[11月1日〜11月30日迄&2002.10.05更新

 BACK(「ことばの溜め池」表紙へ)

 MAIN MENU

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

2000年11月30日(木)曇り晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

いいみれば ときすぐすきと はれみいい

云い見れば 時過ぐ隙と 晴れ身良い

「征矢(ソヤ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「楚」部に、

征矢(ソヤ)〔元亀本153F〕

征矢(ソヤ)〔静嘉堂本168B〕

征矢(―ヤ)〔天正十七年本中15ウC〕

とある。標記語「征矢」は、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』に、

征矢(ソヤ)。〔器財116E〕

とあって、やはり語注記は未記載にある。これを『庭訓徃來註』六月十一日の状に、

石打征矢(ソ―) 鷹。鵄ニモ。〔謙堂文庫藏三七左C〕

として、語注記を「鷹の尾に有り。鵄にも尾に有り」という。広本節用集』には、

征矢(ヤ/セイシ、ユク・チカイ)。〔器財門386G〕

とあって、これも語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集両足本節用集』では、

征矢(ソヤ)征伐之時用也。无根。〔弘・(財宝)120D〕

征矢(ソヤ)。〔永・財宝101C〕

征矢()。〔尭・財宝91F〕

征矢(ソヤ)。〔両・財宝111F〕

とあって、なぜか弘治二年本だけに「征伐の時に用るなり。无根」と全く異なる独自の語注記が見えているのである。

2000年11月29日(水)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

いいにくき まことはとこま きくにいい

云い難き 実は常間 聞くに善い

「上人(シヤウニン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

上人(―ニン) 釈氏要覽、内コ智|。勝行|。在人之上|。故曰上人〔元亀本314B〕

上人 (―ニン) 釈氏要覽、内|。勝行|。人之上|。故曰上人〔静嘉堂本368C〕

とある。標記語「上人」の語注記は、「釈氏要覽に云ふ、内にコ智有り外に勝行有り人の上にあり故に上人と曰ふなり」という。『庭訓徃來註』四月三日の状に、

智者上人 上人菩薩地也。釈氏要覽曰、内コ智|。勝行|。人之上|。故曰上人又般若經ヲカ上人|。佛言ンハ‖菩薩一心阿耨菩提|。心不ンハ‖散乱者是上人也云云。〔謙堂文庫藏二五左G〕

とあって、『運歩色葉集』はここに依拠する。広本節用集』には、

上人(シヤウニン・カミ/ノボル、シン・ヒト) |。勝行|。人之上|。上人云々〔官位門920A〕

とあって、同じくここをもって継承する。広本節用集』は、典拠名『釈氏要覽』を欠く。そして、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』は未収載にある。

2000年11月28日(火)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

といにやき このはにはのこ きやにいと

戸井に焼き 木の葉庭の子 帰やにいと

「職原(シキゲン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

(―ゲン)清和天王六番目貞紀天皇之〓〔日+之〕始之也。〔元亀本309E〕

職原(―ゲン) 自清和天皇六番目貞始也。〔静嘉堂本361C〕

とある。標記語「職原」の語注記は、「清和天皇より六番目貞始るなり」という。ここで元亀本と静嘉堂本において表記上の異なりとして、「紀天皇」と「」とがあり、さらに、『庭訓徃來註』三月三日の状には、

監物丞源 職原。源氏仁王五十六代清和天王六番目自貞純始也。仁王五十五代文徳御子惟仁源氏先祖也。文徳子本后子惟高親王、中宮后染殿御子惟仁親王、兄弟位争アリ。相撲競馬有之。惟仁〓〔者+羽〕蒋良雄長三尺ニ|。惟高右丞尉七十五人力也。彼兩人位争ル‖相撲也。爲祈祷惟仁比叡山惠亮和尚憑焚護摩。平生有大威コ明王加護也。惟高高野山柿本貴僧正憑祈祷也。是護摩ナリ。惟仁思食樣我微力也。不叶思謀以母染殿泪流。僧正申給樣、和尚祈不シテ申給、其時僧正早ヌト油斷也。其時惠亮碎。二帝即云々。和尚當壇碎腦祈也。故惟仁勝也。是故僧正思死也。本尊不動也。不動負也。僧正美人染殿心起歟。惣シテ惠亮勝定也。其叡山ニハ四王云物アリ。大江山酒点童子爲ト。シテ置也。負蒔鬼~国可成爲也云々。〔謙堂文庫藏一二右E〕

とあって、この箇所を「貞純」としている。これは、『本朝皇胤紹運録』巻第六十によれば、清和天皇の第六番目の御子は「貞純親王」が正しい。とすれば、『運歩色葉集』の編者、そして書写者は、この点を概して気にもとめずに書写していたのであろうか。確かに「純」と「紀」は字形が相似ている。また「能」とした静嘉堂本は、元の手控えの書が行書に近い表記であったため、これも誤ったのであろうか。いずれにせよ、この表記の揺れは編纂検証の怠りが招いた結果なのかもしれない。『運歩色葉集』の辞書編纂における孫引きの所為なのかもしれない。また、『庭訓徃來註』の清和天皇(惟仁親王)と惟高親王の皇位継承争いの譚は、『運歩色葉集』にはなぜか引用されずじまいにあるようだ。この譚は、『江談抄』二・二九七に見えている。広本節用集』と印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』では、『下學集』同様、未収載にある。

2000年11月27日(月)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

といにしち ひだまりまだひ ちしにいと

都井二七 陽だまり未だ日 千路に緯度

「成實(ジヤウジツ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

成實(ジヤウジツ) 天竺可利跋三蔵所立。――論是也。〔元亀本319I〕

成實(ジヤウシツ) 天竺可利跋三蔵。――論是也。〔静嘉堂本377A〕

とある。標記語「成實」の語注記は、「天竺の可利跋三蔵の立つ所なり。成實論是れなり」という。ここで、『成實論』の著者の名を「可利跋摩(カリバツ)」から「可利跋(カリバツ)」に置き換えている点が異なりとしてある。『下學集』はこの語を未收載にする。『庭訓徃來註』卯月五日の状に、

或禪律兩僧 自方等部禪出也。達磨惠可僧〓〔玉+粲〕道信弘忍惠能也。律宗四阿含出也。道宣律師也。日本ニハ仁王四十六代孝謙天王大唐鑑真和尚渡也八宗法相三論倶舎成實律花厳天台真言也。倶舎成實律宗小乗也。法相三論花厳天台真言大乗也。倶舎成實律宗法相三論真言六宗天竺立也。天台花厳二宗震旦所立也。倶舎天竺天親菩薩所立倶舎論是也成實天竺可利跋摩三蔵所立成實論是也律宗天竺菊多三蔵五人弟子所立四分五分等是也法相如来滅後提婆菩薩出世為阿育大王。説諸方實相状ヲ|。阿僧伽師出世奉請卒天弥勒菩薩夜分降。天竺説法所謂瑜伽論等是也。又護摩菩薩出世説此宗唯識論等是也三論如来入滅後竜猛菩薩出世宣諸皆空之旨所謂百論等是也。又青辧菩薩出世同宣此義文殊馬(メ)鳴竜樹提婆羅什等皆為租師天台震旦隋代、智大師自南岳惠恩大師又名惠文禅師。爰三種止観篭居於大蘓道場開發霊山之聽弘宣法花深義玄義文句等是也。花厳震旦禅門寺花厳和尚所立。又唐代法蔵大師奉詔講花厳經。至世界品。大地震動。爰則天皇後貴之下勅令疏釈。施宣此經所謂花厳是也。蓋法相花厳天台真言之。倶舎成實三論之也。〔謙堂文庫藏二四左D〕

とあって、「律宗」「八宗」「倶舎」(2000.11.25)「法相」「三論宗」(2000.06.16)といった語注記と同じく、『運歩色葉集』は、この箇所から引用する。広本節用集』及び、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』にあっては、『下學集』と同じように未收載の語である。いわば、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』といった接点で継承が見られる語である。

[ことばの実際]

「蓋倶成二宗。亦能叙置三寳四諦。摂諸名相而設于理者。成實也」《虎関師錬『元亨釋書』二七・会儀》

2000年11月26日(日)晴れ。八王子⇒世田谷(玉川→駒沢)

といにろく ふくろふろくふ くろにいと

対に鹿 梟六分 黒に亥と

「竪者(シユシヤ)」と「竪議(シユギ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』に「竪者」は未収載の語である。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は標記語のみで語注記未記載にする。これを『庭訓徃來註』九月十五日の状に、

竪者(シユ−) 首座位也。註記竪者竪義會八講シテ而後竪議主也。然日本之教家、呼爲立音大誤也。竪豎同也云々。〔謙堂文庫蔵五二左E〕

として、その語注記に「禪の首座の位なり。註記に竪者は、竪義會を行ひて八講の役を成して、しかる後に爲るなり。竪議、音は主なり。然れば日本の教えの家に、呼びて立の音に爲り、大いに誤るなり。竪と豎とは同じきなり云々」という。この『庭訓徃來註』の語注記には、既にある「註記」の書にとあって、これが一つは『下學集』の語注記を云うのであることは、

竪議(シユギ) (コヘ)_主也。然ルニ日-本教-家大_誤(アヤマリ)カ_歟。竪豎同音也。〔態藝八四5〕

とあって明かである。そして、広本節用集』には、

竪議(シユギ/タテ、ハカル)音主也。然日本教家、呼(ヨン)テ立音(リツノコヱ)ヲ|。レル也。竪與豎同(タツ)横。〔態藝門976B〕

とあって、『下學集』の語注記を継承し、この『庭訓徃來註』の語注記後半部に合致する。印度本系統の永禄二年本節用集』、尭空本節用集』にあっては、

(リウ) ―儀(リツ)音主也。然日本呼爲立音大誤歟。竪与豎同。〔永・言語58D〕

竪議(リウギ) ―者竪音主也。然日本呼爲立音大誤。竪与豎同。〔尭・言語53@〕

とあって、語注記が指摘する日本の世俗の教家に「立(リウ・リツ)」の音で呼び大いに誤るとしながら、世俗の読みを指示し、「利」部に収載している。さらに、改編『下學集』である春良本を見るに、

竪議(リウキ) 竪之音ヘ_主也。然日-本之教-ニ、(ナス)之音ヘヲ_誤(アヤマリ)_歟。竪(シユ)同_也。〔態藝七二4〕

とあって、やはり世俗の読みを優先する傾向にあるようだ。そして、弘治二年本節用集』、両足院本節用集』は、『運歩色葉集』と同様に、この語を未収載にする。

 これを以って鑑みるに、『庭訓徃來註』が引用した「註記」の書には、どうも二種類あって、後半部の語注記が『下學集』を母体として共通するものであり、前半部の語注記が如何なる「註記」の書に基づくものなのかを今後明かにしなければなるまい。そして、何故『運歩色葉集』そして、印度本系統の『節用集弘二二年本両足院本にこの語を収載していないのかを今後同じく問わねばなるまい。

 江戸時代の『書字考節用集』に、

竪者(リツシヤ) 竪音主。今所呼音立。是台家從來之謬矣。○台家歴沙彌戒シテ――僧正法印又-時補スル當職。謂之ヲ逆退(ケキタイ)ト。〔官位三38C〕

とある。

2000年11月25日(土)晴れ。八王子⇒西新宿(三省堂文化会館2F)第18回 語彙・辞書研究会

といにごか くはのはのはく かごにいと

問いに期か 桑の葉の吐く 蠶に絲

「倶舎(クシヤ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久」部に、

倶舎(クシヤ) 天竺、天菩薩所立也。――論是也。〔元亀本194E〕

倶舎(クシヤ) 天竺、天-親菩-薩所立也。――論是也。〔静嘉堂本220E〕

倶舎(クシヤ) 天竺、天菩薩所立也。―――是也。〔天正十七年本中39ウF〕

とある。標記語「倶舎」の語注記は、「天竺、天-親菩-薩の立つ所なり。倶舎論是れなり」という。ここで、三写本のうち元亀本と天正十七年本は、「菩薩」に作るのに対し、静嘉堂本は「天親菩薩」に作り、異なりを見せている。『下學集』は未收載にある。『庭訓徃來註』卯月五日の状に、

