠶」を「氷山」とし、「文錦」を「紋錦」としている点である。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』には、
蚕(カイコ) 蠶同。〔弘・畜類80@〕
蠶(カイコ) 蚕同。支那ノ員〓〔山+喬〕山ニ有∨氷−|。以‖霜雪ヲ覆∨之。作∨絲長サ一尺織為‖∨文錦。入∨水不∨濡。入∨火不∨燒。東-坡句云、氷−不∨識∨寒ヲ。火鼠不∨知∨暑ヲ。是也。〔永・畜類80@〕
蠶(カイコ) 蚕同。支那員〓〔山+喬〕山ニ有‖氷−|。以‖霜雪|覆∨之。作∨絲長∨尺織為‖文錦。入∨水不∨濡。入∨火不∨燒。東-坡句云、氷−不∨識∨寒。火鼠不∨知∨日者是也。〔尭・畜類72C〕
蠶(カイコ) 蚕同。支那員〓〔山+喬〕山ニ有氷−。以∨霜雪覆∨之。作絲長一尺織為文錦。入∨水不濡。入∨火不∨燒。東-坡句云、氷−不∨識∨寒。火鼠不∨知∨暑是也。〔両・畜類86D〕
とあって、弘治二年本だけが広本『節用集』の増補記載にあたる同語異表記の箇所において、標記語を通俗字「蚕」とし、語注記に正字「蠶」を示すといった置換が見られ、語注記は削除している。他の三本は、やはり、広本『節用集』と同じく同語異表記の正俗で示し、『下學集』の語注記をそのまま継承する。ここで、『運歩色葉集』だけが異なった取込みであることになる。なぜ、『下學集』を頂点にした『庭訓徃來註』、そして『節用集』といった語注記の継承を記載しなかったのだろうか。それは、本篇「賀」部でなく、補遺「虫名」に収載することに何か関わっていたのだろうか、さらに深く考察する必要があろう。
当代の『日葡辞書』に、
Caico.カイコ(蚕) 絹の虫〔蚕〕,または,その種〔蚕種〕.下(ximo)では,またcaigo(蚕)とも言う.⇒Biacqio<zan;Gabi.〔邦訳80r〕
とある。江戸時代の『書字考節用集』には、
蠶(ヲコ) 俗用‖蚕ノ字ヲ|。○出‖加。久|。〔氣形・五51D〕
蠶(カイコ) [筍子]−ノ賦。屡/\_化シテ而不∨壽ヲ者乎。善ク壯ニシテ而拙キ∨老ニ者_乎。有‖父母|而無牝牡者_乎。○出‖遠。久|。〔氣形・五56B〕
蚕(同) 時珍云。俗用‖此ノ字ヲ|者非也。―ハ音曲。蚯蚓之名也。〔氣形・五56C〕
蠶(クハムシ)出‖遠。加ニ|。〔氣形・五70E〕
とあって、『下學集』からの引用継承とは異なる語注記にある。
[ことばの実際]
冰蠶 圓〓〔山+喬〕山――。長七寸黒色有鱗角。以霜雪覆之。作〓〔爾+虫〕長一尺織為文錦。入水不濡。入火不燎(拾遺記)。〔『韻府群玉』巻十八覃韻、二507左I〕
[HP関連サイト]
2000年11月15日(水)曇り一時晴れのち雨。八王子⇒世田谷(駒沢)
といとこと ひびくやくびひ とこといと
問い何処と 響くや九美火 何処問いと
「吹毛求疵(ケヲフイテキズヲモトムル)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「景」部に、
吹∨毛ヲ求∨疵 (−ヲ−キズヲモトムル) ―∨―∨―∨―ハ自鷹出ル也。广ニ有リ∨煩時、羽毛荒(アルヽ)其時吹毛ヲ見∨煩ヲ所ヲ|。必ス吹毛疵求ル赤シ。毛不∨吹而見則不∨見也。〔元亀本220@〕
吹テ∨毛ヲ求∨疵ヲ (−ヲ−テ−ヲ−) ――――自鷹出也。鷹有煩時、羽(ウ)毛荒其ノ時吹毛見∨煩所ヲ|。必赤キ毛不吹而見則ンハ不∨見也。〔静嘉堂本250F〕
吹∨毛ヲ求∨疵ヲ (−ヲフイテ−ヲ−ム) ――――自∨鷹出也。鷹ニ有ル∨煩時キ、羽毛荒(アルヽ)。其ノ時吹テ∨毛ヲ見‖煩ノ所ヲ|。必ズ赤(アカ)キ毛吹ク而見_則チ不∨見也。〔天正十七年本中54オE〕
とある。標記語「吹∨毛ヲ求∨疵ヲ」の語注記は、「吹毛疵求は、鷹より出づるなり。鷹に煩い有る時、羽毛荒るる。其の時毛を吹いて煩い所を見るに必ず赤き。毛吹かずして見るときんば見えざるなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未收載にある。『庭訓徃來註』卯月五日の状に、
吹∨毛ヲ不∨可∨求‖過怠之疵| 漢書云、吹ハ∨毛鷹ノ道ヨリ出辞也。其ノ身ニ煩イ有時ハ、毛荒テ居ス。其時鷹ノ毛ヲ吹其見‖煩所|必赤シ。毛不ル∨吹則疵ヲ不∨知也。言ハ鷹ノ无ヲ∨疵若シ疵ヤ有ト吹求ル如ク百姓等若有‖過怠|大ニ不レハ∨改必ス不∨可∨謂。刀ニモ毛ヲ吹カ見ルソ∨疵。〔謙堂文庫藏二〇左F〕
とあって、『運歩色葉集』の語注記はここに依拠していることが知られる。『節用集』類の広本『節用集』は、
吹フイテ∨毛ヲ求モトム∨疵キズヲ (−ヲフイテキズヲモトム) 漢書。〔態藝門601F〕
とあって、語注記は『庭訓徃來註』の冒頭に見える典拠『漢書』を記載するに留まり、その語注記は異なりを見せている。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』には、何故かこの語未收載としている。いわば、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との語注記の連関に留まり、『下學集』そして、『節用集』類との語注記における連関が見えないのである。江戸時代の『書字考節用集』には、
吹フ井テ∨毛ケヲ索モトム∨瑕キズヲ 喩フ∨如ニ下―‖_開テ毛縫ヲ|以求中其瑕疵ヲ上出[韓子][前漢書]又劉子カ云洗∨垢求ム∨痕ヲ云々。〔言辞十一11F・平樂寺版七八七F〕
とあって、典拠として『韓非子』を増補し、「きずをもとむ」の表記も「求∨疵」から「索∨瑕」といった書き換えが見られるのである。
[ことばの実際]
炯然無∨過慇探 吹∨毛ヲ不∨可∨求∨疵 求∨失之者 三賢十聖 有‖失可|∨誹。《『日本霊異記』下巻大系414I》「毛を吹きて疵を求むべからず」
有司吹∨毛求∨疵。《『漢書』景十三王伝》
擧{興イ}者獲エ虚以成ス譽∨所∨欲下クタサム者吹毛求疵キス前イ无/サキ鄙後脩ヲーマルトイヘ者則引古以病ヤマシムルナリ。《『群書治要』巻第三十〔晉書 下〕四−四〇三D52》
「言葉の泉」⇒「ことばの遊び」⇒「ことはざ集」を参照。
2000年11月14日(火)曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)
いいひよと かくやまやくか とよひいい
良い日よと 斯く山焼くか 豊火言い
「卯花威(ウノハナヲドシ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇」部に、
