2006.04.12〜2007.04.20更新

 

2006年度

「日本言語文化研究T」&「国語史」講義の歩み

 

本日の講義内容及び事務連絡

※奈良女子大学から10月に「古字書データベース」が公開されました。
 
※後期課題リポートについて
 期日は2007年01月17日(水)を締め切り日とします。この記述内容を確認した上で、再度提出を求めますので、再度提出期限の方は、2007年01月24日(水)が締め切り日となります。提出場所は第一研究棟日本文化部門資料室及び研究室(直接。)
 課題内容について 日本文献資料の一作品乃至二作品を本に、作品の解題を作成してみましょう。解題の構成は、@作品名〔漢字表記と平仮名表記・【別名】〕A【製本数量】〔卷軸・冊本・折本〕B【成立年代・書写年代】C【著者・編者・ふりがな】D【識語】〔本末・巻末〕E【所蔵・【諸本】〔複製〕】F【翻字資料】G【国語資料】〔【研究】・【文体】など〕の已上八項目をそれぞれが選択された作品資料に遵い記述してみましょう。なお、資料の写真画像が添付可能な場合につきましては、カラー画像を添えてください。インターネットでの公開作品資料がある場合は、相手側の指示に従いHPアドレス及びリンクをしてみましょう。
※前期課題リポート未提出者救済處置としまして、上記案内の紀田順一郎先生の講演会に参加され、その講演内容聞き書きメモとご自分の感想をリポートにして提出いただければ充当させていきます。
 
 

 

 

 

《前期講義内容》

2006.04.12(水)第一限目・教場:4−302

日本文化の未来と古代をつなぐ

 広く世界の国々を見渡すとき、日本文化がどのような特質を有しているのか、自ずと浮かび上がってきます。日本・中国の諺に「温故知新」すなわち、「故きを温ねて新しきを知る」と云います。この文化を見極めていく慥かな眼力を養う時間でありたいと考えています。同じく諺に「百聞は一見に如かず」とも云います。人から聞いただけでは本統に見極めたことになりません。本統の見極めは、ご自身が見聞体験することで養われ育まれていきます。
 私は、日本文化を言語学史(日本語史)をもって少しずつ切り出していくことで、あなた方を文化の坩堝にご案内できたらと考えています。よろしく1年間おつきあい願います。
 自己の「(カク・さね)」を知ること→「核心にせまる」
 外側の「(エン・まどか)」の距離を確かめる
  「まどか」→「つぶ【粒】」→「つぶらな瞳」「つむじ【旋毛】」…「m・b」音相通例;【煙】「けぶり」と「けむり」。【寒】「さぶい」と「さむい」など。
 「○」…「円」は「(エン・えにし)」…「柳の枝」「はなむけ【餞】」のこと
 ※「格内」と「格外」の精神。「風」ということば。
 私は、昨今外国の異なる文化に出会ったことで、より日本の文化が明瞭に見えてきました。その私なりに見えた世界を、あなた方にこの講義を通じて伝えて行きます。
手始めとして、私のHPに書込みした内容の一部を散策なさってみてくださいませ。
 
 

 

 

 

2006.04.19(水)第一限目・教場:4−302

 日本最古の資料とは

 私たち人類が言語活動を開始したとき、話す=聞くこと、書く=読むことをいつどのようにし始めたのか興味を抱かずにはいられません。

 このなかで、話す=聞くことの言語形態は一過性にすぎず、露の如く消滅していきます。これに対し、書く=読むことの言語形態は、後世に継承することが可能でありました。ここでは、後者の書く=読むことの言語形態を素に話を進めてみましょう。

 日本最古の文字

 古代日本人は、文字を用いていなかったと云いますが、果たして本統に文字言語と無縁な世界にあったのでしょうか?よく、文字が使えなかったので口誦により伝えてきたと云われます。実際、日本の古代神話をまとめた『古事記』には、このような有様が語られています。そして、この『古事記』は、中国の漢字音を以て日本語の音に当てはめています。今日は、この文字の起源、そして現在へどのように広まっていったのかを大まかに伝えていきましょう!

   「しほ【塩】」という文字を例として

 

《參考する語句》

 金石文 布帛文 竹簡・木簡 唐紙・和紙 洋紙 電子版

 日本の最古の神話『古事記』は、原本は残存せず、鎌倉時代の古写本が伝来する

 『古事記』の本文と電子入力資料をどう見ていくか?海外での碩学状況。


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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 4月20日(木)21時27分27秒 
  現在使用している漢字の完成までの過程がみれたようで面白かったです。
どういう授業をされるのか不安でしたが、一年間楽しく学べそうです。
よろしくお願いします。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CK6165 投稿日: 4月19日(水)19時19分34秒 
  同じ「塩」でも旧字体ではとても多く、興味は尽きませんでした。これからも今回のような話が聞ける事を大変楽しみにしてます。一年間よろしくお願いします。  
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日本言語文化研究1 投稿者:ck4167 投稿日: 4月19日(水)14時47分48秒 
  種田山頭火は中学校の時に国語便覧で知りました。とても寂しい俳句を作る人だなぁと印象に残っていました。確か「こんなにも良い月を一人で見る」という俳句が載っていたので。私は国文学科で国語学を専攻しているので、もっと日本語についての知識や、研究の方法論をこの講義でつかめたらと思っています。1年間よろしくお願いします。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 4月19日(水)12時18分38秒 
  同じ「塩」という字にあんなにたくさんの書き方があったなんて知りませんでした。
旧字体は祖母がよく使っているので、家に帰ってから聞いてみようと思います。
コピーしたものは後でじっくり読んでみます。  
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日本言語文化研究 投稿者:cg6160 投稿日: 4月19日(水)11時01分41秒 
  とても興味深い講義でした。自分は日本史学専攻なんですが、更に歴史の知識や関心に深みが出そうです。漢字ひとつにあれだけの字体がある事や、念じることの重要さ、(種田)山頭火のこと、天皇家の方々が弥生系だということ、第七感の存在も始めて知りました。毎時間このような講義を続けてほしいです。長野県の天竜川沿いの伊那市出身です。よろしくお願いします。  
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日本言語文化研究1 投稿者:ck6133 投稿日: 4月19日(水)10時45分44秒 
  言語の起源が少し掴めた気がします!これからの授業がもっと楽しみです。1年間よろしくお願いします。  
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日本言語文化研究 投稿者:mk6060 投稿日: 4月19日(水)10時37分5秒 
  日本の漢字が旧字体から今の漢字に変わった理由が戦争の影響だと今日始めて知りました。普段何気なく使ってる漢字もこのように日本の歴史と深く関わっていることに驚きました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6160 投稿日: 4月19日(水)10時36分3秒 
  パソコンはほとんど使ったことがなくて難しいけど、授業についていけるようにがんばります。これからよろしくお願いします。  
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NBE 投稿者:cg6087 投稿日: 4月19日(水)10時35分2秒 
   最初教室わからなくてあせったけど、ちゃんと受けられてよかったです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4148 投稿日: 4月19日(水)10時34分0秒 
   「塩」という文字の使われ方を辞書を通してみていくこと、また辞書をどのようにしてみていくかがわかってよかった。  
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日本言語文化研究 投稿者:cb6138 投稿日: 4月19日(水)10時32分58秒 
  はじめまして。
私は普段外国語の授業が多いので、とても新鮮な感じがしました。
同じ漢字でも様々な形があるのは興味深いです。
1年間よろしくお願いします。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 4月19日(水)10時31分19秒 
  同じ「塩」という字なのに何種類もあって驚きました。弥生人と縄文人の話やいろいろな話をしてくださってとても勉強になりました。  
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日: 4月19日(水)10時29分54秒 
  話す=聞くこと、書く=読むことが出来る日本人であることを幸せに思う。
「塩」という漢字一つにしても、正しい漢字が幾つもあることに改めて気づいた。
今年度も一年間、宜しくお願いします。
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日本言語文化研究1 投稿者:CK6179 投稿日: 4月19日(水)10時28分48秒
 先生のお話がどれもとても面白く興味が湧くもので、必死にメモを取ってます!!
毎週先生のお話が楽しみです。これからもよろしくお願いします!!  
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日本言語文化研究T 投稿者:CK4052 投稿日: 4月19日(水)10時27分37秒 
  一つの文字でもこんなにたくさんの書き方があったのですね・・。
今の字は確かに簡単になったかもしれないけど、そして何種類も知っている必要は
ないと言われるかもしれないけれど、とても興味深いです。書けるようになって
みたいとも思います。  
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日: 4月19日(水)10時20分0秒 
  パソコンを使う授業なんて新鮮で面白いです。これから頑張っていきたいと思うのでよろしくお願いします!  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日: 4月19日(水)10時18分50秒 
  最初国語史という授業は何だか難しいというイメージしか無かったのですが先生がとても優しくお話も楽しかったです!先生が話していた鶴見の総持寺は私の家の近くにありますが知り合いの方がよく修行に行っています。凄いお寺なのだと思いました☆  

 

 

 

 

 

2006.04.25(水)第一限目・教場:4−302

 五十音圖のはなしと音訓について

   文字資料(漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字)から日本語學資料へ


一 漢字(真字・真名)
 A,漢字音:1,呉音(揚子江下流域南方系→{朝鮮半島経由}→對馬音)

    2,漢音(北方黄河流域北方系・唐の都長安)←遣唐使→音博士(こゑのはかせ)である續守言(しよくしゆげん)・薩弘格(さつこうかく)らを招聘し、学生・僧侶が学習〔持統天皇五年(691)〕。

    ※《実例》繪 ヱ[呉音]カイ[漢音]

    3,唐宋音(元・明・清三王朝…鎌倉・室町時代)→禪僧・貿易商

    ※《実例》黒き法被を纏った胡乱な男が暖簾をくぐりて饅頭屋に入るやいなや手に携えし扇子を徐に開き、翳し提灯の火を揺らした。

《參考HP》音韻学入門 研究論文一覧

 B,混種音訓:重箱読み…「縁組」「格下」「樂屋」「臺所」

        湯桶読み…「早番」「身分」「荷物」「黒幕」

 C,熟字訓:「飛鳥」「斑鳩」「春日」「紫陽花」「梅雨」「旅籠」「浴衣」「老舗」「草鞋」

二 カタカナ・ひらがな(仮名)

 カタカナは、古代寺院の仏教哲学を学習する学校で用いる→男性社会

 ひらがなは、女手

           紀貫之の名筆『古今和歌集高野切』〔HP図絵参照〕

  五十音圖

『孔雀經音義』〔十一世紀初頭一〇〇四-一〇二八年頃・醍醐寺藏〕

『金光明最勝王經音義』〔一〇七九年・大東急記念文庫藏〕

『反音作法(はんおんさほう)』明覚〔寛治七(一〇九三)年写本・醍醐寺藏〕

  阿伊烏衣於 可枳久計古 夜以由江与

左之須世楚 多知津天都 那尓奴祢乃

羅利留礼 波比不倍保 摩弥牟

和為于惠遠

 《參考HP》二つの「え」の話

 

  「いろはうた」と「あめつちのうた」(平安時代成立)

   

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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 4月26日(水)19時30分14秒 
  歴史に興味があるので渤海国の話はとても面白かったです。
ちょっと話はずれますが、日本の昔話に出てくる鬼は海を渡ってきたヴァイキングだったという説もあるらしいです。過去の人間の動きで今が作られているんだな、と実感します。
 先週の20日にここに書き込んだのですが、伝言板の方にペーストされていないのでちゃんと出席になっているか不安です。教えてください。  
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日本言語文化研究 投稿者:cg6160 投稿日: 4月26日(水)10時53分24秒 

  東北の文化についての話が一番興味深かったです。青森にはキリストの墓があるそうです。とてもロマンを感じる講義でした。八戸や三戸の「へ」の字は確かヘブライ語に由来しているという説がありました。また次回の講義を興味津津に待ちたいと思います。 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 4月26日(水)10時32分1秒 
  漢字にはいろいろな意味が込められていて熟字訓など漢字の語源を知ることはとても興味がわきました。これから歴史や文化についてもっと知識を深めていきたいです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 4月26日(水)10時31分0秒 
  呉音、漢音、唐宋音という言葉は初めて聞きました。
言葉の語源の話が好きなので、熟字訓の話はすごくおもしろくてもっと聞きたいと思いました。 
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日本言語文化研究1 投稿者:1ck4167 投稿日: 4月26日(水)10時29分30秒 
  他にとっている科目で国語学史と国語学演習2があるのですが、そちらでも漢字についての講義があったので、とても勉強になりました。今「日本漢字音の歴史」という本を読んでいるのですが、今日の授業であまり分からなかった本の内容も少し分かってきた気がします。 
日本漢字音の歴史 沼本克明著 2800 _ 漢字音とは日本漢字音の特質はなどの基礎的な問題を序章で概説し,以下上代,平安初期中期,平安後期以後,江戸以後の4章に分ち日本漢字音の歴史的変遷を記述した初めての概説書。〈残部僅少〉 四六判316頁
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日: 4月26日(水)10時28分22秒 
  呉音、漢音、唐宋音などを見てきたが、熟字訓に強い興味を持った。
また、漢字は使うが読みかたは大和言葉で、元の意味と漢字は、
まったく別のものである国字も面白いと思いました。
国語史を学ぶに辺り、日本の歴史を改めて勉強したほうがいいと思った。  
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日: 4月26日(水)10時25分29秒 
  先週来れなかったので、こんな風に、パソコンを使う授業だったなんて驚きました。扇子や、提灯のように普通に漢字読みしないものを唐宋音という鎌倉、室町時代のものだと始めて知りました!今日のお話で、漢字は奥が深いな、と感じました。外国人が熟字音の方が分かるというのも少し分かる気がします。本来の日本語の良さが出ている気がします。今まで毎日使っているはずなのにまだまだ漢字については分からない事だらけだと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CK6165 投稿日: 4月26日(水)10時24分24秒 
  漢字の読み方は音・訓読みくらいしか知らなかったし、それ以外にもあるなんて考えもしませんでした。ただ五十音にしてもそんなに意識したことが無かったんで、これからは意識して使っていきたいです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cb6160 投稿日: 4月26日(水)10時20分30秒 
  今日の授業ではいろいろな漢字の語源を知れて、楽しかったです。漢字が中国から伝わったことは知っていたけど、国字という日本独特な漢字があることや、仮名が朝鮮半島と関係があることは知りませんでした。  
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck4052i 投稿日: 4月26日(水)10時18分43秒 
  音読みの仕方は今まで当たり前のように使い分けていましたが、
実はこんな伝わり方の違いがあったのですね。
外国の方でなくとも、熟字訓の語源を探るのは大変楽しいです。  
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国語史 投稿者:JK5076 投稿日: 4月26日(水)10時15分10秒 
  日本の漢字はすごいと思う。
一つの漢字でこんなにもいろいろな読み方があって!もっと母国語について知って行きたいと思います。
これから学んでいくのが楽しみです☆
先生も優しい人でよかったです(^^*)  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日: 4月26日(水)10時13分30秒 
  普段何気なく使っている漢字の語源を調べたくなりました!漢字は奥深いし、菅原道真のように歴史の背景と共に学べるので、益々この授業に興味を持ちました!  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日: 4月26日(水)10時12分30秒 
  改めて漢字は奥が深いと思いました!
湯桶読みは普通に読むことが出来るが熟字訓は「飛鳥」を「あすか」と読んだり「紫陽花」を「あじさい」と読んだり日本人でも読めないような難しい漢字が沢山ある事がわかります。しかしその漢字にはちゃんとした意味があって成り立っているのであるということがわかりました。
多分いまある漢字で私が知っている漢字は3割にも満たないんではないかな〜?と思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6060 投稿日: 4月26日(水)10時11分15秒 
  「塩」というたった一文字を先週に引き続き今週もやり、漢字一字でこんなにも話ができることがすごいと思いました。ですがそれ以上に「塩」というたった一字が塩の作り方というこれだけのことを意味することに驚きました。  
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日: 4月26日(水)10時10分8秒 
  漢字の読み方にこんなにたくさんの種類があるなんて。。。凄いです☆私は日本人なのに母国語ついてまだまだ知らない事ばっかりだと気付かされました。これから1年を通して多くの事を学んでいけたらいいなと思っています。  
 
 

 

 

 

2006.05.09(水)第一限目・教場:4−302

 「いろはうた」と「あめつちのうた」そして「たゐにのうた」
 「いろはうた」がはじめに文献として記載された資料が先回五十音図でも触れた『金光明最勝王經音義』〔1079年〕です。
 日本語のすべてのかなを用いて、同じかなは二度用いない規範をもって七五調八句のうた(今様(いまよう)うた)としたのが「いろはうた」というものです。十一世紀の識字階層にとって学習かなの一覧表をなしており、かつ「うた」の意味合いを保持しています。
 
とはに      色は匂へど 
りぬる      散りぬるを
たれそ     我が世誰ぞ
むうゐ      常ならむ 有為の奥
まけふ      山 今日越えて
さきゆ      浅き夢見じ
ひもせ       酔ひもせず
 このうたは、多くの謎を醸し出しています。和歌の世界にも韻があるとすれば、七行七文字で表記されたことの意味合いが見えてくるのです。脚韻部分を続けて見ますと「とがなくてしす」となり、「咎無くて死す」というメッセージが見えてきますし、頭韻部分を続けて詠んでいきますと「いちよらやゑ」で「いちょらやぁぇ」ということばが見えてきたりします。さらには、「ほ(夲)を津のこめへ」というメッセ−ジなどもあるのだと云います。このうた自体が暗号のようになっていることからことの真偽はともかくも多くのことが云い伝えられてきました。江戸元禄時代の赤穂義士の討ち入りの数四十七と重ね合わせ、後には『仮名手本忠臣蔵』という作品が世に流布したのもこれを知っていたからにほかならないでしょう。
 作者は、未詳ですが、言い伝えには、「弘法大師空海(くうかい)」の名が常にこのうたの制作者として意識された時代が訪れます。さらに時代を三十年ほど降ると、『大般涅槃經(だいはつねはんぎよう)』の文言の意味合い「諸行無常(しよぎようむじよう) 是生滅法(ぜしようめつぽう) 生滅滅已(しようめつめつい) 寂滅爲樂(じやくめついらく)」と共通することを伝えるようになっていきます。しかし、日本言語學の検証に従えば、「弘法大師空海」(七七四〜八三五年)の作ではありえないことになります。なぜなら、ア行のエとヤ行のエは、十世紀中頃までは共存かなであったからです。この二音節「e」と「ye」は、発音のうえで区別されこれを書き分けていたからです。ですが、このうたには「え」の音は、「今日越て(ヤ行の「ye」の例)」が一度用いられているに過ぎません。空海の生きた時代の「え」の音節は二種類あったからです。何故、伝説対象人物名として、「弘法大師空海」を制作者としたか、これを思うとき、日本の人物像のなかで、「聖コ太子」と「弘法大師空海」とは、多種多様な伝説を織りなすいわば伝説世界の双璧と言えましょう。七五調八句のうた(今様(いまよう)うた)の形式が成されるのは平安時代後期(西暦の一〇〇〇年以降)ですから、空海の作とは成らないのです。
 このうたの成立以前になったうたとして「あめつちのうた」と呼称されているうた詞があります。時期は、十世紀の中頃(村上天皇の御代九四七〜九六七年)でかな四十八文字を一字の欠落無く、一字の重複もせず並べています。原文はすべてかながきされています。
 
あめ つち ほし そら   天地 星空
やま は みね たに   山川 峰谷
  り  むろ こけ   雲霧 室苔
 いぬ うへ すゑ   人犬 上末
  ゆわ さる おふ せよ   硫黄 猿 負ふ為よ
えの えを なれ ゐて   榎の枝を 馴れ居て
 
 このうたは、いろはうたと比較していくと、どのような特徴が見えてくるか、且つ又、この制作過程とその人物とはを考えることにしましょう。日本語の漢和字辞書として十世紀前期である西暦九三〇年代に『倭名類聚鈔(わみようるいじゆうしよう)』(和名抄(わみようしよう))が編纂されました。この編者は、源順(みなもとのしたがふ)〔延喜十一(九一一)年〜永観元(九八三)年〕という人物で二十四歳の頃に勤子内親王の命によって撰述されています。彼は、三十六歌仙の一人で知られ、和漢の学識を備えた人です。この辞書などを、私たちは「古辞書」と総称しています。『日本語古辞書を学ぶ人のために』(西崎亨編・世界思想社刊)の一〇八頁〜一一五頁・二六四頁〜二六五頁を参照願えればより明確になります。この語彙項目分類の基準となるのが「あめつちのうた」詞の「あめ」から「きり」までが意味の上で繋がっていることに気づかれるでしょう。「天部」「地部」「水部」となっていて、この基準が意識されています。「あめつちのうた」作者は、この源順(みなもとのしたがふ)自身です。二音節の単語を連ねてゆく形式で、最後の最後までこの形態を守り続けることはありませんでしたが、歌の調子を保ちつつ最後まで持って行った度量は見事です。その末句の理会は、まだ完璧には理会されたとは言えないでしょう。鉱物の「硫黄」と動物の「猿」、この猿が「負ふ為よ」そして、「榎の枝を 馴れ居て」とした辻褄をどう読み取ることができるかでもありましょう。「えの えを」の表記が「いろはうた」とは異なっています。これがア行の「e」とヤ行の「ye」であり、重複表記でないから四十八音節の時代と位置づけられています。(*参照 江戸時代の文政十二(一八二九)年成『古言衣延辨(こげんええべん)』(加賀藩士奥村榮實(おくむらてるざね)編) 二つの「え」の話)
 
 これに加えても一つ、「たゐにの歌」を知っておきたいものです。字母歌「たゐに」が載っている『口遊(くちずさみ)』(名古屋市大須観音真福寺、覚鑁を祖とする真言宗智山派の寺に写本が現存する。*『口遊注解』幼学の会編、勉誠出版刊 )は、その序文によれば、天禄元(九七〇)年に、源順(みなもとのしたがふ)の弟子である源為憲(みなもとのためのり)が、藤原為光(後に太政大臣)の長男で、当時七歳だった記憶力抜群の松雄君のために、暗誦用に作った教科書と云われています。
 
   字母歌「たゐに」     たゐにの歌
  たゐにいて        田居に出で
  なつむわれをそ      菜摘む我をぞ
  きみめすと        君召すと
  あさりおひゆく      求食り追ひ行く
  やましろの        山城の
  うちゑへるこら      打酔へる子ら
  もはほせよ        藻は干せよ
  えふねかけぬ      え舟繋けぬ
 
《補遺資料》「いろはかるた」の東と西。寄席・料亭の下足札。江戸の町火消しの組名。寺子屋教育「山はまだいの字も知らぬいろはかな/ちりぬるといろはをよむか風の声/風の手もいろはの後(あと)やちらしがき/雨露は木々の色葉の師匠かな」。
俳諧連歌といろはうた
春ごとにいろはの文字一くだり  やまけふこえて帰るかりがね 《『新撰犬筑波集』》
もともいひけりめともいひけり  いろはよむ指の下なる字を問へば 《『新撰犬筑波集』》
「いろはうた」文字仕様の謎立て
○ろはにほへと  いはなし
○いろはならへ  かむなかけ  《『なぞたて』》
『古今著聞集』和歌第六に、
一六二 いろは連歌に小侍從難句を附くる事并びに大進將監貞度が附句の事
 同御時の事にや、いろはの連歌ありけるに、たれとかやが句に、うれしかるらむ千秋萬歳としたりけるに、此次句にゐもじにやつくべきにて侍る。ゆゝしき難句にて人/\あんじわづらひたりけるに、小侍從つけゝる、
  ゐはこよひあすは子日とかぞへつゝ 
家隆卿の家にて、この連歌侍けるに、
  ぬれにけりしほくむ海士のふぢ衣 
大進將監貞度といふ小さぶらひつけ侍りける、
  るきゆく風にほしてけるかな
人/\とよみて、るきゆく風をわらひければ、「さも候はずとよ。ぬもじの次はるもじ
にて候へば、かくつかうまつりて候。なにの難か候べき」とちんじたりけるに、いよ/\わらひけり。小侍從がもどきの句といひつべし。
とある。小侍從は巧みさを賞賛され、大進將監貞度という小侍は、意味不明な付句をしたため、一座の物笑いとなる。
《参考資料》『日本語の歴史』4移りゆく古代語・平凡社刊
文献資料を読む《古代編》学生リポート「いろはうた」PDF版
 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 5月13日(土)23時43分7秒  編集済
  「いろはうた」はかなの一覧表でありながら、脚韻部分の「とがなくてしす」→「咎無くて死す」や、頭韻部分の「いちよらやゑ」→「いちょらやぁぇ」など、よく考えて作られていて奥が深いなと思いました。源順の時代の「あめつちのうた」はア行の「e」とヤ行の「ye」の区別をして書かれているので48文字で書かれているけれども、その後数十年の間に「え」と「ゑ」の区別がなくなって「いろはうた」で使われている文字は47文字になっているのを見ると、時代とともに言語も変化しているのだという事がうかがえます。鎌倉時代の藤原定家は「衣」と「江」を合流して47音を仮名遣いの基本と定めています。先生があげてくださった小松英雄さんの『いろはうた』(中公新書558・1979)や『倭名類聚鈔』、『日本語古辞書を学ぶ人のために』を読んで更に知識を深めていきたいと思います。  
 ※小松英雄著『いろはうた』(中公新書)は名著ですので、是非、ご自分のお小遣いで購入して何度も繰り返し、読んで欲しいものです!
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 5月10日(水)17時49分54秒 
  「いろはうた」からの赤穂浪士の話はとても興味深かったです。
前々から歌舞伎を見に行きたいと思っていたので、今日でより想いが増しました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160 投稿日: 5月10日(水)16時10分13秒 
  いろは歌の世界がどれほど大きいかを知りました。また時間があったら自分も調べてみたいと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 5月10日(水)10時32分32秒 
  「とがなくてしす」は知っていましたが、それと赤穂浪士の討ち入りの関連の話は初めて知りました。いろは歌の奥の深さに驚かされました。  
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日: 5月10日(水)10時30分57秒 
  聖徳太子という人物は、存在しなかったという話は以前、先生のお話の中で聞いたことがあったので、覚えていました。聖徳太子は馬小屋(馬の前)で生まれたという話を聞いたことがあります。これは、聖徳太子の時代には、キリスト教との関係があったことを表しているのだと思います。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日: 5月10日(水)10時28分44秒 
  いろは歌やあめつちの歌に隠されたものがあるのはすごいなぁと思いました。
いろは歌が空海作ではないのは知っていましたが源為憲作だとは知りませんでした。
今様って確か後白河天皇が好んでましたよね?
歌に隠された細工をみつけるのはとても面白いと思いました。
じっくり読んでみたいなぁと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck4052i 投稿日: 5月10日(水)10時27分35秒 
  いろはうた脚韻、忠臣蔵説がとてもおもしろかったです。
まさかここまで暗号めいていたとは思っていませんでした。
あめつちのうたもそうですが、他の作品ともいろいろつながっていたりして興味深いです。
調べたらいろんな謎が出てきそうですね。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6165 投稿日: 5月10日(水)10時26分29秒 
  いろは歌の忠臣蔵との関係に驚かされたと同時に、楽しかったです。源順の「あめつちのうた」の頭韻と脚韻が同じにするというのは凄いし、さらにその歌のすべてが素晴らしい歌だというのにはただ驚くことしかできませんでした。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日: 5月10日(水)10時25分24秒 
  いろはうたとあめつちのうたについて。  
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国語史 投稿者:jk5076 投稿日: 5月10日(水)10時23分23秒 
  誰もが知っている「いろは歌」が、もし空海が書いたという風に伝えていなかったら、ただの歌で現代まで伝えられることがなかったなんて驚きました。それに空海と名がつくだけでこれほどまでに有名になることにも驚かされました。
いろは歌に「咎無くて死す」という暗号があって、大石内蔵助がこの意味を知っていて、赤穂浪士を47人にしたという深い意味があったなんて初めて知りました!
色んな意味や謎がいろは歌にはあって、もっと色々知りたいと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CK6179 投稿日: 5月10日(水)10時21分55秒 
  『あめつちのうた』にはビックリしました!!最初と最後を綺麗に揃えるなんて…私には真似出来そうにありません。今日の資料はどれも興味深い物ばかりで是非頂きたいのですが、全部プリントしたらすごい量になりそうですね…(苦笑)
先生が一太郎にノートを作って下さったおかげでだいぶ板書が楽になりました。たすかりました、本当にありがとうございました!  
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日本言語文化研究1 投稿者:1ck4167h 投稿日: 5月10日(水)10時20分39秒 
  いろは歌に関するエピソードは本当にたくさんあるのだな、と今日の授業を聞いて改めて実感しました。伝説は多くあるけれど、やはり国語学などの見地から検証されていなくてはあまり面白みが感じられないと私は思います。いろはうたとあめつちのうたとの比較はとても興味を持ちました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日: 5月10日(水)10時18分35秒 
  いろは歌にメッセージが隠れていると文献に込められた思いを読み取れる奥深さが実感出来ました!また、弘法大師空海や源順の名前は知っているものの何を行いどういう作品を残したのか知らなかった自分が勉強不足だと思いました。  
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日本文化研究T 投稿者:mk6060 投稿日: 5月10日(水)10時17分17秒 
  日本にキリスト教は今まで戦国時代に入ってきたものだとばかり思っていて聖徳太子の頃に既に日本にあったことを始めて知りました。またそれ以上に興味深かったことが真言宗にキリスト教が混じっていることです。高野山でお坊さんが十字架を切ることがとても面白く感じました。  
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日: 5月10日(水)10時15分16秒 
  いろは歌は有名ですが、知らないことばかりで驚きました。空海作ではありえないと分かりつつも空海が作者であると伝えられている事実に、弘法大師空海という人物の凄さを感じました。また、日本語の全てのかなを使うだけでも大変なのにメッセージが込められた文章を書くなんていろは歌の作者は凄いと思いました。  
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日本言語文化研究 投稿者:ck4148 投稿日: 5月10日(水)09時58分34秒 
  「いろは歌」が「弘法大師空海」の作でない、ということは聞いたことがあったのですが、なぜそういえるのか、またそうだとすればなぜ空海の作として伝えられてきたのか…という部分については聞き逃してしまったためにずっと気になっていました。今日の講義ですっきりしました。講義の中で紹介された参考資料、HP等を参照してさらに理解を深めたいと思います。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cb6160 投稿日: 5月10日(水)09時56分0秒 
  今までいろはうたは聞いたことがあったのですが意味を考えたことはありませんでした。こんなに素敵な意味と隠れたメッセージがあったなんてとても驚きました。  

 

 

 

 

 

2006.05.17(水)第一限目・教場:4−302

 伊勢物語』第九段 東下り」を読む
  橋を八つ渡せるによりてなむやつはしとはいひける。そのさはのほとりの木のかげにおりゐて、かれいひくひけり。そのさはにいとおもしろくさきたり。それを見て、ある人のいはく、といふいつもじをくのかみにすへて、たびのこゝろをよめ、といひければよめる。
  ら衣つゝなれにしましあればるばるきぬるびをしぞ思
とよめりければ、みなひと、かれいひのうへになみだおとしてほとびにけり。
  

※かきつばた【杜若・燕子花】植物。「いずれがアヤメ?カキツバタ?