或禪律兩僧 自方等部禪出也。達磨惠可僧〓〔玉+粲〕道信弘忍惠能也。律宗四阿含出也。道宣律師也。日本ニハ仁王四十六代孝謙天王大唐鑑真和尚渡也八宗法相三論倶舎成實律花厳天台真言也。倶舎成實律宗小乗也。法相三論花厳天台真言大乗也。倶舎成實律宗法相三論真言六宗天竺立也。天台花厳二宗震旦所立也。倶舎天竺天親菩薩所立倶舎論是也。成實天竺可利跋摩三蔵所立成實論是也。律宗天竺菊多三蔵五人弟子所立四分五分等是也法相如来滅後提婆菩薩出世為阿育大王。説諸方實相状ヲ|。阿僧伽師出世奉請卒天弥勒菩薩夜分降。天竺説法所謂瑜伽論等是也。又護摩菩薩出世説此宗唯識論等是也三論如来入滅後竜猛菩薩出世宣諸皆空之旨所謂百論等是也。又青辧菩薩出世同宣此義文殊馬(メ)鳴竜樹提婆羅什等皆為租師天台震旦隋代、智大師自南岳惠恩大師又名惠文禅師。爰三種止観篭居於大蘓道場開發霊山之聽弘宣法花深義玄義文句等是也。花厳震旦禅門寺花厳和尚所立。又唐代法蔵大師奉詔講花厳經。至世界品。大地震動。爰則天皇後貴之下勅令疏釈。施宣此經所謂花厳是也。蓋法相花厳天台真言之。倶舎成實三論之也。〔謙堂文庫藏二四左D〕

天理本「倶舎天竺、ササ立。倶舎論是也」とある。

とあって、「律宗」「八宗」といった語注記のなかで、この「倶舎」の語注記が見えている。そして、『運歩色葉集』は、まさにこの語注記を引用するものである。そして、静嘉堂本の「菩薩」と同じく「親」に作り、「観」ではない。『節用集』類の広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』にあっては、『下學集』と同じように未收載の語である。

2000年11月24日(金)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

といつよき ききしにしきき きよついと

都逸良き 聞きし錦樹 黄よ遂と

「賞罰(シヤウバツ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

賞罰(−バツ) 。〔元亀本316H〕

賞罰(−バツ) 。〔静嘉堂本372C〕

とある。標記語「賞罰」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見えているが、『下學集』は未收載にある。そして、『庭訓徃來註』卯月十四日の状に、

賞罰厳重ニシテ 黄帝蚩尤ケテ以来厳重也。雖然三皇賞、无罰。五帝有賞有罰也。〔謙堂文庫藏二〇左C〕

とある。語注記は、「黄帝蚩尤を平げて以来、厳重なり。然りと雖ども三皇の間は賞なし、罰なし。五帝は、有賞有罰なり」という。『節用集』類の広本節用集』には、標記語としての「賞罰」は見当たらない。

賞罰(―ハツ)(アキラカ)ニシテ而不(ズ) ∨(ベカラ) ∨(アザムク) 法禁(ハウキン)(ヲコナワレ)テ(ズ) ∨(ベカラ) ∨(ヲカ)ス 孝経。〔態藝門九六〇8〕

賞罰(シヤウハツ)(カナラズ)(シン)アルコト(ゴト)ク∨(テン)ノ(ゴトク)シテ∨()ノ(スナワチ)(ベシ) ∨(ヲサム) ∨(ヒト)ヲ 三略。〔態藝門九五九7〕

賞罰(―ハツ)(ズ) ∨(ベカラ) (カロ/\)シク(ヲコナウ) 政要。〔態藝門九六〇7〕

賞罰(―バツ)ヲバ(ゴトク)セヨ∨(クワフル)ガ於身(ミ)ニ賦〓〔僉+欠〕(フレン)ヲバ(ゴトク)セヨ∨(トラ)ルヽガ(ヲノレ)ガ(モノ)ヲ(コレ)(アイ)スル(タミ)ヲ之道(ミチ)ナリ。同(六韜)〔態藝門九六〇4〕

太宗(タイソウ)ノ(イワク)國家(コツカ)ノ大亊(タイジ)ハ(タヾ)(シヤウ)トトナリ∨(ハツ)(モシ)(シヤウ)(アタルトキ)ハ(ソ)ノ(ラウ)ニ(ナキ) ∨(コウ)(モノ)(ヲノヅカラ)退(シリゾク)(ハツ)(アタルトキ)ハ(ソノ)(ツミ)ニ(スル) ∨(アク)ヲ(モノ)(イマシメ)_(ヲソル)(スナワチ)賞罰(シヤウハツ)(ズ)(ベカラ) (カロ/\) シク_(ヲコナ)ウ貞観政要〔態藝門三四七2〕

(アツ)テ∨―不(ズ)∨(シヤウ)せ(アツ)テ(ツミ)(ズ)ハ∨(チウ)せ(イフ)トモ(キミ)ト(ズ) ∨(アタワ)(モ)テ(クワ)スルコト天下(テンカ)ヲ栄辱(エイジヨク)ハ賞罰(シヤウハツ)ノ之精萃(セイスイ)ナリ 左傳。〔態藝門六七九4〕

といったように、金言名句の語として引用するにすぎない。そして、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』にあっては、

()(―ハツ)。〔弘・言語進退249B〕

賞翫(シヤウクワン) ―罸。〔永・言語209F〕

賞翫(シヤウクワン) ―罸。〔尭・言語193H〕

とあって、永禄二年本尭空本とは、標記語「賞翫」のなかで注記されている。『運歩色葉集』と同様、語注記は見えない。当代の『日葡辞書』には、

Xo<bat.シャゥバッ(賞罰) 褒賞することと処罰することと.〔邦訳787r〕

とある。

[ことばの雑学]産経新聞夕刊「ことばの雑学」の欄、「かき」と「こけら」の漢字表記【柿】の異なりについて取り上げている。

2000年11月23日(木)晴れ。勤労感謝の日 八王子

といふみか いらふみふらい かみふいと

問い文か 応文無頼 紙筆と

「鏡(かがみ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀」部に、

() 昔有テ∨人、亀之也。故ー(ウラ)ニ(トヲ)ス∨也。荘子云亀ー(キケイ)者只鏡也。又天照太神(イ)∨ヲ、シテ其形ヲ|天下ヲ|。始ニ∨不可有疵也。紀伊國肥前國有社。后ー写形容ヲ|。曰我是岩戸住今之神也。天照皇太神后曰彼二神可守天下ヲ|云々。故正月大圓ー之祝也。〔元亀本107B〕

() 昔有人、見ヲ|(イル)∨之也。故ス∨ヲ|也。荘子云亀(ケイ)者只―也。又天照太神自鋳(イ)テ∨ヲ、其形ヲ|護天下。始鋳有疵也。紀伊国肥前国有社。后ー写形容ヲ|。曰我是岩戸住今之神也。天照皇太神曰彼二神可天下ヲ|云々。故(コト)ニ正月大圓ー二用之祝也。〔静嘉堂本134C〕

() 昔有人見之光ヲ|鋳ー也。故ー之緒所亀形也。荘子云亀ー者只ー也。又天照大神自鋳ー移其形守護天下。始鋳ー不可有疵也。紀伊国肥前国有社。后鋳ー写形容曰我是岩戸住今之神也。天照大神曰彼二神可天下云々。故毎正月大圓ー二用之祝也。〔天正十七年本上66オ@〕

(カヽミ) 昔有人見。鋳也。故ー(―ラ)ニ亀形。荘子亀ー(キキヤウ)(ハ)只ー也。又天照太神自ル∨ヲ|護天下。始鋳ー不可也。紀伊國肥前国有リ∨社。后形容。曰岩戸(スム)神也。天照太神曰彼二神可天下云々。故毎正月大円ー二也。〔西來寺本187@〕

とあって、標記語「」の語注記は、「昔人有り。亀の腹の光を見て。鏡を鋳るなり。故に鏡の裏に緒を通す処に亀形を成す。荘子に云く、亀鏡(キキヤウ)は、只鏡なり。また天照太神自ら鏡を鋳て其の形を移し、天下を守護す。始めて鏡を鋳るに疵あるべからずなり。紀伊の國、肥前の国に社有り。后に鏡を鋳て形容を写す。曰く我は是れ岩戸に住む今の神也。天照太神曰く、彼の二神天下を守るべし。故に毎正月大円鏡二つこれを用ゆ。祝いなり」という。『庭訓徃來』に見えているが、『下學集』は未收載にある。そして、『庭訓徃來註』六月十一日の状に、

-單等-具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、この「鏡」の語注記から引用抜粋したものと見てよかろう。広本節用集』は、

(カヾミ/ケイ)(同/カン) 君壽始鋳。異名、明鸞(ラン)。菱花魏武有――。清明。鸞影。青銅。軒轅。鶴文。秋潭。五薄。百錬。方諸。碧銅。清鑑。容成侯。變影。保三。火齊。見心。寳粧成。和尚鏡。玉光。法明。〔器財門268A〕

とあって、上記『庭訓徃來註』および『運歩色葉集』の語注記とは異なっている。そして、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』にあっては、

(カヾミ) (カヽミル) 鑒同。〔弘・財宝84@〕

(カヾミ) (カヽミル) 。〔永・財宝80G〕

(カヾミ) (同) 。〔尭・財宝73E〕

(カヾミ) (同) 。〔両・財宝88@〕

とあって、広本節用集』の標記語を収載するに留まり、語注記は未記載になっている。このことからも、『運歩色葉集』の『庭訓徃來註』からの引用継承度合いが強いことを確認できよう。当代の『日葡辞書』に、

Cagami.カガミ(鏡・鑑) 鏡.§Cagamiga cumoru.(鏡が曇る)鏡に雲がかかる,または,光沢がなくなる.§Cagamini muco<.(鏡に向かふ)鏡に自分の姿をうつして見る.§また,Cagami(鏡・鑑)善徳などの鏡,すなわち,模範.§Ienno cagami.(善の鏡・鑑)善徳などの鑑、すなわち,模範。§Fitono cagamito naru.(人の鏡となる)ほかの人々に良い模範を示す.〔邦訳77r〕

とある。

2000年11月22日(水)曇りのち晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

といつつみ はるかにかるは みつついと

問い鼓 遙かに駈るは 見続いと

「平安城(ヘイアンジヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「遍」部に、

平安城(−アンジヤウ) 京名。〔元亀本51G〕

平安城(−アンジヤウ) 京名。〔静嘉堂本57G〕

平安城(−アンジヤウ) 京名。〔天正十七年本上29ウE〕

平安城(―――) 京名。〔西来寺本93@〕

とある。標記語「平安城」の語注記は、「京名」という。『庭訓徃來』にはなく、これを受けて『下學集』も未収載にある。『庭訓徃來注』卯月十一日の状の語注記に、

仁王五十代桓武天皇御宇、延暦十三年甲戌遷平安城。彼平安城九重東西十八町也。南北三十八町也・横小路、一條・正親町・土御門・鷹司・近衛・勘解由小路・中御門・春日・大炊・御門・冷泉・二条・押小路・三条坊門・姉小路・三条六角・四条坊門・錦小路・四条綾小路・五条坊門・高辻・五条{樋}口・六条坊門・楊梅・六条目牛(サメウシ)・七条坊門・北小路・七条塩小路・八条坊門・梅小路・八条針小路・信乃(ノ)小路・唐橋・九条・巳上三十八町也。堅小路、朱雀・坊城・壬生・櫛笥・大宮・猪熊・堀川・油小路・西洞院町・室町・烏丸・東洞院・高倉・万里小路・冨小路・京極・朱雀、巳上十八町也。以内裡中央|。町人之置樣、一水・二火・三木・四金・五土・六水・七火・八木・九金也。〔謙堂文庫藏二七右H〕