卯花威(ウノハナヲドシ) 全躰白色也。総角菱迄白糸也。〔元亀本183H〕
卯花威(ウノハナヲドシ) 全躰白也。総角菱迄白糸也。〔静嘉堂本206F〕
卯花威(ウノハナヲトシ) 全体白也。総角菱迄白絲也。〔天正十七年本中32ウE〕
とある。標記語「卯花威」の語注記は、「全体白なり。総角菱まで白糸なり」という。
古写本『庭訓徃來』六月十一日の状には、
「卯花威黒絲鎧」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「卯ノ花威(ヲトシ)黒絲ノ鎧(ヨロイ)」〔山田俊雄藏本〕
「卯ノ花威黒絲ノ鎧」〔経覺筆本〕
「卯ノ花威(ヲトシ)黒絲ノ鎧(ヨロイ)」〔文明本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
『下學集』は、未収載にある。『庭訓徃來註』六月十一日の状に、
卯花威 全体白也。組角(アゲマキ)モ菱モ白也。〔謙堂文庫蔵三六左H〕
とあって、『運歩色葉集』はこれを引く。『節用集』類の広本『節用集』や、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』には、『下學集』同様、この語は未収載にある。いわば、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との語注記の連関に留まり、『下學集』そして『節用集』類との語注記の連関は見えないのである。
古版『庭訓徃来註』に、
卯花威黒絲鎧 卯花威(ウノハナヲトシ)至(イタツ)テ白キ系ノ色(イロ)ナリ。〔下十一ウ四〕
とあって、語注記に「卯花威に至って白き系の色なり」という。江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)には、
卯(う)の花(ハな)縅(おどし)/卯花縅 卯花縅に四品あり。白糸にゑり萠黄の糸にておどしたるをも花糸はかりにておどしたるをも卯の花と云。又銀具足を白糸にして耳(ミヽ)の糸薄浅黄(うすあさき)テなるをも云。又上二段下を浅黄にておどしたるをもいふ。なを源平藤橘の四家によりて差別あり。〔四十五ウ三〕
とあり、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』では、
卯(う)の花(はな)縅(おどし)/卯花縅。▲卯花縅ハ品々ありといへどもいづれ白糸にて縅(おど)したるをいふ。〔34ウ七〕
卯(う)花(はな)縅(おどし)。▲卯花縅ハ品々ありといへどもいづれ白糸にて縅(おど)したるをいふ。〔61ウ六〕
とあって、標記語「卯花威」の語注記を記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Vnofanavodoxi.ウノハナヲドシ(卯の花縅) 鎧の縅し方の一種で,上述の卯の花の外観をしたもの.〔邦訳695l〕
とあって、標記語「卯花縅」の意味を「鎧の縅し方の一種で,上述の卯の花の外観をしたもの」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
うの-はな-をどし(名)【卯花縅】〔卯月は、卯花(うのはな)は白く、木の葉は緑(もえぎ)なり〕 絲縅の鎧に、一段は白、一段はもえぎと、段段、色を易へて縅したるもの。又、盛版部上半部を白く、下半部をもえぎにしたるも、又、上下、反對にしたるをも云ふ。 保元物語、二、白河殿攻落事「信濃國の住人、根井大彌太、藍摺の直垂に、卯の花縅の鎧」〔0249-1〕
とあって、標記語「卯花縅」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「うのはな-おどし【卯花縅】[名]甲冑の威の色による名。全体を白一色とした威を、卯の花の咲き乱れた有様からの連想によっていう。白糸威、白の唐綾威、白革による洗革(あらいかわ)威の総称。うのはな。[補注]後には、装束の襲(かさね)の色目(いろめ)の表を白、裏を青とする卯花襲から、白と青の威し分けとする説もある。また、白と青の跋(だん)、または上二段を白、以下を青とする威ともいい、「軍用記ー三」には「卯の花おどしは白糸と萠黄糸にて威すなり白は花の色萌木は葉の色なり」とある」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
卯花威。蛸(かしとり)威。緋威。品革威。黄櫨匂。《『尺素徃来』(1439-64年)》
2000年11月13日(月)曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)
いいいみと ふかきよきかふ とみいいい
善い意味と 深き良き交ふ 富み醫云い
「大將軍(タイシヤウグン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多」部に、
大將軍(―――) 經基六孫王。征夷――源氏ノ先祖清和天皇御孫、經基六孫王。天コ四年六月十五日賜‖源ノ姓ヲ|。其子接津守号ス‖滿中ト|。自∨此征夷――号始也。天文十七戌申五六八十九年也。〔元亀本144B〕
大將軍(タイ―グン) 征夷―――源氏ノ先祖清和天皇ノ御孫、經基六孫王。天コ四季六月十五日賜‖源ノ姓ヲ|。其子接津守号ス‖滿中ト|。自∨是征夷―――ノ号始也。至天文十七季戌申五百八十九季也。〔静嘉堂本155@〕
とある。標記語「大將軍」の語注記は、「征夷大將軍、源氏の先祖は清和天皇の御孫、經基六孫王。天コ四年六月十五日源の姓を賜る。其子接津守滿中と号す。是れより征夷大將軍の号始るなり。天文十七年戌申、至て五百八十九年なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未收載にある。『庭訓徃來註』六月十一日の状に、
大將軍 征夷大将軍ハ源氏ノ先祖清和天皇御孫、經基六孫王ト号。孫王天コ五年六月十五日給‖源ノ姓(セイ)|。其子接津守ヲハ滿中ト号。自∨是大將軍始也。是ハ先代ノ亊也。當公-方ノ祖ハ足利ノ左馬頭義兼之末流也。何モ源氏也。〔謙堂文庫藏三六右D〕
とあって、語注記の前半部分が合致する。『節用集』類の広本『節用集』に、
大將軍(ダイシヤウクン)一人 征夷ハ者始ル‖於日本武ノ尊|。毎∨有‖兵亊|遣(ツカワス)‖將帥(スイ)也。〔官位門338D〕
とあって、語注記の内容を異にする。印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』には、