 

※「いとおもしろくさきたり」の過去の話を語る助動詞「けり」のなかで、一際明らかに「をとこ」にとって現在進行形で助動詞「たり」の語が用いられており、「いま当に、眼前に広がり咲き誇る紫色の花であるかきつばた」を表現したものとなっている。

 
 「うたの文字遊び」縁語・掛詞 折句
「折句」
 実例1 「かきつばた」
    ら衣 つゝなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞ思ふ
      唐衣 着つゝ馴れにし 褄し有れば 張る張る 着ぬるたびをしぞ 思ふ

         来つゝ     妻し    遙る遙る 来ぬる旅

I
  「ら衣」のうたは、勅撰和歌集である『古今和歌集』〔延喜五(九〇五)年成立〕卷九・覊旅四一〇・在原業平 として末尾の「名にし負はば」四一一のうたと共に収載されている。このことが何を意味するかと云えば、業平の東下りが史実に基づく実録であったかのように後世の人には思えてしまうことになっていく。だが、『古今和歌集』の撰者がこの二首の歌をどう展開して見せたのであろうかという点についてはこれまで考究が及ばなかったのも事実では無かろうか。この『伊勢物語』という歌物語が選んだように、ある男の物語で佳いのではないのか。

 平安時代における植物・花「かきつばた」を詠んだ歌は意外に少ないことにも気づく。勅撰和歌集では『後撰和歌集』卷第四に、

藤原のかつみの命婦(みやうぶ)に住み侍りけるをとこ、人の手にうつり侍りにける又のとし、かきつばたにつけてかつみにつかはしける           良岑義方朝臣

いひそめし 昔のやどの 杜若 色ばかりこそ かたみなりけれ 〔夏・一六〇〕

とあるにすぎない。鎌倉時代には、『新千載集』一六一二、『續後拾遺集』一四一、『風雅集』二六一、『金葉集』七二の歌がある。

 この一首のうたから導き出せることは、「かきつばた」の花の色は藤原家の「藤」の花と同じ紫色であること、已前通いつづけた邸内の「垣つ端」に咲いていたあの藤の花と同じ色の「かきつばた」の花色だけが、あなたのことを偲ぶよるべですというのである。「垣つ端」は「かきつばた」に通じ、男にとって手の届かぬ人となってしまった「かつみの命婦」、その現実を過去である昔へと蘇らせていくのであろう。また、うたの世界ではないが、清少納言『枕草子』第八十八段・「めでたきもの」に紫色の花として、

すべて紫なるは、なにも/\めでたくこそあれ、花も、糸も、紙も。紫の花の中には杜若(かきつばた)ぞ少しにくき。色はめでたし。六位の宿直すがたのをかしきにも、紫のゆゑなめり。

とあって、「かきつばた」という花は、「垣つ端」とは名のみで、紫という高貴な色合いを有している。これと同じように、六位の蔵人の宿直姿が興趣をそそるのは、指貫(さしぬき)の色が紫であるからにほかならない、小憎らしく思えてくるという感情がここでは表現されている。このことからも「かきつばた」は、他の花々の色合いを持っても寄せ付けぬ高貴な紫色そのもだということである。

 さて、話しを『伊勢物語』に戻そう。第三段から第六段は、後に参内して二條の后となる女人の物語である。藤原家という高貴な身分の出自である彼女の許に「をとこ」は通い続けた。であるが、やがて崩れかけた土塀には護衛が張り付き、「行けども逢はで帰りけり」〔第五段〕という立場に置かれていく。「京にありわびて、東(あづま)に行きけるに」〔第七段〕、「京や住み憂かりけむ、東のかたに行きて住み所求むとて」〔第八段〕、「京にはあらじ、東のかたに住むべき国求めにとて行きけり」〔第九段〕と伏線が引かれ、果たされぬ戀が故に東下りという道行きを選んだ「をとこ」の物語は、やがて東の端にある隅田川を舟で渡り、第十段では、武蔵国に住む藤原家出身のあてなる母から生まれた娘と戀に落ちるのである。この一連の流れを印象深いものとしているのがこの「かきつばた」ではなかろうか。野の緑緑の色が際だつ旅路のなかで一際眼にとまった紫の花を見て思い深げにしている「をとこ」の姿を見て、供人が句の上にすえてうたを詠んではと、その「をとこ」の意(こゝろ)を読み、興趣なことばを投げかけ、これが「をとこ」の意に響き瞬時のうたとなる。このときの思いは、次に隅田川を渡る舟のなかでも再び「都鳥」という名をもって想起され、紫のゆかりは、第十段へと及んでいるのではなかろうか。

 

 実例2 「女郎花(をみなべし)」

 朱雀院(すじやくくゐん)女郎花(おみなへし)合(あはせ)の時に、をみなへしと五(いつ)文字を句の頭(かしら)に置きて詠める

   ぐら山 ねたちならし くしかの にけむ秋を る人ぞなき 

とあって、同じく『古今和歌集』卷十・物名四三九・紀貫之 (宇多天皇主催の「亭子院女郎花合」)の歌がある。※貫之は、『左日記』の作者でもある。

 このうたは、「小椋山の峰に立って脚でならしながら、切なそうに鳴いている鹿が、あのときどのようにして行く秋を生き抜いてきたのか、誰も知る人はいないのだ。であるから、この鹿と同じように私はあなたのことが戀しくてたまらないのだと叫んでも、あなたはこれまで他(よそ)の女人方にもそうおっしゃってお欺しなさってきたのでしょ」という皮肉がかった感情表現となっている。この五文字「をみなへし」の語原を大槻文彦編『大言海』に、「花ノ色、美女ヲモ壓()ス意カト云フ、イカガ」〔四-九五四-A〕とあって、「美女をも壓(へ)す」で、すなわち、女人を圧迫するドンファンさを見抜いた歌意表現となってはいまいか。

 このように、「五文字」を読み込む「折句」という修辞技法は、『古今集』のなかにはこの二例しかなく、「折句」という名稱を獲得する初期の段階を提示していて、この実在が開花し、やがて暗号コードとして一種の個と個の通信文の役割をも担っていくことになったのである。

 

 ※「女郎花(をみなへし)」野草の名

○女郎花(ヲミナヘシ) 新撰万葉集詩云―――(女郎花)。和歌云、女倍芝。〔国立歴史民俗博物館藏『倭名類聚抄』卷十、草木部・一八ウG〕

 

 実例3 「琴賜へ」→「琴は無し」

A との葉も きはなるをと のまなむ づは見よかし ては散るとや 〔小野小町〕

 

B との葉は こなつかしみ 折ると べての人に らすなよめ 〔或人の返歌〕

 

「沓(くつ)冠(かむり)」のうた

 実例1 平安時代後期の源俊頼が「花見」を見に行くことを誘ったうた

かなし ののをやま くりか をだにも君(き) てはふれず 〔『散木奇歌集』雜下・一五三二〕

 実例2 新古今和歌集 藤原隆信 「さよふけぬ とくたたむ」

めざめ るひるしげ る涙(なみ) 今日(ふ)のくれは れやまさら 〔『隆信集』四四三〕

 実例3 兼好法師と頓阿の贈答歌  「よねたまへ」「ぜにもほし」

もすず ざめのかり  袖も秋 だてなきか 〔『續草菴集』五三八・吉田兼好〕

 実例4 兼好法師と頓阿の贈答歌  「よねはなし」「ぜにすこし」

るもう たくわがせ てはこ ほざりにだ ばしとひま 〔『續草菴集』五三九・頓阿の返歌〕

 

《参考資料》 『日本の書物』抜粋―HP『伊勢物語』

 

《補注》

『今昔物語集』卷第二十四にも、「在原業平中將行東方讀和歌語第卅五」〔岩波古典大系本、四-三三〇頁参照〕とあって、同じく「東下り」の逸話が見えている。ここでは「かきつばた」を「劇草」と漢字表記している。頭注説明では、「よみは、倭名抄以下による」と記載していて、実際、国立歴史民俗博物館藏『倭名類聚抄』卷十、草木部・二八オC〕にて調べてみるに、「劇草(カキツハタ) 蘓敬曰―一名馬藺、加岐豆波太[○上上上平]」とある。また、本辞書には「由跋(カキツハナ) 本草云― 薄葛反。加岐豆波那[平上上うえ○]」という例も見えていることを付記しておく。

 

「匂い」攷

  ※用字通觀〔尾崎紅葉作品集〕

 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 5月23日(火)11時33分36秒
  『土左日記』というのが正しい表記だということを初めて知りました。
高校の時に授業でやって分かった気になっていても、知らないことが多いと思いました。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 5月20日(土)22時41分10秒 編集済
 「かきつばた」を辞書で調べてみました。
かきつばた〔名〕【杜若】〔掻付花ノ傳、(花薄、はたすすき。頂、いなだき)常陸風土記、久慈郡、河内里ニ青紺色ノ土ヲ畫ニ用ヰ、加支川爾ト云フトアルハ、掻付土ナリ、掻付くるハ、つけテ染ムルナリ、(紺染ムル工人ヲ、紺かきト云フ)古ヘハ、此草ノ花汁ヲ染料トシタリ、杜若ハ、やぶめうがノ誤用字〕音便ニ、かいつばた。水草ノ名。葉ハはなあやめニ似テ、大キク、色淡シ、花、實共ニ、亦、相似テ、肥大ナリ、花色、紫ナルヲ常トスレド、浅紅、白、等、種種アリ、夏ノ半ヲ盛リトス。萬葉集、七35「住吉ノ、淺澤小野ノ、垣津幡、衣ニ摺リツケ、着ム日知ラズモ」本草和名、上32「馬藺、加岐都波太」(倭名抄、同ジ)康頼本草、上8「杜若、加支川波太」 『大言海』富山房
かきつばた【燕子花・杜若】一〔名〕(古くは「かきつはた」) @(和名は書付花(かきつけばな)の変化したもので、昔は、その花の汁で布を染めたところからいう。ふつう「燕子花・杜若」と書くが、漢名としてはいずれも誤用)アヤメ科の多年草。東シベリア、中国北部、朝鮮、日本各地の沼地、水辺などの湿地に生え、観賞用に栽培もされる。高さ四〇〜八〇センチbで、茎は分枝せず直立する。葉は多く根生し、アヤメの葉(幅五〜一〇ミリb)より広く、幅一〜三センチb長さ三〇〜九〇センチbの剣状で、中助はなく先はとがり基部はさやとなって茎をはさむ。五〜六月頃、茎頂の苞(ほう)の間から濃紫色の花を二〜三個次々に開く。外花被片基部中央の黄色部に紫色の横線がないのがアヤメと異なる。内花被片は小さく直立する。栽培品種には白色のものもある。かおよぐさ。かおよばな。かきつ。かいつばた。学名はIris laevi-gata《季・夏》*万葉(8c後)一七・三九二一「加吉都播多(カキツハタ)衣(きぬ)に摺りつけ大夫(ますらを)のきそひ猟(かり)する月は来にけり〈大伴家持〉」*本草和名(918頃)「蠡實〈略〉一名独行子 一名〓首 和名加〓都波太」*伊勢物語(10C前)九「沢のほとりの木の蔭に下りゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。その沢にかきつはたいとおもしろく咲きたり」*名語記(1275)一〇「かきつばた如何。杜若とかけり」*俳諧・犬子集(1633)三・杜若「見る人や何の用事もかきつばた〈重頼〉」*日本植物名彙(1884)〈松村任三〉「カキツバタ 燕子花」 『日本国語大辞典』第二版 小学館
※(古くは「かきつはた」)→初版本では(「かきつはた」とも)と表記されている。
「学名はIris laevi-gata」→初版本は未収載。
かきつばた【杜若・燕子花】〔名〕@アヤメ科の多年草。池沼や湿地に生じ、高さ約七〇センチメ-トル。葉は広剣状。初夏、花茎の先端に大形の花を開く。色は通常紫または白。大きな三枚の外花被片には中央に一本の白線が入る。観賞用。貌佳草(かおよぐさ)。〈季夏〉。万葉集〈七〉「―衣に摺りつけ」『広辞苑』第五版 岩波書店
かきつばた 【〈杜若〉/〈燕子花〉】(名)〔古くは「かきつはた」〕
(1)アヤメ科の多年草。湿地に生える。ハナショウブに似るが葉は幅が広く、中脈は発達しない。高さ約70センチメートル。初夏、茎頂の苞の間に三個内外の濃青色・白色・斑入りなどの花を開く。かいつばた。かおよばな。[季]夏。《―似たりや似たり水の影/芭蕉》『大辞林』第二版 三省堂
かきつばたBアヤメに似て、全体が大形の多年草。水辺に生え、五月ごろ、紫・(白)色の花を開く。〔アヤメ科〕〔普通、「《杜若》・《燕子花》」などと書く〕『新明解国語辞典』第五版 三省堂
かきつばた【燕子花・杜若】(一)アヤメ科の多年草。沼地にはえ、また、栽培される。高さ約七〇センチ。葉は剣形で、太い脈ははっきりしていない。初夏、大型で紫色の花が頂に咲く。かおよばな。かきつ。『広辞林』三省堂
かきつばた【燕子花・杜若】《古くは「かきつはた」と清音》一〔名〕@アヤメ科の多年生草本。池沼や水辺に自生し、花菖蒲(はなしょうぶ)に似ている。夏に、白または紫色の大きな花を開く。花を用いて、衣服や紙に摺り染めをした。「―[加吉都播多]衣(きぬ)に摺りつけますらをのきそひ猟(かり)する月は来にけり」〈万葉・一七・三九二一〉。「紫の花の中には、―ぞ少しにくき」〈枕草子・八八〉。「劇草 一名馬藺 加木豆波太」〈和名抄〉。『古語大辞典』小学館
 調べた結果、万葉集の大伴家持の歌に「かきつばた」が見られることから奈良時代にはすでにこの花があったことがわかります。万葉集の和歌を『大言海』、『日本国語大辞典』、『広辞苑』や『古語大辞典』で引用していますが、伊勢物語を引用しているのは調べた辞書の中では『日本国語大辞典』のみでした。日本人の文化的意識の中では「かきつばた」と聞いて思い浮かべるのは『万葉集』よりも『伊勢物語』の東下りの歌ではないでしょうか。そのこゝろとは裏腹に調べた辞書の中では一つしか用例が載っていません。例えば、外国の方が辞書を調べた時「かきつばた」の用例の中に伊勢物語が入っていなかったら、日本人が理解している『伊勢物語』と「かきつばた」が結び付いているという事が伝わりません。日本の文化を広めるという意味でも言葉の基本となる辞書に『伊勢物語』を載せるべきだと思います。また、『古今和歌集』に東下りが載っているけれども、どの辞書にも用例が引用されていないのが気になりました。それから、「から衣きつゝなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ」の和歌は、かきつばたの花をみて瞬時に詠んだにもかかわらず、掛詞と縁語を使っていてすばらしい素養を持っていたのだなぁと感心しました。今の私たちは暗号コードの解読が知られているので読み解くことができるけれども当時の人にとっては歌をやりとりする相手にしかわからないように一定のきまりを作って折句を取り入れていたようです。「折句」を用いることは必然的なことであったために多くの人が書いてることを考えると、当時の人にとって「折句」を使うことは難しいことではなかったのではないかと考えます。また、「かきつばた」の花の色は藤原家の「藤」の花と同じ紫色であることや已前通いつづけた邸内の「垣つ端」に咲いていた藤の花と同じ色の花色だけが思いを寄せている人を偲ぶ頼りとなるものであるということが見えて紫色の「かきつばた」には深い意味が込められているのだなぁと思いました。
※国語辞書の大半が用例を収載できずにあり、国語辞書を以て考察するところ「かきつばた」と伊勢物語第九段「東下り」とが結びついていないことがこの調査で良くわかります。私も同感です!「大」の附く辞書のなかで、この辺りを是非触れておきたいところですネ。あと、角川『古語大辞典』の用例は如何なものでしょうか?そして、これに付随し、《補注》で記載しておきましたが、今昔物語集における「劇草」のことを日本国語大辞典第二版でも触れていません。  
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国語史 投稿者:JK5032 投稿日: 5月19日(金)18時08分32秒 
  シューカツでお休みしました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 5月17日(水)20時25分40秒 
  即興で東下りの「かきつはた」のような技法を凝らした歌を作れる人が結構いたなんて、現代人より頭の回転が速かったのでしょうか。
先生の話を聞いていると、紹介された文献や資料が読みたくなります。  
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日本言語文化研究 投稿者:1cg6160s 投稿日: 5月17日(水)11時37分26秒 
  今日は、平安時代の東国がどのようなところだったのかを垣間見ることができました。八代集について勉強しておきます。『土左日記』という表記も始めて知りました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck6179 投稿日: 5月17日(水)10時45分57秒 
 きつばたの歌のように
 れいに冠の字を揃えて
 らつらと頭の中で瞬時に歌を構成し
 っぴょうするのは
 いへんな事ですね
…頑張ってみました!!(笑)  ※さすが、中ですなぁ!
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日: 5月17日(水)10時33分43秒 
  しょうぶと、ハナショウブが違うものだというのを今日始めて知りました。
『大言海』という国語辞書があることを知り、とても興味がわきました。芥川龍之介も愛用していたとか!
『伊勢物語』の中でかきつばたを使って歌を瞬時に作った。というのをしり、すごく驚きました。でも、その歌を見ていて今で言うあいうえお作文に似ているなぁ。と思いました。
紀貫之の『土佐日記』が、土の横に「丶」があり、「佐」は「左」が本当の字だと始めてしった。
今まで何の疑いもなくこの字を使っていました。これからはもっと注意深く見て行きたいと思いました。  
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日本言語文化研究1 投稿者:cg6087 投稿日: 5月17日(水)10時32分41秒 
  「からごろも」の歌は、高校のとき習ったから知っていたけれど、こんなに修辞が使われているなんて初めて知りました。本文を読んでいても、現代人が思いつかない文章をさらっと書いていて、頭の回転と言うか、頭のキレをうらやましく思います。  
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日: 5月17日(水)10時31分25秒 
  『伊勢物語』の題名の由来をはじめて知った。第九段は高校の授業で読み、現代語訳をしました。古典に対してどうも苦手意識があるのですが、もう一度今まで学んだことを、見直してみたいと思った。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日: 5月17日(水)10時30分14秒 
  「かきつはた」というのは聞いたことありますが何かの意味をしめすと思ってましたが、それは文章になっている最初の文字をとっているのが「かきつはた」だと分かりました!ここで妻のことを書いているから妻がいたの??など疑問があると知った。
土佐日記』には文字遊びのようなものは載ってないというが、意識して見てなかったのが分かりました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6165 投稿日: 5月17日(水)10時28分54秒 
  『伊勢物語』の東下りは高校の時に読んでいたので、内容はわかっていました。その時は、ただなんとなく、都落ちする貴族の悲しい話だなぁと思っていたんですが、歌についての年代の背景などは気にしてなかったんでこれからは、深い知識で考察していこうと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日: 5月17日(水)10時27分47秒 
 『伊勢物語』の第9段の句でカキツバタという語を使って即座にこのような句を作れることがすごいと思います。その上、縁語も使って作れることに感心しました。私にはとてもじゃないけどこのようなすばらしい句はどんなに時間を使っても作ることができません。
また、私がいつもショウブだと思っていたものが本当はハナショウブであって本当のショウブという花は私が思っていたのとは全く違っていました。またアヤメとカキツバタはとても似ていて驚きました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日: 5月17日(水)10時26分41秒 
 『伊勢物語』は高校のとき東下りの部分をやったことある気がします。
そのときもかきつばたが和歌に入っているのにはとても感心した覚えがあります。
在原業平といえば六歌仙ですよね?
土佐日記』は高校のときに少し読んだのですが結構印象が薄いです(苦笑)
私は英米文学部なので国語と触れ合う機会が少ないのでこの時間は貴重だなぁと思います。
※「在原業平」  
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日: 5月17日(水)10時25分18秒 
 かきつばたという5文字を使って瞬時に歌を作ったなんて昔の人はスゴイなぁと思いました♪♪
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日: 5月17日(水)10時22分36秒 
  『伊勢物語』第9段は受験の時に何回も読みました!この物語に登場する男は在原業平だと言われ「からごろもきつつなれにしつましあればはるばるにぬるたびをしぞ思ふ」という有名な句は自分が覚えている和歌で一番好きです!縁語、掛詞、折句が含まれている和歌を瞬時に詠めることに感動を覚え、古典が好きになったきっかけである『伊勢物語』を名前の由来も調べながらもう一回読みたくなりました!  
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日本言語文化研究 投稿者:ck4148 投稿日: 5月17日(水)10時20分39秒 
  白点については山本真吾先生からお話しを聞いたばかりだったので、つながりが感じられて面白かったです。「いろは歌」と「あめつちの歌」から発展して、さらに同じ時代に同じようなものはなかっただろうか…先生は簡単におっしゃいますが、そう考えるということ、また考えてからの調査を想うと気の遠くなるような思いがします。ひとつの文章に対してさらっと流れることなく立ち止まって考えるようになるためにはやはり手元において何度も読むことが必要だと実感しました。  
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日本言語文化研究1 投稿者:1ck4167 投稿日: 5月17日(水)10時13分2秒 
  『伊勢物語』の題名の由来を初めて知りました。この間、俵万智訳の『伊勢物語』を古本屋で買ったので、読み返してみようと思いました。先生がこの間ご紹介していた「いろは歌」ですが、調べてみた所、絶版だったので、入手する事が出来ず残念でした。購入出来る本は出来るだけ入手し、絶版の本は図書館で借りて随時コピー等して、知識を深めていきたいと思います。
小松英雄著『いろはうた』(中公新書)は、絶版でしたか…。古書店では、まだ目に付く書物ですので、見つけたらお求めになっておいても佳いでしょう。ちなみに、日本の古本屋・古書検索をしますと、慥かに高値の本になっているようですね。でも、350円という古書店もまだありましたョ!どうぞ。
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日: 5月17日(水)09時25分33秒    編集済 
  遅れましてごめんなさい。5月10日の授業内容について・・・!
私は「いろはうた」というのは聞いたことありますが「あめつちうた」などは今日の授業で初めて知りました。この作者は「空海」と言い伝えられているとあるが空海は昔、日本史の授業でも習った人物です。
しかし日本言語学の検証だと空海ではないとされてるが一体誰がつくったのか気になります!
 
 

 

 

 

2006.05.24(水)第一限目・教場:4−302

 野馬臺詩』をめぐる説話譚 ―『吉備大臣入唐絵巻』 PDF版

 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 5月30日(火)11時27分41秒   野馬臺詩のお話おもしろかったです。
あんな複雑な詩、普通に読もうとしても絶対に読めないです!
千八人の女=倭というのには、驚かされました。  
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国語史 投稿者:2jk5032 投稿日: 5月29日(月)11時08分15秒 
  5月24日分。すっかり遅くなりましたっ。
落書が「おとしぶみ」と呼ばれ、現在では迷惑行為にあたるが、その当時では書かれている内容を意識的に拾わせて読ませることで人々に伝える役割があったということを知りました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CK6165 投稿日: 5月28日(日)19時16分4秒 
  折句は二人の間でわかればいい暗号みたいなものとはいいますが、もし自分が兼好法師からこのような歌がきたとしても、いい歌だなぁとしか思えないと思います。昔の人でも同じく折句表現を見落としてしまったケースも少なからずあると思います。しかし、折句を見落としてしまうような人は、後世に伝えられている名歌人にはきっといないでしょう。そういうところまで読み取れるようにこれからも勉強していきたいです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 5月27日(土)22時49分46秒  編集済 
  『野馬臺詩』には安陪仲磨呂が遣唐使として中国に渡ったと書かれていますが、国史である『続日本紀』では、仲麻呂は「朝衡」という名で学生として大使藤原清河に随行していたことが記載されています。同じく学生として吉備真備がいたことも見えています。しかし、この仲麻呂が実際にどうであったのかを知らしめる後世の資料として『晴明伝記(安部晴明のこと)』では、真の目的は以前に遣唐使として渡った父親軽大臣を探し、父が「灯台鬼」にされていた事実を知ります。また、『吉備大臣入唐絵巻』では、赤鬼(灯台鬼の譚が伏線にあるか?)となった元日本人が真備を窮地から救い出す内容の話が盛り込まれています。このように同じ内容の話から、多様な方向性が作り出され、書物によって違う事柄となっています。私は、こうしたなかで仲麻呂が父親である軽大臣を探し求める事ができたのに二人とも日本に帰って来ることができなかったという箇所に疑問が残りました。中国で亡くなった二人は、丁重に葬送されているはずです。まだ、お墓が現在見つかっていません。去年、同じ遣唐留学生である井真成の墓が発見されていますが、仲麻呂と父軽大臣両名の埋葬墓も発見されて、この物語に何らかの終止符が打たれ、新たな進展につながることを願っています。  
※史料『続日本紀』〔岩波新日本大系・東洋文庫など〕。説話類には、『江談抄』〔岩波新日本大系・類従『江談抄』注解など〕軽大臣=燈臺鬼譚…『寳物集』〔新日本大系〕。『本朝一人一首』〔新日本大系〕。『晴明伝記』(1596〜1615年に成立)◎室町時代末から江戸時代の初めにかけて、この軽大臣(燈臺鬼)の子弼宰相が安陪仲麿という解釈が見えています。これに、この『野馬臺詩』が接合されている世界は、当に説話継承の変遷形態を見ることに繋がっていきます。HP〔安倍晴明〕。さらに現在、中日文化交流として昨年話題となった遣唐留学生井真成(HP)などの資料も参照されています。ありがとう!
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 5月27日(土)17時35分12秒 
  「野馬臺詩」がどうしてわざわざあのような書き方をされたのか不思議でした。
多分あの蜘蛛の話は後付けなのだろうと思うのですが説明がなければ「東海姫氏國……」ではなく「始定攘天……」と読んでしまいそうです。
※漢詩における技巧表現は、中国の六朝に盛行し本邦でも受容され、『源順集』の「碁盤の歌」「双六盤の歌」があり、他にも室町時代の資料ですが 一休和尚『諸國物語圖會』四冊「京都書林/尚書堂藏板」に蘇東坡作「經山寺(きんざんじ)の詩()を山がたに作(つく)りしを例(れい)」と云う詩が知られ、私のHP資料を見て、この研究を二年前、山形大学の学生の方が取り組まれておりました。
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160 投稿日: 5月26日(金)16時30分15秒 
  初めて「野馬台詩」のことを知りました。個人的に「野馬台詩」は弥生時代の邪馬台国と関係があると感じました。恐らく、中国人が以前より日本を低く見ないようになったのだと思いました。「や」が「邪」ではなく、「野」になっていたので。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日: 5月26日(金)09時22分56秒 
  吉備真備と阿倍仲麻呂のエピソード面白かったです!  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日: 5月25日(木)19時05分17秒 
  『吉備大臣入唐絵巻』の話を聞いてこの絵巻が日本になく、ボストン美術館にあるということに驚きました。実際、吉備真備という人物は日本でもそれほど有名ではなく、私も吉備真備を高校二年の日本史の授業で始めて知りました。はたしてボストン美術館を訪れるどれだけの人が吉備真備という人物を知っていて、この絵巻の本質を見極められるのでしょうか。私の偏見かもしれませんがおそらくほとんどいないでしょう。やはりこの絵巻の本質を理解できるのは本当の日本の文化、日本の歴史を理解していないと無理だと思います。外国に住んでいる方でも本当の日本の文化、日本の歴史を理解している方も多いかもしれませんが、やはり『吉備大臣入唐絵巻』は日本にあってこそ本当に理解されるのではないでしょうか。
※原本が日本に帰属することは、今後考えられないでしょう。東京上野国立博物館には複製資料が展示されていますから、これを見ることでご自身で「理会」を深めることができるかと思います。いかがでしょう…。
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日: 5月24日(水)20時33分24秒 
  鬼になった阿倍仲麻呂が、吉備真備を助けたという話をはじめて聴いた。
国語史の授業は始めて聴くことばかりで、毎回楽しみです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck6179 投稿日: 5月24日(水)11時29分27秒 
  私は受験の時は日本史選択でしたが…吉備真備と阿倍仲麻呂のこんなエピソードなんて初めて聞きました!!おそらく逸話だろうと分かっていても少し笑ってしまいました。『吉備真備』『阿倍仲麻呂』学校で何回白紙に書き連ねたか分かりません。こういう話を受験前に聞いていればどっちが先に遣唐使として派遣されたのかも分かり、もっとすんなり面白く歴史を学べたのになぁと思うと少し残念です。『すがわら(菅原・巣がワラ)』は知ってましたよ♪
折句は暗号だったんですね!でも当事者同士だけが分かるなんて…ちょっとずるい(笑)「はかなしな〜」の歌が一番好きでした!でももし私がこの歌をもらっても、きっと「お花を見に行きませんか?」という意味には取れないですね。
それにしても阿倍仲麻呂…鬼になったということは相当ひどいことをされていたんでしょうね…。そういえば吉備真備は何で無事に帰って来れたんでしたっけ?
※『江談抄』に拠れば、百年を経た雙六の筒、賽・盤を鬼に求めしめ、これを以て唐土の日月を封じ込めてしまう。この日月を元通りにすることで歸朝が許されたということになっています。「若此土ニ歴百年タル雙六筒賽盤侍ラム、欲申請ト云、鬼云、在之ト云テ令求與。又筒。賽置件上覆筒、唐土日月被封テ二三日許不現シテ、上從帝王下至諸人唐土大驚騒叫喚無隙動天地。令占之術道之者令封隠之由推之。指方角ニ當吉備居住樓。被問吉備尓答云、我ハ不知。若我ヲ強依被冤陵一日祈念日本佛~自有感應歟。可被還我於本朝者日月何不現歟ト云、可令歸朝也、早開ト云。仍取筒ハ日月共現。為之吉備仍被歸也云々」という内容です。
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国語史 投稿者:jk5076 投稿日: 5月24日(水)10時36分31秒 
  この暗号めいた詩を解読するのに天から蜘蛛が降ってきて糸を出して教えてくれたなんておもしろい話だと思いました。でも吉備真備はそのことを伝えていないのはなぜだろう。
なぜ、現代にこの詩が解読されて伝えられているのかというと小野篁が同じことをして蜘蛛がでて伝えられたことにもおもしろいと思いました。  
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日: 5月24日(水)10時33分9秒 
  この詩の中で、千、八、人、女で『倭』になることにまた漢字に驚かされた。
日本に帰ってこれなかった阿倍仲麻呂は、『今昔物語集』に載っていることを知り、読んでみたいと思った。吉備真備は、運がよかったのかな・・・とも、思った。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日: 5月24日(水)10時32分4秒 
  『野馬臺詩』ですが、あれはぱっと見ただけでは絶対よめませんよね。
本当に一体誰が作ったのでしょう。『今昔物語集』は今勉強していますが、この話が入っていないのも興味深いことです。謎は深まるばかりです・・。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4148 投稿日: 5月24日(水)10時30分38秒 
   中古・中世の人々は、残された言葉の現代語との違い、またそこから感じられる価値観の違いから、本当につながりがあるのだろうかと思うくらい遠い存在に思われますが、暗号のような歌の作者の遊び心を想像すると親しみを覚えます。
 言葉の背後に動く歴史を考えることで、点であった個々の書物が線となってつながるというのは本当に面白いことです。
 話は一気に変わりますが、小野妹子は東京ガスの「ガスで パっと明るく チョッといい暮らし(略してガスパッチョ)のCMに出てくるので首都圏ではおそらく広く知られている存在ではないかと思います。
※「小野妹子」の名を知るきっかけになっているのですネ、東京ガスのCM。  
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(無題) 投稿者:cg6087 投稿日: 5月24日(水)10時28分29秒 
  「やばたい」=大和=日本。大和にあてられた野と馬には何か意味はあるのだろうか。
千八人女の暗号文(?)も知ることができてよかったです。
あと、今日先生がお話された、『隋書』倭国伝で煬帝が「日出るところの天子〜」の部分に激怒したと言う話は有名ですが、『日本書』のも共通して書かれている「天子」と言う位で同等に扱われたことに激怒したという説もあるそうです。
※「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無き(つつがなき)や」(『隋書』倭国伝)。 さらに、第三回遣隋使は六〇八年(推古十六)に、煬帝あての国書を持たせ、また、小野妹子を大使に、難波吉士雄成を小使に、鞍作福利を通事に任命し、裴世清一行と留学生八人が渡航したことが『日本書紀』推古天皇十六年九月の条に、「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す。使人鴻臚寺の掌客裴世清等至りて、久しき億(おも)ひ、方に解けぬ。季秋やうやくに冷し。尊(かしこどころ)、如何に。想うに清?ならむ。此は即ち常の如し。いま大礼蘇因高・大礼乎那利等を遣して往でしむ。謹みて白す。具(つぶさ)ならず」と載っています。
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日: 5月24日(水)10時25分33秒 
  野馬臺詩の話は本当にすごいと思いました。
日本史で日本と遣隋使や遣唐使についてはやりましたがこんな話が携わっているなんて思いもよりませんでした。
実話でないとしてもすごいと思います。
もっと謎が解明されればいいなぁと思います。気になります!!!
千+八+人+女=倭というのはすごく感心しました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日: 5月24日(水)10時21分34秒 
  倭の説明は初めて聞きました。今日勉強したことは今まで知らない事ばかりでした。授業が終わったら扱った文献を図書館でもう一度確認して見てみます!  
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日本言語文化研究1 投稿者:1ck4167h 投稿日: 5月24日(水)10時17分38秒 
  兼好法師の贈答歌・返歌の解釈に驚きました。和歌の内容も通っており、それで隠された意味が込められている事を知り、教養があるのと共に才能にあふれている人だったのだと、自分の目で和歌を見て講義を聴く事により実感する事が出来ました。自分の中でしっかりと知識がこなされないと本当に「理解」したとは言えないので、古典の文学作品を読みなおす必要があると、課題が見つかりました。  
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国語史 投稿者:jk5076 投稿日: 5月24日(水)10時10分0秒 
  遅くなってすいません。5月17日のついてのメールです。
『伊勢物語』については授業で習ったくらいにしか知りませんでした。かきつばたという文字を見てすぐに歌を作るなんて昔の人は頭がいいんだなって思いました。
『伊勢物語』についてちゃんと読んでみようと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6160 投稿日: 5月24日(水)09時46分33秒 
  たくさんのうたに暗号が隠されていてすごくおもしろかったです。先生が説明する前に次のうたに隠された暗号を見つけようと考えてみましたがなかなか見つかりませんでした。
 
 

 

 

 

2006.05.31(水)第一限目・教場:4−302

 落 書 PDF版

 「落書」は、古くは七世紀後半に法隆寺五重塔の天井裏板に「難波津(奈尓波都尓佐久夜己)に」のうたが書かれ、また、平安時代の醍醐寺五重塔にもかな書きの落書のうた三首が見えている。この書記者がどのような思いでここに記録したのか知る手がかりは今のところない。
  奈良法隆寺五重塔初層天井組子落書(和銅四(七一一)年以前)
奈尓             道其 道道
   奈尓波都尓佐久夜己
                   法隆寺五重塔天井組子落書
                               (福山敏男論考より所収)
六月□出
思斯支己止之富四□□(おもほしきことのほし□□) 
※昭和二十三年、解体修理中天井組子から発見された。

 同じく、法隆寺には、釈迦三尊台座裏墨書、「相見可陵面未識心陵可時者」という文字資料が知られている。こちらは、漢文調の文言で、「相()い見(まみ)え面(をも)を陵(さら)すべきも未(いま)だ心(こゝろ)を陵(さら)すへき者(もの)を識()らず」と訓読する。



 その書き遺すことの真意を明らかにすることはむつかしいのだが、人の心は「落書」という書記意識のなかで己のこころをコントロールしていたのは、今も昔も変わらない営みと考えたい。読み方は「ラクショ」と音読みし、和語風にいえば「おとしぶみ」である。実際懐に入れておいて読ませたい相手の直前で懐から落とした。そこに書かれている内容を意識的に拾わせて読ませることが本来の目的であった。目を落とせば当然、その落とした紙に書かれた内容に心が行く。やがて、人々にうわさとなり流布することになるからだ。
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160s 投稿日: 6月 7日(水)09時38分23秒 
   大変遅れてしまいすいません。忙しくて忘れてしまいました。
 落書(き)にこめられた滑稽さやアイデア性が昔のものとは思えない物でした。しかし、南北朝時代ですが歴史上で有名な二条河原落書は歴史的な背景も表していて、落書にはいろいろあるんだなと思いました。  
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国語史 投稿者:jk5076 投稿日: 6月 7日(水)09時27分34秒 
  遅れてしまってごめんなさい。
昔の「落書」が今の「落書き」として伝わってきているのに昔と今では「落書き」の意味が違うことに驚きました。今では「落書き」はいたずら目的で書いたり、ふざけて書いたりするものだけど、むかしはの「落書」は大切な伝達手段として使われていることをはじめてしりました。なんでこんなに意味が違くなってしまったのでしょう?  
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日本言語文化研究T 投稿者:CK6165 投稿日: 6月 7日(水)01時00分18秒 
  遅れて大変申し訳ないです。
落書は今では適当に自分勝手に書くものですが、古来では、かなり意識的に相手に伝えたい事を書き、うわさとして世間に広めるという非常に意味のある使い方をしていたことは驚きでした。でも、そこからだんだん発展していった過程で、今のようになったということで妙に納得することが出来ました。
話は変わりますが、先週の折句のところで源順の「あめつちのうた」をやりましたが、国文学の授業で「碁盤目の歌」をやり、やはり源順はすごいと思いましたが、もうひとつ「双六のうた」があると知りました。その「双六のうた」も是非見てみたいと思いました。 
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck4167h 投稿日: 6月 6日(火)17時44分10秒 
  角筆文字の話で、小林芳規博士の内モンゴルの調査の話を聞いて言葉の営みの深さを改めて実感しました。大野晋の『日本語はいかにして成立したか』等の本でも、日本語の起源(かもしれない)タミル語との関係を指摘しており、とても面白い本です。言葉そのものの語源を遡るのは不可能かもしれませんが、今回の角筆文字の様にこれからの調査で日本語の謎が解ける様な発見がある事を望んでいます。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 6月 6日(火)11時32分39秒 
  「落書」という字をみると、あまりメッセージ性の無い現代の「らくがき」を思い浮かべてしまいますが、「おとしぶみ」という方法は、誰かに伝えたいという気持ちがより強く出ていると思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 6月 5日(月)20時27分30秒 
  東京大学の落書きは面白かったです。
「難波津」の歌の話で、行成卿の歌が苦手だという話しがありましたが、古代の人は、言葉の使い方など、センスが良くないと恥になるのですね。
現代人より古代人の方が頭の回転が速かった気がしました。  
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日本言語文化研究 投稿者:ck4148 投稿日: 6月 5日(月)11時04分41秒 
 「落書」の中に込められた当時の人々の思いを想像してみることの楽しさを知りました。一見するとまったく意味のないものに見えるものでも、そこに書かれることによってなぜこれほどに人々の心をかき乱すのか…難しい問題です。現在の「落書き」は必ずしもいいイメージではありません。しかしその落書きはどんな人が、どのような目的で(あるいは気持ちで)書いたものなのか…もしも駒澤大学のトイレが今のままで残っていたとしたら300年後の世界では今日の学生の、生活の一部を知るための貴重な文献資料として扱われているのかも知れません。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日: 5月31日(水)23時49分36秒 