*天理本「樋(ヒ)口」。「目牛(サメウシ)」。

とあって、実に詳細な内裏を中心とした町の名称を記載している。『節用集』類の広本節用集』は、「へ」部に「平安城」の語は未収載にして、巻末に「洛中横小路」と「洛中竪小路」に、

洛中横小路 一条・正親町(ヲヽキマチ)・土御門(ツチミカト)・鷹司(タカツカサ)・近衛(コノヱ)・勘解由(カンケユ)小路・中御門(ナカノミ−)・春日・大炊(ヲヽイノ)御門・冷泉・三条・押小路(ヲシノ)・三条坊門・姉小路(アネカ−)・三条・六角・四条坊門・錦小路(ニシキノ−)・四条綾(アヤ)ノ小路・五条坊門・高辻・五条樋口(ヒクチ)・六条坊門・楊梅(ヤマモヽ)・六条目牛(サメウシ)・七条坊門・北小路・七条塩(シホ)ノ小路・八条坊門・梅小路・八条針(ハリ)ノ小路・信乃(シナ) ノ小路・唐橋・九条巳上南北三十八町。〔補末部1150@〕

洛中竪小路 朱雀・坊城・壬生(ミフ)・櫛笥(クシケ)・大宮(ヲヽミヤ)・猪熊(イノ−)・堀川・油(アフラ)ノ小路・西洞院町・室町(ムロ−)・烏丸・東洞院・高倉(タカクラ)・万里(マテ)小路・冨(トミ)ノ小路・京極・朱雀巳上東西十八町中央ト|。東京也。西京者略而不∨記∨之乎。〔補末部1151@〕

とあって、上記『庭訓徃來注』の注記に合致する。そして、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』にも、「京中小路名」として、

南北三十八町 東西ニ通弘仁九年戊戌被定之

一条(デウ)・正親町(ヲウキマチ)・土御門(ツチミカト)・鷹司(タカツカサ)・近衛(コノヱ)・勘解由小路(カデノコウチ)・中御門(ナカノミカト)・春日(カスガ)・大炊御門(ヲヽイノミカト)・冷泉(レイゼン)・二条・押小路(ヲシコウチ)・三条坊門・姉小路(アネカ−)・三条・六角(カク)・四条坊門・錦小路(ニシキノ−)・四条綾(アヤ)ノ小路・五条坊門・高辻(タカツシ)・五条樋口(ヒクチ)・六条坊門・楊梅(ヤマモヽ)・六条目牛(サメウジ)・七条坊門・北小路・七条塩小路・八条坊門・梅(ムメ)小路・八条針(ハリ)ノ小路・信濃(シナノ)ヽ小路・唐橋(カラハシ)・九条〔弘・281@〕

東西竪十八町 但以‖大内ヲ|為ス中央ト|。東京ノ分也。西京ハ畧シテ不記焉

西朱雀(シユシヤカ)・坊城(バウジヤウ)・壬生(ミブ)・櫛笥(クシゲ)・大宮(ヲウミヤ)・猪熊(イノクマ)・堀川(ホリカワ)・油(アフラ)ノ小路・西洞院町(マチ)・室町(ムロマチ)・烏丸(カラスマル)・東洞院・高倉(タカクラ)・万里(マデ)ノ小路・冨(トミ)ノ小路・京極(キヤウゴク)朱雀。〔弘・282D〕

とある。

2000年11月21日(火)晴れのち曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)

といにいき たきびとびきた きいにいと

都井に生き 焚き火飛び来た 黄に絲

「市町(イチマチ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「伊」部に、

市町(イチマチ) 皇卅代持統天時諸國始。〔元亀本14C〕

市町(イチマチ) 皇卅代持統天王時諸国――始也。〔静嘉堂本7B〕

市町(イチマチ) 皇卅代持統(チトウ)時諸国――始也。〔天正十七年本上5ウG〕

市町(イチマチ) 皇卅代持統天時諸國始。〔西来寺本〕

とある。標記語「市町」の語注記は、「皇卅代、持統天時、諸國市町始るなり」という。ここでは、本邦における「市町」の起源を説明する注記であることが見て取れる。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來注』卯月五日の状に、

凡先日被_市町興行 仁王四十代持統天王時諸国路、田町ナリ。〔謙堂文庫藏二〇左H〕

凡先日被_市町興行 仁王代持統天王〓〔日+之〕諸国路、田町始也。{頭注書込み}市トハ斉桓公之管仲ト云者市ヲ立ハシムル也。是大乱起時土民皆餓。其時市始也。〔天理本右@〕

凡先日被_市町興行 仁王代持統天王〓〔日+之〕諸國路、田町始也。{頭注書込み}市トハ斉桓公之管仲ト云者市ヲ立テハジムル也。是ニ−ハジムル也。是夫乱起〓〔日+之〕、土民皆餓。其〓〔日+之〕市始也。〔国会図書館藏左貫注左E〕

とあって、持統天皇の代の数が「卅」を「四十」としている点は、天理本・左貫注では「卅」とあることから、謙堂文庫の誤写であることが知られる。また、「諸国路田町始」の「路田町」を欠いている以外は『運歩色葉集』によく共通する。そして、巻頭書込みには、中国における「市町」の起源を収載していることから、当代の上流知識層にあっては、中国の起源と本邦の起源とが常に対をなすことで学習されてきており、こうした修学形態が根強く茲にも関わっていたことを示唆するものである。次に『節用集』類の広本節用集』、そして印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』に、この語は未収載にある。これにより、『庭訓徃來注』から『運歩色葉集』が『節用集』より遙に多くの語を引用していることが裏付けられるのである。江戸時代の『書字考節用集』に、

市町(イチマチ)。〔乾坤一10@〕

とあって、語注記は未記載にある。

2000年11月20日(月)雨。八王子⇒世田谷(駒沢)

といつおき つりふねふりつ きおついと

渡一冲 釣り舟振りつ 氣落つ絲

「年預(ネンヨ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「袮」部に、

年預(−ヨ/アヅカル) 。〔元亀本163I〕

年預(−ヨ) 。〔静嘉堂本181C〕

季預(−ヨ) 。〔天正十七年本中21ウC〕

とある。標記語「年預」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未收載にある。『庭訓徃來註』卯月十一日の状に、

-- 国々倉主一年中利倍勘定シテリヲ内裏節季-スルヲ云也。預字心之義也。〔謙堂文庫藏二七右G〕

とある。『節用集』類の広本節用集』は、

年預(ネンヨ/トシ、アヅカル) 。〔態藝門429A〕

とあって、標記語のみで語注記は未記載にある。また、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

年預(−ヨ) 。〔弘・言語進退135D〕

とあって、永禄二年本尭空本は未収載にある。江戸時代の『書字考節用集』に、

年預(ネンヨ) 又出人倫。〔時候二64D〕

年預(ネンヨ) 御所。関白家次官政事之職也。又諸大寺掌年中諸雜事者。〔人倫四39B〕

とある。

2000年11月19日(日)曇り後晴れ。八王子⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

といいくに つめたくためつ にくいいと

訪い行くに 冷たく溜めつ 憎い絲

「月迫(ゲツハク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「氣」部に、

月迫(−ハク) 。〔元亀本215I〕

月迫(ゲツハク) 。〔静嘉堂本245G〕

月迫(ケツハク) 。〔天正十七年本中52ウA〕

とある。標記語「月迫」は、語注記を未記載にする。『庭訓徃來註』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』卯月十一日の状に、

公事-時之課--之上分 暦圖ハ‖臘月也。上分一国一郡ヨリ定年貢之外、臘月ニ|内裡進貢スルヲ云也。〔謙堂文庫藏二七右E〕

とあって、「迫は暦圖を見、迫は臘月なり。上分一国一郡より定めて年貢の外に、臘月に内裡へ進貢するを云ふなり」という。『節用集』類の広本節用集』は、

月迫(ゲツハク/ツキ、セマル) 臘月。〔時節門589G〕

とあって、その注記には「臘月」とあり、『庭訓徃來註』の「迫は臘月なり」に合致する。また、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

月迫(ゲツハク) 臘月。〔弘・時節172C〕

月迫(ゲツハク) 臘月。〔永・時節141F〕

月迫(ゲツハク) 臘月。〔尭・時節131C〕

とあって、広本節用集』をそのまま継承する。当代の『日葡辞書』には、

Gueppacu.ゲッパク(月迫) Tcuqi,xemaru.(月,迫る)すなわち,Tcuqino fate.(月の果て)月々の最後,すなわち,Xiuasu(師走).〔邦訳296r〕

とある。

[ことばの実際]

御仏名之間。可参仕之由相存之処。月迫之習。云方々公事。云元三料宮。乱暇不候之間。空以罷退畢《『明衡徃来』中末》

2000年11月18日(土)晴れ。八王子⇒板橋(国立国語研究所)

といいやも さむさはさむさ もやいいと

訪い厭も 寒さは寒さ 舫い絲

「顕密(ケンミツ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「氣」部に、

顕密(ケンミツ) 天台、−眞言、天台宗南天竺傳来。音聲短故。曩謨(ナム)三滿多(サマタ)讀。眞言宗リ‖天竺傳法来。音声長故。曩謨(ナウホウ)三滿多(サンマンタ)ト也。〔元亀本215E〕

顕密(ケンミツ) (ケン)ハ天台、−(ミツ)ハ眞言ナリ、天台宗自南天竺法来。音声短故。曩謨(ナム)三滿多讀。眞言宗自天竺傳法。声長。曩謨三滿多也。〔静嘉堂本245C〕

とある。標記語「顕密」の語注記は、「顕は天台、密は眞言、天台宗は南天竺より法を傳へし来る。音声短し。故に曩謨(ナム)三滿多(サマタ) と讀む。眞言宗は天竺より法を傳へし来る。音声長き故に、曩謨(ナウホウ)三滿多(サンマンタ)と讀む」という。ここで、「曩謨三滿多」の読みそのものが異なることを注記しているのであるからして、元亀本の如くこの部分に読みを付すのが本来ではなかろうか。これを静嘉堂本はすべて付さずじまいにある。元亀本に従えば、天台宗は「ナムサマタ」、真言宗は「ナウホウサンマンタ」と読むのである。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未收載にある。『庭訓徃來注』卯月五日の状に、

宗之學匠 天台、密眞言、天台宗南天竺来。音声短。故曩謨(ナウマク)三滿多(サマ―)ト。眞言宗中天竺傳法来。音声長。故曩謨(ナウマク)三滿多〔謙堂文庫藏二五左A〕

とあって、『運歩色葉集』はここからの引用であることが知られる。ただし、「曩謨三滿多」の読みについてだが、謙堂文庫本は、「ナマサマタ」と「ナウマク――」とあることから全ての識別は不可能である。これを天理図書館本では、「ナマ――」と「ナウマク――」と冒頭部「曩謨」の読みの区別を示ししている。国会図書館左貫注は、「ナマ――」と「ナフマクサンマン−」とし、いずれも元亀本とその読みを異にしている。次に『節用集』類の広本節用集』は、

顕密(ケンミツ/アラワス、ヒソカ)。〔態藝門600G〕

と標記語のみで、語注記は未記載にある。また、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本節用集』には、標記語そのものを未收載にする。

 当代の『日葡辞書』に、

Qenmit.ケンミツ(顕密) Arauare cacururu.(顕はれかくるる)顕現と秘密と.仏法語(Bup).〔邦訳486l〕

とある。

[ことばの実際]