大將軍(―――) 征夷――トハ源氏先祖清和天皇御孫、經基六孫王。天コ四年六月十五日賜源之姓。其子摂津守ヲハ号滿中。自是之始也。至弘治二丙辰五百九十七年也。庭。〔弘・100C〕
大將軍(ダイジヤウグン) 新撰陰陽書云、―――者太白之精天之上客。以正四方三歳一移百亊不可犯云々。〔永・90F〕
大將(タイシヤウ)軍――。〔尭・人倫83C〕
とあって、弘治二年本の語注記の末尾に「庭」とあって、この語注記内容が『庭訓徃來註』からの引用であることを示している。そして、『運歩色葉集』の語注記の体裁と一致するものである。永禄二年本は全く異なる語注記を示している。
[ことばの実際]
都-督荊州諸軍-事・征南大-将-軍。上疏シ平タ―ク呉世祖・深納イル之。〔『群書治要』巻第二十九〔晋書 上〕四−三八四A・569〕
累シキ・辟ヌサル三府・不ス∨就ツ―。宣帝・復群ヌシ爲ス大宰{傳イ}属。固ク―辞。世宗輔タ。政・命シ喜為大将軍從事中郎喜{憙イ}到仍{引イ}見アル。〔『群書治要』巻第二十九〔晋書 上〕四−三八七H・599〕
2000年11月12日(日)曇り。高知⇒東京(世田谷駒沢)
といちとに むくたちたくむ にとちいと
十一どに 向く立ち巧む 二度地異と
「漢字(カンジ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀」部に、
漢字(―シ) 二十四億字也。〔元亀本95H〕
漢字(―ジ) 四十二億字也。〔静嘉堂本119C〕
漢字(―シ) 四十二億字也。〔天正十七年本上58ウE〕
漢字(―ジ) 四十二億字也。〔西來寺本170B〕
とある。標記語「漢字」の語注記は、元亀本だけが「二十四億字なり」といい、他三本は、「四十二億字なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未收載にある。『庭訓徃來註』四月三日の状に、
梵字漢字ノ達者 梵字ハ天竺梵王製スル所也。日本ニハ慈惠書也。梵字ハ廿二億。漢字ハ廿四億渡ト云々。〔謙堂文庫藏二六左E〕
とあって、「梵字は、天竺梵王製する所なり。日本には、慈惠書すなり。梵字は、廿二億。漢字は、廿四億渡ると云々」という。ここでも、元亀本の語注記と同じ「廿四億」としている。『節用集』類の広本『節用集』や、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』には、標記語「漢字」からして未收載にある。ここでも『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との語注記の連関に留まり、『下學集』そして『節用集』類との語注記の連関は見えないのである。
2000年11月11日(土)晴れ。高知(高知大学) 国語学会中四支部研究発表会
いちならび つきみちみきつ ひらなちい
一並び 月満ち見きつ 平な地位
「梵字(ボンジ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「保」部に、
梵字(ボンジ) 廿二億字也。〔元亀本43I〕
梵字(ボンジ) 廿二億字也。〔静嘉堂本48F〕
梵字(ホン−) 廿二億字也。〔天正十七年本上25オF〕
梵字(ボンジ) 廿二億字也。〔西來寺本79E〕
とある。標記語「梵字」の語注記は、「廿二億字なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未收載にある。『庭訓徃來註』四月三日の状に、
梵字漢字ノ達者 梵字ハ天竺梵王製スル所也。日本ニハ慈惠書也。梵字ハ廿二億。漢字ハ廿四億渡ト云々。〔謙堂文庫藏二六左E〕
とあって、「梵字は、天竺梵王製する所なり。日本には、慈惠書すなり。梵字は、廿二億。漢字は、廿四億渡ると云々」という。広本『節用集』は、
梵字(ボンジ/ハン・キミ、アサナ・ヤシナフ)。〔態藝門107E〕
とあって、標記語のみで語注記は未記載にある。次に印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』には、
梵字(−ジ)。〔言語進退35E〕
梵字(ホンジ) −語(ホンゴ)。−行(キヤウ)。〔言語34C〕
梵字(ボンジ) −語。−行。〔言語34C〕
梵字(ホンジ)。〔言語38A〕
とあって、広本『節用集』に従い、語注記は未記載にある。ここでも『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との語注記の連関に留まり、『下學集』そして『節用集』類との語注記の連関は見えないのである。
2000年11月10日(金)曇り。東京(八王子)⇒高知
いいとおみ そらめきめらそ みおといい
善い遠見 空眼キメラぞ 澪と好い
「都(ミヤコ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「見」部に、
都(ミヤコ) 仁皇廿九代宣化天皇王御宇、大和国立也。同卅九代天智天皇御字、近江国立∨之。天武天皇白鳳七丁卯也。至テ‖天文十七戌申ニ|八八二年|也。同五十代桓武天皇御宇、延暦十三年甲戌遷ル‖山城国|平安城|也。至テ‖天文十七戌申七百五十五年。聖武天皇天平聖暦十六甲申遷シ‖都於難波|。至‖天文十七戌申八百五年也。〔元亀本303H〕
都(ミヤコ) 仁皇廿九代、宣化天皇王御宇、大和国立之。同卅九代天智天皇御字、近江国立之。文武天皇白鳳七季丁卯也。至天文十七戌申、八八二季也。同五代桓武天皇御宇、延暦十三季甲戌遷‖山城国平安城也。至天文十七戌申七百五十五季也。聖武天皇聖暦六十甲申遷都於難波ニ|。至天文十七戌申八百五十年也。〔静嘉堂本353G〕
とあって、標記語「都」の語注記は、「仁皇廿九代宣化天皇王の御宇、大和国に立るなり。同卅九代天智天皇御字、近江国これを立る。天武天皇白鳳七丁卯なり。天文十七戌申に至て八八二年なり。同五十代桓武天皇御宇、延暦十三年甲戌山城国平安城に遷るなり。天文十七戌申に至て七百五十五年。聖武天皇天平聖暦十六甲申都を難波に遷し、天文十七戌申至て八百五年なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、この語は未收載にある。『庭訓徃來註』卯月十一日の状に、