  万葉仮名は一音一字というだけで読むのが大変なのに、鏡文字(この時代からそんな技?があったのは驚きです。当時の人は皆普通に読めていたのでしょうか……)や謎の変形文字まで使ってくるとは……。文字の解読も大変ですね……。
同じ言葉を2度繰り返す歌については、文字の用い方、構図など、「書く」ときのセンスが問われるということですが、それを競ったりはしていたのでしょうか?比べられるものなら見比べてみたいですね。
※「鏡文字」「左文字」については、現在でも将棋の駒の「馬」(山形県天童)を逆さに表記したものがあります。この「ツ」文字もその一例と見ています。また、文字書きの美的修辞技法がかな書にはよく見られ、字とその空間、文字と文字の調和・均衡が求められています。「右脳」との関わりがあるやもしれません。《追補》ことばの溜池1997年9月24日(水)に、「左文字」の神通を掲載していますので暇なときにお読み下さい。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 5月31日(水)21時07分11秒
  今日の講義のメインテーマらしき「なにはづのうた」について調べてみました。「なにはづのうた」は、百濟国から来た王仁(わに)〈古事記では和邇吉師(わにきし)〉が大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)〈=仁コ天皇〉に贈った歌であるということが『古今和歌集』に書かれています。先帝である應神(おうじん)天皇は菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)を日嗣皇子と定めていたけれども兄弟である大山守命(おほやまもりのみこと)がその命に背き、菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)と権力争いをしています。菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は争いに勝ったのですが、その後なぜか自害しています。普通に考えたら王位継承が決まり、胸をなで下ろしているところです。それなのに彼はなぜ自害したのか、どのような理由があったのか疑問が残ります。本来であれば天皇になれないはずの四男、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)がここで即位し、後に「仁コ天皇」となります。「なにはづのうた」に、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)は今最も天皇になるのにふさわしい人であるという意味が込められているのでこの歌の力によって天皇になることができたのだと考えます。「なにはづのうた」は、落書として書かれたり、長い時代を経て平安時代には手習い歌になっています。仁コ天皇の即位を促すために作られた歌であるのに、世の中に流布していったということは、この歌に特別な意味が込められていたのでしょうか?先生はどのようにお考えですか?
※「なにはづ」のうたは、『古今集』仮名序に王仁が大鷦鷯尊に贈ったうたとして見えています。このうたが都だけでなく地方行政府のあった國府の遺跡などから木簡に記載されて出土したことは、このうたの広がりを知ります。なぜ、このうたを書き留めていったのか…、これを推理すると、仁コ天皇となった大鷦鷯尊を頌えるうたというイメージが広がっていきます。應神天皇亡き後の権力争いが兄弟間でおこり、これを太子と共に鎮めた後の彼が帝の地位に即くことで必然的にこのうたにその昂揚の勢いなるものが含まれていたと見ることができます。時代は一〇〇年、二〇〇年と過ぎていくなかで、国を象徴する帝となった人物を賞揚するうたとして最初流布し、これが多くの官人などによって書写され続け、その結果として、手習いに必要不可欠なうたへと変貌していったのではないかと推察したしだいです。仁コ天皇について、後世の文献資料『神皇正統記』〔大系八三頁〕などでは、どのような人物として捉えられているかを見ておくと面白いのかも知れません。
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日: 5月31日(水)20時58分2秒 
  「落書き」は現在ではあまりいいイメージはなく、私自身もよく駒澤大学でトイレや机に書かれているのを見ますが、暴言や破廉恥な言葉が多くあまり好きではありませんでした。しかし今日の授業を聞いて「落書き」のもとにあたる「落書」は実に興味深く、今まで私が感じていた「落書き」のイメージが変わりました。もともと落書は木棺や土器に書いていたことは歴史を感じさせてくれて、「実際懐に入れておいて読ませたい相手の直前で懐から落とし、そこに書かれている内容を意識的に拾わせて読ませることが本来の目的である。」ということにおいては人に見てもらいたいという人の気持ち自身は現在の「落書き」と変わりませんが見てもらおうとする方法は現在と全く違い「落書」はなんだか雅やかな感じがしました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck6179 投稿日: 5月31日(水)10時51分37秒 
  井真成についていろいろなHPで調べてみたら、吉備真備を連れ帰った人物だったんですね!前回の謎が少し解けたような気がします!!あと阿倍仲麻呂が登場する辻原登さんの『翔べ麒麟』という本の断片もちらっと見かけたのですが…面白そうですね!!ぜひ今度読んでみたいです。
※読売新聞社及び文春文庫に収録されていますネ。唐における邦人阿倍仲麻呂=朝衡が登場します!
Wikiquoteで調べてみたら、紀貫之(872?〜945?)の「なにはづのうた」は仁徳天皇に贈られたんですね。でも、7世紀頃に「奈尓波都」の歌がもう全国に広まっていたのだとしたら、盗作って事なんでしょうか!?だとしたら仁徳天皇はそれに気づかなかったんでしょうか!?  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日: 5月31日(水)10時30分11秒 
  文字を解読するのはすごく難しいなぁと思いました。
落書で知っているものがあります。
《二条河原の落書》です。
今の落書きとは違い昔のものは何か訴えたり歌だったりと今とはニュアンスが違うんだなと思いました。
いつごろから違いがでたのでしょうか?
追伸。
塩の回(4/26)出席したんですがやっぱり過去ログも残ってないみたいで自分の記事が掲載されてないので出席になっているか不安です。→慥かに残存していません覚えていますか?  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6160 投稿日: 5月31日(水)10時28分35秒 
  手習いをする人がまず始めに習うというなにはづの歌が、こんなにたくさんの地域から発見されるなんて、本当にすごいと思いました。字も少しずつ違っていて、本当の字がどれなのか気になります。そしてこの歌が後の文学にも影響して、現代にも残っているとは!!とても驚きです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日: 5月31日(水)10時27分32秒 
  法隆寺や醍醐寺の天井板にうたが書かれ、「難波津〜」のうたでは、現代では考えられない順番で読むことに気づきませんでした。「落書」の読み方一つで時代の移り変わりが見られ「ラクガキ」と読むと現代ではとんでもない悪戯と考えられるが、平安時代の「落書」は素晴らしい文献として尊重される。面白いことですね!もしかしたら、現代の「ラクガキ」も1000年後には貴重な文化財になったりして……。  

 

 

 

 

 

2006.06.07(水)第一限目・教場:4−302

  「手紙」失われた文字 PDF版

 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 6月14日(水)07時41分6秒 
  「正倉院文書乙種」字母一覧
  a   i   u   e   o   合計
1 3 3 2 4 13






 






 
7





 
 





 

I


0 

 
I
0



 
2





 






 
5





 






 
4





 
18





 
2             1 3
5                 5
3 7 1     1 12
5 1 3 1 8 18
          1         1
1                 1
5 3 1 1 5 15
6 6 4     3 19
    1             1
            1     1
8 3 3 2 4 20
3     2     2 7
2 3 5 2     12
1             1 2
合計
 
49
 

 
27
 

 
25
 

 
14
 

 
33
 
148
 
 
1,接続詞「し加るがゆへに」「し加も」
2,「は古み」「己と」
3,「都かさ」「ま都り」「うけ都る」「川かさ」
4,「比と」「比と」「比と」「な比け」「な比と」「比と」「たまふ日」
5,「わ可(が)」「可はり」「つ可さ」「し加る可(が)ゆへに」「あやふ可る可(が)ゆへに」「ま可り」「おほとこ可(が)」「おほとこ可(が)」
6,「も太しめ」「まかり太(た)まふ」「い太(だ)さむ」「太(た)け太(た)か」
 
 「正倉院文書乙種」を五十音順に並べ替えて、使われている文字の特徴を調べてみました。同じ読みの語句であっても、「可」と「加」のように接続詞と動詞や名詞とを使い分けていたり、「可」を「か」、「が」と二種類の読みで読ませるなど、清濁の字母が一つの文字で書かれていることがわかりました。また、一定の法則を持って文章を書いてるところから、当時の大和言葉がどのように書記されていたかがこの文献を通して知ることができました。
※上記「字母表」は、判別しやすく助かりました。148文字の五十音の用い方がこれで判明ます。ここでは、「幾()」「世()」「部()」「呂()」、これにヤ行の「い」「え」とワ行の「ヰ」「ヱ」が用いられていないことも付加しておきましょう。
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日本言語文化研究T 投稿者:CK6165 投稿日: 6月14日(水)01時12分51秒 
  真名と仮名の話は前に聞いたことがありましたが、カタカナが僧侶が作ったというのは初めて知りました。正倉院仮名文書乙種を読みましたが、まだ知識が足りないせいか音に出しても漢字がわからず現代語に訳せないところがありました。乙種の意味は甲種同様に意味があまりない感じがしますが、やはり手紙をやりとりした本人たちにのみわかるようにしているのかもしれないと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 6月13日(火)22時55分9秒 
  正倉院院仮名文書乙種を読んでみましたがスラスラとは行きませんでした。
ですがこの資料から日本語の進化を垣間見ることができ、興味深かったです。
『孔雀経音義』にある五十音図にどうしてア行・ナ行がないのか、
今までの講義内でもいろいろと解明されていない謎がありましたが
謎な方が研究する面白みが湧いて楽しいですね。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4148 投稿日: 6月13日(火)18時15分3秒 
  五十音図の話で授業の最後に、万葉仮名と「いろは歌」の「え」についてのお話がありました。その時に閃いた疑問がありました。万葉仮名のころには「え」が二種類あり、「いろは歌」の頃にはその区別がなくなり1種に統一されました。音は/ye/となるわけですが、これは江戸時代yがとれて今の/e/に至っています。これと同じような変遷を辿った音に/o/があるかと思うのですが、ここで疑問に思うことがあります。現在の概論書や講座物などではこれらの変遷に合理的な説明がされていますが、/ye/と/e/が混同し、やがては統一された際、本当に/e/は消滅したのでしょうか(/wo/も同じで/o/は消えたのでしょうか)…今大急ぎで勉強していますが、まだこのことについて詳しく触れている論文に出会うことができません。このような疑問を解決するにはどのような本を読めば良いでしょうか。また自分で確認するとすればどのような方法があるでしょうか。
※音韻・アクセントの研究書で、紹介しておきましょう。金田一春彦著日本語音韻音調史の研究〔吉川弘文館、二〇〇一年刊〕の第四編「音韻・アクセント史の周辺、五」〔三八七頁〕をお読みになってみては如何でしょうか?
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck4167h 投稿日: 6月13日(火)18時09分28秒 
  万葉仮名の「え」が二つあるのは甲類・乙類の為だったのですね。しかし、なぜ数多くある「え」の字の中から3つだけがいろは歌において表記されているのかが、自分の中でまだ調べたりていないので、何か万葉仮名についての概論書を読んでみようと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 6月13日(火)11時20分36秒 
  吉志火麻呂のお話、怖かったです。自分の母親を殺してまで妻のところに帰りたいと思わせる手紙とはいったいどんな内容だったのか、とても気になります。
「茶筌」是非使ってみたいと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日: 6月10日(土)12時05分7秒 
  カタカナについて。 ※……。何を伝えているか不明瞭ですなぁ。 
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日: 6月 8日(木)18時51分2秒 
  「五十音図」最古の資料の『孔雀経音義』にあ行とな行が収載されていないことがすごく気になりました。私も少し考えてみましたが全く理由が分かりませんでした。いったいこれを作った人はなぜこのようなことしたんでしょうか?でも謎がある資料って面白いですね。  
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日: 6月 8日(木)14時46分40秒 
  母親を殺してまで奥さんの元に帰りたくなるようにさせる手紙とは、どのような内容なのでしょう。興味があります。
「気」と言う字は、米を食べて人間は元気になるから「氣」と書く。
とてもいい漢字の教え方だと思います。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日: 6月 7日(水)16時24分1秒 
  カタカナ(訓点)は奈良時代(8世紀)に作られ、明治33年の小学校令に確立されたと先生がおっしゃっていたのでネットで調べてみました。そうしたら、カタカナは平安時代の漢文訓読の補助記号として作られたという説があり、先生の説明と食い違いがありました。まだ調べた量も少ないのでもっと調べてみます。あと、明治33年の第三次小学校令の条文をみましたが、カタカナの事が記載されていませんでした。
※何の資料を見ているのかを記載し、説明の違いをおっしゃってくださると分明やすいのですが…、如何でしょうか。 
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck6179 投稿日: 6月 7日(水)12時23分6秒 
  吉志火麻呂のお話、おもしろかったです!
「とうとう」はもしかして「竇滔」って書くですか?漢字が分からなくて「若蘭」で検索したら中国語のページばかり出て「竇滔」の名前を探すのが大変でした…。  
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日本言語文化研究 投稿者:cg6087 投稿日: 6月 7日(水)11時01分14秒 
  遅れてしまってごめんなさい ※あかんなぁ……。
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160 投稿日: 6月 7日(水)10時49分1秒 
  五十音図の『孔雀経音義』にあった口偏に四と書く文字はまったく見たことがありませんでした。字の右側が「四」なのに、読みが「キ」であることに驚きました。また『金光明最勝王経音義』には一つの音にいくつかの表記パターンが載せられていて興味深かったです。やはり、それぞれの表し方に意味があるのでしょうか。
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日本言語文化研究 投稿者:cb6160 投稿日: 6月 7日(水)10時30分45秒 
  日本の文字で昔は使っていたのに今は使わなくなった文字があるなんて驚きました。今日先生が「文字化けしてる」といっているのを見て改めて思ったのですが、パソコンは難しいです。
※文字フォントが認識されていないとこのようなコトが実際に起こります。PDF版にも同様のことが見えていたのが気になります。この件は、情報センター事務室に連絡済みです。理由が判明次第、改めてお知らせします。
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日: 6月 7日(水)10時29分4秒 
  『はな』の発音が『ふぁな』だったりすごい興味深い話が今日は盛りだくさんでした。
『日本霊異記』は高校の時も国語の先生におもしろいからと勧められたことがあります。
乙種ですが自分で読むと所々読み方がわからなかったりしました;
「五十音表」の謎を知るにはどう調べたらいいでしょうか?
気になります。
※「五十音図」最古の資料という『孔雀経音義』にア行とナ行が収載されていないことですね。一説として、『孔雀經』が漢音読みであることから、漢音のうちにナ行音が僅かしか見えないからという説明もありますが、「寧」はナ行の音でありますから、まだ確定できる説明にはなりません。また、「比」にハ行とワ行が二列表記されていることは、一般に「ハ行轉呼音」が意識されたということが説かれてきています。これもまだ再考する必要がありましょう。*『日本語の歴史』4移りゆく古代語の六四頁から八〇頁を参照なさってください。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日: 6月 7日(水)10時27分51秒 
  先生のお話を聞いて日本語はとても難しいし、凄いと思いました!
先祖はとても頭が良いということがわかりました。考えれば考える程日本語は深いと思いました!
自殺してしまった息子の髪の毛をつかんだ話はなんだかリアルで怖かったです。  
 
 

 

 

 

2006.06.14(水)第一限目・教場:4−302

  文字の修得と習学 PDF版

    かなについて 貴族階級とことば教育 佛教界とことば教育

 

補遺》『古事談』卷第六―四〇、四二六〔新日本古典大系五五六頁〕に、大江維時(おおえのこれとき)(三代の侍讀、文章博士・大学頭、仁和四年〜應和三年、七六歳)が蔵人に補せられたとき(延喜二十一年頃)、前栽の「花名目録」をすべて仮名書きにして醍醐天皇にお示しになられた「維時中納言、始補蔵人之時、主上為令掘前栽、被書花名、納言多以仮名書之時嘲之、維時聞之、若書実字者、誰人読之哉云々、後日主上召維時令書花目録御覧之、被仰可用漢字之由、維時忽書之進之時、人不知一草字、競来問之、維時云、如此之故、先日用仮名字、何被嘲哉云々」という逸話が見えます。このことを、周圍の古參の蔵人たちは維時が漢字(實字)を書けない、いわば無學文盲を嘲り笑った。維時はこの一部始終を耳にして、「もし、實字に書かば、誰人かこれを讀まむや」と辯じていた。後日、主上が御召しになって、漢字に改めよという勅命を請け、主上に即座に今度は漢字にして差し出した。それを目にした人々は、草の名に宛てられた漢字を一つとして読めないのです。誰も彼もが維時の許に競うかのように問い尋ねくるという始末となってしまいました。此時、維時は「このようなことが想起されたので、先日は仮名字を用いて判りやすく前栽の花名を示したのです、どうして私のことをあれやこれやと嘲笑うのでしょう、どうなさいますか」といって人々にお示しになったという譚です。この維時が帝に献上した「仮名書き」と「真名書き」といった両方の「前栽花名目録」が今日遺っていたらどのようなものか、これを復元してみることも興趣あることではないでしょうか。

 

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日本言語文化研究T 投稿者:CK6165 投稿日: 6月21日(水)02時06分55秒 
  『土左日記』がつくられる過程に、貫之のそんな悲しい背景があるとは知りませんでした。しかも定家は原本を捨てたなんて。今じゃ借りたもの捨てるなんて考えられないです。
 話は変わりますが、計量言語学なんてあるなんて初めて知りました。言語学や国文学も面白いですが、そういった分野も学んでみたいと思いました。  
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国語史 投稿者:JK5076 投稿日: 6月21日(水)01時07分2秒 
  また遅れてしまってごめんなさい。14日の分です。
まさか藤原定家が「更級日記」の原本を捨ててしまっていたなんて正直驚きました。
今、原本が残っていたらどれほどの価値があっただろう。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 6月20日(火)22時49分16秒 
  毎回遅くなってすみません。
『古今和歌集』の裏に藤原時平の菅原道真への対抗意識があったなんて初耳でした。
今まで習ってきた文学の歴史ではそんなこと一言も言っていなかったので当時の人の人間らしい面」を垣間見た気がして面白かったです。
授業の最後に『東山徃来』をスラスラ音読しているのを聞いて見た目からはとても読めそうになくとも、練習すれば一般人も古典原本を読むことができるのだと知りました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 6月20日(火)11時26分8秒 
  かなと僧正遍照の関係がとても興味深かったです。遍照は六歌仙として名前は知っていたけれど、かなの誕生に関係しているというのには驚きでした。
 「葦手書き」がおしゃれで素敵だなと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 6月19日(月)20時01分13秒
  『東山徃来』や『明衡徃来』などの古い徃来物は、手紙を集めて編集し、特定の人物に献上するために書かれていますが、江戸時代になると『徃来物』が寺小屋での勉強教材として使われるようになり、徐々に一般庶民にまで広まって知識人が増えていきます。このように、時代によって徃来物のあり方が変様してきています。現在の私たちは、インターネットや新聞・テレビなどあらゆる情報網を通して知識や情報を得ることができますが、当時の人にとっては、手紙をやりとりして情報を得ることで教養や知識を得ていたようです。例えば、『東山徃来』には、「五月五日の節句は毒虫を払うためにあり、そのために菖蒲やヨモギを屋根の上に葺き、茅を巻いた所が蛇に似ているので「粽(ちまき)」と名付けたのだ」と言っていたり、「自分の家の庭に大柑子や梧桐、芭蕉などを植えるのはふさわしいことではなく、それらを植えて初めて果物の実が生るときにはその主には利がない」などといった生活の中での智恵やいわれが書かれています。また、『一切經』や『宿曜經』などのお経に書かれていることがらや、空海の『遺告(ゆいごう)』などを引用して、根拠を裏付けて文章を書いているのでとても説得力があります。徃来物は、今まで教育学の立場でしか研究がされていませんでしたが、最近、国語学の立場での研究推進事業が始まっています。私もこの研究に協力させていただいており、『千字文』を追求していきます。教育学とは違う観点から見ることで新しい発見が得られることを期待しています。  
※「往来物」資料について、数々の資料が公開されてきています。高野山西南院藏『和泉徃來』(京都大学資料叢書)同じく高野山藏『東山徃來』(駒澤短期大学国語演習資料)といった古徃來に始まり、近代明治期に及ぶ幅広い「往来物」の資料が続々と公開資料として一般に提供されてきています。次の「往来物関連資料HPリンク集」のサイトをご覧下さい。刊行物については、図書館を大いに利用しましょう!
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4148 投稿日: 6月19日(月)10時57分24秒 
   「葦手」は面白いですね。現代で似ているものといえば…ギャル文字といったところでしょうか。
 藤原定家が書写した後、原本をどうでもいいように扱っていたこと、韓国ではあまり遺跡を発掘したがらないことなど驚きでした。
 小松英雄は曖昧な記述を許さず、厳密さをとことん追及する姿勢が好きです(時々頭が痛くなりますが)。先日、『日本語の歴史』という本の中で小松氏が批判していた文が書いてある概論書を発見し、なぜかちょっと嬉しかったです。
 『日本音韻音調史の研究』、ありがとうございました。読んでみましたがますます分からなくなってしまいました。奈良時代において「え」や「お」の発音が違っていたこと、甲類、乙類の区別があったこと…それらと平安時代のア行音とヤ行音(ワ行音)の混同、室町時代以降の音にどういうつながりがあったのかを今考えていますが混乱しています。頭を整理し、もっと勉強してなお疑問があればまた質問したいと思います。よろしくお願いします。 ※第四編「音韻・アクセント史の周辺、五」〔三八七頁〕をお読みになりましたか? 
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日: 6月16日(金)09時16分34秒 
  『土左日記』について ※……何を伝えようとしているか全く不分明です× 
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日本文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日: 6月15日(木)20時20分45秒 
  佛教界とことば教育のところですが、菅原道真の撰集である『新撰万葉集』という書物のことは知りませんでした。『古今和歌集』が現在こんなにも有名になっていたのは道真を左遷させた張本人、藤原時平の対抗意識だったとは……。
漢字文体に対し、かな文体で著すなど、不運な道真には申し訳ないですけど
そういう対抗はなんとなく微笑ましい気もします。
※『新撰万葉集』のサイトを見ると良いでしょう。お奨めします。
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日: 6月15日(木)16時32分16秒 
  藤原定家が『更級日記』の原本を捨てていた話を聞き、とても驚きました。
よく、『土左日記』の原本が残ったなと思いました。
なぜ、原本より写しの方が価値があるのか知りたい。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CK4143 投稿日: 6月15日(木)11時22分25秒 
  『懐風藻』の序文からは、当時の貴族たちの学問に対する情熱がうかがえます。漢詩文を習得した彼らは、嬉しかったに違いありません。たくさんの漢詩集、辞書が編まれたことを知りました。言葉がそのように豊かになったことで、言葉の「あそび」はどのように変わったのでしょう。この授業を受けて、そういったことも調べてみたくなりました。
※「ことば遊び」の世界を知る緒につけたこと、これから何を学ぶか楽しみです。
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日: 6月14日(水)14時38分20秒 
  まさか藤原定家が『更級日記』の原本を捨てていたなんて思いませんでした。今までは藤原定家は『新古今和歌集』を編集したりしてすごい人だと感じていたんですが、今日の話を聞いて人の家の家宝である『更級日記』の原本を無理矢理見せてもらったあげく、捨ててしまったり勝手に話を変えてしまったりしてすごくわがままな人だと思いました。彼のせいで『更級日記』の原本がなくなってしまったなんて残念です。
※講義中にも伝えていますが、当時と現代では、「古」と「新」に対する価値観異なっていました。雑学、興味いことに、中世『古今著聞集』の説話譚に、紙を増水にして食すことが書かれてなどいます。ある人が写本を依頼したのですが、写さずに食したというものです。
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日本言語文化研究T 投稿者:1cg6160s 投稿日: 6月14日(水)10時57分12秒 
  高校の日本史では「弘仁・貞観文化」が一括りとして教えていましたが、貞観期からすでに唐風退廃の兆しが見えていたというのが新鮮でした。『新撰万葉集』と『古今和歌集』が菅原道真(左遷前右大臣)と藤原時平(左大臣)の対峙を表していることもはじめて知りました。葦手という文字の存在は興味深かったです。貴族階級の人にもてはやされたのなら、道長たちもこれで遊んだのかもしれませんね。
※「葦手」書きについて、詳細な説明はしませんでしたが、『古今和歌集』(十二世紀初頭)の断簡「葦手歌切」に、「にしてらのほとりのやなぎによめる 僧正遍照」と題詞され、「さみどりいとよりかけて白露をたまにもけるはるのやなぎか」の「あ」「ぬ」「の」「や」の四文字が絵文字風に表記されている。藤原伊行筆『葦手下絵和漢朗詠集』の水辺や叢「う」「か」「な」「み」「の」の文字が隠れていることを知ってみると面白いかも知れません。上野国立博物館の“書の至宝展”で展示されていたものです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日: 6月14日(水)10時44分59秒 
  かなは850年を境にして作られたと言われ、僧侶である遍照が関わっていることを教わりました。『土左日記』にかな文体が使われ、紀貫之がかなを発展させたのだろうと安易に考えていましたが今日の授業で自分の未熟さに気づきました。歴史を遡ってみると今まで知らない発見が生み出される!先生が授業の始めにおっしゃってた「古きをたづねて新しきを知る」を胸に刻み込みます!
※僧正遍照=良岑宗貞については、来週「カタカナ」のところでも考察をしてみたいと考えています。また、上記コメントにも記載しましたが、「葦手」書きとして遺る資料も遍照のうたのところです。
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck6179 投稿日: 6月14日(水)10時41分15秒 
  だんだん授業内容が難しくなってきましたね;
『土左日記』で使われた漢字の割合ってすごく少ないんですね!!あれにはビックリしました!!私たちが書く日記も、いつかあんなふうに文学作品として扱われる時代も来るかもしれませんね。今はブログなど新たな表現方法も確立していますし。
前回のコメントを直されてるのを発見しました…スミマセン、正しい日本語じゃなかったですよね;
※そう、山口仲美さんの『日本の歴史』〔78頁〜〕でこの作品を引用し、冒頭のところで漢字は「日記」のみだと触れています。山口さんは、小松英雄さんの説をここで引用して説明しています。どうぞ一読なさって見てくだされ。
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日本言語文化研究 投稿者:cg6087 投稿日: 6月14日(水)10時38分18秒 
  『土左日記』は、ただの旅日記でないと以前聞いたことがありました。
少し興味があるので、簡単な訳文かなにかをよんでみたいです。
※原本を読むのが一番ですが、意味がとれないのであれば、現代語訳付きの小学館日本古典文学全集でお読みなるとよいかもしれません。
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国語史 投稿者:cb6138 投稿日: 6月14日(水)10時31分41秒 
  日本史とかで習ったものが今日はいっぱいでてきました。
往来物は昔は勉強につかわれていたと聞いたことがあります。
今は「ひらがな」を普通に使っているのでへんな感じがしました。
※そうです。「往来物」は、書簡の集に始まり、江戸時代においては、寺子屋の教科書へと展開していきました。大量の書物を用いるための木版印刷技術がこれを助けています。でも写本往来物でも『庭訓往來』上下二冊は、数十種が伝存していますから、よく勉学で読まれたことが知られます。
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6160 投稿日: 6月14日(水)10時30分31秒
  今日は干川さんが『東山往来』の漢文をすらすらと読んでいたのを聞いて、本当に感動しました。私は『三国志』が大好きなのでいつか漢文を読めるようになって原文のまま読んでみたいなぁと思いました。
※漢文訓読は、実際に訓むことからはじまります。聲をだして繰り返し読むことが大切ですよ。
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日: 6月14日(水)10時26分20秒 
  『古今和歌集』が仮名で書かれているのは紀貫之が菅原道真に対抗しているからだとは知らなかった。
※勅撰集として、はじめて西暦九〇五年に「かなのうた」集が編纂されたことは、当代の政治的事象も考慮してみることで、何かが見えてきます。『古今和歌集』には序文が真名と假名と二種類あることも留意したいところです。
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国語史 投稿者:JK5032 投稿日: 6月14日(水)10時23分14秒 
  『土左日記』が愛娘の悲しみを乗り越えるために女の手でしるしたことをしった。これを知る前は、変な趣味の持ち主なのかと思っていた。
「草仮名」と「葦手」という字があるということを知りえた。実体が明らかでないようだが非常に興味深いことだ。
また、平仮名と片仮名をを作った人物が誰かということについてだが、時代にズレがあり、空海と吉備真備ではないことはわかる。
※川谷賢著『書道史大觀』(一二頁)に「片假名については奈良朝に吉備真備が作ったといふが不明である。平假名は空海の作といふもこれまた、不明である。しかし何れも奈良朝及平安朝の初期に出來て平安朝の中期には大いに活用せあられるようになった」と説明していますが、下線部の実証文献について触れていません。
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日: 6月14日(水)10時21分44秒 
  息子がうつしたり他人によってうつされたり、文章の伝わり方がよく分かりました。
紀貫之が歌人として活躍した平安時代は学問の発展と普及の裏には、中国から得た知識をふんだんに日本の政治に取り入れていくことから普及していったということが分かりました!
今、私達が読むことができている文章を書いた方々はみなさんとても頭が良いなとおもいました。
※良書の変遷は、これからも物語を創りだしていくのではないでしょうか。
 

 

 

 

 

2006.06.21(水)第一限目・教場:4−302

 文字の運びと流れ PDF版


   カタカナ文献資料について

 『古今和歌集』(旧伏見宮家藏)一二〇六年冩 ―

 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 6月29日(木)02時20分59秒 
  投稿するのが遅くなりました。前回のコメントです。宮内庁書陵部『古今和歌集』の「読人不知」の注記に「已上仮名也」とありますが、授業中に先生がお示しくださった論文、日本古辞書研究第二輯所載、西崎亨先生のご論稿「文字使用の規範―「以上」・「已上」・「以前」・「以然」等―」を読んでみました。論文をお書きになられた西崎先生に直接この語についてお伺いすることができましたので、ご報告致します。中国では公式には、「已上」の語を使用していて、この正統な使用表記は、日本においても使用されていたけれども、徐々に「以上」が使われるようになった理由として、@読み方が同じ「イジヤウ」であったこと。A「已」という文字の中国の正式な書記方法を知らない人(政府の役人ではない人=世俗人)が使っていたのではないかということを推定されておられました。しかし、書記文字が日本に入ってくるまでには中国西域の敦煌文献、そして、朝鮮半島を経て日本に入ってきていると考えられるので、朝鮮半島の文献資料をもっと調べてみる必要があるのではないかとおっしゃっていました。『倶舎論音義』には、標記語「已」の部分に、「音イ」、「ステ二」「ヲハル」「ヤム」/「シ」「ミノトシ」「ツク」とし、注文引用部分の終わりに「已上」と記述されているのみです。また、「以上」の語については、本邦の文献資料のなかでは、『東大寺献物帳』に一例、宮内庁書陵部蔵谷森本『続日本紀』宣命に十一例、『東大寺諷誦文稿』に五例、『遠江国浜名郡輸租帳』(正倉院文書)に六例、『東大寺奴婢帳』に七例、身延山久遠寺本『文朝文粋』に十三例、陽明文庫蔵藤原道長自筆本『御堂関白記』に四例と使われていることが報告されています。このことは平安時代には「以上」の語が実際に用いられていたことを物語っています。時代はやや降りますが、古辞書である観智院本『類聚名義抄』にも「以上 カムツカタ 已―」と両用の表記が示されていますので、既にこの表記が経典を学ぶ僧侶のなかにも定着していたことが伺えます。まだ、この「以上」の語が「已上」の語と併用しているのか、また、正確にはいつ、どのようなところで使用され、どのような普及過程があったのかについては、今後多くの資料を求め見ていくことで明らかにできるのではないかと考えています。
※日本における古例として、西崎亨先生が示された『東大寺献物帳』に見える一例は重要でしょう。また、成立年代は推定になりますが、小林真由美氏が天長二年直後の成立説を「東大寺諷誦文稿の成立年代」「国語国文」一九九一年九月)のなかで論じています。補遺用例》 ○景ガ云ク、「九品以上ノ官ノ者、亦、幾カ有ル」ト。〔『今昔物語集』卷第九、震旦〓〔貝圭〕仁〓〔?債〕、願知冥道事語第卅六・大系二五一F〕
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck4148 投稿日: 6月27日(火)13時12分13秒 
 ご紹介くださった『日本音声音調史』の該当箇所は読みました。しかし、尚分からないのです。私の舌足らずな面もあるかと思いますので、もう少し詳しくお話を聞きたいと思います。今度一度御伺いしたいのでよろしくお願いします。
 前回の授業でまた疑問がありました。『古今和歌集』の用例を見た際に「オ」と「ヲ」の混同例がありました。しかし『古今和歌集』の成立した年は905年とされています。もしこの写本が貫之のものを忠実に写したものとすれば混同が一般化した11世紀よりだいぶ早いものになるなあと考えてたところから疑問が生じました。初出例と一般化にはだいぶ時間のずれがあると思います。一般化というのはどのようにして判断するのでしょうか。
※ここで云う「一般化」とは、多く(不特定多数)の人々が別な資料において同じように「【薫・香】かほり」を「かをり」などと記述するようになることを示唆しています。現代では「かおり」と記述しています。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 6月27日(火)11時24分44秒
 カタカナの変化の過程がわかる、このような文献資料があるというのは、大事なことだと思いました。
「在原ノナリヒラノ朝臣」にひとつだけ「朝臣」が無かったことの詳しい理由が気になりました。
※「在原ノナリヒラソノコヽロアマリテコトハタラス。シホメルハナノイロナクテニホヒノコレルカコトシ」と云う紀貫之の仮名序に見える箇所でした。ここでは、「朝臣」の称号を付記せずに記述されています。  
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(無題) 投稿者:CK4143 投稿日: 6月27日(火)11時05分34秒 
  片仮名にも平仮名にも、成り立ちの過程があります。ことばの面白さだと思いました。
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck4167h 投稿日: 6月26日(月)11時00分39秒 
  「読人不知」の表記について「以上」と「已上」とふたつの表記がある事について調べてみました。本学の図書館で調べてたどり着いたのが、『日本語辞書研究第2輯』の中にある西崎 亨の「文字使用の規範」という論文です。昔は「以上」も「已上」も通用されていたのですが、「以」という字は1文字で前置詞の意味を示し、「已」の字にはその用法がない事と、『文明本節用集』から「已」→「以」という流れ(現在私たちが使っている「以上」へと)が予想されるという事が分かりました。昔の人たちが文字を使用する時に、それぞれの意味に対して厳密に使い分けていたという事が分かりました。
※些細なことがらに見えるかも知れませんが、実はその奥には書記者の標記意識が内包されているものです。たとえば、和語「わか・い」を古代『古事記』の神名・人名「天若日子」「若年神」などから現代の日本人、相撲のしこ名に「若○○」と標記する。しかし、中国では同音の「弱」を用い、例えば、四字熟語「老若男女」は、「老弱男女」または「老少……」としか用いていないことの事実を知ることにも繋がります。この足がかりを一つ見届けてたことを褒めてあげましょう!
前回の投稿で投稿者と題名を逆にしてしまうという大失態をしてしまいました。今度からさらに気をつけて投稿したいと思います。  
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日本文化研究T 投稿者:1ck4052i 投稿日: 6月24日(土)19時18分36秒 
  21日分です。
古今和歌集における歌作者の表記法について、最初だけはしっかり漢字で書き、後の方の歌ではいい加減・・というか省略したように記されているのがまず印象に残りましたが、小野篁のような有名人が漢字で表記されていなかったのは意外です。
準体助詞の「の」や「朝臣」などの表記がない人たちに対する当時の人々の評価(政治がからむかどうかは別として)がもしかして関係しているのか、実は深い意味はないのか・・。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日: 6月24日(土)11時18分57秒
  カタカナ  ※誰でも伝えるべき最低の要点は必要です。如何。
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日本文化言語研究1 投稿者:cg6087 投稿日: 6月23日(金)00時21分44秒 
  21日の分です。遅れてしまって申し訳ないです。。。
昔はカタカナや平仮名に、濁点を付けないと聞いたことがありましたが、本当にそうだったので驚きました!!  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日: 6月21日(水)19時14分36秒 
  現在では普通日本人の名前をカタカナで表すことはありませんが昔は名前をカタカナで表していたんですね。私としてはまず名前をカタカナにしてその下に自分の素性を書き入れるという女房名が現在では全くしないので面白みがありました。自分の素性を入れるということは名前というよりも名刺などに近い気もします。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160 投稿日: 6月21日(水)10時58分34秒 
 在原業平が「在原ノナリヒラ」と表記されていて、「朝臣」が抜けているのは悪事を犯したのではないかという話を聞いて、業平はどんな悪事を犯したのかと気になりました。業平はただの女たらしだったのでしょうか。女房・内蔵はどのような過程であのような字に変化したのでしょうか。「ヨミヒトシラス」の中にひとつだけ「ヨミヒトシラ爪」があったのは貫之の遊び心でしょうか。面白かったです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日: 6月21日(水)10時56分44秒 
  現在使われている、カタカナとは違う点があり読みづらい部分がありました。例えば、カタカナの「マ」の表記が平仮名の「コ」やカタカナの「ア」に見えたり、カタカナの「ミ」が「ム」に見えたり・・・今基礎国文学の授業でくずし字を学習しているが、読みなれていくとテキストを使わなくても読める文字があるので、そういう経験を多く積み重ねていこうと思いました。あと、六歌仙が全て言えなかった自分が恥ずかしい・・・・  
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck6179 投稿日: 6月21日(水)10時44分33秒 
  昔のカタカナはやはり漢字をちょっと崩したという感じがしますね!こうやって人名で文字の変遷を追っていくのも面白かったです。
 よく見ると苗字が漢字、名前がカタカナ、というパターンが多いですね!!  
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日: 6月21日(水)10時32分14秒 
  一つ目は漢字表記で以降、名前だけを片仮名で表記したり、すべてを片仮名で表記するなどの表記文字があった。もし、自分がこのような表記をするときは、漢字が難しくて書くのがめんどくさい時だと思う。しかし、紀貫之が面倒がって省略して書いたとは思えない。写した人物が間違えて書いた可能性もあるが、色々な考え方ができると思う。
先週の授業の書き込みが、伝言板に貼り付けてありませんでした。※補正しておきました。
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日: 6月21日(水)10時25分19秒 
  昔の作品を見ているとカタカナの『セ』が今の平仮名の『せ』になっていたり、『ン』が書けていなかったり、今私たちが使っているカタカナとはずいぶん違うことが分かり面白いなぁと思いました。
 どのような変化をたどって今のカタカナの形に落ち着いたのか、とても興味を持ちました。
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日: 6月21日(水)10時19分54秒 
  昔の字には声点があったり同じ字でも表記が違って面白かったです。
 今と一緒で知名度のようなものに頼って作者を偽ると言いますか…
 何でも僧正遍照にすると言ったことがあったことに驚きました。
 漢字にカタカナを混ぜる書き方も面白いなと思いました。  
 