圓觀上人と申(まうす)は、元(もと)は山徒(サント)にて御座(おはし)けるが、顕密(ケンミツ)両宗(リヤウシユウ)の才(サイ)、一山(サン)に光(ひかり)(ある)かと疑はれ、智行(チギヤウ)兼備(ケンビ)の譽(ほま)れ、諸寺(シヨジ)に人無(なき)が如(ごと)し。《『太平記』巻第二・三人の僧徒関東下向の事、大系一63E》

2000年11月17日(金)小糠雨。八王子⇒世田谷(駒沢)

とひいなば うつつよつつう ばないひと

問い否ば 現世頭痛 場無い人

「酒(サケ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「左」部に、

(サケ) 杜康(ト)杜燕(トエン)夫婦(フウフ)始造也。杜康(トク)。杜燕(トエン)之、木蓮木之本日備。鳥含、置テ‖(スギ)洞天水懸酒字水鳥(カク) 。〔元亀本279@〕

(――) 杜康(トカウ)杜燕(トヱン)夫婦造也。杜康死。杜燕哀、木蓮木日々備飯。鳥含之、置杉洞天水懸爲酒之字水邊(ヘン)。〔静嘉堂本318F〕

とある。標記語「」の語注記は「杜康・杜燕夫婦始めて造るなり。杜康死す。杜燕これを哀れみ、木蓮の木の本に日々飯を備ふ。鳥これを含み、杉の洞に置き、天水を懸る酒と為す故に酒の字水邊{扁}に酉を書くなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未収載にある。

庭訓徃來註』卯月五日の状に、

酒沽(ウリサケ) 杜康杜燕夫婦者、或時杜康死也。杜燕哀ミ∨之、木蓮日々備鳥含之、置杉洞日数熟天水懸ル∨ト。書也。山人是見取飲ムニ甘也。〔謙堂文庫藏二一左C〕

とあって、この箇所からの引用である。最後の「山人是れを見、取りて飲むに甘きなり」を省いていることも知られる。次に『節用集』類の広本節用集』は、

(サケ/シユウ)百詠云、飲膳標題酒者、天之美禄ナリ。帝王所‖-ナリ。享祀シテ福扶(サケ) ヲ百福之會。非行。酒清濁厚薄之不同。故清者曰〓〔酉+票〕。清而甘白〓〔酉+巳。濁(ニコル) ヲ〓〔酉+央皿〕。厚曰醇。重醸曰酣。薄曰〓〔酉-漓〕。一宿熟曰(ホウ)ト。美者曰〓〔酉+胥〕。紅者曰醍。緑者曰〓〔酉+雨品〕。白者曰〓〔酉+差〕。麥酒去滓(シル)ヲ而飲曰醪。食療經云、五穀華味之至也。故能益シ∨亦能損也。異名。松醪。村醪。烏程荊南--。烏祈。魯薄。魯〓〔酉-温〕。魯温。竹葉。浮蟻。浮蛆。緑蛆。紅朋。紅友。緑友。歓伯。新〓〔酉-倍〕。蘂落。浮蝋。麹塵。麹秀才。麹生。鵞黄恠之杓写――。青州従亊。闌玉。玉液。玉友。盈墫。蟻香。浮甕。洞庭春色。督郵谷悪酒。清聖。濁賢。蘭亭。上尊。中尊。下尊。南岸曰上若。北岸曰下若。〓〔勹+米〕酒。緑酒。〓〔手+尤力〕青。三清。桂香。十旬。線茂。〓〔酉-祿〕〓〔酉-倍〕。流霞。流漿。陽燧。去憂。銷憂。酒泉。郡九〓〔酉-温〕酒。明君。齊醸。琥珀。美酒。一壺酒。禅花。白々。薄々。錦江春色黄封。紫霞。新蒭。春蒭。舜泉。忘憂君又草トモ。忘憂物。雪泉。金魚。雲〓〔土+而大〕。小道士。般若湯。焼春。玉蛆玉篇。杏霞。洗泥酒。碧香酒。真一先生白酒。屠蘇。春蟻。麟脂。狂藥。黄直杯ノ情。桐馬。蘭王漢武ノ酒曰--。鵬黄。蒲萄。鵞児酒。蔗漿坡六蔗テ酒ヲ造ル。豫北。竹葉。臘味。松花酒。春酌。麹〓〔薛+子〕尓雅。〓〔酉+需〕〓〔酉-祿〕。醇醴。瓊液。荷心苦。玉東西隹人斗南美酒――艶シ下。瑞露珎坡云酒汚I下。酪母酒滓謂之−鴛。玉〓〔月+高〕。釣詩鈎。茅柴金薄酒。雪液。雲液。〓〔酉+余〕〓〔酉+縻〕酒。宣春。官〓〔酉-温〕悪谷。醗〓〔酉-倍〕。白波酒令同。藥長百薬ノ長同。芳醪。大送美。良薬。玉脂。玉漿玉海。白搗波。碧友。掃愁箒。清酌。官泥赤親折--ヲ坡十六。羅浮春。洞庭春。呉醴。楚瀝。平原。〓〔旱+阜〕筒坡〓〔旱+阜〕ヨリ大竹ノ筒ニ酒ヲ入ルヽ苔トモ作也。玉屑十六巻。藥郎トナス。又索郎谷注。榴花酒。蒲城。酉水分字。消臺藥。平樂香。絳霞。梨花。春雪。宿醸古酒ヲ云。瓊漿杜康始作合紀。沙掲(サケ)玉露。沙嬉(サケ)。〔飲食門779B〕

とあって、その語注記は大いに異なるものである。また、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本節用集』には、

(サケ)。〔弘治二年本・食物212F〕

(サケ) 詩鈎愁箒。皆_是号∨―也。−是万病藥也。但不可過也。〔永禄二年本・食物178@〕

(サケ) 釣詩鈎掃愁箒。皆_是云也。−是万病藥也。但不可過也。〔尭空本・食物166H〕

とあって、弘治二年本は語注記は未記載にあり、永禄二年本尭空本は同じ注記内容であり、冒頭の箇所は広本節用集』の異名に見える『東坡集』「洞庭春色詩」の詩句「應呼釣詩鈎」をもって「酒」の呼称としていることが知られ、次に「酒はこれ万病の藥なり、但し過ぎるべからず」という。この箇所は別資料からの引用である。

 さて、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』における共通のこの「杜康・杜燕夫婦」譚だが、広本節用集』に「杜康始作合紀」とあって、典拠を『国花合紀集』としている。また、「三寸」のところで引用した『河海抄』に、

又云、三木 杜康造酒蒙求杜康か妻男のほかへゆきける間に男の日々の飯を園木の三またにそなへをきけるか、雨露に潤て酒となりける也。

とあって、ここでは『蒙求』を典拠として引用する。

[参考] 2000年6月2日(金)「天野(あまの)」1999年10月26日(火)「三寸(みき)」

[ことばの実際] 杜康酒(トコウシュ)河北省。

據文物考古発現,中國公元前 5000 年至公元前 7000 年遺存的文物中,便有盛酒的陶器,説明酒的歴史之久遠。從漢代的文字資料看,人們認爲儀狄和杜康是中國最早掌握併傳布釀酒技術的人。《世本》説:“儀狄始作酒醪,變五味,少康作[禾朮]酒。”〔酒文化より抜粋〕

酒は詩を鈎針〔『譬喩尽』六〕

2000年11月16日(木)曇り一時晴れのち雨。八王子⇒世田谷(駒沢)

といいろの むすみてみすむ のろいいと

訪い色の 結みて身棲む 呪い絲

「蠶(カイコ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の補遺「虫名」部に、

(カイコ)。〔元亀本373@〕

(カイコ)。〔静嘉堂本453B〕

とある。標記語「」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、

(カイコ) 支-那員-〓〔山+喬〕-山(インケウ[サン])ニ氷蠶(ヘウサン)|。霜-雪(ヲヽフ) ∨ヲ。ス∨(イト)ヲ一尺織(ヲリ)テ文-錦([ブン]キン)ヲ|。レトモ∨(ヌレ)。入モ∨ズ∨(ヤケ)。東-坡氷-蠶不ス∨(シラ)∨ヲ。火-鼠([クワ]ソウ)スト云∨暑。即チ_是也。〔氣形66B〕

とあって、その語注記に「支-那の員-〓〔山+喬〕-山に氷蠶有り霜-雪を以ってこれを覆ふス∨絲を作す。長さ一尺、織りて文-錦を為す水に入れども濡れず。火に入るも燒けず東-坡が句に云く、氷-蠶寒を識らず火-鼠暑を知らずと云ふ。即ち是れなり」と收載説明がなされている。これを『庭訓徃來註』卯月五日の状に、

巧匠番匠木道 (コノ/キノ―)并金銀銅(キンギントヲ)ノ細工・紺掻(コウ―)染殿綾織 支那ニハ員〓〔山+喬〕山有氷蠶|。霜雪之。作。長一尺織文錦|。溺、入火不燒也。〔謙堂文庫藏二一右E〕

とし、『下學集』から「-句」の前部分を引用している。次に『節用集』類の広本『節用集』は、

(カイコ) −與蠶〓〔无4+日〕蚕同字也。支那員〓〔山+喬〕山|。霜雪絲長一尺織為|。トモ∨水不濡。入火不(ヤケ)。東-坡句云、氷ヲ。火鼠不。是也。〔氣形66B〕

とあって、これも『下學集』を継承し、冠頭部に同語異表記の文字を増補し、簡略削除は見えない。異なる表記箇所として、「氷」を「氷」とし、「錦」を「錦」としている点である。また、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本節用集』には、

(カイコ) 同。〔弘・畜類80@〕

(カイコ) 同。支那員〓〔山+喬〕山氷−|。霜雪絲長一尺織為‖∨水不濡。入火不東-坡句云、氷−不ヲ。火鼠不。是也。〔永・畜類80@〕

(カイコ) 同。支那員〓〔山+喬〕山氷−|。霜雪絲長尺織為水不濡。入火不東-坡句云、氷−不火鼠不日者是也。〔尭・畜類72C〕

(カイコ) 同。支那員〓〔山+喬〕山有氷−霜雪覆作絲長一尺織為水不濡。入火不東-坡句云、氷−不火鼠不暑是也。〔両・畜類86D〕

とあって、弘治二年本だけが広本節用集』の増補記載にあたる同語異表記の箇所において、標記語を通俗字「」とし、語注記に正字「」を示すといった置換が見られ、語注記は削除している。他の三本は、やはり、広本節用集』と同じく同語異表記の正俗で示し、『下學集』の語注記をそのまま継承する。ここで、『運歩色葉集』だけが異なった取込みであることになる。なぜ、『下學集』を頂点にした『庭訓徃來註』、そして『節用集』といった語注記の継承を記載しなかったのだろうか。それは、本篇「賀」部でなく、補遺「虫名」に収載することに何か関わっていたのだろうか、さらに深く考察する必要があろう。

 当代の『日葡辞書』に、

Caico.カイコ(蚕) 絹の虫〔蚕〕,または,その種〔蚕種〕.下(ximo)では,またcaigo(蚕)とも言う.⇒Biacqio<zan;Gabi.〔邦訳80r〕

とある。江戸時代の『書字考節用集』には、

(ヲコ) 俗用。○出加。久|。〔氣形・五51D〕

(カイコ) [筍子]−賦。屡/\_化シテ而不者乎。善ニシテ而拙_乎。有父母而無牝牡者_乎。○出遠。久。〔氣形・五56B〕

() 時珍云。俗用者非也。―音曲。蚯蚓之名也。〔氣形・五56C〕

(クハムシ)出遠。加。〔氣形・五70E〕

とあって、『下學集』からの引用継承とは異なる語注記にある。

[ことばの実際]