更不∨可‖遁避ス|歟。京ノ町人 都ハ仁王廿九代宣化天王御宇、大和国ニ立也。仁王卅九代天智天王ノ御字、近江国ニ立。仁王五十代桓武天皇御宇、延暦十三年甲戌遷‖平安城|也。彼平安城ハ九重東西十八町也。南北三十八町也・横小路、一條・正親町・土御門・鷹司・近衛・勘解由小路・中御門・春日・大炊・御門・冷泉・二条・押小路・三条坊門・姉小路・三条六角・四条坊門・錦小路・四条綾小路・五条坊門・高辻・五条通口・六条坊門・楊梅・六条目牛(サメウシ)・七条坊門・北小路・七条塩小路・八条坊門・梅小路・八条針小路・信乃(ノ)小路・唐橋・九条・巳上三十八町也。堅小路、朱雀・坊城・壬生・櫛笥・大宮・猪熊・堀川・油小路・西洞院町・室町・烏丸・東洞院・高倉・万里小路・冨小路・京極・朱雀、巳上十八町也。以‖内裡|爲‖中央ト|。町人之置樣ハ、一水・二火・三木・四金・五土・六水・七火・八木・九金也。〔謙堂文庫藏二七右H〕
とあって、語注記の冠頭部分がこれにあたる。但し、「天武天皇白鳳七丁卯也。至テ‖天文十七戌申ニ|八八二年|也」と「至テ‖天文十七戌申七百五十五年。聖武天皇天平聖暦十六甲申遷シ‖都於難波|。至‖天文十七戌申八百五年也」の箇所は『庭訓徃來註』には未記載であり、『運歩色葉集』が加筆増補しているところである。広本『節用集』は、
京(ミヤコ/ケイ・キヤウ)。城(同/ジヤウ・シロ)。洛(同/ラク)。都(同/ト・スベテ)名藥乞(ミヤコ)合紀。礼記曰天下有王遷∨都立邑。都ニ所貯老荘廿八年。凡邑有‖宗廟。先君之田|。曰∨都。無∨田曰∨邑也。黎∨都曰∨城。又曰都城過‖百雉|者國害也。千字文注天子所∨居曰∨都。〔天地門887D〕
とあって、その語注記は『国花合紀集』『礼記』『千字文注』といった別資料に基づくものであり、異なっている。次に印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』には、
京(ミヤコ)。城(同)。洛(同)。都(同)。〔弘・天地230F〕
京(ミヤコ) 洛。都。〔永・天地192A〕〔尭・天地181E〕
とあって、広本『節用集』の標記語排列に従うものであるが、その語注記は未記載としている。ここでも、『下學集』に収載がないことで、『庭訓徃來註』は独自の語注記を用意する必要があったともいえよう。そして広本『節用集』もまた独自の語注記を用意したのである。今後、こうした『下學集』にない標記語の語注記をどのように用意し、編纂したのか考察を深めることにもなろう。そして、この語注記を引用し増補するのが『運歩色葉集』であったことも大いに辞書編纂のシステムとして覗えてくるのである。
当代の『日葡辞書』には、
†Miaco.ミヤコ(都)。⇒Chuqua;Miyaco.〔邦訳400r〕
Miyaco. ミヤコ(都) 国王の宮廷のある都市.⇒Miaco.〔邦訳413l〕
とある。
2000年11月9日(木)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
いいくにみ たかひくひかた みにくいい
善い国見 高低干潟 見に来好い
「沙弥(シヤミ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
沙弥(―ミ) 駆烏――自十歳至十五歳。應法――自十六歳。至テ‖十九歳ニ|名字――廿歳也。〔元亀本312A〕
沙弥(シヤミ) 馳烏――自十歳至十五才。應法――十六歳。至十九至名字――廿歳也。〔静嘉堂本365B〕
とある。標記語「沙弥」の語注記は「驅烏沙弥十歳より十五歳に至る。應法沙弥十六歳より十九歳に至て名字沙弥廿歳なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、
沙彌(シヤミ) 小僧又賤使(センシ)。〔人倫40D〕
とある。語注記は「小僧又は賤使」という。これを『庭訓徃來註』は、
沙弥 驅烏沙弥自‖十歳|至‖十五|。應法々自十六|。至‖十九名字沙弥ハ至‖廿歳|。六位上司ハ當‖五位ニ|也。〔謙堂文庫蔵五二右@〕
とあって、『下學集』の語注記を引用しない全く別の語注記であり、『運歩色葉集』もこの語注記を継承する。これによれば、年齢により「驅烏沙弥」(十歳から十五歳)、「應法沙弥」(十六歳から十九歳)、「名字沙弥」(廿歳以上)の三種に区分することを説明する語注記である。広本『節用集』は、
沙彌(シヤミ/イサゴ、イヨ/\) 此始テ落髪(ハツ)ノ之称謂也。言此人出‖煩悩|求‖涅槃|故也云々。此云‖息慈|。又云‖勤策|。寄皈傳授十戒己為求宗最下七歳至年十三者。此曰名鳥沙弥。若年十四至十九名應法若年二十已上号‖名字沙弥ト|也。〔官位門919F〕
とあって、これも『下學集』を引用しない。そして、独自の語注記を持って記載するのである。特に年齢による区分の度合いが異なっていることに注意がいくのである。次に印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』には、
沙弥(シヤミ)。〔弘・人倫238@〕
沙弥(シヤミ)。〔永・官名200G〕〔尭・官名200G〕
とあって、標記語のみで語注記を未記載にしている。『下學集』の語注記を最も尊重して継承する編集姿勢は、この語にはなく、各々が独自の資料に基づき、語注記の説明を展開しているといった稀な用例でもある。こうしたなかで、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』とが同一の注記説明をしていることも注目したい。すなわち、『庭訓徃來註』もこの語の説明を継承せず、さらに広本『節用集』が打ち続くかのように、別箇の解釈を持って記載する。いわば、『庭訓徃來註』の流れに近いところで別注記を実行するといったかなり意識しての編集方針であろう。だが、印度本系統の『節用集』は、この広本『節用集』の語注記を否定するかのように未記載という態度にでている。こうしたなかにあって『運歩色葉集』だけが『庭訓徃來註』を継承していることが重要なのである。当代の『日葡辞書』には、
Xami.シヤミ(沙弥) 修道院の食糧室係のように,家事をつとめる寺(Tera)の坊主(Bozos)。〔邦訳742r〕
とある。
[ことばの実際]
小児荅テ云ク、「我レハ、昔シ、此ノ寺ニ有シ沙弥也。我レ、誤テ帳ノ下食ヲ盗メリシ罪ニ依テ、今、[カワヤ]ノ中ニ堕タリ。而ルニ、我レ、聖人ノ行業ヲ聞クニ依テ、来テ法花經ヲ讀誦シ給フヲ聞ク。願クハ、聖人、慈悲ヲ垂レ給テ[v.7.p.39-40]我ガ此ノ苦ヲ救ヒ給ヘ」ト。〔『今昔物語集』巻第七・震旦會稽山弘明、轉讀法花經縛鬼語〕