 

 

 

 

2006.06.28(水)第一限目・教場:4−302

 漢字・カタカナの混淆文を読む その1 PDF版

― 『今昔物語集』(京都大学附屬図書館藏国宝、鈴鹿本)―

 
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日: 7月 5日(水)10時04分52秒 
 今私たちが使っている仮名とカタカナ、昔からずっと同じだと思っていたけど、
だんだんと形を変えながら今の形になっていったんだと知って、日本語の柔軟性を改めて思い知らされた気がします。。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日: 7月 5日(水)09時30分45秒 
 私たちが普段読んでいる漢字やカタカナが混ざって構成された文章は外国にはなく、そんな難しいことを小さいころから学習しているのかな?となんとなく凄いと思いました!
誰もが知っている『今昔物語集』はさまざまな魅力ある作品であるのにその名が登場するのは以外にも遅いことがわかりました。 
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 7月 5日(水)00時51分14秒 
今昔物語集の透過インタフェース版にはびっくりしました。
最近の技術の進歩はすごいですね。
見やすくて、しかもインターネットなので随時読めることはいいことだと思いました。
この授業を受けている方の多くが国文学科なのでしょうか?
授業を今まで受けてきたのですが、後期ついていけるか不安です。
国文じゃなくともついていける内容であると思うので自分なりに努力はします。
夏休みの課題、頑張ります。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CK6165 投稿日: 7月 4日(火)23時23分25秒 
  鈴鹿本って本当にすごい。というかインターネットがすごいと思いました。
和語と漢語を読み分けるなんて正直今の自分にはできなそうです。しかしこの漢字カタカナ混交文も日本語である以上読めないことは無いと思うので、時間をかけてもいいからしっかり意味をとりながら読んでいこうと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4167 投稿日: 7月 4日(火)20時40分33秒
 京都大学図書館に「鈴鹿本今昔物語」が寄贈された事について興味を持ち(将来司書職を希望していて図書館に興味があるので)、『大学図書館研究』の1994年3月号にその事についての記事掲載があったのでさっそく読んでみました。寄贈と言っても、ただ所有者の鈴鹿紀氏から渡されて図書館で所蔵して終わり、といった簡単なものではありませんでした。受け入れ手続きの中の一つに、資料が代替物がない古典籍なので、この資料にどれほどの価値があるのか、評価額をはっきりさせる為に鑑定する必要があります。京都大学文学部教授の方と国文学資料館の方が鑑定した結果、9冊で2千万円でした。その後、評価調査と受入理由書を添付した命令書を作り、大学総長の決裁によって正式な受け入れが決まります。国宝級の貴重書なので、やはり手続きにも特別なものがあるという事を知りました。
 私が素晴らしいと思った事に、大学内で特別予算措置を取って早期の補修を目標とし(平成6年3月完成)、補修後は影印本を作成して全国の研究者に利用してもらいたいという事です。高額な本を一つの図書館が所蔵して、中々現物を見る機会どころか、その本を書庫に閉まったままで影印本としても公開しなかったりしているような事を聞く事があるので、この京都大学図書館の措置は私たち勉強する人にとって本当にありがたい事だと思いました。先週の授業でも、ホームページ上で公開されている事にも驚きましたが、数多くの公開されている貴重な資料をできるだけ見て、読んで、大いに利用したいという気持ちが出てきました。機会があったらぜひとも見に行きたいです。
 また、漢字カタカナ混淆文についての論文で、山口佳紀氏の「今昔物語集表記法管見」を読んでみました。『今昔物語集』の用字法には、変体漢文と深いかかわりがある事を宛字の実例を挙げて論じていました。『今昔物語集』で、「イトホシ」を「糸惜」と表記しているのが『古事談』『吾妻鏡』十巻本『伊呂波字類抄』他2つの変体漢文例を挙げたりと、多くの実例を出して論じていて興味深かったです。山口氏は「更に変体漢文研究を進めることにより、本書の表記法乃至用字法の性格が一層明らかになるものと考えられる。」と書いてありましたが、その後の研究がどれ位進んだのかもさらに調べてみたいと思いました。  
※「変体漢文」という名称は、中国漢文を第一義に据えて見たときに使用された用語です。
これを改めて、「和式漢文」と云い、この『今昔物語集』は、漢字カタカナ混淆文の完成度の高さを物語っています。この資料書写した人は複数であり、これを監修した人物がいたことを知ることができます。個人の所産と言うよりは、統一された編纂集団による事業であることがこの作品をより高いものへと押し上げているのでしょう。今後の研究は、活字でない原文献資料をどれだけ多く利用するかということでしょう。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4148 投稿日: 7月 4日(火)18時32分31秒 
  現時点で吐き出せるものが
・食べられる紙を食べてみたい
・「月とウサギの話」はNHK教育番組で何十回もやっている ※番組名は何と言いますか?
・モヤシラーメンがしばらく食べられない
であるのが悲しいです。ここにきて、ようやく研究方法や姿勢というものが分かってきました。
 漢字の字体の比較研究で考えたことがあります。「文字が違えば対応する意味も異なるはずだ」という考えに照らせば、日本漢字というのは不都合の多々生じる文字だといえるのではないかと思います。全く同じ音、全く同じ意味を表しながら字体だけが異なるからです。これは正字(旧字体)、異体字(新字体)のあることが要因のひとつにあげられると思うのですが、漢字の字体を比較するときには上のような事情で変わっていったということを抜きにして、それ以外の可能性のあるもの(例えば「以上」と「已上」のような意識的な使い分けのなされていた例)を対象にして研究するのでしょうか。
※同音異表記の「ジャクハイ」は、「弱輩」と「若輩」という使用意識というより、中国と日本での漢字用語意識差が想定されたりします。これがいきなりなのか、この中間として朝鮮半島がどう関与しているのかもふまえながら考察していくことが今後の研究姿勢でしょう。
*ラーメンだけでなくモヤシの入っているものは逐一確認する習慣がつきつつあります。
※大事なことを聞き逃していますなぁ。中華の料理法では、と限付加して話しました。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 7月 4日(火)11時31分30秒
  京都大学所蔵、鈴鹿本『今昔物語集』と、(新日本古典体系)岩波書店、(日本古典体系)岩波書店の本文を読み比べてみました。すると、@(日本古典体系)は原本を正確に翻刻しているのに対して、(新日本古典体系)では、旧字体の字を新字体に書き換えている。A前者の本は、ほとんどの語句の漢語と和語に片仮名でルビがふってあるけれども後者の本には平仮名でルビがふられている。ということに気づきました。しかしながら両者は利点を生かしながら共存しているので時と場合によって、二冊の本を使い分けていきたいです。以下は(新日本古典体系)で新字体に書き換えられている語です。
 
」→「殺」。「」→「悪」。「」→「」。「獸」→「獣」。「實」→「実」。「无」→「無」。「氣」→「気」。「變」→「変」。「」→「棗」。「勵」→「励」。「」→「発」。「燈」→「灯」。「釋」→「釈」。「」→「来」。
※両本の仮名づかいが異なる語
「咲(エミ)」→「咲(ゑみ)」。「踊入(オドリツ)テ」→「踊入(をどりいつ)テ」
※両本ともに原古写本の表記と異なっている語
「讐」→「讐敵」。「夲」→「本」。
 
 次に、授業中に先生が紹介してくださった「月のウサギの話」に興味をそそられたので、自分自身で調べてみました。
 文献資料を蒐集した書物、『廣文庫』の「月中の兎」には、『塵添嚢鈔』巻一四・一 「月ノ中二有兎云々、就之其ノ義オホケレ共、唯ダ過去ノ靈兎ノ白骨ヲ 月中の兎(『和漢三オ圖會』所載) 取リテ帝釋月中置キ給フ故ト云々、〔玄賛要集〕ノ第十ニ云ク、問フ云ク、月中ノ兎トハ何ニ因テ有ルゾヤ、答テ云フ〔未曾有經〕ニ説キテ波羅底斯國、烈士池ノ西ニ有獸率都婆、狐猿兎彼是菩薩ノ行ヲ修スルノ處ニ、當時爲下一兎燒身供養上、帝釋骸骨在月中、以示天下人、ト云々、又、〔法苑珠林〕ニ云ク、依〔西國傳〕云、過去有兎、行菩薩行、帝釋試云、索目欲食、捨身火中、天帝愍之取月中 、令下二未來衆生是過去菩薩行慈之身」とあって、『五雜爼』巻一・一七に、「世間第一誕妄可笑者、莫日中之鳥月中之兎、而古今詩文、額襲相用、若以爲實然其存蓋出於春秋元命苞、淮南鴻烈湿、及張衡靈憲語一耳、而屈原天問、已有畢監之説、而史記龜策傳、載孔子言、日爲徳而辱於三足之鳥、夫史記所載不經書、而天問所疑、皆兒童里俗之談、近於遊戲漢以後、遂通用之而不疑矣、」とあります。
 また、同本引用の「兎と狐と猿との問答」には、『大唐西域記』卷第七・八「劫初時、於此林野、有狐兎、異類相悦。時天帝釋。欲菩薩行。降靈應化。爲一老夫。謂三獸曰。二三子善安隱乎。無驚懼耶。曰渉豐草。遊茂林。異類同歡。既安且樂。老夫曰、聞二三子情厚意密。忘其老弊。故此遠尋。今正飢乏。何以饋食。曰幸少留此。我躬馳訪。於是同心虚已。分路營求。狐沿水濱。銜一鮮鯉林樹。採異花菓。倶來至止。同進老夫。唯兎空還。遊躍左右。老夫謂曰。以吾觀之。爾曹未和。狐同志。各能役心。唯兎空還。獨無相饋。以此言之。誠可知也。兎聞譏議。謂曰。多聚樵蘇。方有作。狐競馳。銜草曳木。既已薀崇。猛焔將熾。兎曰仁者我身卑劣。所求難遂。敢以微躬。充此一。辭畢入火。尋即致死。是時老夫。復帝釋身。除骸。傷歎良久。謂曰。一何至此。吾感其心。不其迹。寄之月輪。傳乎後世。故彼咸言。月中之兎。自斯而有。後人於此。建堵波。從此順短伽河流。東行三百餘里。至戰主國(中印度境)」と書かれています。
 これを読むことによって、月と兎の話の変遷が見え、様々な文献資料で取り扱われていることがわかりました。この話は、古くは経典の中に書かれていますが、『今昔物語集』で漢字片仮名交じり文にすることで世俗の人にも読めるようになっていったのだと思います。 また、手塚治虫さんの『ブッダ』の冒頭部分にも兎を月に召す類話が載っていました。『今昔物語集』では、兎、猿、狐が出てきますが、『ブッダ』では、猿の代わりに熊が出てきます。熊や狐は飢え凍えようとしていたバラモンの修行僧に魚や木の実を持ってきますが、兎はどう頑張っても食料を持って来ることが出来ませんでした。そこで、自分を食べてもらおうと自ら薪を持ってきて火をくべ、その中に身を投じます。この漫画に出てくる兎は、つぶらな瞳で、愛らしくてとても可愛く描かれているので、食べ物を探せずに氣を落としている所や、必死に薪を持ってくる兎の姿には、いっそう切なさが込み上げてきました。丸焦げになってしまった兎を修行僧が月に召す所はとても感動的でした。漫画で絵と共に文を読むことは、文字だけで本文を読むのとはまた違った感覚が味わえて新鮮でした。
今昔物語集』卷第五・十三の説話は、室町時代の『嚢鈔』卷第九・二十五(341頁)に所載の譚と同話であるが、編者行譽自身、この『今昔物語集』の内容を知らなかったことが見て取れ、本説話が別のルートで取り上げられてきていて興味を引く。また、手塚治虫『ブツダ』の第一卷に描きだされた話は、まさにこの『今昔物語集』の影響を受けるところと見てよかろう。
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日本言語文化研究1 投稿者:cg6087 投稿日: 7月 3日(月)13時23分33秒 
  28日の分です。
夏季課題大変そうだけどがんばります 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 7月 2日(日)22時12分8秒 
  和語と漢語の判断が難しいと思いました。もっと勉強して読解能力を高めたいです。
食べられる和紙があるというのには驚きました!食べてみたいです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日: 7月 1日(土)11時56分51秒 
  今昔物語集について。  
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日本言語文化研究 投稿者:ck6133 投稿日: 6月30日(金)15時18分14秒 
 今昔物語集が漢字とカタカナを混ぜた文だと初めて知りました。カタカナが交じっていると読みづらく、読解することが難しい。それが現代日本人の感覚かもしれませんね。早く読み慣れていきたいと思います!
※カタカナと漢字仕立ての文章は、読みづらいですか、これも日本語の文章です。また、こうした文体が未来に再び復古するということもなきにもあらずです。読むと言うより、口に出し読む、話ではないかと思っています。
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日本言語文化研究 投稿者:1ck6179 投稿日: 6月30日(金)14時26分7秒 
 子供の頃から昔話が好きだったので、『三獣行菩薩道兎焼身話』はかわいそうだったけど面白かったです!!今昔物語集にはあんな面白い話も載っているんですね!!今度全文を読んでみたいです。
食べられる和紙…いつか食べてみたいですね(笑)
※『風のかたみ』(福永武彦全小説 第九巻)福永武彦著 東京 新潮社 昭和四十九(一九七四)年刊、五○○頁 一九・五×一三・五、付録・現代語訳「今昔物語」抄、古典としての「今昔物語」、初出と書誌、『今昔物語集』のいくつかの話を組み合わせた長編小説を載せています。
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日: 6月30日(金)01時59分4秒 
 『今昔物語集』は簡単に読めると思っていたのですが、和語で読むか漢語で読むかが
判別しにくいです。「透過インターフェース版」が一番見やすかったです。
新しい感覚でした。食べられる和紙、出来れば金粉で字を書いて食べてみたいです。
※「食べられる和紙」のことは、講義のなかでお話ししましたように、『古今著聞集』五五五「無沙汰の智了房の事」に、「近比、無沙汰の智了房といふものありけり。能書にてなむ侍ける。或人、古今を書うつしてとて、あつらへたりけるを、うけとりながら、おほかたかゝざりければ、主しかねて、「いまはたゞかゝずともかへし給べし」といひければ、智了房こたへけるは、「すぎ候にし比、痢病をつかうまつりしに、紙おほくいり候しに、術盡候て、さりとてはとて、その古今の料紙を、みな用之候也」といひければ、ぬしいふばかりなくおぼえて、「料紙こそさやうにもし給たらめ、本は候らむ。それを返し給らん」といへば、智了房、「其事に候。其本をも、紙みそうづに皆つかうまつりて候をば、いかゞし候べき」といへりけり。ともかくもいふ事なくてやみにけり。無沙汰の名をつきけれども、以外に沙汰きゝてぞふるまひたりける」〔大系本四三八頁三行目〕と見えます。
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日: 6月29日(木)18時17分29秒 
  『今昔物語集』の「透過インターフェース版」が新鮮で面白かったです。それにしてもインターネットってすごいですね。「透過インターフェース」の機能も面白かったんですがそれ以上に『今昔物語集』の写真が見やすく載っていて、その上読みやすいように資料の字の他にテキストを載せてあるのでとても分かりやすいです。それに無料でこのような貴重な資料が見れることがうれしいです。
 あと、今回の授業はいつもと違い『今昔物語集』の本文をやるまでずいぶんと時間がかかりました。
本文に入るまであれほどの時間がかかるなんて『今昔物語集』は奥が深いですね。
※次週に、その2を予定しております!
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日: 6月28日(水)22時39分18秒 
 今昔物語集には所々欠字(あるいは欠文)がありますが、注釈書には大体意図的になされたことだと書かれています。天皇名など個人名表記を避けるのはまだなんとなく分かるとして、それ以外の部分ではなぜ欠字としたのでしょうか?
背景、または個人的な理由があるのか、単に書写の過程で意図する漢字が出てこなかったのか・・。
それにしても京都大学の「透過インタフェース版」は便利ですね!勉強にもなるし、是非通して読んでみたいと思います。
※鈴鹿本は、清書本ではなく寧ろ、素稿本であると考えて見ては如何なものでしょう。固有名詞は、後で確認して書き込む積もりで一字乃至二三字空欄にしておいたのではないでしょうか。
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国語史 投稿者:jk5032 投稿日: 6月28日(水)16時06分39秒 
 『今昔物語集』が漢字と片仮名の混淆で表記されており、漢文のような返読が無くなったことの意義は高いと思います。これにより広く読まれたのではなかろうか。それはさておき、漢字表記の語を和語で読むか、漢語で読むかが判別しにくい文字が數なくないことが分かりました。そこで和語と漢語、また混種語が『今昔物語集』においてどれほど用いられているのであろうか。佐藤武義氏の『今昔物語集の語彙と語法』によると、卷十六の名詞の分類は @和語 40語 A漢語 38語 B混種語 6語 というような結果であり、和語と漢語の使用度数は半々であることが分かりました。
※和語と漢語の比率を見るとき、最低でも本朝佛教部と本朝世俗部とでは、その差異はないのかどうかも確認すると説得力があるでしょう。
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160s 投稿日: 6月28日(水)11時02分58秒 
 今昔物語集のすごさがわかりました。外国の作家にまで影響を与えでいるんですね。夏休みのレポートは源為憲などについて調べたいと考えています。「いろは歌」をじっくりと眺めてあわよくば何か発見できたらうれしいです。
※日本映画で黒澤明監督が「羅生門」を映画化したことも、大いに影響しているでしょう。
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日本言語文化研究T 投稿者:cb6160 投稿日: 6月28日(水)10時31分53秒 
  今日は大変遅刻してしまってすいませんでした。
うさぎの話がかわいそうだけど面白かったです。
※手塚治虫さんも漫画のなかでその場面を表現していますヨ。
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国語史 投稿者:jk5124 投稿日: 6月28日(水)10時29分57秒 
  漢字とカタカナが融合されて仕立てられた文章は日本ならではだなぁと思いました。
あたしでも知っている芥川龍之介の『羅生門』が今昔物語集から影響をうけていたんだなぁと思いました。
 やっぱり表記の仕方は違っても、内容やその物語の影響などは現代に伝承されるものなのですね。
※文字表記は、その時代の象徴でもあります。現代の私たちが過去の時代を眺めるのですから、多少の差異はぬぐえないのです。とはいえ、新版『今昔物語集』などが必要なのかもしれませんね。
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日: 6月28日(水)10時23分50秒 
 古典を読むのは苦手なんですが『今昔物語』、時間を見つけて読めたらいいなぁと思います。
ネット上で原本が見れるのはすごいですね!!
すごく貴重なことだと思います。
夏期課題、大変そうですけどがんばりたいと思います。  
※読むことは、馴れることからでしょう。まだ、比較的読みやすく仕立てた『今昔物語集』の本が出ていますので、まずは取っつくことでしょう!
 
 

 

 

 

2006.07.05(水)第一限目・教場:4−302

 漢字・カタカナの混淆文を読む その2 PDF版

― 鈴鹿本『今昔物語集』から古辞書利用へ ―

古辞書〔西崎亨『日本古辞書を学ぶ人のために』(世界思想社刊)を参照〕については、来年開講の「日本言語文化研究U」で詳細な取り扱いを致します。ここでは、当面必要な特徴点を引き出すくらいになります。今回は、源順『倭名類聚抄』を取り上げて考察を深めることにしました。
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国語史 投稿者:jk5076 投稿日: 7月12日(水)09時36分46秒 
 駿馬を(ときうま)、黄牛を(あめうじ)と読むなんてきっと教えてもらわないと私では読めていなかったと思います。日本語は単純で簡単だと思っていましたが、漢字一つ読むにも難しいことに改めて気づきました。なんでこう読むんだろうと不思議にも思いました。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 7月12日(水)07時49分54秒 
 授業の中で「」の字を分けて草馬(めうま)とした例が『今昔物語集』に書かれているということをやりましたが、現在私たちが使っている漢字の中にも合字からわかれて二文字になって使われている語はあるのか疑問に思っていたところ、ちょうど「飛鳥」という字がこれにあてはまるということがわかりましたので詳しく調べてみました。
 「「飛鳥」の字は「明日香」の枕詞「とぶとり」をあてたもの」と、『日本国語大辞典』第二版に書かれていますが、観智院本『類聚名義抄』には、
   ノセ。ヌエ。〔僧中130 E〕
という二つの訓が記載されており、『類聚名義抄』が書かれた一一八二年の時代、またそれ以前の時代にはこの二つの読み方しかなかったことがわかります。「ノセ」は、今使われている字に当てはめてみると大阪に「能勢」という地名があります。「勢」の字が使われていることから勢いのある鳥、「ノセ」といえば「鷹」の一種であることがわかります。『和名抄』にも見えています。
 また、第二訓の「ヌエ」の読みとして、観智院本『類聚名義抄』の「」の部分に、
   音空 恠鳥 ヌエ 〔僧中130 D〕
と書かれています。「ヌエ」という読みでは「しい鳥」という意味で使われています。『平家物語』には、源三位入道頼政がヌエを撃ち落としたという話が載っています。「」は、「鵺」とも書き、夜に鳴く怪しい鳥を思い浮かべると、あの「フクロウ」という鳥が想像されます。
 前に戻って、「」では、「ヌエ」と「ノセ」の読みがあることから、「ヌエ」と読むときは、フクロウを表し、「ノセ」と読む時は鷹を表せるのではないでしょうか。同じ字でも読みが違うことで対象物が異なるので、漢字は奥が深いと改めて実感しました。
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 7月12日(水)06時14分56秒 
  一目見て、全く読み方の見当がつかない漢字は興味がそそられました。
何度も言われていますが漢字は一つでも読み方が何とでも読めるものが多いですね。
『上』の話も面白かったです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CK6165 投稿日: 7月12日(水)01時56分53秒 
  「あめうじ」の濁点表記は、934年〜1182年の約248年の間に変容していき、和名抄では濁点表記されていないと学びました。
なので和名抄には濁点表記はないのだと思いましたが、「駱駝」のところで、先生が「らくだ」と濁音で読んでいたので和名抄でも濁音表記されているのだと知りました。
しかしこの「良久太乃宇萬」だけでは濁音で読むのか清音で読むのかはわからないのではないかと思ったんですが、どこかに濁音で読む根拠があったのでしょうか。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4167h 投稿日: 7月11日(火)18時32分42秒
   先週の授業で「アガル」と「ノボル」の表記について触れていたので、自分なりに調べてみました。
 まず、大系本では「アガル」と表記されているのを新大系では全て「ノボル」と表記されている事を確認しました。『日本国語大辞典』第二版で「アガル」と「ノボル」の意味に違いを見てみた所、語誌に「アガルとノボルは、共に上への移動を表すという点で共通する類義語であるが、アガルが到達点に焦点があり、そこに達することを表すのに対して、ノボルは経過・過程・経路に焦点があるという点が異なる。」、「アガルの場合、アガルものが物全体か一部かにかかわらず、視点の向けられているものの移動ということが問題になる。それに対して、ノボルの場合は、少しずつ移動する過程が明らかになるような、それ自体の全体移動を表わし、しかも自力で移動が可能な事物に限定される。」としていました。「起きアガル」とは言うけれど「起きノボル」と言わないのは経過に焦点がないからでしょうか。
 という事は、大系本の編者は結果重視として「アガル」の表記を採用し、新大系本の編者は経過を重視して「ノボル」表記を採用したという事でしょうか。
 他にも『今昔物語集』と同時代の文献が少ないながらも索引を繙いて見ました。『古本説話集』では「アガル」表記でルビありが1例、平仮名表記が4例、「ノボル」はルビありが16例、平仮名が13例でした。『打聞集』は「オキアガル」で1例、「ノボル」ルビは2例でした。『百座法談聞書抄総索引』では「トヒアカリテ」で1例、「ノホル(リ、ラム)」は4例でした。『宇治拾遺物語』の新大系本も見てみたのですが、「上」表記は全て「ノボル」とルビがふってありました(ルビ無しがなぜか2例ありました)。圧倒的に「ノボル」の表記が多く用いられています。本文の内容までは踏み込んでいないのですが、「へ」「に」「より」という助詞の後には「ノボル」が多く用いられていました。
 言葉ひとつの振り仮名でも色々な解釈があり、二つを共用する事によって内容表現を深めているという事でしょうか。新大系の編者には大系本の編者とは違う解釈があって、あえて振り仮名表記を変えたという事でしょうか。調べたといっても疑問ばかりが湧いてしまって、回答がいま一つ分からなかったです。
※「あがる」は、(視覚者の客観性の動作)と「のぼる」(視覚者の主観性の動作)といった違いが見受けられます。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 7月10日(月)18時53分19秒
   「駿馬」や「黄牛」は絶対、普通には読めないです!
 一人のために辞書を編纂するなんて、とても贅沢だなと思いました。 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4143 投稿日: 7月10日(月)11時57分30秒 
 「あめうじ」、「ときうま」のような読み方は、知っていなければ絶対に読めないと思いました。昔の日本語はどこか品格があって奥深いです。とても面白いお話でした。 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日: 7月 7日(金)10時26分10秒 
  今ではとても読めない漢字を使っている鎌倉時代の人たちの表記をわれわれ現代人が読み解くことは素晴らしいことですね。時代の変遷により、言語体系や読み方が変わっていく中で日本語は大事にしていかねばなりませんね。ps:葦毛という表記を見て思わず笑ってしまいました!  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日: 7月 7日(金)09時59分2秒 
  『倭名類聚抄』について。 
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日: 7月 5日(水)22時23分56秒 
  『今昔物語集』の原本に近い内容である、鈴鹿本は貴重である。『倭名類聚抄』は源順が勤子内親王のためだけに作ったというのは、驚きだった。また、内容の濃さにも驚いた。馬の鳴き声を表した「イナナキ」という字まであり、当時の人のレベルの高さ、学問に対する感心がわかった。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日: 7月 5日(水)21時48分5秒 
  『倭名類聚抄』は源順が勤子内親王のためだけに作ったと聞いて驚きました。たった一人のためだけに辞書を作る源順はすごいと思います。ただ受け取った勤子内親王は、『倭名類聚抄』をあまり読む間もなく死んでしまったと聞いてとても不憫に思いました。しかしそれ以上にせっかく『倭名類聚抄』を作ったのに渡した相手が読む間もなく逝ってしまわれた源順が不憫です。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日: 7月 5日(水)13時46分10秒 
  今日の今昔物語集の中では、「上る」に関する話が面白かったです。
「捨て仮名」は読み方を特定するのに役立つと思いますが、これに関しては「あがる」と「のぼる」で確かにどちらなのかわかりません。「上に“のぼる”」の表記法と合わせて例外があるのは面白くもあり、また頭を悩ませることです。
大系本と新大系本の解釈の違いというのもあるのですね・・。  
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日: 7月 5日(水)10時31分35秒 
  駿馬[ときうま]や、黄牛[あめうじ]のように、普通の音読み訓読みでは読めない漢字が、日本語には沢山あって、すごく面白い!!と思いました。。
まだまだしらない事が沢山あるので、少しずつ知っていけたらと思います。。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日: 7月 5日(水)10時26分18秒
  今日は『今昔物語集』と『倭名類聚抄』のお話でしたが、牛や馬に関係した似たような言葉をこうして並べて見てみると大変興味深いものでした。ロバが「宇佐岐無麻」だとか、馬の嘶きが「以奈以奈」なんて、ユニークでおもしろいですね!
おまけの「上」に関する読み方の比較も面白かったですよ!  
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国語史 投稿者:CB6138 投稿日: 7月 5日(水)10時25分13秒 
  今ではとても読めないような読みをしていてすごいなと思いました。
大系と新大系でも読み方が違うしとても不思議ですね。
鈴鹿本の助詞の使い方、読み方の違いも不思議に感じました。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日: 7月 5日(水)10時23分6秒 
  今日の授業を受けて、改めて漢字とカタカナの素晴しさがわかりました。
『黄牛』を『あめうじ』と読んだり、『駿馬』を『ときうま』と読んだりまだまだ分からない漢字が世の中には沢山あると思いました。  
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日: 7月 5日(水)10時19分7秒 
  駿馬【ときうま】、黄牛【あめうじ】など読み方が変わっていて自分では絶対分からないだろうなぁと思いました。読み方がいくつもあったりして日本語は奥が深いなぁと思いました。  
 
 

 

 

 

2006.07.12(水)第一限目・教場:4−302

 連綿連続にみる日本語の抑揚階調表現 PDF版

― 徳川本・五島本『源氏物語繪卷』のかな書き「ひ」文字 ―

 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 7月23日(日)20時14分36秒
 私事ではありますが、「かな」と聞くと、以前、「○○さんは「かな」のようだ」というおことばを頂戴したことが頭を過ぎります。漢文は、Kと白の存在感が強く、きちっと整えて書かれているのに対し、「かな」は余白や、かすれがあり、ゆるやかなな印象があるので、上記の事を聞いたときは、私は、いわずもがなと思いつつも、曇り空の心持ちでありました。しかし、「かな」を肯定的にとらえ、日本人の人と人との距離感や調和やしたたかさが余白に表れているのが美点であるということをこゝろにとめて良い方向に考えを導いていきたいものです。
 さて、本題に移りまして、『源氏物語』と「かな」について調べた事をご報告致します。
『かなの研究』『日本の書の歴史』(中教出版)に次のように書かれています。
○紫式部は『源氏物語』の「梅枝」に当時のかなの書はもっともすぐれていると書いている。
○「かな」は平安時代の中ごろには「かんな」ともいった。『源氏物語』には「かな」を「かんな」と書いている。「かんな」は「かりな」の音便による変化である。
○散らし書きにしているのはたいていは和歌であり、散文を散らし書きにしたのは『源氏物語絵巻』の詞書きがある。散らし書きは非常に巧妙で変化に富んでいる。
○藤原時代のかなの書で残っているのは大部分が和歌を書いている。散文を書いているのは伝源俊頼筆の〈元永本古今集〉《中略》の序、伝源俊頼筆の〈東大寺切(三宝絵詞)〉と〈源氏物語絵巻〉の詞書きとがある。〈東大寺切〉は漢字をまぜて書いている。
 また、かなの書は三跡の一人である小野道風によって洗練されたと考えられ、時代によって仮名の書き方に特徴が見られます。摂関時代のかなは字形を整えながら入念に書いているので運筆の速度が遅く、連綿が短くなっています。しかし、院政時代のかなは自由に早く書いた物が多く、連綿が長くなっています。院政に書かれた『源氏物語絵巻』を見てみると、連綿が長く流暢に書かれていて、上記の特徴にあてはまります。
  前期の授業では、文字を通して日本文化と日本語のあり方を見てきて、日本語について見直す事ができました。先生は毎回自作の資料を作ってくださり、とても新鮮でした。特に今回と前回の授業の資料は、実際の資料をパソコンに取り込み、丁寧にトリミングして、多くの資料を載せてくださっていたのでとても骨が折れる仕事であったのだなということが垣間見えました。私たちのために苦労を惜しまず作っていただきありがとうございます。後期の授業も楽しみにしています。
※「連綿」すなわち、「続け書き」について前期の最後に取り扱いました。上記のご指摘のように、『源氏物語絵巻』の詞書きの「かな」表現は、実に豊かな雅やかさで表現されています。「かな」美学の頂点をここに見ることになりましょう。この華麗な絵巻物を大切に保存し、現代の私たちに伝えてくれた多くの文化人である諸先輩に心から感謝しましょう!
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 7月19日(水)13時00分19秒 
 「も」や「ひ」など一つの文字でも形が少しずつ異なっているのは書き手が意図して変えているのだとしたら、とても面白いことだと思いました。
夏課題の提出がゆっくりでいいと聞いて少し安心しました。
自分なりに楽しんでできたらいいです。
※楽しみながら課題を仕上げるコツは、テーマ語彙を自分で決めることです。きっといい発見が獲られますヨ。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6165 投稿日: 7月19日(水)03時12分42秒 
 『源氏物語絵巻』の復元模写というテーマで今年の正月頃に「よみがえる源氏物語絵巻」という番組が放送されていて、ものすごく興味があったので今回の話は面白かったです。
それに関連して、3月に上野毛にある五島美術館でその再現されたものが展示されたらしいのですが、受験と被っていたため見に行くことができなかったので、図書館に絵巻の複写があると知ってすごくうれしく見てみたいです。
夏休みのレポートは大変そうですが、がんばってチャレンジしてみます。
※大いに意義あるレポート作成になりますことを期待しています。
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160 投稿日: 7月12日(水)11時00分48秒 
 連綿には作者の意図が隠されていたりするのでしょうか。日本独特の「かすり」の技術もすばらしいものだと思いました。夏休み中は毎年高校野球を見まくりますが、レポートで国会図書館などに行ってみたいです。また、以前徳川美術館に行ったことがありましたが本物の絵巻は公開されていませんでした。少し残念でした。
※国会図書館を利用してみること、是非、夏休み中の期間お奨めします。ふだん、なかなか獲られない資料を見てくるだけでも行った甲斐があるでしょう。昼の定食なども食べてきてください。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 7月18日(火)11時03分10秒
  同じ「ひ」でも、緩やかに曲がっているU字型と鋭く曲がっているV字型の2種類があるというのは、よく見ないとわからないものだと思いました。
巻物の値段を聞いて、少し腰が引けてしまいましたが是非一度手にとって見てみたいと思います。
※そうですね。是非お手にとって見てみては如何でしょうか。
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日: 7月14日(金)09時46分25秒 
  源氏物語絵巻。
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日: 7月13日(木)17時01分38秒 
 『源氏物語絵巻』の複製本の値段があんなにするなんて思いませんでした。しかも布に包まれていたり、防虫剤が入っていたりしてただの複製の巻物には見えませんでした。先生はぜひ借りたほうが良いと言っていましたが、値段の話を聞いて傷を付けてしまったらとか破いてしまったらとかを考えると少し借りるのがためらわれます。
※直に見るチャンスをもっと大切にしましょう。また、取り扱い方法も是非学習なさってみては如何でしょう。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日: 7月13日(木)00時32分22秒
 「ひ」文字のU字型・V字型の違いがあること自体、今日絵巻を見て初めて知りました。
字母「比」、「飛」を交互に使っていたり、その書き分けにはどんな意図があったのでしょうか。紫上が亡くなる場面の詞書は、登場人物の心中やクライマックスを表すがごとく乱れた書きぶりですが、やはり実際の絵巻を自分の目で見ないと気づかないことがたくさんあります。
五島美術館なら近いので、原本が公開される催しがあるなら一度は見に行ってみたいです
※雅びな世界としての調和の美が一つは考えられましょう。さらには、上下接続する他のかな文字との整合性も考えられましょう。まだまだ、読み解く可能性はなきにしもあらずではないでしょうか。
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日: 7月12日(水)22時31分43秒 
  『源氏物語絵巻』の巻一軸の「ひ」だけ見ても、同じ人が書いているにもかかわらず、形が違ったり、漢字が違うなど、絵だけでなく、文字の芸術性までこだわっていると思った。
 また、女性の文字の細さにビックリした。当時の女性の繊細さが伝わってくる。
自分も小渕さんには、もっと長生きしてほしかった。2千円札を最近見かけないが、お金を通し、日本の歴史を広めるという考えはすばらしい。
※同じ書記者がほぼ同一の時間帯で書冩していても、文字は異なる場合があります。この書記者の意識を知ることは大切な読み取りの一つといえましょう。
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160 投稿日: 7月12日(水)11時00分48秒 
 連綿には作者の意図が隠されていたりするのでしょうか。日本独特の「かすり」の技術もすばらしいものだと思いました。夏休み中は毎年高校野球を見まくりますが、レポートで国会図書館などに行ってみたいです。また、以前徳川美術館に行ったことがありましたが本物の絵巻は公開されていませんでした。少し残念でした。
※書記者の感性は当然連綿の文字にも反映されていきます。この場合、原作者と書冩者とがどの程度、均衡しているのかが問われてきます。それは、成立年代と書冩年代の国語の時代性に関わってきます。たとえば「ふてつき」というかな文字表記があるとき、これを「筆付き」と見るか、「筆継ぎ」と見るか濁点表記がないので前後の文脈から解釈することになります。こうした箇所で「つき」のかな文字を特定選択してあれば読み手はそう苦労せずに読めることも考えられます。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日: 7月12日(水)10時48分12秒 
  今、基礎国文学Tの授業でくずし字を学習していて、原文の表記に慣れてきたところでしたが、連綿連続した表記文字がいまだに読みづらいです。でも個人的に連綿した文字は風情が感じられて、とても好きです。今日で前期の授業は最後ですが、前期を通してついていくのが精一杯だったので、まずはレポートで満足した作品を仕上げられるように頑張りたいです!
※数多くの変体かな表記の作品資料を繰り返し繰り返し読むことが径捷でしょう。この夏休み期間中に変体かな文字の読解力が上達することを願っています。
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国語史 投稿者:jk5076 投稿日: 7月12日(水)10時31分17秒 
  巻物が図書館にあるなんて・・・おどろきです!しかも高い!!
ちょっと、借りてみたい気がします。
昔の「ひらがな」は、文字なのに絵みたいできれいだな〜と思いました。
※観る楽しさを味わってください。
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日本言語文化研究T 投稿者:CB 6138 投稿日: 7月12日(水)10時27分45秒 
  同じ【ひ】でも漢字表記を変えたり文字を切る場所を変えたりして非常に面白いと思いました。
 昔の字は今では解読するのが大変だと思うほど流れるような字だなと本当に思います。
巻物とか興味があるので機会があればぜひ見てみたいと思います。
※興味のあるときにこそ、観る楽しさを味わってください。
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6160 投稿日: 7月12日(水)10時25分28秒
 今日は巻子本(複製本)を初めて近くで見てとても感動しました。描かれている絵も色合いが大変美しく、光源氏の世界をのぞき見たようでとても楽しかったです。また複製本なのに大変な値段だということにもにも驚かされました!!ぜひ一度借りて手にとって見たいと思いました。
※王朝時代の世界を知る「有職故実」の観点からも楽しめます。
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日: 7月12日(水)10時23分5秒 
  巻物が図書館にあるなんてやっぱり大学の図書館はすごいなぁと思いました。巻物なんてあまり身近で見れるものじゃないので借りてみようかなと思いました。
※図書館の資料は大いに利用してください。
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日: 7月12日(水)10時21分59秒 
  今日、先生が持ってきていた巻物の値段の高さに驚きました!高い=とても重要なものなのだなと思いました。
昔の字は繋がっていて少し読みにくいです。
2000円札のお話をしていたのを聞いてとても懐かしく思いました。今は2000円札を全く見なくなった気がします。
 絵巻物は、昔の文化や風習の全てが絵で描かれていているので見ていてとても面白いと思いました。いつまで見ていても飽きないです。
※絵巻物は繪と詞両方あってその見方そのものが楽しめましょう!是非、多くの資料に目を向けてみてください。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日: 7月12日(水)10時20分43秒 
  こうして「ひ」の文字だけで比べていくと、とても分かりやすいですね!交互に違う種類の文字を使ったり、いろんなところに気を配っているのが伺えます。
『源氏物語絵巻』は國學院大學の図書館で一度だけ見たことがあります。今の私たちでさえ訓練しないと読めないのですから、昔の人は相当教養を身につけてこの巻物を楽しんだんでしょうね。紙も金箔(でしょうか?)を混ぜた美しいものですし、それだけでも楽しめそうです。
今の私たちはなかなか巻物に触れる機会も少ないです。私も今度図書館に行って実際に手にとって見てみようと思います。
※是非、ご利用なさってみてください。
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日本語の連綿連続について 投稿者:CK4143 投稿日: 7月12日(水)10時19分39秒
 こうした研究の仕方があることを初めて知りました。非常に根気のいる作業だと思いました。それにしても、『源氏物語絵巻』の文字は、背景に溶け込んで、けむりのようです。
※文字研究のはじまりとして、書道家や古筆学者がなし得てきた方法を国語学的な見地でみていくことが必要になってきています。