冰蠶 〓〔山+喬〕山――。長七寸黒色有鱗角以霜雪覆之作〓〔爾+虫〕長一尺織為入水不濡。入火不燎(拾遺記)。〔『韻府群玉』巻十八覃韻、二507左I〕

[HP関連サイト]

 知識編/天然繊維(絹)  生糸  カイコ【蚕】

2000年11月15日(水)曇り一時晴れのち雨。八王子⇒世田谷(駒沢)

といとこと ひびくやくびひ とこといと

問い何処と 響くや九美火 何処問いと

「吹毛求疵(ケヲフイテキズヲモトムル)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「景」部に、

(−ヲ−キズヲモトムル) ―鷹出也。广リ∨煩時、毛荒(アルヽ)其時吹毛。必吹毛疵求毛不吹而見則不見也。〔元亀本220@〕

テ∨ (−ヲ−テ−ヲ−) ――――自鷹出也。鷹有煩時、(ウ)毛荒其時吹毛見煩所。必赤毛不吹而見則ンハ見也。〔静嘉堂本250F〕

(−ヲフイテ−ヲ−ム) ――――自鷹出也。鷹ル∨煩時毛荒(アルヽ)。時吹テ∨。必(アカ)キ毛吹而見_則見也。〔天正十七年本中54オE〕

とある。標記語「」の語注記は、「吹毛疵求は、鷹より出づるなり。鷹に煩い有る時、羽毛荒るる。其の時毛を吹いて煩い所を見るに必ず赤き。毛吹かずして見るときんば見えざるなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未收載にある。『庭訓徃來註』卯月五日の状に、

過怠之疵 漢書云、吹ハ∨ヨリ。其有時毛荒其時煩所必赤。毛不ル∨則疵。言ヲ∨疵若吹求百姓等若有過怠レハ∨改必謂。刀ニモルソ∨疵。〔謙堂文庫藏二〇左F〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記はここに依拠していることが知られる。『節用集』類の広本節用集』は、

フイテモトムキズヲ (−ヲフイテキズヲモトム) 漢書。〔態藝門601F〕

とあって、語注記は『庭訓徃來註』の冒頭に見える典拠『漢書』を記載するに留まり、その語注記は異なりを見せている。また、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、何故かこの語未收載としている。いわば、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との語注記の連関に留まり、『下學集』そして、『節用集』類との語注記における連関が見えないのである。江戸時代の『書字考節用集』には、

フ井テケヲモトムキズヲ _開毛縫以求其瑕疵出[韓子][前漢書]又劉子云洗垢求云々。〔言辞十一11F・平樂寺版七八七F〕

とあって、典拠として『韓非子』を増補し、「きずをもとむ」の表記も「求疵」から「索瑕」といった書き換えが見られるのである。

[ことばの実際]

炯然無過慇探 疵 失之者 三賢十聖 有失可誹。《『日本霊異記』下巻大系414I》「毛を吹きて疵を求むべからず」

有司毛求。《『漢書』景十三王伝》

擧{興}者獲虚以成欲下クタサム吹毛求疵キスイ无/サキ鄙後脩ヲーマルトイヘ者則引古以病ヤマシムルナリ。《『群書治要』巻第三十〔晉書 下〕四−四〇三D52》

「言葉の泉」⇒「ことばの遊び」⇒「ことはざ集」を参照。

2000年11月14日(火)曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)

 いいひよと かくやまやくか とよひいい

 良い日よと 斯く山焼くか 豊火言い

「卯花威(ウノハナヲドシ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「宇」部に、

卯花威(ウノハナヲドシ) 全躰白也。角菱。〔元亀本183H〕

卯花威(ウノハナヲドシ) 全躰白也。角菱。〔静嘉堂本206F〕

卯花威(ウノハナヲトシ) 全体白也。角菱。〔天正十七年本中32ウE〕

とある。標記語「卯花威」の語注記は、「全体白なり。総角菱まで白糸なり」という。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状には、

卯花威黒絲鎧」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

花威(ヲトシ)黒絲(ヨロイ)」〔山田俊雄藏本〕

花威黒絲」〔経覺筆本〕

花威(ヲトシ)黒絲(ヨロイ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 『下學集』は、未収載にある。『庭訓徃來註』六月十一日の状に、

卯花威 全体白也。(アゲマキ)モ白也。〔謙堂文庫蔵三六左H〕

とあって、『運歩色葉集』はこれを引く。『節用集』類の広本節用集』や、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、『下學集』同様、この語は未収載にある。いわば、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との語注記の連関に留まり、『下學集』そして『節用集』類との語注記の連関は見えないのである。

 古版『庭訓徃来註』に、

卯花威黒絲鎧 卯花威(ウノハナヲトシ)(イタツ)テ白キ系ノ色(イロ)ナリ。〔下十一ウ四〕

とあって、語注記に「卯花威に至って白き系の色なり」という。江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)には、

(う)の花(ハな)(おどし)卯花縅 卯花縅に四品あり。白糸にゑり萠黄の糸にておどしたるをも花糸はかりにておどしたるをも卯の花と云。又銀具足を白糸にして耳(ミヽ)の糸薄浅黄(うすあさき)テなるをも云。又上二段下を浅黄にておどしたるをもいふ。なを源平藤橘の四家によりて差別あり。〔四十五ウ三〕

とあり、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』では、

(う)の花(はな)(おどし)卯花縅。▲卯花縅ハ品々ありといへどもいづれ白糸にて縅(おど)したるをいふ。〔34ウ七〕

(う)(はな)(おどし)。▲卯花縅ハ品々ありといへどもいづれ白糸にて縅(おど)したるをいふ。〔61ウ六〕

とあって、標記語「卯花威」の語注記を記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vnofanavodoxi.ウノハナヲドシ(卯の花縅) 鎧の縅し方の一種で,上述の卯の花の外観をしたもの.〔邦訳695l〕

とあって、標記語「卯花縅」の意味を「鎧の縅し方の一種で,上述の卯の花の外観をしたもの」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

うの-はな-をどし(名)【卯花縅】〔卯月は、卯花(うのはな)は白く、木の葉は緑(もえぎ)なり〕 絲縅の鎧に、一段は白、一段はもえぎと、段段、色を易へて縅したるもの。又、盛版部上半部を白く、下半部をもえぎにしたるも、又、上下、反對にしたるをも云ふ。 保元物語、二、白河殿攻落事「信濃國の住人、根井大彌太、藍摺の直垂に、卯の花縅の鎧」〔0249-1〕

とあって、標記語卯花縅」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「うのはな-おどし【卯花縅】[名]甲冑の威の色による名。全体を白一色とした威を、卯の花の咲き乱れた有様からの連想によっていう。白糸威、白の唐綾威、白革による洗革(あらいかわ)威の総称。うのはな。[補注後には、装束の襲(かさね)の色目(いろめ)の表を白、裏を青とする卯花襲から、白と青の威し分けとする説もある。また、白と青の(だん)、または上二段を白、以下を青とする威ともいい、「軍用記ー三」には「卯の花おどしは白糸と萠黄糸にて威すなり白は花の色萌木は葉の色なり」とある」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

卯花威(かしとり)威。緋威。品革威。黄櫨匂。《『尺素徃来』(1439-64年)》

2000年11月13日(月)曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)

 いいいみと ふかきよきかふ とみいいい

 善い意味と 深き良き交ふ 富み醫云い

「大將軍(タイシヤウグン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「多」部に、

大將軍(―――) 經基六孫王征夷――源氏先祖清和天皇御孫、經基六孫王。天コ年六月十五日。其子接津守号滿中。自征夷――始也。天文十七戌申五八十九年也。〔元亀本144B〕

大將軍(タイ―グン) 征夷―――源氏先祖清和天皇御孫、經基六孫王。天コ季六月十五日。其子接津守号滿中。自是征夷―――始也。至天文十七季戌申五百八十九季也。〔静嘉堂本155@〕

とある。標記語「大將軍」の語注記は、「征夷大將軍、源氏の先祖は清和天皇の御孫、經基六孫王。天コ年六月十五日源の姓をる。其子接津守滿中と号す。是れより征夷大將軍始るなり。天文十七年戌申、至て五百八十九年なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未收載にある。『庭訓徃來註』六月十一日の状に、

大將軍 征夷大将軍源氏先祖清和天皇御孫、經基六孫王孫王天コ五年六月十五日給(セイ)。其子接津守ヲハ滿中号。自是大將軍始也。先代亊也。當公-方足利左馬頭義兼之末流也。何源氏也。〔謙堂文庫藏三六右D〕

とあって、語注記の前半部分が合致する。『節用集』類の広本節用集』に、

大將軍(ダイシヤウクン)一人 征夷者始於日本武。毎兵亊(ツカワス)將帥(スイ)也。〔官位門338D〕

とあって、語注記の内容を異にする。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

大將軍(―――) 征夷――トハ源氏先祖清和天皇御孫、經基六孫王。天コ年六月十五日源之姓。其子摂津守ヲハ号滿中。自是之始也。至弘治二丙辰五百九十七年也。。〔弘・100C〕

大將軍(ダイジヤウグン) 新撰陰陽書云、―――者太白之精天之上客。以正四方三歳一移百亊不可犯云々。永・90F〕

大將(タイシヤウ)軍――。〔尭・人倫83C〕

とあって、弘治二年本の語注記の末尾に「」とあって、この語注記内容が『庭訓徃來註』からの引用であることを示している。そして、『運歩色葉集』の語注記の体裁と一致するものである。永禄二年本は全く異なる語注記を示している。

[ことばの実際]

都-督荊州諸軍-事・征南大-将-軍。上疏タ―ク呉世祖・深納イル之。〔『群書治要』巻第二十九〔晋書 上〕四−三八四A・569〕

シキ・辟ヌサル三府・不ツ―。宣帝・復群ヌシ大宰{傳}属。固ク―辞。世宗輔。政・命喜為大将軍從事中郎喜{憙}到仍{引}見アル。〔『群書治要』巻第二十九〔晋書 上〕四−三八七H・599〕

2000年11月12日(日)曇り。高知⇒東京(世田谷駒沢)

 といちとに むくたちたくむ にとちいと

 十一どに 向く立ち巧む 二度地異と

「漢字(カンジ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀」部に、

漢字(―シ) 二十四億字也。〔元亀本95H〕

漢字(―ジ) 四十二億字也。〔静嘉堂本119C〕

漢字(―シ) 四十二億字也。〔天正十七年本上58ウE〕

漢字(―ジ) 四十二億字也。〔西來寺本170B〕

とある。標記語「漢字」の語注記は、元亀本だけが「二十四億字なり」といい、他三本は、「四十二億字なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未收載にある。『庭訓徃來註』四月三日の状に、

梵字漢字達者 梵字天竺梵王製スル所也。日本ニハ慈惠書也。梵字廿二億漢字廿四億云々。〔謙堂文庫藏二六左E〕

とあって、「梵字は、天竺梵王製する所なり。日本には、慈惠書すなり。梵字は、廿二億漢字は、廿四億渡ると云々」という。ここでも、元亀本の語注記と同じ「廿四億」としている。『節用集』類の広本節用集』や、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、標記語「漢字」からして未收載にある。ここでも『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との語注記の連関に留まり、『下學集』そして『節用集』類との語注記の連関は見えないのである。

2000年11月11日(土)晴れ。高知(高知大学) 国語学会中四支部研究発表会

 いちならび つきみちみきつ ひらなちい

 一並び 月満ち見きつ 平な地位

「梵字(ボンジ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「保」部に、

梵字(ボンジ) 廿二億字也。〔元亀本43I〕

梵字(ボンジ) 廿二億字也。〔静嘉堂本48F〕

梵字(ホン−) 廿二億字也。〔天正十七年本上25オF〕

梵字(ボンジ) 廿二億字也。〔西來寺本79E〕

とある。標記語「梵字」の語注記は、「廿二億字なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未收載にある。『庭訓徃來註』四月三日の状に、