2000年11月8日(水)晴れ。東京(八王子)
いいはには むしつきつしむ はにはいい
いい歯には 虫着きつしむ 歯にはいい
「先達(センダツ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「勢」部に、
先達(−ダツ) 山伏。〔元亀本352H〕
先達(−ダツ) 山伏。〔静嘉堂本425@〕
とある。標記語「先達」の語注記は「山伏」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、
先達(−ダツ) 引導ノ人也。〔態藝80F〕
とある。これを『庭訓徃來註』は、
先達 下覚引‖-導人|也。〔謙堂文庫蔵五五左F〕
とあって、語注記は「下学(集)に引導の人なり」という。すなわち、『下學集』をそのまま引用した注記である。広本『節用集』は、
先達(センダチ/マヅ、イタル) 引導人也。〔人倫門1081B〕
とあって、これも『下學集』をそのまま継承する。印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』には、
先達(センダチ) 山臥。〔弘治二年本・人倫262G〕〔永禄二年本・人倫224A〕
とあって、読みは「センダチ」と広本『節用集』に従いながら、語注記は「山臥」として『運歩色葉集』に近似た語注記となっていることに気がつく。この「引導の人」から具体的な「山伏」への注記語の置換が何故なされたのかを含め大いに考えさせられるところである。
2000年11月7日(火)小雨のち晴れ。東京(八王子)
いいなめよ とこよによこと よめないい
飯舐めよ 常世に夜毎 嫁な好い
「野心(ヤシン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「屋」部に、
野心(ヤ―ン) 含恨之儀也。日本講義曰、自∨鷹出之辞也。荒鷹不∨孤∨人。謂∨之ヲ左傳人不睦(ムツハ)謂∨之――ト也|。又野狐心也。又狼之子有――也。〔元亀本202@〕
野心(ヤシン) 含恨之儀也。日本講義ニ曰、自鷹出之辞也。荒鷹不馴∨人。謂‖之ヲ――ト。|左傳ニ人不睦謂‖之――ト也|。又野狐心也。又狼之子有‖――也|。〔静嘉堂本228C〕
〔天正十七年本は、この語を欠く〕
とあって、標記語「野心」の語注記は、「恨を含むの儀なり。日本講義に曰く、鷹より出る辞なり。荒鷹は人に馴れず。之これを謂ふ。『左傳』に人に睦(ムツハ) ず、これを野心と謂ふなり。又、野狐心なり。又狼の子、野心有るなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、
野心(ヤシン)。〔態藝72F〕
と標記語のみ記載する。『庭訓徃來註』三月十二日の状に、
存‖野心|之際 日本講義云、自‖鷹出ノ辞也。荒鷹不∨馴∨人。是ヲ云‖埜心ト|。故人之不∨昵云也。或野狐心ヲ以云也。〔謙堂文庫藏二〇右@〕
とあって、『運歩色葉集』の語注記はこれを取り込んだものとなる。『節用集』類の広本『節用集』は、
野心(ヤシン/イヤシ・ノ,コヽロ)。左傳有‖狼之子有‖野心ナリト也|。又自∨鷹(タカ)出辞也。〔態藝72F〕
とあって、『左傳』の「狼の子、野心有るなり」をあげ、さらに典拠を付さずに「鷹より出る辞なり」をあとに記載する。この後半部分は、『庭訓徃來註』に云うところの『日本講義』(『続日本記』のことか)に基づく内容である。さらに、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』にも、
野心(ヤシン)。〔弘・言語進退167D〕〔永・言語137@〕〔尭・言語126@〕
とあって、『下學集』同様に標記語のみである。ここで、『庭訓徃來註』と広本『節用集』そして、『運歩色葉集』の連関性が見えてくるのである。いまとりわけ、広本『節用集』と『庭訓徃來註』の成立に関わる前後の関係について、この語をもってだけでは決定できないがこの両書はじっくり見据える資料であることだけは指摘しておきたい。当代の『日葡辞書』には、
Yaxin.ヤシン(野心) Nogocoro.(野心)すなわち,Betxin.(別心)裏切り,あるいは,謀反.§Yaxinnuo cuuatatcuru,tacumu,fucumu,saxifasamu,vocosu.(野心を企つる,巧む,含む,挟む,起す)主君に反抗して謀反を計画する.§Yaxin suru.(野心する)裏切りを行動にうつす.⇒Camaye,ru.〔邦訳813r〕
とある。
[ことばの実際]
此ノ朝ニ節刀ノタマハル事ハ、元明天皇和銅二年三月陸奥越後兩國ニエヒスアリテ野心アリ。左大弁巨勢ノ朝麻呂陸奥鎮東将軍トシテ、民部大輔佐伯ノ宿祢石陽{マヽ}ヲハ征越後蝦夷将軍トサタメテキ。此ノトキ節刀ヲタマハス。〔『塵袋』巻第八・九ウA〕*和銅二年は西暦709年。『続日本記』の記載内容。
2000年11月6日(月)曇りれ。東京(八王子)
いいろくろ すえはちはえす ろくろいい
善い轆轤 陶鉢は得ず 轆轤好い
「名越祓(ナコシノハライ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「那」部に、
名越祓(−コシノハライ) 六月尽也。夏ハ火、秋ハ金、相刻故作此祓消災。〔元亀本168C〕
名越祓(ナコシノハライ) 六月盡也。夏ハ火、秋ハ金、相計故作此祓消災。〔静嘉堂本187F〕
名越祓(ナコシノハライ) 六月盡也。夏ハ火、秋ハ金、相刻故作此祓消災。〔天正十七年本中24ウE〕
とある。標記語「名越祓」の語注記は、「六月盡なり。夏は火、秋は金、相刻す故に此の祓いを消災すと作す」という。『下學集』は、
名越之祓(ナゴシノハライ) 六月尽也 夏秋交代(コウ[タイ])ノ之時候ナリ也。而モ夏ハ火(ヒ)、 秋ハ金(カネ) 、火ト∨与ト金相剋([サウ]コク)ス。故ニ越テ‖夏ノ之名ヲ|攘(ハラ)ウ‖相剋ノ之災ヲ|。故ニ云‖名越ノ之祓ト|也。〔時節29C〕
とある。これを引用して『庭訓徃來註』六月廿九日の状に、
六月廿九日 此夜有‖名越ノ祓|。浴ハ恩餘之義也。夏秋交代ノ候也。夏ハ火、秋ハ金、火ト与∨金相尅ス。故越‖夏ノ名ヲ|、攘‖相尅ノ災|故也。〔謙堂文庫藏三五左B〕
とあって、若干の置換はあるものの語注記の合致が見られる。『節用集』類の広本『節用集』は、
名越祓(ナコシノハライ/メイヱツハツ) 六月晦日也。夏秋交代之候ニシテ而夏火、秋金、火與∨金尅。故越テ‖夏之名ヲ|、攘(ハラ)ウ‖相尅ノ災ヲ|故云‖――也。〔時節門434@〕