 

 
★☆今後の出席把握は、私のHPの掲示板を使います。☆★
 
 

 
 
 
2006年度日本言語文化研究T&国語史
夏季リポート課題
 
 これまで、日本語の文字表記をもとに言語文化及び日本語史について学習を重ねてきました。このなかで、実際公開されてきている文献資料などを極力図示して、その特徴となる箇所の確認を努めてきています。そして、最終的に現代の私たち学習者が理会するためには、時代ごとのことばの特徴などを明確に比較検証できる文献資料類がこれまた大切なものであることは、学習の段階を深めていくなかでも既にお気づきいただいているかと思います。
 そこで、今夏季課題としては、これまでの文献資料を取り巻く言語環境のなかで特定の人物から不特定多数の人たちへと知的教養を身につけるために編纂され、今日まで継承され続けてきた古辞書及び音義類書などについて、年代を現代、近代、近世、中世、中古そして古代へと幅広く見たところで学習していただきます。これらの研究文献資料名については、ネット上の「伝言板」→「年表I」を開いていただき、「辞書」の項目に掲げた資料名を駆使し、比較対象とする語句を次のなかから基本的には最低、二語句を選択し分析検証をなさってみてください。
 
 ※実際検証のためにその導き參考資料→「匂」&「堰v字攷
                     「わすれぐさ【萱草】とシオン【紫苑】」
 
《比較対象とする語句の一覧》
01「をみなへし【女郎花】」
02「やなぎ【柳】」
03「はなむけ【餞】」
04「しほ【塩・鹽】」
05「あすか【飛鳥】」
06「あじさゐ【紫陽花】」
07「せんす【扇子】」
08「ちゃうちん【提灯】」
09「つゆ【梅雨】」
10「はたご【旅籠】」
11「ゆかた【浴衣】」
12「しにせ【老舗】」
13「ざうり【草鞋】」
14 「せんしゅうばんざい【千秋万歳】」
15「ししやう【師匠】」
16「あさり【求食・漁】」
17「いわう【硫黄】」
18「え【榎】」
19「かきつばた【杜若・燕子花・馬藺・劇草】」
20「をののやまだ【小野山田】」
21「とこなつ【常夏】」
22「むらさき【紫】」
23「てんし【天子】」
24「わ【倭・和】」
25「をののいもこ【小野妹子】」
26「きびのまきび【吉備真備】」
27「さら・す【陵】」
28「やしなひ【養・穀】」
29「せいだん【凄断】」
30「まぼり【瞻】」
31「もの【鬼】」と「おに【鬼】」
32「あしでがき【葦手書】」
33「よみびとしらず【讀人不知】」
34「たなばた【七夕】」
35「ほのか【髴】」
36その他、ご自分が調査してみたいと考えた語句
已上

  夏休みのリポート課題は、このページの最後尾に移動しています。

  リポート提出の締め切りは、九月二七日(水)の午前11:00迄としますので、それまでに一度は、確認のためお見せした上でご提出願います。リポートは手書きの場合は黒色ペン書きとします。また、データ提出の方もデータに紙出しを添えてご提出願います。

 

 

 

 

 

《後期講義内容》

2006.09.20(水)第一限目・教場:4−302

 作庭記』について PDF版

朗報!※昭和13年貴重図書複製会発行(桐箱入り)の複製本である上・下二軸が本学の図書館に入手しました!

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国語史 投稿者:JK5076 投稿日: 9月27日(水)10時17分45秒 
  すいません。。。遅くなりました。
前回の『作庭記』で、原文の見方によって、意味が違ったりしていることに驚きました。
今まで原文を見ず、現代語訳ばかりに頼ってました。
自分じゃ読むことができないからって鵜呑みにしてきました。
でも、それではいけないんだということがわかりました。
たとえ読めなくても、自分で原文を見ることも大切だと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 9月26日(火)21時34分8秒 

  遅くなってしまってすみません。
夏課題と先週の『作庭記』の回のお話を聞いて、古典原本を自分の目で読むことの大切さ面白さがわかりました。人の見方、見落としなどによって写本、訳の書かれ方が異なっていることに気が付かず鵜呑みにしてしまうのは危険ですね。
夏課題で『和漢三才図会』を使用したのですが、物の種類の分類が丁寧にしてあり調べたい言葉もすぐに見つけられ、小さな挿絵も入っていて読んでいると、面白くて、欲しくなってしまいました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 9月26日(火)20時56分58秒 
今回の授業では『作庭記』の影印をもとに、『日本国語大辞典』では、「面くせばみたらむ」と用例のところに載せてあるけれども、「くせばむ」という語を平安後期の時代には使われていなかったので、この解釈は間違っているのではないかということを例にあげ、活字に頼らず自分の目で原書写資料を読み取って確かめることが大切であるということを学習しました。
 私はこの夏、武庫川女子大学の西崎亨先生の講演を聞く機会に恵まれ、そのときに聞いた内容が、今回の授業でおっしゃっていた、「活字に頼るのではなく、影印で見ることの重要性」と同じことだったので、この話と授業を重ね合わせて、その重要性を再確認しました。西崎先生の講演では、夏目漱石の『坊っちゃん』について話してくださいました。その内容を簡潔に書きますと、「この小説の中では「赤シャツ」という教頭の綽名ことばが数カ所用いられているけれども、キヨとの手紙のやり取りのなかでは、「赤しやつ」と書いてあります。なぜかというと、キヨはカタカナが読めずにひらがなしか読めなかったからです。キヨは知識がないことをわざわざ本文で「キヨは知識がない」というように書かずに、ひらがなとカタカナで漱石は表現したのです。活字本では「赤シャツ」はぜんぶカタカナに直されてしまっているので活字で読んだだけではこのことに気付きません。自筆資料で見ることはとても重要なことなのです。」ということでした。私はこのお話しを聞いたとき、本文の意味理解だけでなく、文字一つひとつに気をつけて読まなければいけないのだと気付かされました。私はまだ、影印で連綿のある文字や、行書で書かれた文字など精確に読むことができないので、今後読めるように努力し、文学作品のなかから国語学の楽しさをもっと味わっていきたいと思います。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4148 投稿日: 9月26日(火)20時35分2秒 
 前回、前々回と書き込みをせず、今回もこんなに遅くなってこの内容では何とも悲しい感じがいたしますが、『作庭記』の翻刻を使っての検証がとても面白く、参考になりました。小松英雄著『日本語の歴史 青信号はなぜアオなのか』の中にハ行子音の変遷についての章があり、その中の「20世紀初頭の『P音考』が『現在では定説となっている』としたら、この領域の研究者は90年も、(中略)冬眠を続けていることになるが、その期間に言語学は長足の進歩を遂げている。定説と崇めて祖述する伝統的姿勢が今日の沈滞を招いていることを認識すべきである。」という著者の言葉が思い浮かびました。ここまで激しくなくても、辞書や先行研究を絶対的なものとして「崇め」ず、自分の目で確かめる、自分で考えるという姿勢、習慣を身に付けたいとあらためて思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日: 9月25日(月)18時14分35秒 
 活字に頼ってはいけないということを先生がおっしゃっていましたが、「作庭記」の原文を見て確かにその通りだと思いました!踊り字の読み方ひとつで意味さえ変わってくることに奥深さを感じました!あと9月27日の授業は部活の大会がありますのでお休みします。よろしくお願い致します!  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日: 9月22日(金)09時08分53秒

 『作庭記』について。「子をとろ遊び」の話面白かったです!  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日: 9月20日(水)23時08分26秒 
  「花いちもんめ」の原点が「子をとろ遊び」という名前だということを始めて知りました。平安時代にあった遊びが名前が変わっても、21世紀の今の日本に残っているのはすごいと思います。たとえ遊びであってもしっかりとした歴史というのはあるものなのだと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160 投稿日: 9月20日(水)10時55分29秒 
  遅れてすいません。『作庭記』も今までぜんぜん知りませんでした。奥州の毛越寺がこの本からつくられたということは、藤原三代があ物知りなんだと思いました。  
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日: 9月20日(水)10時34分18秒 
 昔の文献を解読していくのは難しいですが、沢山の発見があって、とても興味が湧きました。
ちゃんと原本を見ることが大事なんだなぁ。。と思いました。
また、一個の平仮名に対して、幾つもの解釈が出来る様に見えてしまうのを読み解くのはとても難しい!と思いました。  
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日本言語文化研究 投稿者:CB6138 投稿日: 9月20日(水)10時25分20秒 
 『作庭記』は様々な読み方がされてるんですね。
『作庭記』に限らないと思いますが。
字がとても崩れているのでどうしてこう読めるのかなとかとても不思議です。
この授業を受けていると日本史を思い出します。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 9月20日(水)10時24分17秒
  原本で読むのは難しいけれど、活字の資料に頼り書かれていることを鵜呑みにしてはいけないなと思いました。
原本で読むことの大切さを感じました。  
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日: 9月20日(水)10時22分45秒 
  昔の文献を解読していくのは難しいが、いろいろな発見がありとても興味深いものであるなぁと思いました。
活字だけに頼るのではなく、原本をきちんと見ることが大切なのだと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日: 9月20日(水)10時19分33秒 
  ほぼ2ヶ月ぶりの授業でしょうか?久しぶりに先生の授業に参加できてうれしかったです!
藤原良経…初めて聞く名前でした。有名人と同じ名前なんて、つらいですね…。
この作庭記という文献も石が並んでいる様子を「子を捕ろ遊び」に例えるなんて、ユーモアがありますね!!こんな意外なところにも文学があるんだなぁと感動しました!!  
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日本言語文化研究T 投稿者:cb6160 投稿日: 9月20日(水)10時16分35秒 
  『作庭記』は日本最古の庭園書で、庭のことばかりを書いているのかと思ったらいろいろな比喩を使っていて、その時代の背景がよくわかる書物でした。先生が説明してくださった、「子をとろ遊び」の説明がとても楽しかったです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CK4143 投稿日: 9月20日(水)10時15分29秒 
  「本文の文字の解釈の違いは、自分の目で確かめる勉強だと思います。今まで訳されたものだけに触れてきましたが、原文も読んでみたくなりました。また、庭石の説明に、「花いちもんめ」の原型が引き合いに出されているのも面白く思います。よく親しんだ遊びだけに、思いがけない登場は嬉しいことです。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日: 9月20日(水)10時12分0秒 
  本日の授業を受けて、『作庭記』を見てみると、「みて」を「えたらん」と読んだりなど、書かれている通りに読まないことがあるので、とても難しいと思いました。字をよく読めなくて昔の人が間違えたんでしょうか?
三枚目に見た字が書いてある写真はとても難しいと思いました。一つのひらがなに対して「て」に見えたり「く」に見えたりなど色々な解釈が出来る様に見えてしまうのを読むのはとても困難だと思いました。  
 
 

 

 

 

2006.09.27(水)第一限目・教場:4−302

 梅沢本『古本説話集』にみる畳字踊り字「/\」 PDF版

 

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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日:10月12日(木)01時20分33秒 編集済 
  大変遅くなりました。9月27日、「梅沢本『古本説話集』にみる畳字踊り字」のコメントです。
 講義資料の中で、参考資料に大島本『源氏物語』の「人なミ/\」と「へたて/\」があげられていましたが、この他にも、
「おとろおとろしき」三七ウ 橋姫
 「人並み/\に」二五ウ 乙女
 「へたて/\」一オ 松風
に踊り字が使われていることを確認しました。
 この中で、「おとろおとろしき」だけが踊り字を使っていないことが気にかかりました。何か手がかりはないかと思い、まず始めに、勉誠社から出版されている影印本の梅沢本『古本説話集』を見てみました。すると、踊り字の所はすべて「/\」の記号が使われていました。『古本説話集』と、『源氏物語』の「おとろおとろしき」を比較してみると、『古本説話集』の「人/\」や、「ます/\」は改行はなくすべて一行の中に書かれているのに対して、「おとろおとろしき」は「おとろ」で改行され、次の行に「おとろ」と書いてあるので一行では書ききれずに改行するときは、踊り字の符号「/\」は使わずに、書くのではないのかと考えました。
 『源氏物語』の「おとろおとろしき」の例は、まだ、一例しか見つけていないので、この規範概念は定め難いので、更に用例を探すことで確乎たる規範性として位置づけることになるかもしれません。『古本説話集』と『源氏物語』とは、いずれも鎌倉中期に転写されたものであり、時代の共通性はありますが、書き手が違うので「踊り字」の書き方にも共通の書記規範があったのかどうかも気になるところです。
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国語史 投稿者:JK5032 投稿日:10月 4日(水)10時29分50秒 
 9月27日分。梅沢本の踊り字についてでしたが、例の中で「うううう」の例がありましたが、踊り字だと省略されていて見やすいが、こうして平仮名でみるとどういう意味かわかりにくいとおもいました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4167 投稿日:10月 3日(火)20時38分58秒    編集済 
 全書の状態が未掲載のものを自分で調べてみました。()印で巻数の表示をしている部分は、先生のプリントに掲載されていた該当巻数とは違っていたので、一応記しておきます。順番は、先生のプリント通りです。
 くやくや→くやくや
 はるばる→めぐり来る春春(上巻第38)
 きらきら→七星きらきらと
 なかなか→なかなか、その後、頭の毛太りて(原書表記・中中とその後かしらの)
 かならずかならず→かならずかならず
 うつぶしうつぶし→俯伏し伏して(ルビ・うつぶしふして)
 うつぶしうつぶし→俯伏し伏したりけるを
 うつぶしうつぶし→俯伏し伏したりけるを
 かはるがはる→かはるがはる
 ほとほと・し→ほとほとしきやうに
 くふくふ→食ふ食ふ(ルビ・くふくふ)
 いつしかいつしか→いつしかいつしか
 いろいろ→いろいろ
 いかにもいかにも→いかにもいかにも
 そよそよ→もののそよそよと
 かつかつ→がつがつと影のように
 ゆさゆさ→ゆさゆさ
 まことまこと→まことまこと
 さはさは→御心地、さはさはとて
 ひとびと→人人喜び
 やれやれ→破れ破れ
 のべのべ→延べ延べ(下巻第66)
 ゆめみんゆめみん→思へど、「例の、夢見ん、夢見ん」とまいりありきけるほどに、(原書表記・思とれいの<中略>とまゐりありけるほどに)
 きらきら→きらきら(下巻第66)
 とくとく→疾く疾く
 そこそこ→そこそこ
 いづちもいづちも→いづちもいづちも
 うつふしうつふし→うつ伏し伏したり
 きやうきやう→軽軽
 ふしてはおきふしてはおき→臥しては起き、臥しては起き
 なぬかなぬか→七日七日
 とりどり→とりどり
 かへすがへす→かへすがへす
 やうやう→やうやう
 はかばか・し→はかばかし
 前後の文も見てみたのですが、「なかなか」と「ゆめみんゆめみん」の文の前後が全書の表記と先生のプリントで示している表記とは違っていたので気になりました。実際に自分で梅沢本古本説話集で確認もしてみたかったのですが、時間がなくなってしまいました。
 実際に自分でこのように確認してみると、翻刻というのはとても大変な作業だということが実感できました。国語学者の中に、自分で翻刻をする時に2回は必ずして確認をするという人がいるのを聞いたことがあります(名前は忘れてしまいましたが・・・)。やはり、私たちが国語学で各種の文献を勉強をしていく際には必ず影印を見て確認する癖をつけなくてはいけない、とういう事が実感できました。先行研究によるものだけを確認するだけではなく、実際に目で写本を確認していかなくては、その文献を「見た」事にならないことが分かりました。今度からじっくり時間をとって、影印も自分で確認したいと思います・・・。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4148 投稿日:10月 3日(火)19時05分17秒    編集済 
 影印や実際の文献で生の資料を見ていますと、翻刻され、活字化された資料とはだいぶ異なることに驚かされます。それは単に崩し字や異体字といったものが現代向けに直されていることだけでなしに、時には解釈の面で重大な違いをもたらすようなものも含まれます。
現代人は翻刻という作業を通して過去の文献を再現(という言葉が適切かどうかはわかりませんが)するわけですが、その再現はあくまで翻刻者個人のものとして区別されるべきものであることを感じました。再現した資料を提示することは勿論、再現される前の「生の」資料も同時に提示しなければ資料としては不十分なものとなるのかも知れません。
 とは言え、現在ある資料の一つ一つも、見ていくと(手間はかかりますが)その時代の研究の到達点を知る上で大変面白いものでありますし、それらを吟味することで翻刻者の体験を追体験でき、非常に勉強になります。
翻刻自体がそれを行った人の一種の文学論であることを思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6114 投稿日: 9月29日(金)10時30分58秒   「踊り字」の違いについて。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日: 9月27日(水)19時21分30秒 
  活字ではない古文を読むのがどれほど難しいかを今日の授業で改めて知らされました。昔の書き方は字が繋がっていてとても見にくく、その上、今とは違う漢字などもあって先生が説明してくれなければ読めない文字ばかりでした。踊り字のことも私は今日始めて知りました。いままで踊り字である「ゝ」「く」を見たことはあったけど使い方や「踊字」という名前であることは知りませんでした。私はもっと古文の知識をつけ、原本を読めるようになりたいです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日: 9月27日(水)10時31分17秒 
 「踊り字」をどう読むかということは、とても大事なことだと思いました。
ともすれば踊り字の部分を意識しないで読み進めてしまうことがあるかもしれないので、気をつけなければいけないと感じました。  
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日: 9月27日(水)10時29分56秒 
  古典の文献を読んでいるとよく踊り字が使われているのが分かります。また、書道でかなを書いているとよく目にしていました。
よく見ていたのに今日初めてこの表記のしかたを「踊り字」と呼ぶことを知りました。
そして古典の文章表現の豊かさと深さを思い知りました。色々な方面・角度からの解釈と分析で小さな発見をし、新たな古典の楽しみを探していきたいと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日: 9月27日(水)10時27分7秒 
 「踊り字」には「ゝ」と「く」があって使い方がちゃんと分かれていることに驚きました。
昔の文献の解釈の仕方で読み方が全く変わってしまうなんてとても複雑だと思います。
現代の「々」は読み方も定着してるし楽だと思いました。
昔の文献は脱字、省略などやはり手書き伝えなところが垣間見えて面白いと思いました。
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日: 9月27日(水)10時24分57秒 
  今日配られた踊り字が書かれているプリントを読むのはとても難しいと思いました。
「うつふし」を読むにしても様々な読み方があるとわかりました。読み方によって解釈が違ってしまうので、ちゃんと読まなければいけないと思いました。
なので踊り字のものは踊り字で書かなければいけないとわかりました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日: 9月27日(水)10時20分7秒 
  今日は踊り字「く」についてのお話でしたが、現代における「々」と同じような役目を果たしているんですね!しかし「々」と違って濁点がついたり読み方が変わったりと、いろいろと複雑なんですね!文章によって「この踊り字はなんというふうに読むのか」というのを研究していくのも面白そうだと思いました。
「テキストデータの作成とそのリスト」、あれだけの文字を打ち込むのはかなりの時間を要したんでしょうね…しかし文章はとても見やすく、これからの授業の参考にもなりそうです!
 
 

 

 

2006.10.04(水)第一限目・教場:4−302

 延慶本『平家物語』について PDF版

 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日:10月12日(木)01時20分33秒 編集済 
 10月4日、「延慶本『平家物語』について」のコメントです。
 『平家物語』には、楽器の音、念仏の声、弓矢の音など多くの「音風景」(サウンドスケープ)が描かれています。「サウンドスケープ」とは、カナダの作曲家・音楽学者のR・マリー・シェーファーさんが提唱した概念で、風の音、虫の音や、鳥のさえずり、車が走る音などの、自然音、人工音を対象とし、「音」という視点から読み解かれた環境風景です。聞き手は「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり・・・」という聴覚的な表現を聞いて、鐘の音を想定し、その余韻に浸りながら平家の盛衰の物語に入っていくというのもサウンドスケープの一つです。このように音が鳴り響いている「音風景」が用いられることで物語により現実味が沸いてくるので、「音風景」は物語を引き立たせる重要な役割を果たしています。
 次に『平家物語』の冒頭部分、「祇園精舎の鐘の声」の中の「鐘の声」について考えてみたいと思います。どうして筆者は「鐘の音」ではなく「鐘の声」としたのか心に引っかかったので調べてみました。
 日本国語大辞典』第二版に、
おと【音・声・響】[名]@広義には、聴覚で感ずる感覚全般。狭義には、生物(有機物)の「こえ」以外の物理的音声。イ 水・風・波などの自然現象や、楫(かじ)などの無生(無情)物の発する音響。衝撃。摩擦によるひびき。楽器でも古くは特に、鈴、鐘、鼓など打楽器の音声に偏って使われる傾向がある。後には、生物の声以外の物理的音声すべてをさす。*『万葉集』(8c)一七・四〇〇三「立つ霧の思ひ過さず行く水の於等(オト)聞こゆ可牟思太(かむしだ)の殿の仲子(なかち)し鳥狩(とがり)すらしも〈東歌〉」
 
こえ【声】[名]A物が振動しておきる音。イ 琴、笛などの楽器や鐘、鈴の音。また、それらの合奏の音。楽音(がくおん)。がくのね。音楽。*『日本書紀』(720)雄略八年二月(前田本訓)「高麗の王、即ち軍兵を発して、築足流城(つくそくろさし)に屯聚(いは)む。〈略〉遂に歌舞して音(コヱ)を興す」
とあります。
 「音」と「声」を全体的に見ると、前者は@感覚全般。A人の気配。B評判。Cたより、という意味があるのに対して後者は、@人や動物が発音器官を使って出す音。A者が振動しておきる音。B発音の具合。C曲調。D漢字の音。E神・魂などが人に告げることば。F人々の表立たない意見。G季節や月、またある状態の、それとわかるような感じ。というように、「音」よりも「声」の方が多くの意味を持ち合わせていて広がりがあり、また、用例数も多く書かれています。
 次に、「音」と「声」の使われている箇所を数箇所ずつ抜き出しました。
 
「音」
  *『万葉集』(8c)
   「立つ霧の思ひ過ごさず行く水の於等(オト)もさやけく万代(よろづよ)に云ひ続ぎ行かむ川し絶えずは〈大伴 池主〉」
  *『古今集』
   「もみぢせぬときはの山は吹くかぜのをとにや秋をききわたる覧〈紀 淑望〉」
 
「声」
  *『万葉集』(8c後)
   「梅の花の今盛りなり百鳥の己恵(コヱ)の恋(こほ)しき春きたるらし」
  *『源氏物語』帚木
   「律のしらべは、女のものやはらかにかき鳴らして簾のうちより聞こえたるも今めきたる物のこゑなれば」
  *『徒然草』第二百二十段
  凡(オヨ)そ、鐘の聲ハわうしきてう(黄鐘調)なるべし。是(これ)、無常の調子、祇薗 精舎(ギヲンシヤウジヤ)の無常院(ムジヤウイン)乃聲也(なり)。西園寺(サイヲンジ)乃 鐘、わうしきてう(黄鐘調)にい(鋳)らるべしとて、あまた(数多)たひ(度)い(鋳)かへら れけれ共(ども)、かな(叶)ハざりけるを、遠国(ヲンゴク)より尋ねいだ(出)されけり。 浄金剛(ジヤウコンガウ)院の鐘のこゑ、又(また)わうしきてう(黄鐘調)なり。
 
 このように見てみると「音」は、水の音、風の音など普段の生活のなかでさりげなく聞こえてくる音、「声」は百鳥の声、鐘の声など耳を澄ませて聞こえてくる音として用いられているのではないでしょうか。よって、「声」は耳に響き渡る美的な音として使われるのではないかと思いました。
 勉強不足で根拠もままならず考えがよくまとまっていないのですが、自分なりに書いてみました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日:10月11日(水)09時12分43秒 
  遅れてごめんなさい、10月4日の分です。
今まで古文などで取り上げてきた『平家物語』ですが、実際に語りを聞いたのは初めてでした!ずいぶんとゆったりとした語りで、今の時代にはない癒しがありました。
当然人が書き写すときには多少の誤りは生じるものであり、もとの文を追究していくのは大変なものだと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CK6165 投稿日:10月11日(水)09時06分29秒 
   遅れて申し訳ないです。平家物語は有名すぎて、いろいろな人が研究していてそれによって違いがあることを初めて知りました。そのいろいろな資料を読み比べてみたいと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4167 投稿日:10月10日(火)20時57分23秒 
 右訓と左訓の違いについて出来るだけ調べてみたのですが、まだまだ不足しています。
 『国語学研究事典』で訓の項目を引いてみたところ、【訓の表示】の欄に「文脈を離れた辞書的な訓と文脈に即した訓とを右と左にあわせ示す習慣も、訓中、振り仮名の双方に見られる。<中略>(古本節用集のように)主たるものを右、従たるものを左に示す形が成立していった」と書いてありました。
 勉誠社の『延慶本平家物語』の第二本(P.282)の4行目に
 茶(右訓ダ/左訓ヤウヤク)-昭(右訓ゼウ/左訓ハルカ)という振り仮名が振ってあったのですが、これは「ダ-ゼウ」が辞書的な訓で「ヤウヤク-ハルカ」というのが文脈に即した読みということになります。
 しかし、先生がプリントで示していた「況(左訓イワンヤ)のようなものの意味が結局よく分からなかったです。(右と左で対応していなくても、左訓を記しているだけで文脈が通るから良い、ということなのでしょうか?)
 『国語学研究事典』では遠藤嘉基さんが『日本霊異記』で左右訓について研究しているそうなので、これから本を探して読んでみたいと思います。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日:10月10日(火)10時23分43秒 
  私は課外ゼミで『平家物語』を勉強しています。これから、具体的に読み解いていくのですが、先生のプリントやお話を参考に学習していきたいと思います。 
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日:10月 6日(金)09時15分17秒   『平家物語』について。  
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国語史 投稿者:JK5031 投稿日:10月 5日(木)20時32分16秒 
  盲人の平曲演奏家がいることや、女性の語り手がいることを初めて知り、同時にびっくりした。また、線の位置で読み方を指示しているのには、感心した。四カ所からの鐘の音を聴いてみたい。  
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日本言語文化基礎 投稿者:ck6081 投稿日:10月 5日(木)10時30分3秒 
  角筆はすごいですね。昔からカンペがあったのには「人って考えること変わんないな〜」と思いました(笑)書道博物館ぜひ行ってみたいです!漢字って勉強すればするほどおもしろくなりますね。  
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日本言語文化研究 投稿者:cb6157 投稿日:10月 5日(木)10時28分39秒 
  日本人が初めて漢字を受け入れた時の字書と現代の辞書とでは言葉のイメージや意味が変わってきているんだろうと思いました。見比べてみたら面白そうです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日:10月 4日(水)20時51分29秒 
  延慶本『平家物語』を今もなおたくさんの方々が研究していることがすごいと思いました。21世紀になった今でも昔のことを解明するのは難しいのですね。あと今日先生が国という字の成り立ちについて教えてくれて、現在私たちが使っている「国」という字はもともとは違い、本来の「くに」という文字に「武」の字を取り入れたものであると聞いて驚きました。この字の意味を考えると平和を掲げる日本に「武」を取り入れたこの「国」という文字を使うことはおかしいですね。
あと先週ここに書いた授業の感想が伝言板に載せられていないので欠席扱いになっていないか心配です。  
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日:10月 4日(水)10時31分9秒 
 『平家物語』は有名な本だからこそ、いろいろな人が書記している。
語の表記の違いや、間違えはたくさんの本を照らし合わせながら読まないと気づかないだろうと思った。
古書は比較・検討しながら読むことが正しい知識と多くの発見に繋がるのだと感じた。 
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国語史 投稿者:jk5122 投稿日:10月 4日(水)10時25分56秒 
 『平家物語』はいろいろな人々の勘違いなどによって元の文章から変わってきてしまったことがわかりました。
また、「祇園……」の歌を考えるのに年月がとてもかかりすぎだと思いました。
私なら、いくら暇な時間が沢山あったとしてもそのようなことはしないと思いました。 
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日本言語文化研究 投稿者:ck4143 投稿日:10月 4日(水)10時03分37秒 
 平曲は現代人の耳には聞き取りにくくもありますが、不思議な節回しで面白かったです。四方からの鐘の音も聴いてみたいです。最高の贅沢ですね。 
 
 
 
 
 

2006.10.11(水)第一限目・教場:4−302

 鴨長明自筆『方丈記』について PDF版
 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日:10月25日(水)01時30分50秒    編集済 
   先々週、十月十一日の「鴨長明自筆本『方丈記』について」のコメントです。
 「馬」を和訓読みするのに「ウマ」と「ムマ」との二つの表記法について始めに辞書に載っている内容を示します。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ウマ浮雲。〔黒川本・動物中48オ二〕

ウマ〔卷第五・動物158二〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、三卷本」の語注記には、「浮雲」と記載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)に、

胡馬(ウマ) 二字共也。然ルニ日本人呼之一字胡馬也。似キニ歟。馬多出於北胡ヨリ胡馬胡馬嘶(イハウ)北風越鳥巣(スクフ)南枝〔氣形門61六〕

とあって、標記語「胡馬」の語をもって収載する。次に広本節用集』には、

胡馬(ウマ)ナンソ・ヱビス,ムマ[平・上]。略云馬也。胡馬二字(トモ)唐音也。然ルヲ日本俗呼(ヨン)馬之一字。曰胡馬。似其理歟。馬多出於北胡ヨリ。故云――也。句云胡馬嘶(イハウ)北風。越鳥巣(スクウ)南枝()周礼凡馬八尺以上龍。七尺以上為。六尺以下為馬。又春秋馬祖天。夏先牧。冬馬歩。異名《省略》〔氣形門473八〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、語注記を記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

胡馬(ウマ) 二字共唐音也。叫馬一字曰――似無其理馬多出北胡ヨリ・財宝149四〕

とあって、標記語「胡馬」の語をもって収載し、語注記を記載する。また、易林本節用集』には、

胡馬(ウマ)〔器財117四〕

とあって、標記語「胡馬」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書には「胡馬」の語をもって収載するものである。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vma.むま(馬) 馬.例《略》〔邦訳691l〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味は「馬」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

むま(名)【】うま(馬)に同じ。*萬葉集、廿4372長歌「不破の關、越えてわは行く、牟麻の爪、筑紫のさきに、ちまり居て」〔1974-3〕

うま(名)【】(一){牧に飼ひ、家に畜ひて、人、物を載せ、又、車を牽く等、最も用ある獸、人の知る所なり。面長くして、鬣(たてがみ)あり、蹄圓くして、底凹(くぼ)めり、尾の長さ、身の高さに等し、前齒は、上下、各、六枚あり、老ゆるに従ひて摩滅す、これを見て老少を知るべし。毛の色、種種にして、名目、多し。高さ四尺以下を駒とし、四尺以上は、寸(き)を以て計り、八寸に餘るを、長(たけ)に餘るとす。*推古記、二十年正月、長歌「宇摩ならば、日向(ひむか)の駒」(二){雙六(すごろく)の賽。(三)物の、常に異なりて、大きなるものの稱。「うま蛭」うまうど」うま芹」〔0253-3〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「うま【馬】〔名〕(「馬」の字音「マ」の転じたものという。平安以降、「むま」と表記した例が多い)@ウマ科の家畜。体高一・二〜一・七bぐらい。首は長く、まえがみとたてがみがあり、尾は長毛で覆われ、草食性で臼歯(きゆうし)が発達している。体毛は褐色、黒色、赤褐色、白色などで、古くから鹿毛(かげ)、青毛、栗毛、葦毛(あしげ)などと呼ばれる。ヨーロッパ、アジアの原産で、世界各地で家畜として飼育。品種はアラブ、サラブレッドなど数十種あり、日本産のものでは、南部馬、三春馬(みはるま)、最上馬、仙台馬などが知られていたが、現在なお、在来種の面影を保っているのは、木曾馬、御崎馬(みさきうま)などだけである。農耕、運搬、乗馬、競馬などに用いられるほか、肉は食用、皮は革製品にされる。こま。学名はEquuscaballusA(座興、または芝居として)馬のまねごとをすること。また、その役。B馬をかたどったり、馬の名称を用いたりした玩具。木馬などをはじめ、その種類はきわめて多い。ロ踏み台や脚立の俗称。ハ体操用具の一つで鞍馬(あんば)のこと。ニすごろくのこま。C紋所の名称の一つ。馬にかたどもの。放馬(はなれうま)、覇馬(つなぎうま)などがある。D馬に似ていたり、馬を連想させたりするもの。イ(馬のように大きという意から)姿や形が大きすぎるもの。ロ大きな男根、また、その所有者をいう隠語。ハ遊女。ニ(馬の腹帶に似ているところから)月経時に用いる丁字形の帶。転じて、月経。おうま。E遊女屋、料理屋などで、勘定不足または不払いの代金を取り立てるために客について行く者。つけうま。つきうま。F「うまおい(馬追)」の略。G競馬(けいば)をいう。H教習中の巡査をいう、盗人仲間の隠語。」とあって、『庭訓往来』の語を未記載にする。