梵字漢字達者 梵字天竺梵王製スル所也。日本ニハ慈惠書也。梵字廿二億漢字廿四億云々。〔謙堂文庫藏二六左E〕

とあって、「梵字は、天竺梵王製する所なり。日本には、慈惠書すなり。梵字は、廿二億漢字は、廿四億渡ると云々」という。広本節用集』は、

梵字(ボンジ/ハン・キミ、アサナ・ヤシナフ)。〔態藝門107E〕

とあって、標記語のみで語注記は未記載にある。次に印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

梵字(−ジ)。〔言語進退35E〕

梵字(ホンジ) −語(ホンゴ)。−行(キヤウ)。〔言語34C〕

梵字(ボンジ) −語。−行。〔言語34C〕

梵字(ホンジ)。〔言語38A〕

とあって、広本節用集』に従い、語注記は未記載にある。ここでも『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との語注記の連関に留まり、『下學集』そして『節用集』類との語注記の連関は見えないのである。

2000年11月10日(金)曇り。東京(八王子)⇒高知

いいとおみ そらめきめらそ みおといい

 善い遠見 空眼キメラぞ 澪と好い

「都(ミヤコ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「見」部に、

(ミヤコ) 仁皇廿代宣化天皇王御宇、大和国立也。同代天智天皇御字、近江国立。天武天皇白鳳七丁卯也。至テ‖天文十七戌申八八二年也。同五十代桓武天皇御宇、延暦十三年甲戌遷ル‖山城国平安城。至テ‖天文十七戌申七百五十五年。聖武天皇天平聖暦十六甲申遷シ‖都於難波。至天文十七戌申八百五年也。〔元亀本303H〕

(ミヤコ) 仁皇廿代、宣化天皇王御宇、大和国立。同代天智天皇御字、近江国立武天皇白鳳七丁卯也。至天文十七戌申、八八二季也。同五代桓武天皇御宇、延暦十三季甲戌遷山城国平安城。至天文十七戌申七百五十五季。聖武天皇聖暦六十甲申遷都於難波。至天文十七戌申八百五年也。〔静嘉堂本353G〕

とあって、標記語「」の語注記は、「仁皇廿代宣化天皇王の御宇、大和国に立るなり。同代天智天皇御字、近江国これを立る。天武天皇白鳳七丁卯なり。天文十七戌申に至て八八二年なり。同五十代桓武天皇御宇、延暦十三年甲戌山城国平安城るなり。天文十七戌申に至て七百五十五年。聖武天皇天平聖暦十六甲申都を難波に遷し、天文十七戌申至て八百五年なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、この語は未收載にある。『庭訓徃來註』卯月十一日の状に、

更不遁避ス|歟。京町人 仁王廿代宣化天王御宇、大和国也。仁王代天智天王御字、近江国。仁王五十代桓武天皇御宇、延暦十三年甲戌遷平安城。彼平安城九重東西十八町也。南北三十八町也・横小路、一條・正親町・土御門・鷹司・近衛・勘解由小路・中御門・春日・大炊・御門・冷泉・二条・押小路・三条坊門・姉小路・三条六角・四条坊門・錦小路・四条綾小路・五条坊門・高辻・五条通口・六条坊門・楊梅・六条目牛(サメウシ)・七条坊門・北小路・七条塩小路・八条坊門・梅小路・八条針小路・信乃(ノ)小路・唐橋・九条・巳上三十八町也。堅小路、朱雀・坊城・壬生・櫛笥・大宮・猪熊・堀川・油小路・西洞院町・室町・烏丸・東洞院・高倉・万里小路・冨小路・京極・朱雀、巳上十八町也。以内裡中央|。町人之置樣、一水・二火・三木・四金・五土・六水・七火・八木・九金也。〔謙堂文庫藏二七右H〕

とあって、語注記の冠頭部分がこれにあたる。但し、「天武天皇白鳳七丁卯也。至テ‖天文十七戌申八八二年也」と「至テ‖天文十七戌申七百五十五年。聖武天皇天平聖暦十六甲申遷シ‖都於難波。至天文十七戌申八百五年也」の箇所は『庭訓徃來註』には未記載であり、『運歩色葉集』が加筆増補しているところである。広本節用集』は、

(ミヤコ/ケイ・キヤウ)。(同/ジヤウ・シロ)。(同/ラク)。(同/・スベテ)名藥乞(ミヤコ)合紀。礼記曰天下有王遷都立邑。都所貯老荘廿八年。凡邑有宗廟。先君之田。曰都。無田曰邑也。黎都曰城。又曰都城過百雉者國害也。千字文注天子所居曰都。〔天地門887D〕

とあって、その語注記は『国花合紀集』『礼記』『千字文注』といった別資料に基づくものであり、異なっている。次に印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

(ミヤコ)。(同)。(同)。(同)。〔弘・天地230F〕

(ミヤコ) 洛。都。〔永・天地192A〕〔尭・天地181E〕

とあって、広本節用集』の標記語排列に従うものであるが、その語注記は未記載としている。ここでも、『下學集』に収載がないことで、『庭訓徃來註』は独自の語注記を用意する必要があったともいえよう。そして広本節用集』もまた独自の語注記を用意したのである。今後、こうした『下學集』にない標記語の語注記をどのように用意し、編纂したのか考察を深めることにもなろう。そして、この語注記を引用し増補するのが『運歩色葉集』であったことも大いに辞書編纂のシステムとして覗えてくるのである。

 当代の『日葡辞書』には、

†Miaco.ミヤコ(都)。⇒Chuqua;Miyaco.〔邦訳400r〕

Miyaco. ミヤコ(都) 国王の宮廷のある都市.⇒Miaco.〔邦訳413l〕

とある。

2000年11月9日(木)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

いいくにみ たかひくひかた みにくいい

 善い国見 高低干潟 見に来好い

「沙弥(シヤミ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

沙弥(―ミ) 駆烏――自十歳至十五歳。應法――自十六歳。至十九歳名字――廿歳也。〔元亀本312A〕

沙弥(シヤミ) 烏――自十歳至十五才。應法――十六歳。至十九名字――廿歳也。〔静嘉堂本365B〕

とある。標記語「沙弥」の語注記は「驅烏沙弥十歳より十五歳に至る。應法沙弥十六歳より十九歳に至て名字沙弥廿歳なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、

沙彌(シヤミ) 小僧又賤使(センシ)。〔人倫40D〕

とある。語注記は「小僧又は賤使」という。これを『庭訓徃來註』は、

沙弥 驅烏沙弥自十歳十五。應法々自十六。至十九名字沙弥廿歳。六位上司五位也。〔謙堂文庫蔵五二右@〕

とあって、『下學集』の語注記を引用しない全く別の語注記であり、『運歩色葉集』もこの語注記を継承する。これによれば、年齢により「驅烏沙弥」(十歳から十五歳)、「應法沙弥」(十六歳から十九歳)、「名字沙弥」(廿歳以上)の三種に区分することを説明する語注記である。広本節用集』は、

沙彌(シヤミ/イサゴ、イヨ/\) 此始落髪(ハツ)ノ之称謂也。言此人出煩悩涅槃故也云々。此云息慈。又云勤策。寄皈傳授十戒己為求宗最下七歳至年十三者。此曰鳥沙弥。若年十四至十九名應法若年二十已上号名字沙弥也。〔官位門919F〕

とあって、これも『下學集』を引用しない。そして、独自の語注記を持って記載するのである。特に年齢による区分の度合いが異なっていることに注意がいくのである。次に印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

沙弥(シヤミ)。〔弘・人倫238@〕

沙弥(シヤミ)。〔永・官名200G〕〔尭・官名200G〕

とあって、標記語のみで語注記を未記載にしている。『下學集』の語注記を最も尊重して継承する編集姿勢は、この語にはなく、各々が独自の資料に基づき、語注記の説明を展開しているといった稀な用例でもある。こうしたなかで、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』とが同一の注記説明をしていることも注目したい。すなわち、『庭訓徃來註』もこの語の説明を継承せず、さらに広本節用集』が打ち続くかのように、別箇の解釈を持って記載する。いわば、『庭訓徃來註』の流れに近いところで別注記を実行するといったかなり意識しての編集方針であろう。だが、印度本系統の『節用集』は、この広本節用集』の語注記を否定するかのように未記載という態度にでている。こうしたなかにあって『運歩色葉集』だけが『庭訓徃來註』を継承していることが重要なのである。当代の『日葡辞書』には、

Xami.シヤミ(沙弥) 修道院の食糧室係のように,家事をつとめる寺(Tera)の坊主(Bozos)。〔邦訳742r〕

とある。

[ことばの実際]

小児荅、「我レハ、昔、此沙弥也。我、誤下食メリシ、今、[カワヤ]タリ。而ルニ、我、聖人行業クニ、来法花經讀誦フヲ。願クハ、聖人、慈悲テ[v.7.p.39-40]。〔『今昔物語集』巻第七・震旦會稽山弘明、轉讀法花經縛鬼語〕

2000年11月8日(水)晴れ。東京(八王子)

いいはには むしつきつしむ はにはいい

いい歯には 虫着きつしむ 歯にはいい 

「先達(センダツ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「勢」部に、

先達(−ダツ) 山伏。〔元亀本352H〕

先達(−ダツ) 山伏。〔静嘉堂本425@〕

とある。標記語「先達」の語注記は「山伏」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、

先達(−ダツ) 引導人也。〔態藝80F〕

とある。これを『庭訓徃來註』は、

先達 下覚引-導人也。〔謙堂文庫蔵五五左F〕

とあって、語注記は「下学(集)に引導の人なり」という。すなわち、『下學集』をそのまま引用した注記である。広本節用集』は、

先達(センダチ/マヅ、イタル) 引導人也。〔人倫門1081B〕

とあって、これも『下學集』をそのまま継承する。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』には、

先達(センダチ) 山臥。〔弘治二年本・人倫262G〕〔永禄二年本・人倫224A〕

とあって、読みは「センダチ」と広本節用集』に従いながら、語注記は「山臥」として『運歩色葉集』に近似た語注記となっていることに気がつく。この「引導の人」から具体的な「山伏」への注記語の置換が何故なされたのかを含め大いに考えさせられるところである。

2000年11月7日(火)小雨のち晴れ。東京(八王子)

いいなめよ とこよによこと よめないい

飯舐めよ 常世に夜毎 嫁な好い

「野心(ヤシン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「屋」部に、

野心(ヤ―ン) 含恨之儀也。日本講義曰、自鷹出之辞也。荒鷹不人。左傳人不睦(ムツハ)之――。又野狐心也。又狼之子有――也。〔元亀本202@〕

野心(ヤシン) 含恨之儀也。日本講義曰、自鷹出之辞也。荒鷹不馴人。――左傳人不睦謂之――。又野狐心也。又狼之子有――也。〔静嘉堂本228C〕

天正十七年本は、この語を欠く

とあって、標記語「野心」の語注記は、「恨を含むの儀なり。日本講義曰く、鷹より出る辞なり。荒鷹は人に馴れず。之これをふ。『左傳』に人に睦(ムツハ) ず、これを野心と謂ふなり。又、野狐心なり。又狼の子、野心有るなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、

野心(ヤシン)。〔態藝72F〕

と標記語のみ記載する。『庭訓徃來註』三月十二日の状に、

野心之際 日本講義云、自鷹出辞也。荒鷹不人。是埜心。故人之不云也。或野狐心以云。〔謙堂文庫藏二〇右@〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記はこれを取り込んだものとなる。『節用集』類の広本節用集』は、

野心(ヤシン/イヤシ・ノ,コヽロ)。左傳狼之子有野心ナリト。又(タカ)出辞也。〔態藝72F〕

とあって、『左傳』の「狼の子、野心有るなり」をあげ、さらに典拠を付さずに「鷹より出る辞なり」をあとに記載する。この後半部分は、『庭訓徃來註』に云うところの『日本講義』(『続日本記』のことか)に基づく内容である。さらに、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』にも、