とあって、これも若干の置換語を持って『下學集』を継承する。次に印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』なども、
名越之祓(ナゴシノハライ) 六月晦日也。夏秋之交代(カハリカハル)之候并夏ハ火、秋ハ金、火与∨金相克。故ニ越‖夏之名ヲ|、攘相克之災|故曰――。〔弘・時節137D〕
名越之祓(ナゴシノハライ) 六月尽也。夏秋之交代(カウダイ)之候也。而モ夏ハ火、秋金、火ト与∨金相克ス。故ニ越ヘテ‖夏ノ之名ヲ|、攘(ハラ)ウ ‖相克ノ之災(−)ヲ|故云‖――――ト|。〔永・時節109E〕
名越之祓(ナコシノハライ) 六月尽也。夏秋之交代之候也。而モ夏ハ火、秋ハ金、火与∨金相尅。故越‖夏之名|、攘(ハラ)フ ‖相尅之災ヲ|故云‖――――。〔尭・時節100A〕
名越之祓(ナゴヘシノハライ) 六月盡也。夏秋之交代之候也。而モ夏ハ火、秋ハ金、火与∨金相克ス。故越テ‖夏之名|、攘(ハラ)ウ ‖相克之災ヲ|故云‖――――。〔両・時節122@〕
とあって、『下學集』⇒広本『節用集』を継承しながらも語の置換がなされている。だが、いずれも『運歩色葉集』のように語注記を簡略化するまでに改編作業は及んでいない。当代の『日葡辞書』には、
Nagoxino farai.ナゴシノハライ(名越の祓)〔陰暦〕六月の最後の日.〔邦訳443l〕
†Nagoxino farai.ナゴシノハライ(名越の祓) 病気が起こらないようにと,ゼンチョ(gentios 異教徒)が迷信的な行事を行なうのに用いるある種の弓.〔邦訳443l〕
とある。
2000年11月5日(日)晴れ。東京(八王子)
いいこだよ はれやかやれは ねだこいい
好い子だね 晴れやか遣れば 強請子云い
「海月(クラゲ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の補遺「魚之名」部に、
海月(クラケ)。水母(同)。〔元亀本367@〕
海月(クラゲ)。水母(同)。〔静嘉堂本446B〕
とある。標記語「海月」と「水母」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「海月」が見え、『下學集』は、
海月(クラゲ) 無∨骨者。晉(シン)ノ霊-運(レイウン)カ句ニ云ク、掛∨席ヲ拾(ヒロフ)‖海-月ヲ|。注ニ蛤(ハマクリ)ノ_属也。〔氣形64B〕
とあって、語注記は詳しく、「骨なき者。晉の霊運が句に云く、席を掛け海月を拾ふ。注に蛤の属なり」という。『庭訓徃來註』五月日の状は、
并初献ノ料、海月 史記曰、海月無∨骨者。晋霊運句曰、掛∨席拾‖――|註蛤属也。〔謙堂文庫藏三二左F〕
とあって、『下學集』の語注記を継承する。ここで『下學集』(古写本を含む)にない『史記』という典拠資料をここに新たに掲載する。『節用集』類の広本『節用集』は、
海月(クラゲ/カイゲツ、ウミ,ツキ) 無∨骨魚也。晉ノ霊-運句云、掛∨席拾(ヒロウ)‖――ヲ|。注蛤(ハマクリ)ノ之属也。〔氣形門503A〕
とあって、「者」を「魚也」に置換するほかはそのまま『下學集』を継承するに留まる。すなわち、増補改編を加えていない。次に印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』などは、
海月(クラゲ) 無∨骨魚。水母(同)。〔弘・畜類158D〕
海月(クラゲ) 無∨骨魚也。晉霊-運句云、掛テ∨席拾‖――|。注蛤ノ_属イ。〔永・畜類130@〕
海月(クラゲ) 无骨魚也。晉霊運句云、掛∨席拾――。注蛤_属。又水母(同)。〔尭・畜類119A〕
海月(クラゲ) 無骨魚也。晉霊運句云、掛∨席拾――。注蛤ノ属(タクイ)。又水母(同)。〔両・畜類144D〕
とあって、広本『節用集』と同様に、「魚也」とし、後は『下學集』を継承する。このなかで、弘治二年本は語注記を簡略化して示し、異表記「水母」を添えている。尭空本と両足院本は注記はそのままで、異表記「水母」を添えている。そして、永禄二年本がもっとも広本『節用集』に近い体裁で編纂書写されているといった三様の語注記の体裁を示し、この印度本系統の流れを組みつつ、『運歩色葉集』があると見たい。『運歩色葉集』は弘治二年本の簡略化体裁よりさらに進んで語注記未記載に進んだと見てよかろう。当代の『日葡辞書』には、
Caiguet.カイゲッ(海月) Vmino tcuqi.(海の月)すなわち,Curague.(くらげ)くらげ.〔邦訳81r〕
Curague. クラゲ(水母・海月) くらげ.〔邦訳169l〕
とある。
2000年11月4日(土)曇りのち晴れ。東京(八王子)
いいよいに むしなきなしむ にいよいい
好い宵に 虫鳴き馴染む 新世云い
「茗荷(ミヤウガ)」と「鈍根草(ドンコンサウ)」
「茗荷」は、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「見」部に、
名荷(―ガ)。茗荷(同)。迪荷(同―ガ) 。〔元亀本300C〕
名荷(―ガ)。茗荷(同)。迪荷(同―) 。〔静嘉堂本349D〕
とあり、これに、補遺「草花名」部には、
茗荷(ミヤウガ)。迪荷(―カ) 。〔元亀本378B〕
名荷(ミヤウガ)。茗荷(同)。迪荷(同) 。〔静嘉堂本461F〕
とある。次に「鈍根草」については、『運歩色葉集』の「登」部に、
鈍根草(ドンゴン―) 茗荷也。〔元亀本59A〕
鈍根草(トンゴンサウ) 茗荷事。〔静嘉堂本67C〕
鈍根草(トンコンサウ) 茗荷事也。〔天正十七年本上34ウ@〕
鈍根草(トンコンサウ) 茗荷事。〔西來寺本106D〕
とあり、これも補遺「草花名」部にも、
鈍根草(トンゴンサウ) 名荷也。〔元亀本380C〕
鈍根草(―――) 名荷。〔静嘉堂本458E〕
とある。ここで見る限りは、「ミョウガ」の「ミョウ」の字異表記を併記するものであり、「茗荷」の異名である「鈍根草」は注記しない。むしろ、「鈍根草」のところで、「ミョウガ【茗荷】」の異称であることを注記する体裁にある。『庭訓徃來』十月日の状には、「茗荷」の表記が見えている。『下學集』には、
迪荷(ミヤウガ) 舉ハ或ハ作ス‖名ノ字ニ|也。〔草木128A〕
とあって、標記語は、『運歩色葉集』では最後に排列が見える「迪荷」を用いており、これに語注記で「“迪”は或は“名”の字に作すなり」と示す方が先頭に排列されている。そして、異称「鈍根草」の記載はない。これを『庭訓徃來註』十月日の状にみるに、