[ことばの実際]

敝胡之尓(クヘゴシニ) 武藝波武古宇馬(ムギハムコウマノ) 波都々々尓(ハツハツニ) 安比見之児良之(アヒミシコラシ) 安夜尓可奈思母(アヤニカナシモ)/或本哥曰、宇麻勢胡之(ウマセゴシ) 牟伎波武古麻能(ムギハムコマノ) 波都々々尓(ハツハツニ) 仁必波太布礼思(ニヒハダフレシ) 古呂之可奈思母(コロシカナシモ)《西本願寺本『万葉集』卷十四3537》

                     ことばの溜池「馬」(2002.11.28)から引用。
 
 次に、鎌倉時代に書写された文献資料を見ることで、その時代の訓読方法が見えてくると思ったので、『方丈記』と同じ鎌倉時代に写された、仙覚書写の西本願寺本『万葉集』をもとに「馬」の読み方を調べてみました。私が行った手順として、まず、『万葉集総索引』を引き、次に活字本よりもルビの振り方、表記法に関して信用性の高い西本願寺本『万葉集』で「馬」の表記を調べました。以下に西本願寺本『万葉集』に見られる「馬」の訓み方を記載します。
 
巻一
4馬(マ)
49馬(ウマ)
巻二
164馬(ウマ)
巻三
239馬(ウマ)
263馬(ウマ)
365馬(ウマ)
巻四
715馬(ウマ)
巻六
947[題詞](過<敏馬>(ルビなし)浦時山部宿祢赤人作歌一首[并短歌])反歌一首
948[原文]真葛延 春日之山者 打靡 春去徃跡 山上丹 霞田名引 高圓尓 鴬鳴沼 物部乃 八十 友能<壮>者 折<木>四哭之 来継<比日 如>此續 常丹有脊者 友名目而 遊物尾 馬(ウマ) 名目而 徃益里乎 待難丹 吾為春乎 决巻毛 綾尓恐 言巻毛 湯々敷有跡 豫 兼而知者 千鳥 鳴 其佐保川丹 石二生 菅根取而 之努布草 解除而益乎 徃水丹 潔而益乎 天皇之 御命恐  百礒城之 大宮人之 玉桙之 道毛不出 戀比日
957[題詞]冬十一月大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述作懐歌 / 帥大伴卿歌 一首
958[題詞](冬十一月大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述作懐歌)大貳小野 老朝臣歌一首
959[題詞](冬十一月大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述作懐歌)豊前守宇 努首男人歌一首
962[題詞]天平二年庚午勅遣<擢>駿馬使大伴道足宿祢時歌一首
1002[原文]馬(マ)之歩 押止駐余 住吉之 岸乃黄土 尓保比而将去
1019[原文]石上 振乃尊者 弱女乃 或尓縁而 馬(ウマ)自物 縄取附 肉自物 弓笶圍而 王 命恐 天離 夷部尓退 古衣 又打山従 還来奴香聞
1047[原文]八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿 礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之 成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火 賀<す>丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男<壮>鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳 住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思<煎>敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大 宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥 乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬(ウマ)裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類 香聞
巻七
1104馬(ウマ)
1148馬(ウマ)
1153馬(ウマ)
1191馬(ウマ)
1192馬(ウマ)
1289馬(ウマ)
巻九
1708馬(ウマ)
1720馬(ウマ)
巻十
2103蕭(ウマ)
2201馬(ウマ)
巻十一
2421馬(ウマ)
2425馬(ウマ)
2512馬(ウマ)
2653馬(ウマ)
2654馬(ウマ)
巻十二
3097駐馬(右訓 コマトメテ)(左訓 ムマトメテ)ゝ(右訓 コマ)(左訓 ムマ
巻十三
3327馬(ウマ)
3328馬(ウマ)
3314馬(ウマ)
3317馬(ウマ)
3382[原文]宇麻(ウマ)具多能 祢呂乃佐左葉能 都由思母能 奴礼弖和伎奈婆 汝者故布婆曽毛
3383[原文]宇麻(ウマ)具多能 祢呂尓可久里為 可久太尓毛 久尓乃登保可婆 奈我目保里勢牟
3439[原文]須受我祢乃 波由馬宇馬(ウマ)夜能 都追美井乃 美都乎多麻倍奈 伊毛我多太手欲
3537[原文]久敝胡之尓(クヘゴシニ) 武藝波武古宇馬(ムギハムコウマノ) 波都々々尓(ハツハツニ) 安比見之児良之(アヒミシコラシ) 安夜尓可奈思母(アヤニカナシモ)/或本哥曰、宇麻勢胡之(ウマセゴシ) 牟伎波武古麻能(ムギハムコマノ) 波都々々尓(ハツハツニ) 仁必波太布礼思(ニヒハダフレシ) 古呂之可奈思母(コロシカナシモ)
3538[題詞]宇麻(ウマ)
3538[原文]比呂波之乎 宇馬(ウマ)古思我祢弖 己許呂能未 伊母我理夜里弖 和波己許尓思天
巻十六
3846[原文]法師等之 鬚乃剃杭 馬(ウマ)繋 痛勿引曽 僧半甘
3886[原文]忍照八 難波乃小江尓 廬作 難麻理弖居 葦河尓乎 王召跡 何為牟尓 吾乎召良米 夜 明久 <吾>知事乎 歌人跡 和乎召良米夜 笛吹跡 和乎召良米夜 琴引跡 和乎召良米夜  彼<此>毛 <命>受牟跡 今日々々跡 飛鳥尓到 雖<置> <々>勿尓到雖不策 都久怒尓到 東 中 門由 参納来弖 命受例婆 馬(ウマ)尓己曽 布毛太志可久物 牛尓己曽 鼻縄波久例 足引 乃 此片山乃 毛武尓礼乎 五百枝波伎垂 天光夜 日乃異尓干 佐比豆留夜 辛碓尓舂 庭立 <手>碓子尓舂 忍光八 難波乃小江乃 始垂乎 辛久垂来弖 陶人乃 所作龜乎 今日徃 明日取 持来 吾目良尓 塩と給 <セ>賞毛 <セ賞毛>
巻十七
3954馬(マ)
3957馬(ウマ)
3991宇麻(ウマ)
3993宇麻(ウマ)
巻十八
4083宇麻(ウマ)
巻十九
4206 之夫多尓乎指而吾行此濱尓月夜安伎弖牟(シフタニヲサシテワカユクコノハマニツキヨアキテム)(ムマ)之末時停息(シマシトメヨ) 江家
4249馬(ウマ)
4122宇麻(ウマ)
巻二十
4494水鳥乃可毛羽能伊呂乃青馬(アヲウマ)乎家布美流比等波可藝利奈之等之等伊布
 
 この調査結果として、「宇馬」、「馬麻」、「馬」の三表記があり、「ウマ」と「ムマ」という訓読表記がありました。『万葉集』は、奈良時代に成立した歌集だと言われているので、この時代であれば、m音表記の「ムマ」と表記するのが通例なのですが、その多くは「ウマ」と表記されていました。ただし、「ムマ」と表記された箇所は、20巻中、巻十二に2例と1巻十九に1例の総計3例しか見られず、残りすべては「ウマ」の表記例でした。『万葉集』の古写本は鎌倉時代に書写された西本願寺本が現在刊行されている活字本である岩波の新大系の底本として用いられています。この両用の表記に気づく機会となったことに感謝します。上田英夫著『万葉集訓点の史的研究』(塙書房)等を利用して、字母「ウ」の漢字を確認しておくことも大切だと思います。諸本の書き様を考察することも今後の調査課題です。  
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6060 投稿日:10月18日(水)15時53分32秒 
  少し授業のメインの話とは違いますが、熊本城は石を一つ抜くと城が崩れるとか、抜け道ができるとかの話が面白かったです。まるで忍者屋敷のように思えました。そしてそれを作った技術者たちは島原の乱で皆いなくなってしまい、21世紀になった今でも解明することができない、と聞いて昔の技術者はもしかしたら今の技術者よりも凄いのかもしれないと思いました。                   
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日本言語文化研究T 投稿者:cb6160 投稿日:10月18日(水)10時32分44秒 
  なぜ「を」が、「ほ」になってしまったのかがとても不思議です。
それにしても、これだけ有名な書物だと、本当にたくさんの人が現代語に訳したり、研究したりしているのだと驚きました。  
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日:10月18日(水)10時30分31秒 
  今わたしたちが使っている古語はどこから生まれ、どのような変化を遂げ現代に伝わっていったのか・・・。夏休みに調べた言葉以外にも調べてみたらたくさんの発見があるんだろうなぁと思いました。  
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日:10月18日(水)10時23分11秒 
  10月11日の分です。
現代の、カナの「タ」と漢字の「夕」は似ていたるけれども、周りの文の流れなどですぐにわかるが、昔の文は、周りの文を読むのも難しいし、どっちの意味の語かわからないことまであるので、さらに難しく感じました。
1つ1つをきちんと目で見て、理解することが大切だと思いました。
また、狼の話はすごく衝撃的でした。
やはり、日本の古文は難しい事ばかりだと感じました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:10月18日(水)10時19分43秒 
  写本によって文字の書き方に違いがあるんですね。
旧字体と新字体を両方使い、書き分けているのもとても興味深いです。
俗字での表記や“未曾有”を“未曽”とあらわしているのも面白いと思います。
徒然草は高校の授業でかじった程度なので機会があれば原本も除いてみようと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日:10月18日(水)09時13分47秒 
  11日の分です。
やはり現代でも昔でも「夕(ゆう)」と「タ(た)」の見分けは難しいですね。古い文献を読むのには相当な訓練が要るのだと改めて実感しました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日:10月18日(水)08時10分40秒 
  遅くなってすみません。
自筆本が未だに残っていることに驚きました。
こういったものををそのまま後世に残しておけるよう
今の人が努力していかなければならないな、と思いました。  
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国語史 投稿者:JK5076 投稿日:10月18日(水)01時21分16秒 
  11日の分です。
やっぱり昔の文字を読むのは相当難しいんだなぁと改めて思いました。
現代は、カナの「タ」と漢字の「夕」は似ているが、周りの文や流れですぐにわかるが、昔の文では、周りの文を読むのも難しいのに、どっちの意味の字かわからない字まであると、さらに難しく感じました。文字の1つ1つをきちんと目で見ることが大切だと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日:10月15日(日)19時28分11秒 
  11日分です。鴨長明の『方丈記』は一度読んでみたいと思っていたのですが、漢字の一部を取り出して当てているとか、語頭のマを落とすといった特徴的な部分、「世」を違う書き方で書いていることなどを含め、やはり活字との差異は尽きないものなのですね。(カタカナの「タ」と「ゆうべ【夕】」との区別は原本でも難しそうです…)  
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck6133 投稿日:10月14日(土)13時46分3秒 
  判別しにくい文字を区別するときは前後の文脈に合うか検証して読み解かなければならないと思いました。あと古体字の漢字表記がが簡単にわかるものと、何の漢字なのか判断しにくいものがあり、慣れが必要だと思いました。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日:10月14日(土)12時13分16秒 
  10月11日の授業について。
狼の話はとても衝撃的でした。考えるだけで恐いです。
またいつも授業を受けるたびに思っているのですが昔の方が書いた文字というのは難しいし、私たちには全く分からないのが沢山あるのだなと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日:10月14日(土)11時25分12秒 
  昔の人が書いた文字は区別がしにくく難しいなと思いました。  
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国語史 投稿者:JK5031 投稿日:10月13日(金)23時39分2秒 
  カナの「タ」なのか、漢字の「夕」なのか区別するのが大変だった。跳ねや、止めなどを一つ一つ比べて見ないとだめだ。 
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6060 投稿日:10月11日(水)16時25分19秒 
  いつも昔の文字を見るたびに思っていますが、やっぱり昔の人が書いた文字というのは難しいですね。特に今日一番難しいと思ったのは「タ(た)」と「夕(ゆう)」です。普通に読んでいても難しいのにさらにこのような似た字を区別しなければいけないというのは大変だと思いました。また、今と違って昔は、同じ文字なのに2つも書き方がありすごいと思いました。「京」という文字はなんとなく分かるけど、「ホ」の二つ目の文字などは読むのがすごく難しく感じました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日:10月11日(水)10時30分51秒
  同じ書記者なのに、2通りの表記で書かれているなんておもしろいなと思いました。
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:10月11日(水)10時23分51秒 
  かの有名な方丈記ですが表記には結構疑問な点も多いんだなと思いました。
「ま」を抜かしたり、昔に送り仮名をつけたり。
また、「せ」の表記にも種類があるのも不思議で仕方ないです。
止めやはらいでカタカナと漢字を区別するなんですごいと思いました。
先生がおっしゃっていた字ですが、私も降り仮名はないように思えました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cb6160 投稿日:10月11日(水)10時08分36秒 
  「ト」や「キ」を抜かすのならまだわかるけど、あの有名な鴨長明が「マ」を抜かす癖があるなんて!!とても面白いなあと思いました。わざと面白くするために「まぬけ」にしたのでしょうか??  
 
 

 

 

 
《過去の連絡事項一覧》
 小林芳規博士「中世片仮名文の国語史的研究」〔広島大学文学部紀要卷三〇(特輯3)一九七一年三月刊〕は、 本学図書館レファレンスカウンターに[図書番号810.2-105]に授業参考資料として設置されていますので是非ご利用閲覧願います。
 
 2006年11月13日(月)13:00〜 
広島大学国際学術シンポジューム 広島大学大学院文学研究科主催広島大学図書館共催のSTYLUS「角筆(かくひつ)」文献のみちびく世界―研究の現状と課題―に関する研究会が予定されています。
  13:00〜 位藤邦生〔趣旨説明〕
13:10〜 講演
 小林芳規〔広島大学名誉教授・徳島文理大学教授〕日本における角筆文献研究の現状と課題
 南 豊鉉〔韓国檀国大学校名誉教授〕 韓国における角筆文献研究の現状と課題
 Dr.Andreas Nyevergelt〔スイスチュリヒ大学専門研究員〕 中世ヨーロッパにおける、尖筆によって書き込まれた注釈類のフェノメノン(諸現象)
15:10 休憩
15:25 討論
16:10〜 事例研究
 松本光隆〔文学研究科教授〕 広島大学角筆研究室蔵角筆文献の国語学的研究
 藤川功和(よしかず)〔広島大学図書館助手〕 広島大学図書館の角筆文献
総合司会 位藤邦生〔文学研究科教授・図書館長〕
場 所 広島大学中央図書館ライブラリィホール
問合先 739-8522 東広島市鏡山1−2−3 広島大学大学院文学研究科
電話082-424-6604
 
紀田順一郎著『日本の書物』が勉誠出版から10月に最新版として刊行されています。これに伴い、産経新聞(11月21日付)「文化欄」に大きく紹介されました。
 また、2006年12月16日(土)15時00分から17時00分(開場14時45分)東京堂書店にて『日本の書物』刊行を記念し、紀田順一郎先生の講演会が行われます!
 本日、講演を拝聴してきました。詳細は後日記載します。

 

 

 

 

2006.11.29(水)第一限目・教場:4−302

  松尾芭蕉『奥の細道PDF版

 

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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日:12月11日(月)21時48分41秒 

「松尾芭蕉『奥の細道』」のコメントです。
 安田女子大学大学院、赤羽学先生の研究発表資料「天茄の正体」の中で『奥の細道』に、「秋すゞし手毎にむけや瓜天茄」という記述があり、この「天茄」について書かれています。「天茄」は和刻本寛永一四年版『本草網目』巻之十六目録草部濕草図に、
龍葵/天茄
とあり、
和刻本寛永一四年版『本草網目』巻之十六、本文には、
龍葵,唐本/草,(左訓、コナスヒ、ホフツキ)
とあります。このことから天茄は、コナスヒ、ホフツキと同じであることがわかります。
 『日本国語大辞典』第二版には、
こなすび【小茄子】〔名〕
@小さな茄子。*日葡辞書(1603-04)
A植物「いぬほおずき(犬酸漿)」の異名。*本草和名
〈以下略〉
てんか【天茄】『日国』未収載。『大言海』未収載。
てんか【天瓜】〔名〕「きからすうり」(黄烏瓜)の異名。
てんか【甜瓜】〔名〕植物「まくわりうり」(真桑瓜)の漢名。
上記にあげた
【天瓜】、【甜瓜】の語は見えますが、コナスヒ、ホフツキの意味とは異なっています。
ほおずき【酸漿・鬼灯】
@ナス科の多年草。ふつう観賞用に人家に栽培される。高さ四〇〜九〇センチメートル。葉茎がある。葉には長柄があり葉身は卵状楕円形で縁に大きな鋸歯(しょし)がある。長さ五〜一二センチメートル。初夏、先が浅く五裂したさかずき形の小さな花が下向きに咲く。花は淡黄白色で中心部は緑色。果実は球形で袋状の萼(がく)に包まれて赤く熟す。〈以下略〉
なす【茄子・茄】〔名〕(なすびの変化したもの)@ナス科の一年草。インド原産で、重要な果菜として古くから栽培される。〈以下略〉*大上婁臈御名之事(16C前か)
なすび【茄子・茄】〔名〕@「なす(茄子)@」に同じ。*本名和名(918頃)
うりてんか【瓜天茄】『日国』未収載
うりなすび【うり茄子】『日国』未収載
  写本では「瓜天茄」あるところを、西村本では「瓜茄子」と直して書いています。「天茄」は『日国』に未収載で、「瓜天茄」、「瓜茄子」という語も『日国』初版・第二版では未収載です。なので、「瓜+天茄」、「瓜+茄子」であるのかと思います。「天茄」は、「こなすび、いぬほおずき」のことですが、後に書き換えられた「瓜茄子」にはナスという意味だけで、ほおずきという意味はありません。となれば、「瓜天茄」=(ほおずき)が「瓜茄子」=(ナス)に書き換えられたことになります。これがどうして置き換えられたのか深く調べられませんでした。現在、「ほうずき【酸漿・鬼灯】」は食用というより、観賞・愛玩用の植物といえますが、本は食用として供せられていたことを忘れていったことにその要因があるやもしれません。
 次に、「ナス」について書かれている、武光誠著『歴史から生まれた日本語語源詮索辞典』〔創拓社、一九九二年刊〕を転用して載せておきます。
  ナスは平安時代に日本に伝わり、急速に広まりました。初めは夏に採れるので「夏実(なつみ)」といい、それが訛って「なすび」になり、やがて「なす」変わりました。「なすび」を「なす」といったのは室町時代の宮廷の女官たちでした。そう考えてみると「なすび」や「おなすび」は下品に聞こえますが、「おなす」というと優雅に聞こえます。また、「秋なすは嫁に食わすな」という諺は、中世の『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』の、
  秋なすび、わささ(新酒)のかすにつけまぜて
  嫁にはくわじ棚におくとも
という和歌に基づいており、ここではナスの粕漬けを美味として扱っています。この時代にはナスが貴重でしたが、江戸時代になると安価になり、誰でも気軽に食べられるようになり、茄子はインドを原産とし、平安時代に日本に伝わり、急速に広まりました。
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日:12月 6日(水)10時06分2秒 
  11月29日の分です。
松尾芭蕉の『奥の細道』は、習った事がありましたが、自筆本が見つかったのは知りませんでした。また、凄い!とも思いました。改めて奥が深くて本当にすごいものだなぁと感じました。「道」をあえて「路」と使ったり、「漢字」を「平仮名」に直したり、「平仮名」を「漢字」に直したりするなど、細かい所にまで松尾芭蕉のこだわりがあったんだなと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日:12月 6日(水)09時22分26秒 
  11月29日の分です。遅れてしまってごめんなさい。
ゆっくりと歩きながら句を詠んで旅をする生活なんて、さぞかし楽しかったんでしょうね。うちの祖母が奥の細道の大ファンなので是非聞かせてあげたかった授業でした。
漢字の使い分けも細かくされていて、芭蕉は自分の作品にかなりこだわりを持っていたんだと知ることができました。  
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国語史 投稿者:JK5076 投稿日:12月 6日(水)02時55分11秒 

  11月29日の分です。
芭蕉の『奥の細道』は、教科書で習って、すごいものというのはわかってたけど、改めて奥が深くて本当にすごいものだなぁと感じました。「道」という字をあえて「路」という字を使うなど、細かいところまで考えていたんだなと思いました。
芭蕉の歩いた路と同じところを歩くなどよく聞く話だけど、一度私もじっくり芭蕉の歩いた路を見てみたいと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日:12月 5日(火)22時39分27秒 
  「えんぴつで奥の細道」は以前、本屋で見かけて、おもしろそうだなと思い手にとってみたことがあります。今回の授業でまた興味が出てきて、こんど挑戦してみようかなと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日:12月 4日(月)10時32分37秒
  先週分です。『奥の細道』では、曾良が写したものを芭蕉自身が漢字を仮名にしたり、別の漢字ににしたりと、補筆・添削をしていますが、地の分に対してここまでこだわっていたなんて資料をみるまで深く考えたことがありませんでした。彼の文字への意識の強さには尊敬します。 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日:12月 2日(土)18時16分0秒 
  芭蕉と曾良の関係は深いものだと感じました。「行春や鳥啼魚の目は泪」の俳句は耳に残るし風情が感じられます。芭蕉の歩いた路(この漢字をあえて使います!)を歩いてみると現代人が忘れている何かが見つかるのではないでしょうか!私は、自然の大切さだと思います。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日:12月 2日(土)11時38分11秒 
  奥の細道は奥深いなと思いました。  
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国語史 投稿者:JK5031 投稿日:12月 1日(金)23時07分11秒 
  芭蕉が「しま」字を、細かく、意味を考え、三つに区別をしていたのには感心した。
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160 投稿日:12月 1日(金)16時04分53秒 
  奥の細道にはたくさんのサイドストーリーがあるんだな、と思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6060 投稿日:11月30日(木)23時02分49秒 
  『奥の細道』で詠まれている場所を写真で見ましたが三百年以上たった今でも趣があり、とてもきれいでした。こんなすばらしい場所をたくさん見つけた芭蕉はすごいと思います。そして『奥の細道』で詠まれた場所にはどこも句碑があり、改めて芭蕉は偉大だと思いました。
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:11月29日(水)10時26分47秒 
  今は普通に書いている道という字を昔は路と書いていた理由も知ることができてよかったです。
芭蕉は忍者であったという説がありますが、こんなにいろいろなところを回ったのだから本当なのかもしれないなと改めておもいました。
芭蕉の句を読んでいると自然と頭に風景が浮かんでくるのは不思議ですね。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日:11月29日(水)10時24分9秒 
  『奥の細道』は昔読んだことがあったので懐かしく思いました。『奥の細道』自筆本が見つかったのは凄いと思いました。利牛さんという人の文を芭蕉さんがまた新たに直したのは初めて知りました。「道→路」にしたり、漢字を平仮名に直したり、平仮名を漢字にしたりと芭蕉さんには色々とこだわりがあったんだと感じました。
いろいろな人々に伝える為に同じものを作っていたとはとても手がこんでいたと思います。  
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(無題) 投稿者:CK4143 投稿日:11月29日(水)10時21分24秒 
  旅に出たくなりました。芭蕉の句は、徒歩旅行の醍醐味です。電車や自動車でなしに、歩いてこそ見えてくる景色だと思います。また、俳句の推敲あとの残る資料は大変面白く読ませていただきました。五月雨の降のこしてや光堂 は、全く違う句だったのですね。旅から帰ったあと、芭蕉も机の前で悩んだのでしょうか。『奥の細道』に、一層の魅力を感じます。  
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2006.10.18(水)第一限目・教場:4−302

 細川三斎忠興筆『徒然草』について PDF版(講義資料改編)

 
国語学 投稿者:JK5031 投稿日:11月 5日(日)09時48分42秒 
  一生懸命、本当の意味がわかって良かった。また本来は、「いっしょうけんめい」ではなく、「いっしょけんめい」だということを知った。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日:11月 3日(金)23時11分20秒 
  細川三斎忠興筆『徒然草』について」のコメントです。
細川三斎忠興筆『徒然草』の[下巻オE](一六五段)に
 あつま乃人の都にましハり。都の東に行て身を立て。
という箇所があります。
最初の所では「あづま」と読み、次の所では「東」と漢字で書かれていますが、他本では、どのような表記がされているのかを、陽明文庫本(影印)、正徹本(影印)、田中忠三郎蔵本(活字本)で調べました。
○陽明文庫本には、
 あつま乃人の都乃人にましはり。都の人の東に行て。
とあり、二つとも「あつま」と平仮名で書かれています。
○現存最古の写本である永享三年写本(正徹本)には、
 吾妻人の都の人に交はり、宮この人の吾妻に行て身を立て、
とあり、二つとも「吾妻」と書かれています。
また、一番初めの「吾妻」には※東国の人。という注があります。
○田中忠三郎蔵本を底本としている『徒然草』(山田孝雄校訂)には、
 あづまの人都の人に交わり、都の人のあづまに行きて身を立て。
とあり、二つとも平仮名で書かれていました。また、ルビに(東、吾妻)とありましたが、注にはこのことが書かれていなかったので、校訂者の判断で(東、吾妻)という字をあてているのだと思います。
 このように見てみると、前にあげた四つの本では、二つともあづまと読まれていますが表記が「あづま」、「東」、「吾妻」、と異なっています。
前にあげた陽明文庫本、正徹本、田中忠三郎蔵本の徒然草には、初めも二つめも「あづま」と読んでいますが、細川三斎忠興筆『徒然草』にはルビがなく、「東」と書かれているだけなので、「あづま」と読むのか「ひむがし」と読むのか判断をしにくいと思います。そこで、次に「東(あづま)」と「東(ひむがし)」の差異を見ていきます。
『日本国語大辞典』第二版の「ひがし」は、
 ひがし【東】(「ひむかし・ひんがし(東)の変化した語」)
 @方角の名。日の出る方角。西の対。十二支では卯をあてる。ひんがし。
 A東方から吹いてくる風。東風。こち。
 Bインドや中国から見て東方にある国。すなわち、日本。
 C京都、大阪に対して、鎌倉や、江戸をさしていう。
 D、E、F略。
『角川古語大辞典』の「ひがし」は、
 ひがし【東】「ひむか/がし」の転。
 @「ひんか/がし」に同じ。中国やインドの地から、東方にある国、具体的には日本をさしていうことがある。
 A東から吹く風。東風。
 B京都・大阪に対して東方にある鎌倉や江戸をさしていう。《以下略》
『日本国語大辞典』第二版の「ひむがし」は、
 ひんがし【東】(古くは「ひむかし」で「日向し」の意という)
 「ひがしに同じ。*万葉(8c後)一・四七「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたむきぬ〈柿本人麻呂〉」」
  語誌
 @方位を表わす「東」について、上代に仮名書き例はない。『万葉集』の「東」はアヅマと訓む
 ともに、四音としてヒムカシ、ヒムガシとも訓む。《以下略》
 A略
 B『古事記伝』の語源説によると、古形はヒ甲類で第三音節は清音。シは「にし」「あらし」などのシかと考えられる。このシには風の意があり、そうすると、元来は東風を表わす語であったということになる。『更級日記』の「西ふけば東になびき、東ふけば西になびくを見て」の「東」がその例かとされるが、漢字表記のため語形は不明。
 Cヒムカシは、撥音化したヒンガシを経て、中世頃にはヒガシになったと推定される。《以下略》
『角川古語大辞典』の「ひむがし」は、
 ひんか/がし【東】方位の名。東方。日の出に向いた方向。東。「し」は風の意で、「ひむかし」という語源説(古事記伝)がある。「ヒムカシ、ヒンガシ」〔名義抄〕
『時代別国語大辞典』の「ひむがし」は、
 ひむがし【東】東。〈中略〉和名抄には、東市司比牟加之乃以知乃官・東生比牟我志奈里
 (廿巻本)とある。仮名書きの確例なく、ヒの甲乙は不明。ニシには西風の意があり、元来風位名であったといわれるが、ヒムカシのシも、ニシ ・アラシ・ツムジなどと同じく風の意の語であろう。日=向=シの意かともいう。《以下略》
とあり、「ひがし」「ひんがし」は「東という方角」、「東方から吹いて来る風=東風」、「東方にある国」、という意味で使われており方角を表す意味として取り上げられていますが、『日国』には、「方位を表わす「東」について、上代に仮名書き例はない。」と書かれています。
 次に、『日本国語大辞典』第二版の「あづま」は、
 あずま【東】
 @東の方。東方。
 A都から東の方の諸国の称。東国。
 B鎌倉、室町時代に京都から特に鎌倉、または鎌倉幕府を指していう。《以下略》
『角川古語大辞典』の「あづま」は、
 あづま【吾妻・東】
 @所名。東国。本州東部地方を畿内から呼ぶ名称。《以下略》
 A鎌倉幕府のこと。
『時代別国語大辞典』の「あづま」は、
 あづま【東国・東方】
 @東国。都より東の方の諸国の総称。
 A東の方。
 とあり、『日本国語大辞典』では@「東の方・東方」、『時代別国語大辞典』に
 B東の方。
 とあり、「ひむがし」、「ひがし」に載っていたように「東方」という方角を表す意味が見えていますが、「ひむがし」には、「東にある国」というように方角を表しているのに対して「あづま」は「東国」と取り上げられており、地名・土地を表す意味が見えています。
 
 宮島達夫編『古典対照語い表 9頁(あづま)、250頁(ひむがし)参照。
     





 





 





 





 





 





 





 





 
 
ひむがし(東)
 
1
 
3
 
8
 
6
 
20 81 10 3
 
 
 

 
 
 
2
 
 
 

 
14
 

 
ひむがしおもて(東面)
 
 
 
 
 
2
 
 
 
6
 
13 2
 
1
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 

 
27
 

 
ひむがしざま(東様)     3         1             4  
ひむがしむき(東向)                                                
ひむがしやま(東山) 1         2           1     4











 












 












 












 












 












 












 












 
 
合計
 
2
 
3
 
13 6
 
26 98 13 5
 
 
 

 
 
 
3
 
 
 

 
17
 

 
       
あづま(東)
 
3
 
 
 
1
 
5
 
 
 
12  
 
 
 
 
 

 
 
 
4
 
 
 

 
33
 

 
あづまあそび(東遊)     2     1                 3  
あづまぢ(東路)
 
 
 
 
 
1
 
4
 
 
 
2
 
 
 
 
 
4
 

 
1
 
 
 
 
 

 
14
 

 
東人(あづまびと)           1                 2  
あづまや(東屋)           4 1               5  
合計
 
3
 
 
 
4
 
9
 
 
 
20 1
 
 
 
4
 

 
1
 
4
 
 
 

 
57
 

 
 