野心(ヤシン)。〔弘・言語進退167D〕〔永・言語137@〕〔尭・言語126@〕

とあって、『下學集』同様に標記語のみである。ここで、『庭訓徃來註』と広本節用集』そして、『運歩色葉集』の連関性が見えてくるのである。いまとりわけ、広本節用集』と『庭訓徃來註』の成立に関わる前後の関係について、この語をもってだけでは決定できないがこの両書はじっくり見据える資料であることだけは指摘しておきたい。当代の『日葡辞書』には、

Yaxin.ヤシン(野心) Nogocoro.(野心)すなわち,Betxin.(別心)裏切り,あるいは,謀反.§Yaxinnuo cuuatatcuru,tacumu,fucumu,saxifasamu,vocosu.(野心を企つる,巧む,含む,挟む,起す)主君に反抗して謀反を計画する.§Yaxin suru.(野心する)裏切りを行動にうつす.⇒Camaye,ru.〔邦訳813r〕

とある。

[ことばの実際]

節刀タマハル事ハ、元明天皇和銅二年三月陸奥越後兩國エヒスアリテ野心アリ。左大弁巨勢朝麻呂陸奥鎮東将軍トシテ、民部大輔佐伯宿祢石陽{マヽ}ヲハ征越後蝦夷将軍サタメテキ。此トキ節刀タマハス。〔『塵袋』巻第八・九ウA〕*和銅二年は西暦709年。続日本記』の記載内容。

2000年11月6日(月)曇りれ。東京(八王子)

いいろくろ すえはちはえす ろくろいい

善い轆轤 陶鉢は得ず 轆轤好い

「名越祓(ナコシノハライ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「那」部に、

名越祓(−コシノハライ) 六月尽也。夏火、秋金、相刻故作此祓消災。〔元亀本168C〕

名越祓(ナコシノハライ) 六月盡也。夏火、秋金、相故作此祓消災。〔静嘉堂本187F〕

名越祓(ナコシノハライ) 六月盡也。夏火、秋金、相刻故作此祓消災。〔天正十七年本中24ウE〕

とある。標記語「名越祓」の語注記は、「六月盡なり。夏は火、秋は金、相刻す故に此の祓いを消災すと作す」という。『下學集』は、

名越之祓(ナゴシノハライ) 六月尽也 夏秋交代(コウ[タイ])ノ之時候ナリ也。而(ヒ)、 秋(カネ) 、火金相剋([サウ]コク)ス。故之名(ハラ)ウ相剋之災。故名越之祓也。〔時節29C〕

とある。これを引用して『庭訓徃來註』六月廿九日の状に、

六月廿九日 此夜有名越|。恩餘之義也。夏秋交代候也。火、秋金、相尅。故、攘相尅故也。〔謙堂文庫藏三五左B〕

とあって、若干の置換はあるものの語注記の合致が見られる。『節用集』類の広本節用集』は、

名越祓(ナコシノハライ/メイヱツハツ) 六月晦日也。夏秋交代之候ニシテ而夏火、秋金、火與金尅。故越夏之名(ハラ)ウ相尅‖――。〔時節門434@〕

とあって、これも若干の置換語を持って『下學集』を継承する。次に印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本節用集』なども、

名越之祓(ナゴシノハライ) 六月晦日也。夏秋之交代(カハリカハル)之候火、秋金、火与金相。故夏之名攘相之災故曰――。〔弘・時節137D〕

名越之祓(ナゴシノハライ) 六月尽也。夏秋之交代(カウダイ)之候。而火、秋金、火金相。故ヘテ之名(ハラ)ウ之災(−)ヲ故云――――。〔永・時節109E〕

名越之祓(ナコシノハライ) 六月尽也。夏秋之交代之候也。而火、秋金、火与金相尅。故越夏之名(ハラ)フ相尅之災故云――――。〔尭・時節100A〕

名越之祓(ナゴヘシノハライ) 六月盡也。夏秋之交代之候也。而火、秋金、火与金相。故越夏之名(ハラ)ウ之災故云――――。〔両・時節122@〕

とあって、『下學集』⇒広本節用集』を継承しながらも語の置換がなされている。だが、いずれも『運歩色葉集』のように語注記を簡略化するまでに改編作業は及んでいない。当代の『日葡辞書』には、

Nagoxino farai.ナゴシノハライ(名越の祓)〔陰暦〕六月の最後の日.〔邦訳443l〕

†Nagoxino farai.ナゴシノハライ(名越の祓) 病気が起こらないようにと,ゼンチョ(gentios 異教徒)が迷信的な行事を行なうのに用いるある種の弓.〔邦訳443l〕

とある。

2000年11月5日(日)晴れ。東京(八王子)

いいこだよ はれやかやれは ねだこいい

好い子だね 晴れやか遣れば 強請子云い

「海月(クラゲ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の補遺「魚之名」部に、

海月(クラケ)。水母(同)。〔元亀本367@〕

海月(クラゲ)。水母(同)。〔静嘉堂本446B〕

とある。標記語「海月」と「水母」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「海月」が見え、『下學集』は、

海月(クラゲ) 無骨者。晉(シン)ノ霊-運(レイウン)カク、(ヒロフ)海-月。注(ハマクリ)ノ_属也。〔氣形64B〕

とあって、語注記は詳しく、「骨なき者。晉の霊運が句に云く、席を掛け海月を拾ふ。注に蛤の属なり」という。『庭訓徃來註』五月日の状は、

并初献海月 史記曰、海月骨者。晋霊運句曰、掛席拾――註蛤属也。〔謙堂文庫藏三二左F〕

とあって、『下學集』の語注記を継承する。ここで『下學集』(古写本を含む)にない『史記』という典拠資料をここに新たに掲載する。『節用集』類の広本節用集』は、

海月(クラゲ/カイゲツ、ウミ,ツキ) 無魚也。晉霊-運句云席拾(ヒロウ)‖――。注蛤(ハマクリ)ノ之属也。〔氣形門503A〕

とあって、「者」を「魚也」に置換するほかはそのまま『下學集』を継承するに留まる。すなわち、増補改編を加えていない。次に印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本節用集』などは、

海月(クラゲ) 無骨魚。水母(同)。〔弘・畜類158D〕

海月(クラゲ) 無骨魚也。晉霊-運句云席拾――。注蛤ノ_。〔永・畜類130@〕

海月(クラゲ) 无骨魚也。晉霊運句云席拾――。注蛤_属。又水母(同)。〔尭・畜類119A〕

海月(クラゲ) 無骨魚也。晉霊運句云席拾――。注蛤(タクイ)。又水母(同)。〔両・畜類144D〕

とあって、広本節用集』と同様に、「魚也」とし、後は『下學集』を継承する。このなかで、弘治二年本は語注記を簡略化して示し、異表記「水母」を添えている。尭空本と両足院本は注記はそのままで、異表記「水母」を添えている。そして、永禄二年本がもっとも広本『節用集』に近い体裁で編纂書写されているといった三様の語注記の体裁を示し、この印度本系統の流れを組みつつ、『運歩色葉集』があると見たい。『運歩色葉集』は弘治二年本の簡略化体裁よりさらに進んで語注記未記載に進んだと見てよかろう。当代の『日葡辞書』には、

Caiguet.カイゲッ(海月) Vmino tcuqi.(海の月)すなわち,Curague.(くらげ)くらげ.〔邦訳81r〕

Curague. クラゲ(水母・海月) くらげ.〔邦訳169l〕

とある。

2000年11月4日(土)曇りのち晴れ。東京(八王子)

いいよいに むしなきなしむ にいよいい

好い宵に 虫鳴き馴染む 新世云い

「茗荷(ミヤウガ)」と「鈍根草(ドンコンサウ)」

 「茗荷」は、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「見」部に、

名荷(―ガ)。茗荷(同)。(同―) 。〔元亀本300C〕

名荷(―ガ)。茗荷(同)。(同―) 。〔静嘉堂本349D〕

とあり、これに、補遺「草花名」部には、

茗荷(ミヤウガ)。(―カ) 。〔元亀本378B〕

名荷(ミヤウガ)。茗荷(同)。(同) 。〔静嘉堂本461F〕

とある。次に「鈍根草」については、『運歩色葉集』の「登」部に、

鈍根草(ドンゴン―) 茗荷也。〔元亀本59A〕

鈍根草(トンゴンサウ) 茗荷事。〔静嘉堂本67C〕

鈍根草(トンコンサウ) 茗荷事也。〔天正十七年本上34ウ@〕

鈍根草(トンコンサウ) 茗荷事。〔西來寺本106D〕

とあり、これも補遺「草花名」部にも、

鈍根草(トンゴンサウ) 名荷也。〔元亀本380C〕

鈍根草(―――) 名荷。〔静嘉堂本458E〕

とある。ここで見る限りは、「ミョウガ」の「ミョウ」の字異表記を併記するものであり、「茗荷」の異名である「鈍根草」は注記しない。むしろ、「鈍根草」のところで、「ミョウガ【茗荷】」の異称であることを注記する体裁にある。『庭訓徃來』十月日の状には、「茗荷」の表記が見えている。『下學集』には、

(ミヤウガ) ス‖ニ|也。〔草木128A〕

とあって、標記語は、『運歩色葉集』では最後に排列が見える「」を用いており、これに語注記で「“”は或は“”の字に作すなり」と示す方が先頭に排列されている。そして、異称「鈍根草」の記載はない。これを『庭訓徃來註』十月日の状にみるに、

昆布荒布K煮烏頭布(カチメ)(フキ)(アサミ)(カフラ)酢漬(スツケ)ノ茗荷(ミヤウカ) 茗非也。求名菩薩ヨリ始也。故求名鈍而書我名ヲ|也。死シテ々何ト|也。即号鈍根草也。是即求名菩薩釈迦如来時之弥勒佛是也。〔謙堂文庫蔵五八左G〕

とあって、「“茗”に作るは非なり。求名菩薩より始るなり。故は求名、鈍にして我名を書き、荷ひて行くなり。死して後に墳に草を生す。“名何”と名づくなり。即ち、“鈍根草”と号すなり。是れ即ち、求名の菩薩は釈迦如来の時の弥勒佛は是れなり」というとあって、名の由来を示す説話が引用されているものである。『節用集』類の広本節用集』は、

名荷(ミヤウ/メイ,ニナウ、ナ,ハス) 或作。〔草木門888C〕

とあって、ここで『下學集』における標記語「」と語注記語「名荷」とを逆に記載する体裁が見られ、『下學集』と同様に、異称「鈍根草」の記載はない。次に印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』などは、

名荷(ミヤウガ)。(同) 。茗荷(同)。〔弘・草木231D〕

名荷(ミヤウガ) 。〔永・草木192F〕

名荷(ミヤウガ) 。又極康屮。〔尭・草木192F〕

鈍根草(ドンコンサウ) 名荷。〔弘・草木41F〕

鈍根草(ドンコンサウ) 名荷也。〔永・草木42F〕

鈍根草(ドンコンサウ) 茗荷也。〔尭・草木39B〕

とあって、異称「鈍根草」を標記語として立項し、語注記も『運歩色葉集』に合致する。この「鈍根草」の採録は、この『庭訓徃來註』の語注記に触発されたものと見てよかろう。

[ことばの実際]

狂言記』巻三・三、鈍根草に、「殿「扨も、釈尊の御弟子に、周梨槃特といふ人あり、此人愚鈍第一の人にてあつた、わが名だに憶へいで、杖の先に書いて歩き、「そなたの名は」と尋ぬれば、「これよ」と言ふて差し出すほどなる愚鈍な人にてあつた、しかれども、人間の習ひにて、ついには悟道をなされた、土中につきこめてあれば、塚の上よりも、茗荷一本生へて有、すなわちこれを、愚鈍第一の塚より出たれば、鈍根草と付けられてある」《新大系九二L》