昆布荒布K煮ノ烏頭布(カチメ)蕗(フキ)薊(アサミ)蕪(カフラ)酢漬(スツケ)ノ茗荷(ミヤウカ) 作∨茗非也。求名菩薩ヨリ始也。故ハ求名鈍而書‖我名ヲ|荷テ行ク也。死シテ後ニ墳ニ生∨草ト名‖々何ト|也。即号‖鈍根草|也。是即求名ノ菩薩ハ釈迦如来ノ時之弥勒佛ハ是也。〔謙堂文庫蔵五八左G〕
とあって、「“茗”に作るは非なり。求名菩薩より始るなり。故は求名、鈍にして我名を書き、荷ひて行くなり。死して後に墳に草を生す。“名何”と名づくなり。即ち、“鈍根草”と号すなり。是れ即ち、求名の菩薩は釈迦如来の時の弥勒佛は是れなり」というとあって、名の由来を示す説話が引用されているものである。『節用集』類の広本『節用集』は、
名荷(ミヤウカ/メイ,ニナウ、ナ,ハス) 或作迪荷|。〔草木門888C〕
とあって、ここで『下學集』における標記語「迪荷」と語注記語「名荷」とを逆に記載する体裁が見られ、『下學集』と同様に、異称「鈍根草」の記載はない。次に印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』などは、
名荷(ミヤウガ)。迪荷(同) 。茗荷(同)。〔弘・草木231D〕
名荷(ミヤウガ) 迪荷 。〔永・草木192F〕
名荷(ミヤウガ) 迪― 。又極康屮。〔尭・草木192F〕
鈍根草(ドンコンサウ) 名荷。〔弘・草木41F〕
鈍根草(ドンコンサウ) 名荷也。〔永・草木42F〕
鈍根草(ドンコンサウ) 茗荷也。〔尭・草木39B〕
とあって、異称「鈍根草」を標記語として立項し、語注記も『運歩色葉集』に合致する。この「鈍根草」の採録は、この『庭訓徃來註』の語注記に触発されたものと見てよかろう。
[ことばの実際]
『狂言記』巻三・三、鈍根草に、「殿「扨も、釈尊の御弟子に、周梨槃特といふ人あり、此人愚鈍第一の人にてあつた、わが名だに憶へいで、杖の先に書いて歩き、「そなたの名は」と尋ぬれば、「これよ」と言ふて差し出すほどなる愚鈍な人にてあつた、しかれども、人間の習ひにて、ついには悟道をなされた、土中につきこめてあれば、塚の上よりも、茗荷一本生へて有、すなわちこれを、愚鈍第一の塚より出たれば、鈍根草と付けられてある」《新大系九二L》
「周梨槃特」の名は、『庭訓徃來註』の語注記には見えない。『運歩色葉集』では「須梨槃特(シユリハンドク)」〔元亀本324A〕「須梨槃特(シユリバンドク)」〔静嘉堂本383A〕とある。『下學集』及び『節用集』類は未収載。
[参考既存文献]
萩原義雄「作語攷−室町時代古辞書『下学集』を中心に―」(平成十一年三月、駒澤大学北海道教養部研究紀要第三十四号)の27頁の55「ミヤウガ」で示している。また、関連するところでは、“ことばの溜池”1998年8月28日記載の「「茗」の字」がある。
2000年11月3日(金)曇り。東京(八王子)
いいみちと さとやまやとさ とちみいい
好い道と 里山宿さ 土地見言い
「經家書(キヤウゲのシヨ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「記」部に、
經家書(―) 毛詩廿巻、尚書十三巻、礼記廿巻、左傳卅巻、周易十巻、已上經、周礼十二巻、公羊傳十二巻、穀梁傳十二巻已上九經、論語十巻、儀礼十七巻已上七經、孝經一巻已上十一經、孝子經二巻、莊子經卅三巻已上經家書。記傳法家算道書、凡大唐書数十二万餘巻也。又曰‖佛經者、達‖術道ニ|也。即算道之書也。陸奥守藤原佐世註文也。〔元亀本291@〕
經家書(キヤウゲノシヨ) 毛詩(モウシ)廿巻、尚書(シヤウジヨ)十三巻、礼記(ライキ)廿巻、左傳(サデン)卅巻、周易(シウヱキ)十巻已上七經。公羊傳(クウヤウテン)十二巻、穀梁傳(ゴクリヤウデン)十二巻已上九經、孝經(ケウキヤウ)一巻已上十一經、老子經(ラウシキヤウ)二巻、莊子(サウジ)經卅三巻、已上經家書(キヤウゲノシヨ)。記傳(キデン)法華(ホツケ)算道書(サンダウシヨ)、凡(ヲヨソ)大唐(タイタウ)ノ書数(シヨノカズ)十二萬餘(ヨ)巻也。亦云、佛經者、達(タツ)ス‖術道(シユツダウ)ニ|也。即(スナハチ)算道(サンダウ)ノ之書也。陸奥守藤原佐世註文也。〔静嘉堂本338@〕
とある。
『庭訓徃來註』四月三日の状に、
仙經ノ儒者 達‖術道|算道也。經家書ハ毛詩廿巻、尚書十三巻、礼記廿巻、左傳三十巻、周易十巻、已上之經、周礼十二巻、儀礼十七巻七經、公羊傳十二巻、穀梁傳十二巻九經、論語十巻、孝經一巻十一經、老子經二巻、莊子經三十三巻、已上經家書。紀傳法家算道書凡大唐書数十二万餘巻也。陸奥守藤原佐世註文也。于時至コ元年甲子九月望書之畢。又云佛經ハ、達‖術之道|者也。{即算道之書也云々}。〔謙堂文庫藏二六右F〕
とあって、静嘉堂本は「周礼十二巻、儀礼十七巻七經、…論語十巻、」の箇所を欠き、静嘉堂本には書籍の読み方が総て記載しているのだが、このうち当時、「リンギョ」とよまれていたであろう「論語」の読み方がここでは知られないのである。また、元亀本は排列を異にし収載している。これに奥書の識語部分「于時至コ元年甲子九月望書之畢」は、両本とも削除されていることが知られる。ただ、この引用が「陸奥守藤原佐世註文」からだということは共通する。そして、『節用集』類である広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』などは、『下學集』同様、この語を未收載にある。これも『庭訓徃來註』⇒『運歩色葉集』といった限られたなかでの特定の受用性ということが想定できる。
2000年11月2日(木)雨。東京(八王子)
といいつつ ほそあめあそほ つついいと
樋五つ 細雨遊ぼ 筒井絲
「紀典」と「紀傳」(キデン)
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「記」部に、
紀典(――) 日本ノ儒道自リ‖吉備大臣|始也。式目有リ‖十八ケ条|。漢書百廿巻、或百卅巻、史記八十巻、或百巻、后漢書九十二巻、或百卅巻、巳上三史、文選卅巻、注文選六十巻、魏志卅巻、呉子廿巻、蜀志十五巻、陳書卅六巻、随書八十五巻、唐書二百巻、斉書五十巻、高祖實録廿巻、貞観政要十巻、群書治要五十巻、北史九十五巻、南史八十巻、修文韓覧三百六十巻、韓苑廿巻、説苑、初学記廿巻、文集七十二巻、文粋十四巻、帝範二巻、臣範二巻、百詠二巻、朗詠二巻、蒙求一巻、唱和集二巻、唐沿鼕ェ、宋韻一巻、已上。〔元亀本289@〕