 この語彙表で見てみると、「東(ひむがし)」と読む例が「東(あづま)」と読むよりも多く用いられていることが見えます。源氏物語を比較してみても、「東」と読んで用いられている例が81例あるのに対し、「東」は12例であり、
6.75倍の格差があり、「東」の方が多く使用されています。
 次に和歌、散文に用いられている「ひむがし」「あづま」を見ていきたいと思います。
「ひむがし」
『東関紀行』には、
ひんがし【東】
○かゝる程に、思はぬ外に、仁冶三年の秋八月十日あまりの頃、都を出でゝへ赴く事あり。
○しの原といふ所をみれば、西東へ遙に長き堤なり。北には里人すみかをしめ、南には池のおもてとほく見えわたる。
○かやつの宿の前を過ぐれば、そこらの人集まりて里も響くばかりに罵りあへり。
○やがて夜の中に、二村山にかゝりて、山中などを越え過ぐる程に、漸白みて海の面遙にあらはれたり。
○此の里の東のはてに、すこしうち登るやうなる奧より、大井川を見渡しければ、遥々と広き河原の中に一すぢならず流れ分れたる川せども、とかく入りちがひたる樣にて、すながしといふものをしたるに似たり。
『太平記』には、
【ひんがし】
どうざいのひとなれば、さしおくべきにあらず、ゑんくわんしやうにんをもみやうにちとひたてまつるべきひやうぢやうありける、そのよ、さがみにふだうのゆめに、ひえいさんのひんがしさかもとより、さるどもにさんぜんむらがりきたつて、このしやうにんをしゆごしたてまつるていにて、なみゐたりとみたまふ。
あふみ・ゑちぜんのごせいをまちて、あすはろくはらへよせらるべきよしひやうぢやうあり。ことのおほきになりさうらはぬさきに、いそぎひんがしさかもとへごせいをむけられさうらへ。
からさきのはまとまうすは、ひんがしはみづうみにて、そのみぎはくづれたり。にしはふかだにて、むまのあしもたたず。へいさべうべうとしてみちせばし。
『千載和歌集』には、
【ひがし】
大納言長家82[詞書き]後朱雀院の御時うへのをのこどもひがし山の花見侍りけるに雨のふりにければ白川殿にとまりておの/\歌よみ侍りけるによみ侍りける
『拾遺和歌集』には、
【ひんがし】
大納言清蔭 本院のひんがしの對の君にまかり通ひてあしたに
ふたつなき心は君に置きつるを又程もなく戀しきやなぞ
權中納言義懷入道して後むすめの齊院にやしなひたまひけるがもとよりのひんがし院に侍りける姉のもとに十月ばかりに遣はしける
とあります。
 「あづま」
『東関紀行』には、
あづまじ【東路】
○「東路の野路の朝露けふやさは袂にかゝるはしめなるらむ」。〔『東関紀行』〕
○去にし承久三年の秋の比、中御門中納言宗行と聞えし人の、罪ありてへ下られけるに、此の宿にとまりけるが「昔は南陽縣の菊水、下流を汲で齡をのぶ。〔『東関紀行』〕
○ 此の庵のあたり幾程遠からず、峠といふ所に至りて、おほきなる卒都婆の年經にけると見ゆるに、歌どもあまた書きつけたる中に、「東路はこゝをせにせむ宇津の山哀もふかし蔦の下路」とよめる、心とまりておぼゆれば、その傍にかきつけし、「我もまたこゝをせにせむうつの山分けて色ある蔦の下露」。〔『東関紀行』〕
東路の思ひ出ともなりぬべきわたりなり。〔『東関紀行』〕
○むかし朱雀天皇の御時、將門と云ふものにて謀反起したりけり、〔『東関紀行』〕
『太平記』には、
【あづま】
○てんまにのせられて、みなれぬもののふにうちかこまれ、まだよぶかきにとりがなくあづまのたびにいでたまふこころのうちこそあはれなれ。
○げんりやくぐわんねんのころかとよ、しげひらのちゆうじやうの、とういのためにとらはれて、このしゆくにつきたまひしに、「あづまぢのはにふのこやのいぶせきにふるさといかにこひしかるらん」と、ちやうじやのむすめがよみたりし、そのいにしへのあはれまでも、おもひのこさぬなみだなり。
○むかし、なりひらのちゆうじやうの、すみどころをもとむとて、あづまのかたにくだるとて、「ゆめにもひとにあはぬなりけり」とよみたりしも、かくやとおもひしられたり。
『万葉集』には、
【あづま】
382[原文]鷄之鳴 東國尓 高山者 佐波尓雖有 <朋>神之 貴山乃 儕立乃 見<杲>石山跡 神代従 人之言嗣 國見為<築>羽乃山矣 冬木成 時敷<時>跡 不見而徃者 益而戀石見 雪消為 山道尚矣 名積叙吾来<煎>
521[原文]庭立 麻手苅干 布<暴> 東女乎 忘賜名
3194[原文]氣緒尓 吾念君者 鶏鳴 東方重坂乎 今日可越覧
『古今和歌集』には、
【あづま】
373 いかごのあつゆき
あづまの方へまかりける人によみてつかはしける
おもへども身をしわけねばめに見えぬ心を君にたぐへてぞやる
377 よみ人しらず
きのむねさだがあづまへまかりける時に、人の家に やどりて、暁いでたつとてまかり申ししければ、女のよみていだせりける
えぞしらぬ今心みよいのちあらば我やわするる人やとはぬと
378 ふかやぶ
あひしりて侍りける人のあづまの方へまかりけるを おくるとてよめる
雲ゐにもかよふ心のおくれねばわかると人に見ゆばかりなり
379 よしみねのひでをか
とものあづまへまかりける時によめる
白雲のこなたかなたに立ちわかれ心をぬさとくだくたびかな
410 在原業平朝臣
あづまの方へ友とする人ひとりふたりいざなひてい きけり、みかはのくにやつはしといふ所にいたりけるに、その河のほとりにかきつばた いとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふいつもじを くのかしらにすゑてたびの心をよまむとてよめる
唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ
413 おと
あづまの方より京へまうでくとて、みちにてよめる
山かくす春の霞ぞうらめしきいづれみやこのさかひなるらむ
415 つらゆき
あづまへまかりける時みちにてよめる
いとによる物ならなくにわかれぢの心ぼそくもおもほゆるかな
594
あづまぢのさやの中山なかなかになにしか人を思ひそめけむ
720
たえずゆくあすかの河のよどみなば心あるとや人のおもはむ
この哥、ある人のいはく、なかとみのあづま人がうた也
上記に乗せた用例の「ひむがし」と「あづま」の部分を抜粋すると、
「ひむがし」
『東関紀行』
 東
 西東
 東宿
『太平記』
 ひんがし
『千載和歌集』
 ひがし山
『拾遺和歌集』
 ひんがしの對
 ひんがし院
「あづま」
『東関紀行』
 東路
 東
『天大記』「あづま」
 あづまぢ
 あづま
『万葉集』「あづま」
 東國
 東
 東方
『古今和歌集』の「あづま」
 あづまの方 ※下位語「方」は、方位を示すことばであり「東国の方」と地名と方位の両面が意識される表現である。
 あづま ※漢字で書くと「東」と「吾妻」の両表記で用いられる表現であり、懸詞的歌の要素を含んでいることばである。
 あづまぢ
 あづま人
このようにみてみると、「東人(あづまびと)」「東国(あづまのくに)」「東路(あづまぢ)」のように「あづま」と読むものと「東對(ひむがしのつゐ)」「東山(ひがしやま)」のように「ひがし」と読むものに分けられます。例えば「東人(あづまびと)」を「東人(ひむがしびと)」と読んでいる例はなく、「東對(ひむがしのつゐ)」を「東對(あづまのつゐ)」というように読んでいる例が無いことを考えると、書き手には二つの意味に対する規範意識が働き、読み方も決まっていて書いたのではないかと考えられます。
 そこで、「あづま」と「ひむがし」のことばの使い分けについてですが、前に述べたように辞書には、「ひむがし」は、「東にある国」として「方角」を表しているのに対して「あづま」は「東国」と取り上げられていて、地名・土地を表す意味が見えています。なので「ひむがし」と読むときは方角を表す意味で用いられ「あづま」と読むときには地名を表すのではないかと推測していました。しかし、用例を集めてその手がかりを探してみたもののこれを確定できるに至るだけの用例を見つけることは出来ませんでした。
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国語史 投稿者:JK5076 投稿日:10月25日(水)03時56分34秒 
  18日の分です。
言葉の由来って面白いですね。知れば知るほど、新たな発見や知らないことがたくさんあったんだなぁと思いました。
日本の『西遊記』が外国でもやっていたなんて知りませんでした。※《日本言語文化基礎19日(木曜日)の内容》  
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日:10月25日(水)00時48分39秒 
  連続書き込みすみません。
4日の分は11日に書き込みました。
よろしくお願いします。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日:10月25日(水)00時45分12秒 
  今回も「京」の俗字表記のものがあったり、「仏」と「佛」など書き手にしか分からないこだわりがあるのでしょうか。
10月4日の書き込みが伝言板にありませんでした。
これからは早く書き込みます。すみません。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日:10月24日(火)22時51分9秒 
  旧字体と新字体の両用表記が興味深かったです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4167 投稿日:10月24日(火)20時29分16秒 
 「仏」と「佛」の新字体と旧字体両用表記について、正徹本(笠間文庫)と細川幸隆本(勉誠社文庫)ではどうなっているかを、岩波古典体系「徒然草」(定本は烏丸本)を参照して調べてみました(上巻までしか追いつきませんでしたが)。見出し語句は古典体系の表記です。
 佛の御おしへに→正徹本「佛」表記(2ページ2行目)
         細川「仏」表記(7ページ3行目)
 佛の道→正徹本「佛」表記(4ページ10行目)
     細川「仏」表記(12ページ6行目
 佛につかまつる→正徹本「佛」表記(14ページ1行目)
         細川「仏」表記(33ページ5行目)
 灌佛の比→正徹本「佛」表記(15ページ15行目)
      細川「佛」表記(38ページ2行目)
 御佛名→正徹本「佛」表記(17ページ8行目)
     細川「仏」表記(41ページ5行目)
 「經」・「佛」など→正徹「佛」表記(21ページ4行目)
           細川「佛」表記(50ページ1行目)
 丈六の佛→正徹本「仏」表記(22ページ12行目)
      細川「仏」表記(52ページ4行目)
*以下3つは39段目
 念佛の時→正徹本「佛」表記(31ページ10行目)
      細川「仏」表記(74ページ5行目)
 念仏し給へ→正徹本「仏」表記(31ページ12行目)
       細川「佛」表記(75ページ1行目)
 念仏すれば→正徹本「仏」表記(31ページ15行目)
       細川「仏」表記(75ページ4行目)
 御佛事→正徹本「仏」表記(35ページ10行目)
     細川「仏」表記(84ページ3行目)
*以下二つは49段目
 佛道を勤むる→正徹本「佛」表記(38ページ11行目)
        細川「仏」表記(91ページ2行目)
 念佛して→正徹本「佛」表記(38ページ15行目)
      細川本「仏」表記(91ページ5行目)
*以下二つは72段
 持佛堂→正徹本「佛」(56ページ11行目)
     細川「仏」表記(136ページ4行目)
 佛の多き→正徹本「佛」表記(56ページ11行目)
      細川「仏」表記(136ページ4行目)
 佛神→正徹本「佛」表記(59ページ10行目)
    細川本「仏」表記(140ページ6行目)
 佛仏→正徹本:該当箇所見当たりませんでした
    細川本「仏」表記(149ページ5行目)
 阿弥陀佛→正徹本「仏」表記(70ページ7行目)
      細川本「仏」表記(70ページ7行目)
 佛道を願ふ→正徹本「佛」表記(77ページ11行目)
       細川「仏」表記(182ページ6行目)
*以下三つは115段
 九品の念佛→正徹本「佛」表記(91ページ8行目)
       細川本「仏」表記(214ページ2行目)
 佛事の妨げ→正徹本「佛」表記(92ページ8行目)
       細川「仏」表記(216ページ1行目)
 佛道を願ふ→正徹本「佛」表記(92ページ10行目)
       細川「仏」表記(216ページ6行目)
 明暮念佛して→正徹本「佛」表記(98ページ14行目)
        細川「仏」表記(230ページ3行目)
 佛事に→正徹本「仏」表記(99ページ1行目)
     細川本230ページ5行目)
 同じ章段でも、39段のようにばらばらの使い分けがされているのもあれば、49・72・115段のように「佛」か「仏」で統一しているのもあるのが疑問に思いました。書写人の意識がどの程度あったのかは、これだけではやはり分からないので、下巻も調べてみれば何かがつかめるのかなと思いました。知識は追いついていかないのですが、自分の目で確かめてみると好奇心が沸いてくるのでこの原動力をもって頑張りたいと思います・・・。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日:10月24日(火)12時33分4秒 
  諸本によって書き方がこんなにもちがうのかと思いました。写本されることで書き手の私情が少なからず入り込んでいるのではないでしょうか。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日:10月23日(月)12時30分19秒 
  遅くなりました。「味噌」が「未曾有」からきているとは初めて知りました。言葉の由来って面白いです。兼好法師は仏典にしろ何にしろ、様々な書物を読んでいたと思われますが、そうなるとその文献に対する彼のスポンサーの存在も気になります。誰が援助していたのでしょうか…。それにしても『絵入本徒然草』…、京都大学すごいですね。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160 投稿日:10月20日(金)16時25分3秒 
   細川家の人(三斎、幽斎)はお茶、武道さらには文学にも精通していたんですね。2回も休んでしまってすいません。  
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6114 投稿日:10月20日(金)10時30分16秒 
  どうして「を」が「ほ」になってるのかと思いました。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日:10月20日(金)01時39分4秒 
  18日の授業です。
言葉は考えれば考えるほど奥が深いものであると思いました。
※《日本言語文化基礎19日(木曜日)の内容》アメリカなど外国では日本のドラゴンボールなどの漫画やオタクブームがあると良く聞きますが西遊記のお話は知りませんでした。
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日本言語文化研究T 投稿者:cb6160 投稿日:10月18日(水)10時32分44秒 
  なぜ「を」が、「ほ」になってしまったのかがとても不思議です。
それにしても、これだけ有名な書物だと、本当にたくさんの人が現代語に訳したり、研究したりしているのだと驚きました。  
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日:10月18日(水)10時30分31秒 
  今わたしたちが使っている古語はどこから生まれ、どのような変化を遂げ現代に伝わっていったのか・・・。夏休みに調べた言葉以外にも調べてみたらたくさんの発見があるんだろうなぁと思いました。  

 

 

 

 

 

2006.10.25(水)第一限目・教場:4−302

 蒙古襲来絵詞』について PDF版(講義資料改編)

 

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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日:11月 3日(金)23時11分20秒 
『蒙古襲来絵詞』には、竹崎季長という武士特有の書体文字が見えていますが、鎌倉から室町時代にかけての書記者のなかで武士の書記文字を精査することを学びました。そのなかで、明確な資料として時代は降りますが、「駒澤短大國文」第34号に先生がお書きになった室町時代の資料、瑞厳寺蔵『天台記』一軸にも『蒙古襲来絵詞』のような武士特有の書体文字が見えており、「奥松嶋八屋左次郎藩重」という武士が書寫したことが報告されています。この瑞巌寺蔵『天台記』の特徴のある書体文字の一部を以下に示します。
 「師」・・・最後の縦画を上に突き抜けて書いている。これは、「軍」や「義」などの文字にも見え、独特な書記文字で表現されている。
 「爲」・・・「爪」を書いた下に「為」文字を記載する。
 「而」・・・五画・六画目の縦画の上にさらに横画「一」を加えている。
 「樂」・・・「白」の部分が「自」になっている。「白・自・目」字体の文字で『法華經』の文字表記の使い分けとして知られています。
 「園」・・・ 最後の四画を省画する。
 「住」・・・「主」の横画が一画多い、「圭」文字化している。
 「無」・・・「?(れつか)」が「火」で書かれている。
「舞」・・・「?(れつか)」を中間に挟み込む増画表記。
というように、今まで見たことのない裝飾書体文字にお目にかかれて、とても興味深く調査ができました。
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日:11月 1日(水)09時57分35秒 
  10月25日の分です。
蒙古襲来や『蒙古襲来絵詞』は、高校の頃に資料などで見たことがあるくらいでした。
あまり詳しい事は知らなかったのですが、今回服装や槍の持ち方などの細かい部分を知る事ができました。
また、「合戦」というのが、二十人以上が死なないと「合戦」と言わないこ事には驚きました。死んだ人の人数で言い方が違うなんて思っていませんでした。
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国語史 投稿者:JK5076 投稿日:11月 1日(水)03時35分4秒 

  25日の分です。
蒙古襲来や『蒙古襲来絵詞』については、少し聞いたことがあるくらいであまり詳しくは知りませんでした。今回初めて、服装や槍の持ち方など細かい部分をみて、詳しい話を聞くことができて良かったです。
「合戦」が二十人以上が死なないと「合戦」と言わないことに驚きました。死んだ人の人数で言い方が違うなんてちょっとひどいと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日:10月31日(火)21時23分53秒 
  文字に書く人の性格が表れると聞きますが
紹介された「合戦」の字で初めて納得しました。
原本と写本、内容は同じでも文字からわかる雰囲気の違いがおもしろかったです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日:10月30日(月)19時44分12秒   蒙古襲来の絵巻は資料集などで何度かみかけていましたが、今回改めてみると、槍の持ち方であるとか弓の引き方など、戦い方の違いがよく分かり、また一方で首実検の様子を描いた部分は生々しさが伝わってきました。それと、詞九の「合戦」という漢字の書き方。字ひとつ見ただけでも武将の性格が表れていて面白かったです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4148 投稿日:10月30日(月)18時32分19秒    編集済 
  蒙古襲来についての話は、2001年7月にNHK『そのとき歴史が動いた』で二回にわたって放送され、同じ年に、和泉元彌主演の大河ドラマ、『北条時宗』(視聴率20%割れ!)が放送されています。
 主人公の時宗より池畑慎之介演じる北条実時(金沢文庫の創始者)が格好良く感じられて好きでした。彼(?)がオカマだったとは露知らず、しかし「ピーター」という名前が別にある事だけは知っていて、顔のよく似た級友に「誉め言葉」のつもりで「クーちゃん(と呼ばれていた)、ピーターに似ているね」と言って嫌な顔をされたのは昔の話。
 蒙古襲来の迫力、カルチャーショックは、苦い思い出とともに強く印象に残っています。
 と、そんなコメントばかり残していると身にならないので、『蒙古襲来絵詞』に見える合戦(「カフセン」「カツセン」)の問題です。『日本国語大辞典第二版』を見ると、
 かっせん【合戦】(「こうせん(かふせん)」の変化した語)*平治(1220頃か)中・義朝 敗北の事「今朝のたたかひに敵一八騎討ちおとし、いまの合戦によき敵四騎射ころした れば」
 こうせん【合戦】*将門記(940頃か)「承平五年十月廿一日をもって<略>案の如く討 合ひ、命を棄てて各合戦」
とあり、また『色葉字類抄』の例、「合戦 カフセン」とあるので、それ以前の時代
の用例は「こうせん」の項においたこと、江戸時代の写本である黒川本では「カッセン」と新しい形になっていることが注記してあります。(二巻本『色葉字類抄』は見るこ
とができなかったのですが、前田家三巻本では「カフセン」、黒川家三巻本では「カッ
セン」、十巻本『伊呂波字類抄』には用例がありませんでした。)
 学研『漢和大字典』で「合」の字を引くと
     h?p *
とあり、P入声をもつ音であることが分かります。[-p]で終わる漢字音は、日本において
「フ」の文字で書き表して受容していたことが分かっています(1)。
このことから「合」は「カフ」で書き表すことが知られるのですが、ではなぜそこに「カッセン」のような、促音をもつ例が現れるのか。小松英雄氏(2)は
 -fu-> -fu-> (-f-)>-q-  *
      ?
の過程で促音化をおこし、舌内入声韻尾([-t]で終わる漢字音)と促音とがたまたま同じ「ツ」表記をとることから、舌内入声と誤認されて-t-の韻尾を持つに至ったと論じておられ、その原因として
 a.韻尾の-fuが、サ行音などの無声子音と密接な結び付きで結合するため、uが無声化し
  て脱落する。
 b.残された韻尾-?は、極めて不安定な形であるため、そのままで存続することができず、
  もとの1moraを保存して、促音-q-におきかえられた。
と説明されています。ただし、これらの変化が全ての入声音にわたって同様に促音化したわけではないことから、個別によるものと考えられ、そうした違いの起こった原因として
 (1)各要素間の結合の密接度
 (2)語性
を挙げられています。
 また濱田敦氏(3)は
 (1)母音uと促音との調音部位の類似性
 (2)院政・鎌倉期頃に輸入された宋音による呉音、漢音の侵食(小松氏は否定)
を指摘されています。
 いずれにしても「合戦」の読みは上のような変化の結果起こったものと考えることができそうです。しかしながらこの文字を本当に「こうせん」と発音したかは分かりません。
『日葡辞書』や『天草版平家物語』にはcaxxenと見え「コーセン」と読ませる例はなく、このころは「カッセン」に変化(?)していたことを思わせます。したがってそれ以前の音価がどうであったかを知ることは非常に困難でありますが、文字の上からいつごろ、どのようにして、どの層から「フ」と「ツ」(あるいは「ウ」)の表記が見られるのかを見ると面白いですし、実際に調査すれば何か違ったものが見えるかも知れません。
 
(『色葉字類抄』加、畳字の一文字目にあらわれた「合」の字について)
 単語 前田家三巻本  黒川家二巻本  現代読み
 合黨 カフタウ    カウタウ    ごうとう
 合薬 カウヤク    カウ(フ)ヤク  ごうやく
 合殺 カフサツ    カウサツ    がっさつ
 合眼 カフカン    カウカン    ごうがん
 合婿 カフセイ    カフセイ    ごうせい、がっせい
 合力 カウリョク   カウ(フ)リョク こうりょく
 合戦 カフセン    カッセン    かっせん
 合應 カフヰヨウ   カフヰヨウ   ごうおう
 合夕 カフシャク   カフシャク ?
 合別 カフヘチ    カフヘチ ?
 
*発音表記がh、fと本文とは異なるところがあります
【参考文献】
(1)築島裕『平安時代語新論』(東京大学出版会)
(2)小松英雄「日本字音における唇内入声韻尾の促音化と舌内入声音への合流過程―中世博士家訓点資料からの跡付け―』(『中世語』『日本の言語学』ほか所収)
(3)濱田敦「促音と撥音(上)」(『人文研究』第一巻第一号)
・佐藤喜代治編『国語学研究事典』明治書院
・亀井孝・河野六郎ほか『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』三省堂  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日:10月28日(土)20時13分35秒 
  『蒙古襲来絵詞』は、昔習ったことがあったので懐かしく思いました。
合戦で両方の組で二十人以上が死なないと「戦(いくさ)」といわないと初めて知ってなんだか残酷だな〜とか思っちゃいました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日:10月28日(土)15時42分44秒 
  蒙古襲来絵巻は知っていましたが『蒙古襲来絵詞』を見るのは初めてでした。鎌倉時代の文献の方が平安時代の文献よりも読みやすく感じられました。この絵詞は竹崎季長が作成したんですね。驚きです!  
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日:10月27日(金)16時11分29秒 
  二十人以上死なないと、合戦と言わないということを、初めて知った。
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6060 投稿日:10月25日(水)16時59分53秒 
  『蒙古襲来絵詞』は高校の頃『蒙古襲来絵巻』としてやりましたが、高校の頃はあまり詳しくやらなかったので今日の授業で詳しく聞けてよかったです。元寇の時、日本に来た元の兵士がほとんど高句麗の人であるというのは初耳でした。また、鎌倉時代に書かれた原本と江戸時代に書かれた模本とでは書き方が違い、鎌倉時代に書かれた原本が武士のように力強く書かれているように、時代背景が字に表れるというのが面白いと思いました。あと先週分の感想が「日本言語文化研究T」ではなく「日本文化基礎」として扱われていたようなので「日本言語文化研究T」の方に訂正お願いします。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日:10月25日(水)11時02分36秒 
  『蒙古襲来絵詞』は教科書の小さい写真で見たことはあったけれど、大きな画像で見てみることで、服装や槍の持ち方など細かい部分がよくわかりました。
「合戦」や「軍」という字に見られるような侍の書く字の力強さは、原本で見ないとわからないので、原本で読むことの大切さを感じました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:10月25日(水)10時13分16秒    編集済 
  鎌倉時代の『蒙古襲来絵詞』は、歴史の授業でも扱っていたので懐かしいです。
写本だとやはり書き手によって字の書き方が変わってくるのだなと思いました。
合戦が“かせん”と書かれているのもとても不思議です。最後の詞九だけ漢字ですし。
やはり原本を見ないと本当の書き方とかはわからないのだなと思いました。
あと先週の分の書きこみが方丈記の回の方に掲載されていましたのですが訂正お願いします。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日:10月25日(水)10時10分42秒    編集済 
  蒙古襲来なんて受験生の時以来だったので、気づけば心の中で習ったことを一生懸命反芻していました。あの竹崎季長の絵巻物には季長の活躍ぶりのほかに蒙古兵がいかに卑怯だったかも事細かに描かれていたのですね。もし季長が途中で力尽きていたらこのように詳しく蒙古襲来の様子を知ることはなかったのかもしれないと思うとなんだか不思議な気持ちになります。
「合戦」=刀や槍を合わせる、双方二十人以上が死ぬ争い
というのは初耳でした!!  
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日本言語文化研究T 投稿者:cb6160 投稿日:10月25日(水)09時55分31秒 
  高校のとき世界史を勉強していたので、今日の授業の話がわかってとてもうれしかったです。
だけど、絵巻で実際どのような情景だったのかは今日はじめて見ました。
日本と蒙古の服装や武器の違いを見るのがとても楽しかったです。
自然が日本の見方を下から勝てたなんて、何度聞いてもすごいですね!!  
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2006.11.01(水)第一限目・教場:4−302

 太平記』について PDF版(講義資料改編)

  〜「近代語の源流」を考察する〜

『太平記』の書き込みです。
現存最古の資料である、高乗勲蔵、永和本『太平記』と岩波日本古典文学大系『太平記』』巻第三十二の文字表記を見比べました。その中でも、特に永和本にふりがなが書かれている箇所を主眼に岩波古典文学大系と比較しました。また、日本古典文学大系は底本にあたることができませんでしたので、活字本を用いました。
 

 
永和四年本
 
古典大系本     
 
符号
かんやまといわれひこのみこと 突日本磐余牋(カンヤマトイワレヒコ)ノ尊 突日本磐余牋尊(カンヤマトイハアレヒコノミコト)
 
ちから 力(チカラ) ×
トウコウ 東江(コフ)ヱ 東近江へ ×
ともども&グブ 供奉(トモ/\)ニハ 供奉(グブ)ニハ  
な・し  無(ナミ)シ 無(ナイガシロニ)シ  
みかど  帝(ミカト) ×
コロウヤカン
 
 成虎狼野干ノ(ハ)
 
成虎狼野干(コラウヤカン)ハ
 

 
ギョクイ  玉?(イ) 玉?(ギヨクイ)  
コンリョウ  袞(コン)龍 袞龍(コンリヨウ)  
わきはさん・で&はさん・で  挟(ワキハサン)テ
 
挟(ハサン)デ
 

 
めあわせたま・う  妻(メアハセ)玉フ 妻(メア)ハセ給フ  
そね・む  猜心(ソネム)(左訓) 猜(ソネ)ム心  
くら 廩(クラ) 廩(クラ)
かくしあな&くげあ
 匿(カクシ)穴
 
匿穴(クケアナ) 
 

 
おどろい・て  鄂然(ヲトロイ)テ曰ク 鄂(オドロイ)テ曰ク  
はじ  忸(ハチ)‐怩 忸怩(ハヂ)  
たずぬる・に  尋(討)ルニ 尋(ヌ)ルニ  
いかるが 鵤(イカルカ) 鵤(イカルガ)
さび 金精(サヒ) 金精(サビ)
とりくら・ひ 採(トリ)嚼 採食(トリクラ)ヒ、  
つかみさ・く 掬决(ツカミサク) 遥裂(ツカミサ)ク。  
おじたりけん&おそ
れたりけん
恐(ヲチ)タリケン
 
恐(レ)タリケン、
 

 
たばから・ん 捉(タハカラ)ラン 謀(タバカ)ラン  
とみきだし・て 説亂(トキミタ)兎 説亂(トキミダ)シテ  
おほひ 掩(ヲホイ) 掩(オホ)ヒ、  
センボウ&センム 占夢(センホウ) 占夢(センム)  
わがあたり 我傍(アタリ) 我傍(ワガアタリ)  
むくろ 質(ムクロ) 形(ムクロ)  
いかるが 鵤(イカルカ) 鵤(イカルガ)  
つめ 攻(ツメ) 攻(ツメ)  
たて 楯(タテ) 楯(タテノ)  
そばむ・る&そば・む 側(ソハ)ムル 側(ソバ)ム  
つよゆみ 淮(ツヨ)弓 淮弓(ツヨユミ)  
よばわっ・て 呼(ヨバワ)テ 呼(ヨバ)ハ(ッ)テ、  
やまびこ
 
百足(ヤマヒコニ)應(コタヘ)テ 山彦ニ響キ
 
×
 
やむとき 休(ヤム)時 休(ヤム)時  
おもて 面(ヲモテ) 面(オモテ)ニ  
さかしき&けわしき 尾(サカ)シキ 尾(ケハシ)キ  
いずいな 生稲(イツイナ)ノ 生稲 ×
あらけなび・き&いろめ・き 散靡(アラケナヒキ)テ楯ノ端ユルキ 色メキ
 

 
なだれ 雪萇(ナタレ) 雪萇(ナダレ)
かきあわ・せ 掻合(カキアハ)セ 掻合(カキアハ)セ
チュウに 中(チウ)ニ 中(チウ)ニ
あらげみだれ・て&みだれ・て ミナ散紛(アレケミタレ)テ
 
皆亂( レ)テ
 

 
おめきさけび・て&おめきさけんで 喚(オメキ)叫テ
 
喚(オメ)キ叫(サケン)デ
 

 
こもだ 薦(コモ)田 薦(コモ)田(ダ)  
すこしも 少(スコシ)モ 少(スコシ)モ
とおれ・ど 通(トヲ)レト 通レト  
ちょうとうつうたれ・て&ちょうどうたれて 打(チヤウ)トウツ打レテ
 
チヤウド打(ウタ)レテ
 

 
くび 首(クヒ)ヲ 頸(クビ)ヲ  
いきいで・て 生(イキ)出テ 生(イキ)出テ
にくし・と 惡(ニクシ)ト 憎ト  
ちから・を 力(チカラ)ヲ 力ヲ  
かちだち・の 徒(カチ)立ノ 徒(カチ)立(ダチ)ノ  
なだれおち・て 雪下(ナタレ)落テ 雪下(ナダレオリ)テ  
やたけにおもえども&たけくおもえども 彌猛(ヤタケ)ニ思トモ
 
心ハ猛(タケ)ク思ヘ共
 

 
よこた・え&た・え 要(ヨコタ)ヘ 要(タヘ)  
おっすかし・て&おつすごうて 追違(ヲツスカシ)テ
 
追(オツ)スガウテ
 

 
かぶとのはち・よろいのあげまき 冑ノ鉢甲(ヨロイ)ノ総角
 
甲(カブト)ノ鉢・冑(ヨロヒ)ノ総角(アゲマキ)
 
さもさわやかに&あつさわやか・に 殷(サモ)爽(サハヤカ)ニ
 
殷(アツ)爽(サハヤカ)ニ
 

 
いだきつきたま・え 狗(イタキ)付給ヱ 狗(ダキ)著(ツキ)給ヘ  
くつがえさん・と 覆(クツカヘ)サント 覆(クツガ)ヘサント  
のぞむたびごと・に
 
臨(ノソ)ムタヒコトニ
 
臨(ノゾ)ム度(タビ)毎(ゴト)ニ
 

 
 
※☆は永和四年本と古典大系本が同じ読みをしている語
このように比較して気づいたことは、
 @永和本は濁点を付していないが大系本は濁点を付している。
 A永和本にルビが書かれている語でも、大系本では書かれていない語がある。
 B両本で異なった読みをしている。
   殷(サモ)→ 殷(アツ)
   無(ナミ)シ→無(ナイガシロニ)シ
   供(トモ)奉(/\)ニハ→供奉(グブ)ニハ
「百足(ヤマヒコニ)」→「山彦」※梵舜本「山彦(ヤマヒコ)ニ」
 また、両本で、異なる読み下し方をしていたり、異なる文章を載せている箇所がありました。例えば、永和本には「散靡(アラケナヒキ)テ楯ノ端ユルキ」と書かれているけれども、大系本ではこのような文は見えずに、その代わりに「色めき」という語が書かれていました。今回は二冊での比較に留めました。
 前々回の『徒然草』のコメントのところで、「東(ひむがし)」と「東(あづま)」のことを書きましたが、この書き込みを西崎亨先生が読んで下さり、ご指導をいただきました。
 対照語い表を乗をそのまま載せるのではなく、自分の目で用例を確認してから載せるのが基本であるということ。逆引き辞典を使って、例えば、東山(ひむがしやま)の「山」を調べて、上下には他にどのような語がつくのか、その語彙にはどのような共通性があるのかを分析をすると、「ひむがし」「あづま」がどのような意味で使われているのかがわかるのではないかとおっしゃってくださいました。助言をいただきありがとうございました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
国語史 投稿者:JK5076 投稿日:11月 8日(水)10時33分5秒 
  遅くなってすいません。11月1日の分です。
外国にも『太平記』の本があるなんて驚きました。
『太平記』が活字の最初の作品なんですね。
印刷技術はあったけど、お経などの量が多いものに使っていたのをはじめて知りました。
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日:11月 8日(水)04時15分18秒 
  関東から、京都へ言葉が移っていったと初めて知りました。
その頃の関東はとても権力や、力があったのかなと思いました。
関東と、関西なまりと、東北なまりでは、大きくちがいますが、東北なまりは特に分かりずらい気がします。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日:11月 7日(火)22時10分42秒 
  印刷技術が使われたのが経典以外ではこの『太平記』が最初と初めて知りました。
先日、印刷博物館に行ってきたばかりなので、
どうして『太平記』を印刷しようと思ったのかそのきっかけが気になります。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4148 投稿日:11月 7日(火)20時18分41秒 
 「一所懸命」は、鎌倉時代の武家社会を象徴する言葉として、中学社会科教材にも見える言葉であります。そして「一生懸命」という言葉が「一所懸命」から転じた言葉であるというのも小中高の社会科あるいは国語科の中で何度も聞いてきたことですが、この言葉の履歴を聞いたとき、ああそうなんだと心の中に素直に入ってくるのを感じたことを覚えています。
 今その感覚を表現するなら、「言葉の変化の裏にある文化的背景を知ることって面白いね!」(その逆も言える)ということになるでしょう。
 この言葉に対して非常な興味を持っている自分ですが、今は授業の復習を兼ねての記述にとどめたいと思います。
 
【一所懸命】
 *古事談(1212-15頃)一・六条顕季避義光于所領事「汝は雖無件庄一所、全不可事闕、彼 は只一所懸命之由聞食之」
 【一生懸命】
 *浄瑠璃・応神天皇八白旗(1734)四「憎い奴と飛びかかり取って引起し、大君を殺さねば一生懸命の、親に替えて能う落したな、先を吐せと挫ぎつけ」
 
 《語誌》
 中世の「いっしょうけんめい」が近世に入って転じたもの。これは中世における武士主体の土地領有の観念が、近世の町人主体の貨幣経済主体の時代にはそれほど切実なものとは感じられなくなっていった、という時代の推移があること、「一生」という語が近世では、「一生にわたって」という長期的なものよりは、「一生の」という形で「生涯に一度しかないほど重要な」という意味に重点が移ったこと、などが大きく関与したと考えられる。
 (以上『日本国語大辞典 第二版』)
 
 話は一気に変わりますが国語学とは関係なく、楠木正成について調べています。実はこの武将について知るところが殆どないのです(どの時代に出てきて何をしたということくらいは分かります)。新聞を見るとある一定の年齢以上の人たちはこの武将について大変な敬意を持っていて、英雄とみなしています。ところがその賞賛の割に存在感の薄いのはどうしたことか、武田信玄や織田信長や真田幸村のように現代っ子にも憧れの念を抱かせる魅力がないのは何故なのか、自分はここに非常な興味を覚えます。
 そんな中で先生の水戸学についてのお話がありました。内容は少しずれるのですが、司馬遼太郎氏も同じようなことを言っておられたことを思い出しました(『手堀り日本史』文春文庫)。先生のお話は司馬氏の説を一歩先に進められた内容でしたので、しばらく忘れていた興味がまたメラメラと燃え始めています。今回の授業を契機として、この、水戸学と楠木正成の関係をもっと深く勉強したいと思います。
(その他)
東(「ひがし」「ひん(む)がし」「あづま」)に就いては、自分も関心がありましたが難しいということもあり、調べるのを面倒くさがってほっぽっておりました。今回の書き込み、勉強になりました。ありがとう!!! 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日:11月 7日(火)03時38分35秒 
  「一生懸命」という言葉は普段の生活でとてもよく使うけれど、命がけで領地を守るという「一所懸命」の本当の意味を知って、あまり軽々しく使えないなと思いました。 
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国語学 投稿者:JK5031 投稿日:11月 5日(日)09時48分42秒 
  「一生懸命」、本当の意味がわかって良かった。また本来は、「いっしょうけんめい」ではなく、「いっしょけんめい」だということを知った。 
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6060 投稿日:11月 1日(水)16時52分43秒 
  「一所懸命」が鎌倉時代にできたということを初めて知りました。私もこの言葉を受験中などによく使っていましたが、自分の領地や家族を命を懸けて守ろうとする本来の意味を聞いて、私が今まで使っていた「一所懸命」というのは昔の武士が使っていた「一所懸命」に比べるとずいぶんと軽い気がしました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160s 投稿日:11月 1日(水)11時54分32秒 
  『太平記』は他の軍記物とは一線を画す作品なんですね。南北朝時代もさまざまな人物が入り乱れて興味深いです。
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:11月 1日(水)10時31分29秒 
  今回扱った“太平記”も日本史でならったので懐かしかったです。
現在重宝されている文献が原本でなく、印刷技術の関係で古活字本の方を、重宝されていることにびっくりしました。
外国にも『太平記』が現存されているなんて本当にすごいと思います。
また、本に「塗り絵」が施されていて、江戸時代にも広く読まれていたことが実感できました。
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日:11月 1日(水)10時29分6秒 
  現代語とは少し違う近代語。意味は分かるが言葉の調が変化して古文風に感じる。
私たちが使っている現代語はこのように少しずつ変化してきて今の形に定まったのだと感じた。  
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日本語言語文化研究T 投稿者:CB6160 投稿日:11月 1日(水)10時28分3秒 
  「一生懸命」が「一所懸命」だったなんて驚きました。また、勝てない戦なのにわざわざ討ち死にするために戦場に赴くという話を聞いて、これこそが「一所懸命」だなぁと思いました。
『太平記』は受験勉強のときにちらっとしか読んだことがなかったのですが、今日の先生のお話を聞いていてとても興味深い話ばかりだったので、機会があればぜひ読んでみたいと思います。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日:11月 1日(水)10時26分6秒 
  関西と関東では「いぬ」や「さる」など違う言葉があるとわかりました。
京都に関東の言葉が侵略していったと初めて知りました。関東はとても偉大であったのかなと思いました。
現在東京にいる人は震災後に他の県などからきた人が多いと知りました。なので言葉の移り変わりがあるのだと思いました。大阪弁は分かりますが、福島など東北なまりの言葉は分かりづらいですね。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日:11月 1日(水)10時24分50秒 
  『太平記』がこんなにも奥深い内容の本だとは知りませんでした!今度じっくりと読んでみたいです!!それに、「塗り絵」にしてしまうなんておもしろい発想ですね!
関東大震災によって地方から東京に流れ込んできたとなると、純粋な江戸っ子って本当に少ないんですね。ちょっと残念です。  
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2006.11.08(水)第一限目・教場:4−302

 中世藝術論〔謡曲・能・狂言〕の言語文化についてPDF版(講義資料改編)
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日:12月 9日(土)22時21分24秒 

  きちんと期限を守って投稿している方々には申し訳ないと思いつつ遅ればせながら投稿させていただきます。
中世藝術論〔謡曲・能・狂言〕の言語文化についてのコメントです。
『続狂言記』巻第一の振り仮名がある語の表記を木活字版の影印資料で調べました。
一 連歌毘沙門
大晦日(つごもり),1オ,L2
年籠(としごもり),1オ,L3
同道(どうだう),1オ,L6
年籠(としごも)り,1オ,L18
次第(しだい),1ウ,L2
年籠(としごもり),1ウ,L5
荒(あら),1ウ,L7
下向(げかう),1ウ,L9
夜前(やぜん),1ウ,L13
戻(もどり)て2オL3
連歌(れんが),2オ,L3
是非(ぜひ),2オ,L7
夜前福(やぜんふく),2ウ,L10
小刀(こがたな),2ウ,L14
多門伝(たもんでん),3オ,L6
徳分(とくぶん),3オ,L6
最前(さいぜん),3オ,L7
連歌(れんが),3オ,L7
 
二 秀句大名
別(べつ),4オ,L6
海道(かいだう),4オ,L15
海道(かいだう) ,4ウ,L4
遠国方(おんごくがた),4ウ,L5
上方(かみがた),4ウ,L6
戻(もど)つた,5オ,L7
出(で)やれ,6オ,L10
 
三 居杭
居杭(ゐぐい),7オ,L1
頭巾(づきん),7オ,L8
居杭(ゐぐい),7オ,L15
頭巾(づきん),8オ,L3
御繁昌(はんじやう),8オ,L13
満足(まんぞく),8オ,L15
天狗(てんぐ),8ウ,L12
登(のぼ)る,9オ,L15
鼠(ねずみ),9オ,L16
算木(さんぎ),9ウ,L7
 