周梨槃特」の名は、『庭訓徃來註』の語注記には見えない。『運歩色葉集』では「須梨槃特(シユリハンドク)」〔元亀本324A〕「須梨槃特(シユリバンドク)」〔静嘉堂本383A〕とある。『下學集』及び『節用集』類は未収載。

[参考既存文献]

萩原義雄「作語攷−室町時代古辞書『下学集』を中心に―」(平成十一年三月、駒澤大学北海道教養部研究紀要第三十四号)の27頁の55「ミヤウガ」で示している。また、関連するところでは、“ことばの溜池”1998年8月28日記載の「「茗」の字」がある。

2000年11月3日(金)曇り。東京(八王子)

いいみちと さとやまやとさ とちみいい

好い道と 里山宿さ 土地見言い

「經家書(キヤウゲのシヨ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「記」部に、

經家書() 毛詩廿巻、尚書十三巻、礼記廿巻、左傳卅巻、周易十巻、已上經、周礼十二巻、公羊傳十二巻、穀梁傳十二巻已上九經、論語十巻、儀礼十七巻已上七經、孝經一巻已上十一經子經二巻、莊子經卅三巻已上經家書傳法家算道書、凡大唐書数十二万餘巻也。又曰佛經者、達術道也。即算道之書也。陸奥守藤原佐世註文也。〔元亀本291@〕

經家書(キヤウゲノシヨ) 毛詩(モウシ)廿巻、尚書(シヤウジヨ)十三巻、礼記(ライキ)廿巻、左傳(サデン)卅巻、周易(シウヱキ)十巻已上七經。公羊傳(クウヤウテン)十二巻、穀梁傳(ゴクリヤウデン)十二巻已上九經、孝經(ケウキヤウ)一巻已上十一經、老子經(ラウシキヤウ)二巻、莊子(サウジ)經卅三巻、已上經家書(キヤウゲノシヨ)(キデン)法華(ホツケ)算道書(サンダウシヨ)、(ヲヨソ)大唐(タイタウ)ノ書数(シヨノカズ)十二萬餘(ヨ)巻也。亦云、佛經者、達(タツ)ス術道(シユツダウ)ニ也。即(スナハチ)算道(サンダウ)ノ之書也。陸奥守藤原佐世註文也。〔静嘉堂本338@〕

とある。

庭訓徃來註』四月三日の状に、

仙經儒者 術道算道也。經家書毛詩廿巻、尚書十三巻、礼記廿巻、左傳三十巻、周易十巻、已上之經、周礼十二巻、儀礼十七巻七經、公羊傳十二巻、穀梁傳十二巻九經、論語十巻、孝經一巻十一經、老子經二巻、莊子經三十三巻、已上經家書。紀傳法家算道書凡大唐書数十二万餘巻也。陸奥守藤原佐世註文也。于時至コ元年甲子九月望書之畢。又云佛經、達術之道者也。{即算道之書也云々}。〔謙堂文庫藏二六右F〕

とあって、静嘉堂本は「周礼十二巻、儀礼十七巻七經、…論語十巻、」の箇所を欠き、静嘉堂本には書籍の読み方が総て記載しているのだが、このうち当時、「リンギョ」とよまれていたであろう「論語」の読み方がここでは知られないのである。また、元亀本は排列を異にし収載している。これに奥書の識語部分「于時至コ元年甲子九月望書之畢」は、両本とも削除されていることが知られる。ただ、この引用が「陸奥守藤原佐世註文」からだということは共通する。そして、『節用集』類である広本節用集』、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』などは、『下學集』同様、この語を未收載にある。これも『庭訓徃來註』⇒『運歩色葉集』といった限られたなかでの特定の受用性ということが想定できる。

2000年11月2日(木)雨。東京(八王子)

といいつつ ほそあめあそほ つついいと

樋五つ 細雨遊ぼ 筒井絲

「紀典」と「紀傳」(キデン)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「記」部に、

紀典(――) 日本ノ儒道自リ‖吉備大臣始也。式目有十八ケ条。漢書百廿巻、或百卅巻、史記八十巻、或百巻、后漢書九十二巻、或百卅巻、巳上三史、文選卅巻、注文選六十巻、魏志卅巻、呉子廿巻、蜀志十五巻、陳書卅六巻、随書八十五巻、唐書二百巻、斉書五十巻、高祖實録廿巻、貞観政要十巻、群書治要五十巻、北史九十五巻、南史八十巻、修文覧三百六十巻、廿巻、説苑、初学記廿巻、文集七十二巻、文粋十四巻、帝範二巻、臣範二巻、百詠二巻、朗詠二巻、蒙求一巻、唱和集二巻、唐沿鼕ェ、宋韻一巻、已上。〔元亀本289@〕

紀典(キデン) 日本儒道自吉備大臣始也。式目(シキモク)十八ケ條。漢書(カンジヨ)百廿巻、史記(シキ)八十巻、(シキ)、后漢書(ゴカンシヨ)九十二巻、(シキ)百卅巻、巳上三史(サンシ)ナリ、文選卅巻、注文選(チウモンセン)六十巻、魏志(ギシ)卅巻、呉子(ゴシ)廿巻、蜀志(シヨクシ)十五巻、陳書(チンシヨ)卅巻、随書(ズイシヨ)八十五巻、唐書(タウシヨ)二百巻、斉書(セイー)五十巻、高祖實録(カウソジツロク)廿巻、貞観政要(―クワンセイヨウ)十巻、群書治要(グンジヨ――)五十巻、北史(ホクシ)九十巻、南史(ナンシ)八十巻、修文(シユフンカンラン)三百六十巻、韓花(カンクワ)廿巻、説苑(セツ―)、初学記(シヨガクキ)廿巻、文集(ブンジウ)七十二巻、文粋(ブンスイ)十四巻、帝範(テイハン)二巻、(チウハン)二巻、百詠(―ヱイ)二巻、朗詠二巻、蒙求(モウギウ)一巻、唱和集(シヤウワシウ)二巻、唐(タウグ)一巻、宋韻(ソウイン)一巻、已上。〔静嘉堂本335F〕

とある。『庭訓徃來註』卯月五日の状に、

紀傳 日本儒道吉備大臣始也。儒者ノ亊ハ式目十八ケ条紀傳漢書百廿巻、或百三十巻、史記八十巻、或百巻、後漢書九十二巻、或百三十巻、巳上三史、文選三十巻、註文選六十巻、魏志三十巻、呉志二十巻、蜀志十五巻、謂三国志|。晋書百三十巻、宋書百巻、大宋實録四十巻、梁書五十巻、陳書三十六巻、随書八十五巻、唐書二百巻、齊書五十巻、高祖實録二十巻、貞觀政要十巻、群書治要五十巻、北史九十五巻、南史八十巻、修文覽三百六十巻、大平御覽三百巻、幹苑卅巻、説苑、初学記廿巻、文集七十二巻、文粋十四巻、帝範二巻、臣範二巻、百詠二巻、朗詠二巻、蒙求一巻、唱和集二巻、唐韻一巻、宋韻一巻、大切韻等也。〔謙堂文庫藏二五左H〕

とある。これを比較してみるに、「謂三国志|。晋書百三十巻、宋書百巻、大宋實録四十巻、梁書五十巻、…、大平御覽三百巻、…晋書百三十巻、宋書百巻、大宋實録四十巻、梁書五十巻、大切韻等也」といった箇所が省略削除されて『運歩色葉集』が収載していることにまず気づく。次に書名の誤記・誤読(静嘉堂本は書名に振り仮名を付すことで書写者が漢籍をどう理会していたかが読みとれる。特に『群書治要』は「グンジヨ(チヨウ)」であり、『修文覧』は、「シユフンカンラン」という類)や巻数の誤写といったさまざまな表記に関わることがらが指摘できる。これを『節用集』類である広本節用集』、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』などは、『下學集』同様、未收載にある。このことは、『庭訓徃來註』⇒『運歩色葉集』といった限られたなかでの特定の受用性ということが想定できるのであるまいか。また、これらの書目録による書名は知っていても、これらすべてを保有管理する施設が当時存在したかといえば、『日本一鑑』が示す「山城大和の下野文庫と相模の金沢文庫」に収蔵された以外はこれも難しかろう。せめて、これらの書目をここに記載しておくことで、次の散在書目を蒐集するときの備忘録とする意気込みがこの両者の接点にあったのかもしれない。ここで、『運歩色葉集』編者が何故『太平御覧』三百巻だけをぽつんと削除したのかが気になるところでもある。日本への渡航が後期鎌倉時代であったことも示唆してのことか。このことが現代の私たちに『運歩色葉集』編者の資料引用意識構造の一部としてある種の信号を発していることは間違いなかろう。

[ワンポイント講座]「紀傳」を「紀典」としたこと

 本来、「キデン」は「紀伝」と表記し、「紀伝道」すなわち、平安時代の大学寮における学科の一つであった。いわゆる現在の「歴史学科(中国)」のような学問で、中国の正史(漢書・後漢書・史記)、三国志(魏・呉・蜀)、文選及び文選註、さらには詩文集が教授された。これを文章生に教授するのが紀伝博士で、これを平安時代には文章博士とは別に設置している。そして、「紀伝」を同音異表記「紀典」と書くことによりより、ここで用いられた書籍そのものを強く意識したのかもしれない。

2000年11月1日(水)曇り小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

いいひとつ めこなになこめ つとひいい

家一つ 女子名に和め 集ひ云い

「涎懸(ヨダレカケ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「与」部に、

涎懸(ヨダレカケ) 喉輪(ノドワ)之事。〔元亀本132A〕

涎懸(ヨタレカケ) 喉輪之事。〔静嘉堂本138D〕

とある。標記語「涎懸」の語注記は、「喉輪(のどわ)のこと」という。『庭訓徃來』六月十一日の状に見え、『下學集』は、

涎懸(ヨダレカケ) 。〔絹布97E〕

とあって、これを収載するが、語注記は未記載にある。次ぎに『庭訓徃來註』六月十一日の状に、

涎懸(ヨタレ―) 喉輪之亊ナリ。〔謙堂文庫藏三七右H〕

とあって、語注記も『運歩色葉集』がここから引用していることが解る。『節用集』類の広本節用集』は、

〓〔水+垂〕懸(ヨダレカケ/ケン) 。〔絹布門316E〕

とあって、標記語のうち「よだれ」の字をさんずいに旁を「垂」で示す文字で表記する。語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本節用集』には、

〓〔水+垂〕懸(ヨタレカケ) 涎懸。喉輪也。〔弘・財宝92@〕

〓〔水+垂〕懸(ヨタレカケ)。〔永・財宝88A〕〔両・財宝96B〕

〓〔水+垂〕懸(ヨダレカケ)。〔尭・財宝80@〕

とあって、標記語の漢字表記はいずれも広本節用集』に従うものであるが、弘治二年本だけが、語注記にして、この『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』とに共通する語注記「喉輪 (のこと)なり」を収載していることに注目したい。ここでの『庭訓徃來』の記述内容は、武具に関連するものであり、喉の部位を防御する武具名称であることが知られよう。当代の『日葡辞書』には、

†Yodarecaqe.ヨダレカケ(涎掛)。鎧の頸のところにつける喉輪.§また,幼児につける涎受け.⇒Zzudat.〔邦訳824r〕

とある。

 

UP(「ことばの溜め池」最上部へ)

BACK(「言葉の泉」へ)

MAIN MENU(情報言語学研究室へ)

 メールは、<(自宅)hagi@kk.iij4u.or.jp.(学校)hagi@komazawa-u.ac.jp.>で、お願いします。

また、「ことばの溜め池」表紙の壁新聞(「ことばの情報」他)にてでも結構でございます。