紀典(キデン) 日本ノ儒道自‖吉備ノ大臣|始也。式目(シキモク)在‖十八ケ條。漢書(カンジヨ)百廿巻、史記(シキ)八十巻、式(シキ)百圖、后漢書(ゴカンシヨ)九十二巻、式(シキ)百卅巻、巳上三史(サンシ)ナリ、文選卅巻、注文選(チウモンセン)六十巻、魏志(ギシ)卅巻、呉子(ゴシ)廿巻、蜀志(シヨクシ)十五巻、陳書(チンシヨ)卅巻、随書(ズイシヨ)八十五巻、唐書(タウシヨ)二百巻、斉書(セイー)五十巻、高祖實録(カウソジツロク)廿巻、貞観政要(―クワンセイヨウ)十巻、群書治要(グンジヨ――)五十巻、北史(ホクシ)九十巻、南史(ナンシ)八十巻、修文韓覧(シユフンカンラン)三百六十巻、韓花(カンクワ)廿巻、説苑(セツ―)、初学記(シヨガクキ)廿巻、文集(ブンジウ)七十二巻、文粋(ブンスイ)十四巻、帝範(テイハン)二巻、注範(チウハン)二巻、百詠(―ヱイ)二巻、朗詠二巻、蒙求(モウギウ)一巻、唱和集(シヤウワシウ)二巻、唐(タウグ)一巻、宋韻(ソウイン)一巻、已上。〔静嘉堂本335F〕
とある。『庭訓徃來註』卯月五日の状に、
紀傳 日本ノ儒道ハ自‖吉備ノ大臣|始也。儒者ノ亊ハ式目有‖十八ケ条|。紀傳ハ漢書百廿巻、或百三十巻、史記八十巻、或百巻、後漢書九十二巻、或百三十巻、巳上三史、文選三十巻、註文選六十巻、魏志三十巻、呉志二十巻、蜀志十五巻、謂‖之ヲ三国志|。晋書百三十巻、宋書百巻、大宋實録四十巻、梁書五十巻、陳書三十六巻、随書八十五巻、唐書二百巻、齊書五十巻、高祖實録二十巻、貞觀政要十巻、群書治要五十巻、北史九十五巻、南史八十巻、修文御覽三百六十巻、大平御覽三百巻、幹苑卅巻、説苑、初学記廿巻、文集七十二巻、文粋十四巻、帝範二巻、臣範二巻、百詠二巻、朗詠二巻、蒙求一巻、唱和集二巻、唐韻一巻、宋韻一巻、大切韻等也。〔謙堂文庫藏二五左H〕
とある。これを比較してみるに、「謂‖之ヲ三国志|。晋書百三十巻、宋書百巻、大宋實録四十巻、梁書五十巻、…、大平御覽三百巻、…晋書百三十巻、宋書百巻、大宋實録四十巻、梁書五十巻、大切韻等也」といった箇所が省略削除されて『運歩色葉集』が収載していることにまず気づく。次に書名の誤記・誤読(静嘉堂本は書名に振り仮名を付すことで書写者が漢籍をどう理会していたかが読みとれる。特に『群書治要』は「グンジヨ(チヨウ)」であり、『修文韓覧』は、「シユフンカンラン」という類)や巻数の誤写といったさまざまな表記に関わることがらが指摘できる。これを『節用集』類である広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』などは、『下學集』同様、未收載にある。このことは、『庭訓徃來註』⇒『運歩色葉集』といった限られたなかでの特定の受用性ということが想定できるのであるまいか。また、これらの書目録による書名は知っていても、これらすべてを保有管理する施設が当時存在したかといえば、『日本一鑑』が示す「山城大和の下野文庫と相模の金沢文庫」に収蔵された以外はこれも難しかろう。せめて、これらの書目をここに記載しておくことで、次の散在書目を蒐集するときの備忘録とする意気込みがこの両者の接点にあったのかもしれない。ここで、『運歩色葉集』編者が何故『太平御覧』三百巻だけをぽつんと削除したのかが気になるところでもある。日本への渡航が後期鎌倉時代であったことも示唆してのことか。このことが現代の私たちに『運歩色葉集』編者の資料引用意識構造の一部としてある種の信号を発していることは間違いなかろう。
[ワンポイント講座]「紀傳」を「紀典」としたこと
本来、「キデン」は「紀伝」と表記し、「紀伝道」すなわち、平安時代の大学寮における学科の一つであった。いわゆる現在の「歴史学科(中国)」のような学問で、中国の正史(漢書・後漢書・史記)、三国志(魏・呉・蜀)、文選及び文選註、さらには詩文集が教授された。これを文章生に教授するのが紀伝博士で、これを平安時代には文章博士とは別に設置している。そして、「紀伝」を同音異表記「紀典」と書くことによりより、ここで用いられた書籍そのものを強く意識したのかもしれない。
2000年11月1日(水)曇り小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
いいひとつ めこなになこめ つとひいい
家一つ 女子名に和め 集ひ云い
「涎懸(ヨダレカケ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「与」部に、
涎懸(ヨダレカケ) 喉輪(ノドワ)之事。〔元亀本132A〕
涎懸(ヨタレカケ) 喉輪之事。〔静嘉堂本138D〕
とある。標記語「涎懸」の語注記は、「喉輪(のどわ)のこと」という。『庭訓徃來』六月十一日の状に見え、『下學集』は、
涎懸(ヨダレカケ) 。〔絹布97E〕
とあって、これを収載するが、語注記は未記載にある。次ぎに『庭訓徃來註』六月十一日の状に、
涎懸(ヨタレ―) 喉輪之亊ナリ。〔謙堂文庫藏三七右H〕
とあって、語注記も『運歩色葉集』がここから引用していることが解る。『節用集』類の広本『節用集』は、
〓〔水+垂〕懸(ヨダレカケ/ケン) 。〔絹布門316E〕
とあって、標記語のうち「よだれ」の字をさんずいに旁を「垂」で示す文字で表記する。語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』には、
〓〔水+垂〕懸(ヨタレカケ) 涎懸。喉輪也。〔弘・財宝92@〕
〓〔水+垂〕懸(ヨタレカケ)。〔永・財宝88A〕〔両・財宝96B〕
〓〔水+垂〕懸(ヨダレカケ)。〔尭・財宝80@〕
とあって、標記語の漢字表記はいずれも広本『節用集』に従うものであるが、弘治二年本だけが、語注記にして、この『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』とに共通する語注記「喉輪 (のこと)なり」を収載していることに注目したい。ここでの『庭訓徃來』の記述内容は、武具に関連するものであり、喉の部位を防御する武具名称であることが知られよう。当代の『日葡辞書』には、
†Yodarecaqe.ヨダレカケ(涎掛)。鎧の頸のところにつける喉輪.§また,幼児につける涎受け.⇒Zzudat.〔邦訳824r〕
とある。
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