四 飛越新発意
別(べつ),11オ,L14
望(のぞみ),11オ,L17
行司(ぎやうじ),12ウ,L14
勝負(せうぶ),13オ,L16
 
五 鶯
鶯(うぐひす),13,ウL2
別(べち),13ウ,L14
 
六 河原新市
何(いづ)れも,16オ,L10
一段(だん) ,16オ,L12
大勢(おほぜい) ,16ウ,L5
 
七 子盗人
勝負(せうぶ),18オ,L5
勝負(せうぶ),18オ,L6
一勝負(ひとせうぶ),18オ,L13
道具(たうぐ),18ウ,L13
 
八 になひ文
別(べつ),20ウ,L5
返事(へんじ),20ウ,L9
冨士(ふじ),21オ,L14
返事(へんじ),22オ,L8
 
九 針立雷
夕立(ゆふだち),22ウ,L15
雷殿(かみなりどの),23オ,L9
頭脈(づみやく),23ウ,L2
御持病(ごぢひやう),23ウ,L4
調合(てふがう),23ウ,L10
中風(ちうぶ),24オ,L11
薬代(やくだい),24ウ,L7
 
十すみぬり女
長ゝ(なが/\),26オ,L1
在京(ざいきやう),26オ,L1
汝(なんぢ),26オ,L7
暇乞(いとまごひ),26オ,L12
別(べつ),26ウ,L10
真実(しんじつ),27オ,L4
鏡(かがみ),27ウ,L3
一段(だん),27ウ,L4
 
 この『続狂言記』は元禄13年(1700)年に初版が刊行された本で、所々に挿絵が書かれています。また、振り仮名はすべての語に施してあるわけではなくして、難しい語に振り仮名が振ってあるわけでもなく、どういう基準なのかは理解しがたかったのですが、巻一の語をみてみると、「年籠(としごもり)」のように同じ語彙であっても、一方は「としごもり」を振り仮名とし、もう一方は「(としごも)り」、と「り」としている語彙が見えています。さらに、「別(べつ)」と五、鶯で「別(べち)」の表現が用いられており、「べつ」よりも古い時代使用の「べち」が混用している語彙。「御持病(ごぢひやう)」「道具(たうぐ)」のように「ひやう」、「たう」に濁点を施していないものが幾つか確認できました。私は今まで、「狂言」の台本を見たことがなかったので読み仮名を見てみました。ここでの表記法が実際の狂言ではどのように表現されるのか舞台の上での言い回しを知っていく上で興味を抱くことができ、今回はとても良い勉強になりました。
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160s 投稿日:11月15日(水)09時56分57秒 
  遅れてしまい、すいません。能や、狂言には風格や厳格さがあるのだと思いました。
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日:11月15日(水)00時13分49秒 
  今回は、能と狂言でしたが、実際あまり知らないことばかりでした。
観阿弥・世阿弥は日本史で少し習いましたが、世阿弥の書いた資料が現在まで実質本として残っているという事には驚いた反面凄いな。と思いました。
資料を見て思いましたが、古字や昔使われていた字は現代に生きる私達にとって、本当にに読みづらく、解読しにくい部分がたくさんありました。 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日:11月14日(火)21時35分31秒
  外国語で聴く狂言もおもしろいと思いました。
一度、実際に狂言を観に行ってみたいです。  
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国語史 投稿者:JK5031 投稿日:11月14日(火)13時36分23秒 
  世阿弥の地位は親の七光りではなく、自らの努力で手に入れたことを知った。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日:11月12日(日)17時47分21秒 
  1日分です。能は長くて難しいですが、狂言なら割とわかりやすいし、今回取り上げた「舟船」のように言葉遊びがうまく使われているものもある。シェークスピアの間違いの喜劇ならぬ間違いの狂言というのを野村万斎さんなどが演じているのを見たことがあります。お勧めです。思わず笑ってしまいました。船弁慶という演目を一度観てみたいのですが、これは能だけでなく歌舞伎にもありますよね。それだけ人気があるのでしょうか。 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日:11月10日(金)14時55分46秒 
  能の舞台は見たことがありますが、独特な表現とやりとりに引き込まれていくので関心をもちました!外国バージョンの能もやっていたら見たいものです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日:11月10日(金)14時48分46秒 
  11月1日の分です。一所懸命という言葉があるのは知っていましたが一生懸命との違いが今までわかりませんでした。軽々しく使ってはいけない言葉ですね。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日:11月10日(金)09時07分7秒 
  能と狂言について。高校のときに習いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CX5062 投稿日:11月 8日(水)10時28分54秒 
  中学の国語の授業で狂言に触れたことがありましたが
実際に見に行ったことがないので、今日の授業を聞いて、
ぜひ鑑賞しに行きたいと感じました。
大蔵流狂言の「おひや」の翻刻、時間がありそうなのでやってみようと思います。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日:11月 8日(水)10時25分16秒 
  今回は能と狂言ということで、個人的に幸若舞を研究していた私にとってはとても興味深い授業でした!枕慈童の話は初めて聞きましたが、このような内容の深い作品も能で表現できたなんてすごいですね。イタリア語(?)の狂言もなかなか味があっておもしろかったです!  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:11月 8日(水)10時18分28秒 
  世阿弥、観阿弥については歴史の授業で習ったことがあります。
濁点に世阿弥が関係しているなんてとても意外でした。
「大船」についてもE音がA音に変わったことが、とても不思議でした。
授業の最後に聞いた狂言の海外公演はとても違和感がありましたが面白かったです。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日:11月 8日(水)10時16分41秒 
 「ふね」という言葉でも「ふなのり」「ふなびと」などのように、その後につく言葉によって少しだけ言葉の形が変わってくるというのは確かにそうだなと思いました。普段何気なくつかっている言葉でも知らない間に形を変えてしゃべっていると気がつきました。しかし「大船」は「おおふね」と読まない。そこの部分の説明が少し難しかったです。
世阿弥が書いた資料が今日まで実質本として残っているには凄いと思いました。これらの資料を見て思いましたが、昔の字は現代の私たちにとってはほんとに読みづらいというか読めない部分が沢山ありますね。  
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狂言演目を初めて読みました 投稿者:CK4143 投稿日:11月 8日(水)10時06分43秒
 狂言はやはり難しいですね。でも一度は見てみたいです。「ふねふな」という題名は響きも面白いです。全体の文章も、口に出してみると気持ちのいいものと思います 
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2006.11.15(水)第一限目・教場:4−302

  天草版(キリシタン)資料 PDF版(講義資料改編)
 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4167 投稿日: 1月12日(金)17時05分22秒 編集済 

 天草版平家物語を見ていたところ、「Yuqigata」(行方)という語句が出ていたので、この語句について調べてみました。
 まず、邦訳『日葡辞書』で調べてみたところ、「行方」に二通りの読みかたが付されていて
 Yuqigata(行方):人が向かって行った方向.または,人の姿が消えて行った方.
 Yucuye(行方):Yucusuyeの条を見よ.
 Yucusuye.l,Yucuye.(ユクスエ.または,ユクエ):終わり,あるいは,結局,すなわち,今後の成り行き.
とし、同じ漢字表記でも当時は読み方の違いによって意味の違いがなされていたことが分かります。
 小学館『日本国語大辞典』第二版でそれぞれの項を見てみると、
 ゆきがた【行方】→行くべき方向。行く方向。また、行った方向。行った先の場所。ゆくえ。いきがた。
 ゆくえ【行方】→@めあてとして進み行く方向。向かうべき先。また、行った先。前途。ゆく先。ゆくえ. A今後の有様。ゆくつく先。先のなりゆき。将来。前途。ゆくすえ。B子孫。 C銭をいう、女房詞。
となっています。「ゆくえ」の方は初出例が万葉集から出されており、『古典語彙対照表』を見てみても、
      徒 万 大 更 紫 源 枕 蜻 後 土 古 伊 竹 万
 ゆくへ  1  4  1  36  6    2   8    16       
                         ※用例の数値排列再確認されたし
となっており、昔から多く使われてきた語句だということが分かるのですが、「ゆきがた」は新潮『国語辞典』〔新装改訂版〕の用例では『拾遺集』と『平家物語』(覚一本)が用例としてあげられており、「ゆくへ」と比べると後から出てきた語句でした。古本『節用集』類を見てみると、
 ユキガタ(行方)→天正18年本
 ユキガタシラズ(行方不知)→易林本
という語句で挙げられていました。ちなみに「ゆくへ」は、
 ユクヘ(向後)→易林本
 ユクエ(向後)→天正18年本
と掲載されていました。
 意味の違いがあるということで、天草版『平家物語』でそれぞれの該当箇所を見てみました。
 【ユキガタ】:合計2例
 *木曾わやがて越後えうち越えて長茂と合戦をして、なんとぞして討ちとらうとしたれども、長茂主従五騎にうちなされて、yuqigata xirazu落ちてゆいた(後略)
 *俄に西の風激しゅう吹いて頼ませた義教緒方が船たる船どもいづくの浦えか吹き寄せつらう、yuqigata xirazuになった.
※天草版『平家物語』の「ユクエ」については、如何…
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日:12月 9日(土)22時21分24秒 
「天草版(キリシタン)資料」のコメントです。
 天草版『伊曾保物語』の冒頭部分に、
  ESOPONO
  FABVLAS.
  Latinuo vaxite Nippon no
  cuchito nasu mono nari.
とあります。
 「日本」には「ニッポン」と「ニホン」の読み方があり、ここでは「Nippon」と表記されているので、この表記の事について調べてみました。
 現在、「日本」の撥音は「ニッポン」 と「ニホン」の両方を用いています。例えば、東京では日本橋を「ニホンバシ」というけれども、大阪では「ニッポンバシ」 という読み方をし、お札の裏に書かれている文字表記は、お札が作られた当初から現在まで「nipponginko」と「ポン」の文字で表記されてきました。しかし現在、この語を発音をする時に多くの人が「ニッポン銀行」とは言わずに、「ニホン銀行」というのではないかと思います。このように、「ニホン」と読む場合が適切な場合(『日本国語大辞典』『日本書紀』『日本文法』「日本茶」CM「美しい日本の液晶」など)、と「ニッポン」と読む方が適切な場合(「日本一」「ニッポンちゃちゃ」など)とがあります。
 これまでに、國號呼称について、「ニホンに統一するべきだ」「ニッポンに統一するべきだ」ということを、文部省の臨時国語調査会が昭和九年に申し合わせをしたり、昭和十四年に帝国議会の衆議院建議委員会で議案を出すなど、議論がなされてきました。
 さて、時代を遡って鎌倉時代以前には「日本」の表記は、漢字に振り仮名をしたものが少なく、また平仮名で書かれていたとしても、促音の表記が不十分であったので読みを明らかにすることは難しいのですが、室町時代以降には「謡曲」に当時の撥音姿勢が正確に書かれていることが伺えます。
 謡曲「白楽天」謡曲「善界」には、日本人の所には「ニホン」と書かれ、外国人のところには「ニッポン」と書かれています。このことから、「ニホン」は日常の呼稱であるのに対して、「ニッポン」は標準の呼稱であったために、仰々しい感じをおさえているのかも知れません。謡曲で両方を使い分けたのは語感の相違を利用しているようにもみえます。
 また吉利支丹文献資料にも「ニホン」「ニッポン」の表記例が多く見えます。室町以降は「ニホン」「ニッポン」の両方の表記がされ、「ニッポン」が主として使われてきました。
 そして、最も古い典拠としては、『日本書紀』に「日本」(訓みは「ヤマト」とする)の表記が見えています。
 「日本」の文字表記について、「日」の漢音は「ジツ」、呉音は「ニチ」で入聲、「本」の漢音・呉音は「ホン」で上聲となります。一般的に、入聲に続く「本」は「ホン」ではなくて「ポン」と撥音するのが適当です。このことから、「日本」は当初、「ニッポン」と發音され、使用されていく過程で「ニッポン」から「ニホン」へと変化していったとも考えられます。この二つの読み方が現在まで共存してきたと思われます。
 また、語感として「ニッポン」は」力強い感じがし、「ニホン」は柔らかい感じがします。このことから、「ニッポン」は標準的・公的な呼称に「ニホン」は、許容的・私的な呼称として、江戸以降も継承されてきたとみることができます。
※橋本博士還暦記念會編『國語学論集』「室町時代以降における國號呼稱」吉田澄夫さんの論文を引用要約し、自分なりにまとめてみた。
※小池清治著『現代日本語探求法』〔シリーズ〈日本語探求法〉朝倉書店刊〕に、「「日本」は「にほん」か「にっぽん」か」を収載する。  
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日:11月22日(水)10時22分28秒 
ヨーロッパの人々が、『落葉集』を使って日本語を学んでいたなんて知りませんでした。
外国の人が『落葉集』を使って日本語を学ぶなんて、とても大変だったのでは?と思いました。
 でも、『落葉集』は、詳しく、分かりやすく書いてあったので、これならヨーロッパの人々も、あまり大変な思いをせずに学べたのではないかと思いました。
でも、なぜ、ヨーロッパ人々は『落葉集』を使って、学ぼうと考えたのでしょうか?
それがまだ、自分の中で謎です。 
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日:11月21日(火)17時36分57秒 
『落葉集』は知っていましたが、『落葉集』が昔のヨーロッパ人が日本語を学ぶ為に活用されていたということは初めて知りました。
とても便利で大切なものだったのですね。  
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日:11月21日(火)09時25分21秒 
  日本人よりも、ヨーロッパで日本語を学んでいる人の方が、日本語をより詳しく知っているのかもしれないと思った。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日:11月20日(月)18時08分10秒 
  ヨーロッパ人が日本語学んだりするために『落葉集』というものがつかわれていたことは知りませんでした。『落葉集』で日本語を学ぶことができるなんてとても凄いものなんだと思いました。
 ※タイの大仏についても初めて知ったことが沢山ありました。 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日:11月19日(日)21時20分35秒  『落葉集』は、音引きの本編だけでも収載される漢字の数が大変多いですが、外国の方向けというより、今私たちがみても、字の書き方まで載っていたりして面白いですし、これを使えば相当いい勉強になりそうです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日:11月18日(土)11時23分53秒 
  『落葉集』について。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日:11月17日(金)14時55分23秒 
  『落葉集』は見やすくて便利なものだということがわかりました。現代よりもキリスト教を学んだりすることは容易ではない時代なので相当努力したんだなと思いました。今の異文化交流の基盤であるとも感じられました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160s 投稿日:11月16日(木)16時53分59秒
  信長は商業を重視したため、堺を直轄都市にしたりしましたよね。千利休も商家の出でした。信長は茶道にもかなり通じていたんだと感じました。天草版の本には単語の辞書まで付いていたのが驚きました。
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6060 投稿日:11月15日(水)16時42分23秒 
  『落葉集』が昔のヨーロッパの人が日本語を勉強をするために使っていたと初めて知りました。最初は一冊だけで日本語が身につくものなのかと思っていましたが、『落葉集』を見ているうちに初級、中級、上級とに分かれていたり、字も分かりやすく載っていてこれなら一冊だけでも日本語が身につくと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日:11月15日(水)10時56分14秒 
  漢字は、音読み訓読みと読み方が多いため覚えるのは大変だけれど、『落葉集』ならとてもよくまとまっているので勉強しやすそうだと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:11月15日(水)10時29分45秒 
  本物の天草版の本を見るというのは貴重な体験だと思いました。
織田信長が現代の日本に大きな影響を与えたということもよくわかりました。
『落葉集』はとても国語の勉強に役立つということなのでよんでみたいと思いました。
天草版の本はローマ字で書かれているものもあるということでとても面白いと思いました。
秀吉によってキリシタン資料が焼かれてしまったのは残念です。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日:11月15日(水)10時23分4秒 
  今日は実物の天草本を見ることができて、天草本に触れるとてもいい機会でした。字の解説のみにとどまらず、細かい装飾までされていておもしろいですね。この時代のヨーロッパの宣教師の方々が漢字を書けたという話には驚きました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:1CB6160 投稿日:11月15日(水)10時21分22秒 
  天草版の『エソポの物語』や『平家物語』がすべてローマ字で書かれていてとても驚きました。
キリスト教を伝えるほうは伝えるほうで、日本語や漢字の音読み訓読みを覚えたりなど、相当大変だったのだろうなと思いました。  
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2006.11.22(水)第一限目・教場:4−302

往来物『庭訓往來』について PDF版
 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日:12月11日(月)21時48分41秒 

  「往来物『庭訓往來』について」のコメントです。
※石川謙著『庭訓徃来についての研究』を引用要約し、まとめました。
 初等教育の発達によって、学習をする主体が大人から子供へ、貴族・僧侶の子弟から下級武士、一般平民の子弟へと移り変わり、その動向を反映したのが徃来の変遷でした。貴族・教養中心から庶民中心・実用中心のへ切り替わる初等教育の進路とも深いつながりを持っていました。遠い昔にできた文学や、船來の典籍などがむやみにありがたかった当時の「学問」を、「学問」として叩きこもうとした徃来の教育から離別し、現実の生活、階級、職業、地域を含めた生活形態上の「郷土」を学び取ること、それが教育の目標であると考え直してきました。このことから、現実の生活に直接結びついている百科的知識が教材として取り上げられ、現実の生活の中で働いている通俗な言葉と文字が大切な学習用具として何よりも先に学ばれました。このような、新学習の代表、結晶として生育したものが「徃来」と呼ばれた教科書でした。徃来を主要教科書として学習することをC.Parkerの概念に従って「初等教育」と呼んでいます。
 初歩教育の第一段階はいろは・数学・単語集。第二段階は消息短文・消息単文・消息文以外の諸文体などで、これらを学び得た人は第三段階として徃来学習に入り、初等教育が完成します。ここから先はこれまでとは無関係に貴族的な教養本位の教育を受け、『源氏物語』・『万葉集』のような古典文学や『論語』・『孟子』のような中国の古典が主要教科書として取り扱われてきました。また、上代・中世において編纂された古徃来は消息文、(敬語表現、時候の挨拶などの独特の慣用表現、手紙、作文の色々な書き方)の模範文例を示すことを目的とした初等教科書です。この古徃来を分類すると、五つの類型と、どれにも属しないものに分けられます。
「明衡徃来型」
 かつて手紙として実際に役立ったものや、すぐに手紙として役立つことを目指して綴った消息文案を筋もなく書き集めて一本に仕立てたものです。前後に並ぶ手紙に取り扱われた内容のつながりがなく、文章形態の整頓も行われていません。徃来のはじめの形態で、平安後期から室町時代まで長い年代を通して継続した編纂形態です。
「十二月徃来型」
 一箇年十二ヶ月の月々に書状を配当して、新年状から始まり、お歳暮状で終わる形式の徃来です。原始的な文章形態を教え込むことを主とし、教育意識を働かせて作り出された教科書で手紙の綴り方の典型を示しています。
「雜筆徃来型」
 雜筆徃来を代表とする一群の消息科徃来を指します。消息文の読解や作文の練習に必要な語彙・文言・短文などを切れ切れに万遍なく沢山教える事を目的としています。消息文をそのままの姿で学ばせるのではなく、教える前の段階を形作る基礎的、予備的な学習を目的とした教科書です。
 編纂方法は消息文に出て来そうな語句、短文を順序なく書き連ね、日常の手紙から拾い集めた語句内容となっています。この類型の出現により、消息文に取りかかる前にそれに必要な語句・短句・短文について一通り学ばなければならないという初歩学習上の原則(今までの「初歩学習」から「基礎学習」という観念)が確立されました。
「庭訓徃來型」
 十二月徃来と雜筆徃来型を統合したもので一箇年十二ヶ月の月の順序と数を基準にして書状の排列や状数を決める所に十二ヶ月徃来型の面影があります。しかし、消息文の範例を示そうとする気合いと心構えが見えません。手紙の一つひとつに多くの語彙を類別に並べて、それを教える事を目的とはしています。ただ単語を並べただけではなく、数多い単語集団を挟んで二つに分割された消息文の半分づつを始めと終わりに据えて、つなぎ合わせると一通の手紙が出来上がるようになっています。単語と社会全般の事柄を教える事が狙いの教科書で、古徃来の因習に従って消息文体を受け継いでいます。
「富士野徃来型」
 最も完備した形をとっている慶安五年刊本を見てみると九つの文からなっており、回文状・福状・著到状・配分状・執達状・請文、普通の消息文(三通)となっています。
普通の消息文以外の色々な文体を取り込んで一遍にまとめてあり、大名に仕えて文を書く時に直接必要な文体・書式を教える事が目的の教科書です。内容は、建久四年に行われた富士野の捲狩を記した絵巻物で歴史科徃来の先達ともいえます。
「その他の類型」
 往復二雙、合計四通の手紙の様式をとったもの『喫茶徃来』、往復一雙のものに『尺素徃来』があります。また、一つの消息文で一篇を成しているものに『應仁乱消息』、一続きの記事文体の一文で出来ているものに『手習徃来』がありました。この四つの型は中世に有力な影響、勢力圏を持ちませんでした。
 以上が徃来の類型です。
 また、『庭訓徃来』は寺住みをしない中流以下の武士の子弟を対象とした教科書だったのではないかと言われています。学問、手習、香、茶などに感心を示しておらず、実生活に触れている社会制度と社会生態に深い注意を払っています。この徃来は四百三十五年もの長い間教科書教科書界の王座を占めることができました。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日:11月29日(水)09時10分11秒 
  遅れてごめんなさい、22日分です。
『庭訓往来』は日本史の授業で習いましたが、まさか燃えていたなんて思いもしませんでした。でも赤外線を通して今の私たちも読めるということはとてもすばらしいことだと思いました。あらためて古い文献のありがたさを感じた授業でした! 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日:11月27日(月)19時13分10秒   先週分です。『庭訓往來』は、手紙の形式になっているというのがまず面白いし、読み仮名が付載されている古写本は、読む側にすればとてもありがたいものです。また、辞書や物語にも多くの影響を与えていて、さらにはマナーや常識についての記述もある。武士をはじめ、様々な人々に必要な知識を得るために最適な教材であったことも確かに頷けます。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日:11月26日(日)18時08分45秒 
  貴重な資料が燃えてしまったのはとても残念です。
けれど、焼けても灰になって残っているというのはすごいことだと思いました 
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日:11月25日(土)11時10分44秒 
  『庭訓往來』について。受験のときに習いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6060 投稿日:11月23日(木)10時32分52秒 
  『庭訓往來』が炭になっても残っていると聞いてすごいと思いました。さらにすごいと思ったのは、灰の『庭訓往來』も残っていてそれが赤外線を通せば読めるということです。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日:11月22日(水)16時30分12秒 
  『庭訓往來』が教科書として学ばれていたことは知っていましたが、手紙のやりとりで構成されていることは初めて知りました。こんなに大切な本があとかたもなく燃えてしまっていたら、いまごろどうなっていたのでしょうか。明らかに研究が進まなかったでしょうね! 
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160 投稿日:11月22日(水)11時50分30秒 
  『庭訓往來』は受験で覚えましたが、意義深いものだと感じました。あと、鎌倉時代は一応1333年に終わった(幕府が滅びた)とされています。秀忠は家康の三男〔※嫡男〕です。『庭訓往来』は意外と最近まで読まれていたんですね。 
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6160 投稿日:11月22日(水)10時30分42秒 
 『庭訓往来』が、火で焼けたのに炭になって残っていたなんてすごく驚きました。
本当にすばらしい本は焼けても残っているものなんだと先生に聞いて、なんだか神様が選んだ本のようで不思議な気持ちになりました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CX5062 投稿日:11月22日(水)10時28分57秒 
  400年間日本の人々が学んだ『庭訓往来』に興味が湧きました。
長い間根づいたはずなのに現代に入ってぱったりと学ばれなくなったのは不思議です。
一乗谷で発見された炭化した『庭訓往来』の話はびっくりしました。
良い本は紙なのに燃えても灰になってしまわないのですね。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:11月22日(水)10時26分30秒 
 『庭訓往来』も日本史で扱ったことがあり、知っていました。
昔はこの手紙形式のものを教科書として使っていたなんて不思議です。
『庭訓往来』からはさまざまなことが読み取ることができるようで是非ネットで見れるようなので見てみたいです。
それと燃えても残るなんて本当にすごいと思います。  
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2006.12.05(水)第一限目・教場:4−302

  仮名手本忠臣蔵 PDF版

                   紀田順一郎著『日本の書物』引用資料

 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日:12月13日(水)09時16分20秒 
  12月6日の分です。
あんな素敵なホームページがあるなんて驚きました!!帰ってから早速お気に入りに登録しました!!
忠臣蔵は大河で一度観たことがありますが、歌舞伎の忠臣蔵はまだ観たことがないので今度是非生で観てみたいです。
話は少し外れますが忠臣蔵は一度テレビで『藩士達は吉良の顔を分からないまま敵を斬っていた』とか『藩士達への合図はチャルメラだった』などときいたことがあります。忠臣蔵の事件にはきっと歌舞伎の中などでは表現されなかった隠されたエピソードなどもあったのでしょうね。 
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国語史 投稿者:JK5124 投稿日:12月13日(水)07時33分0秒 
  12月6日分です。
『仮名手本忠臣蔵』のホームページを見て大変興味を持ちました。
歌舞伎も武士の一分も今まで見たことのないジャンルですが、一回見てみたいと思いました。 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日:12月13日(水)07時20分11秒 
  『仮名手本忠臣蔵』のコメントです。
『仮名手本忠臣蔵』に書かれている踊り字を一文ずつ抜き出しました。
大序  鶴が岡の段
過威前ンより嘸待遠{とを}御太義/\。《地ウ》御前ンのお召シ近カふ/\と《ハル》取持チ顏。《地ハル》目利{めきゝ}/\と女ゴには。扨指{さし}物は家々の《フシ》流義/\に寄ルぞかし。《中ウ》いや/\夫レでは塩冶殿。よい返ン事聞耘は。くどいて/\くどき抜ク。
第二段   桃井舘の段《詞》ヤイ/\何をざは/\とやかましいお上ミの取ざた。皆いけ/\《地ウ》と和{やは}らかに。《詞》是は/\両人共御前ンのお伽は申さいで。イヱ/\今ン日は御前ン様殊外の御機嫌。今すや/\とお休ミ夫でナア母様。たがいふとなくお耳に入夫レは/\きついお案ンし。《ウ》御病気のさはりお家の恥に《中》成ル事なら《詞》アヽこれ/\となせ。武士の妻{つま}でないか。それ程の事に気か付カぬか嗜{たしなみ}めさ/\。ヲヽ其筈/\。よし/\奧方のお心休め。《地ウ》いやか/\と問返{とひかへ}せば。お主と持病{ぢびやう}には勝{かた}れぬ/\と《地色ウハル》そろ/\と《色》立上り。《地色ウ》小浪は御跡《色》伏拝{おが}み/\。《地ハルキン中》娘心のどき/\と。《ウ》しづ/\と《色》座に直り。《地ハル》小浪漸{やう/\}《色》胸押シしづめ。《詞》是は/\御苦労{くらう}千万ンにようこそお出。《詞》ハア是は/\ぶ作法{さほう}千ン万。《地色ウ》ヲヽ聞た/\使太義と《ウ》若狭ノ助。《地ウ》しづ/\立ツて《ハル》見向もせず《フシ》衣紋繕{ゑもんつくろ}ひ立帰る。成ル程/\。小浪を奥へ/\。ハアコリヤ/\娘。用事{ようじ}あらば手を打ふ奥へ/\《地ウ色》と娘を追イやり。ハア是は/\改まつた御詞。《ウ》てう/\/\と金打{きんてう}し。《地色ウハル》横手を打てしたり/\。《詞》サア殿。まつ此通リにさつぱりと遊ばせ/\。《ハル》枕時計{とけい}の目覚{さま}し《ウ》本蔵めが《色》しかけ置ク早く/\。《地ハル》さらば/\と言捨て《ウ》奥の一ト間に入給ふ《フシ》武士の。いきぢは是非もなし《地ハル》御後かげ見送{おく}り/\勝ツ手口へ《色》走リ出。《詞ノリ》轡{くつわ}に縋{すかつ}てとなせ小浪コレ/\どこへ。《地ハル》母と娘がぶら/\/\。《ウ》轡にすがり《色》留{とゞ}むれば。《ウ》そこ退両人《色》イヤイヤ/\。
第三段  鎌倉御所の段 《色》ハイ/\/\と《ウハル》いかめしく。《中ウ》家来共を役所/\に残し置キ。《詞》今ン日の御前ン表テも上首尾{しゆび}/\。去リとは/\腹のかは。ヤイ/\声{こは}高に口利{きく}な。《詞》待テ/\伴内子細は知レた。《ウ》成ル程/\家来共《ハル》気をくばれと。《ウ》主従{しう゛/\}刀の《ウ》目釘{くぎ}をしめし。《詞》是は/\/\悼{いたみ}入たる仕合。師範{しはん}の拙者{せつしや}及ばぬ/\。大事ない/\。ひらに/\とすゝめられ。《ウ》ざは/\ざはつく御門ン前。《謡》高砂の浦に着にけり/\。《地ハル》詞に従ひ《色》ナイ/\と《フシ》供の下部は帰りける。勘平様逢たかつたにようこそ/\。《詞》勘平/\/\判官様が召シまする。勘平/\。ハイハイ/\只今それへ。勘平/\旦那がお召シと呼ンだはきついか/\。《地ウ》君よ/\と《ハル》抱{だき}付クを《色》突飛{つきとば}し。《ウ》くらがり紛{まぎ}れにつゐちよこ/\と。《詞》伴内様/\師直様の急{きう}御用。伴内様/\と。《地ハル》奴二人がうろ/\眼玉{めだま}で是はしたり《色》伴内様。ハヽ/\/\まんまと首尾{しゆび}は仕深{ほせ}た。《地ハル》ちよつと/\と《色》手を取レば。《地ハル》ぜひに/\に《ウ》ぜひなくも《中》下地は好{すき}也《ウ》御意はよし。《詞》是は/\若狭助殿。我等閉口{へいこう}/\。我等一ツ生{しやう}の麁怱{そこつ}武士がコレ手をさげるまつびら/\。此師直真ツ二つこはや/\。手を合して拝{おかみ}ましたアハヽヽ。アヽ年シ寄ルとやくたい/\。年シにめんじて御免ン/\。是さ/\武士が刀を投出し手を合す。兎角幾重{とかくいくゑ}にも誤り/\。伴内倶々に《地色ウ》お詫{わび}/\と。いざ/\若狭殿御前へ御供致そ。コリヤ爰な紅め/\。何ンとした/\腹痛{ふくつう}か。コレサ伴内お背{せなか}/\。イヤ/\夫イ程にもござらぬ。御前ンへ通る長廊下{らうか}《ウ色》師直呼かけ遅{おそ}し/\。《地ハル》渡せば受ケ取《色》成程/\。ムヽ/\《地ウ》と思案の内。アヽ貞女/\。《詞》ハヽ/\/\是は/\。即{そく}座ざにぴり/\/\/\と死ます。貴様も丁{てう}と鮒と同し事ハヽ/\/\/\と《地ウフシ》出ほうだい。くどい/\。《ウ》早の勘平うろ/\眼走リ《ハル》帰つて裏御門ン。砕{くたけ}よ破{われ}よと打たゝき《色》大声上《詞ノリ》塩冶判官の御内早の勘平主人ンの安否{あんひ}心元トなし爰明てたべ《地ハル》早く/\と《フシ》呼はつたり。喧嘩{けんくわ}の様子は何ンと/\。《ハル》お屋敷キへと《色》走リかゝつて《ウ》イヤ/\/\。《詞》ヱヽめろ/\とほへ頬{づら}。《ウ》両手に両腕捻{ねぢ}上はつし/\と《フシ》蹴返せば。《ウ》でんがく返しにばた/\/\と打すへられ。《ウ》皆ちり/゛\に《色》行跡へ。《詞》コレ/\そいつ殺すとお詫{わび}の邪广{じやま}。《地色ウ》もふよいわいなと《ハル》留る間に足の下をばこそ/\と。命から/゛\《フシ》迯て行。《地ハル》ヱヽ残念/\去ながら。《上》ねぐらを離れ《ハルウ》飛{とぶ}からす《ウキン》かはい/\の女夫連レ道は。
第四段  扇ヶ谷上屋敷の段《詞》是は/\力弥殿早い御出仕{しゆつし}。《詞》ヲヽ二人リ共太義/\。しづ/\と《中》立出。《詞》是は/\御上使と有ツて石堂殿御苦労{くらう}千万ン。《詞》扨是からは。各{おの/\}の御苦労{くらう}休めに。コレ/\判官だまりめされ。ぞべら/\としらるゝは。由良ノ助が参る耘無用/\。一人も叶はぬ/\。《詞》コレ/\御検使{けんし}。力弥。/\。《ハル》其外の一ツ家中フシばら/\とかけ入たり。ヲヽ我も満足{まんぞく}/\。《ウ》ぐつ゛/\と引キ廻し。《ハル》血に染る《ウ》切先キを《中》打寄り/\。無念の涙《ウ》。ヤ旁{かた゛/\}。《ウ》扨も/\武士の身の上程《ウ》悲しい物の有べきか。《中キン》のせ奉りしづ/\と《ハル》かき上れば。《中ウ》諸士のめん/\我一チと。《ウ》御乗リ物に引ツ添{そひ}/\《ヲクリ》御菩提{ほだい}。《地ハル》人/゛\御骸{から}《中》見送クりて。アヽこれ/\。むざ/\と腹切ふより。ヲヽ親父殿そふじや/\。《ウ》討手を待《色》御用意/\。思ひ/\に当所を立退{のき}。《詞》ハテべん/\と長詮義。其外の武具馬具{ぶぐばぐ}耘よく/\改{あらた}め請ケとられよ。《地色ウ》ヲヽ心得たりとしづ/\と《ハル》立上り。/\《ウフシ》御門外へ立出れば。《ウ》はやり立テば《中》由良ノ助。《詞》イヤ/\今死べき所にあらず。扨よいざま/\と。ふり返り/\。
第五段  山崎街道の段 《詞》イヤ申シ/\。《詞》コレサ/\勘平。合点か/\と。随分ぬかるな合点/\。《地色中》さらば。/\と両方へ《ヲクリ》立別。《地ハル》又もふりくる《ウ》雨の足人の足音《中》とぼ/\と。《詞》ヲヽイ/\親仁殿。よい年をして太胆{だゐたん}/\。《詞》是は/\お若いに似ぬ御奇特{きどく}な。すご/\一人リ戻る道と。《借シて下され《地色ウ》/\と懐へ手を指入レ。《詞》イヱ/\此財布は跡の在所で草鞋{はらぢ}買{かふ}迚{とて}。成ル程/\。何とぞして元の武士にしてしんぜたい/\と。ばゞといろ/\談合して。本ンに/\親子三人が血の涙の流れる金。申/\娘が悦ぶ顔見てから死たうござります。あれ。/\。/\と《地色ハル》呼はれど跡先キ遠{とを}く《フシノル》山彦の谺{こたま}に。《詞》ヤア/\こりや人じやなむ三宝。《ウ》天のあたへと押シ戴/\。
第六段  与一兵衛住家の段 《ウ》野道とぼ/\《色》立帰り。《フシ》気もわさ/\と見へにける。イヱ/\済{すん}でござんす。《ウ》爰しや/\と門ト口から。《詞》是はマア/\遠{とを}い所を。ほた/\いふて戻られたはもふ四つでも有ふかい。イヱ/\寄しやる所はなふかゝ様。ない共/\。ハテぐず/\と埒の明ぬ。マア/\《ウ》待ツてと取付母親突退{つきのけ}はね退ケ。無体{むたい}に駕{かご}へ押シ込/\舁{かき}上る中門トの口。《ウ》つか/\と《色》内に入。是は/\先ツ以ツて舅殿の心づかひ忝い。手拭{てぬぐ}ひにぐる/\と巻レて懐に入らるゝ。《詞》コレこちの人そは/\せずと。イヤ/\親父殿にもけさちよつと逢たが戻りは知レまい。マア/\さらりと済{すん}でめでたい。サア/\駕{かご}に早うのりや。アイ/\これ勘平殿もふ今あつちへ行ぞへ。イヱ/\なんぼ別れても。《地ハル》母は跡を見送り《中》/\。女房の事ぐづ/\思ふて。《ウ》どや/\と《色》内に入。《詞》コレ親父殿/\と。《地ハル》笑止{せうし}/\と打連レて《フシ》皆々我家へ立帰る。《詞》コレ聟殿。よもや/\/\/\とは思へ共合点がいかぬ。なんぼ以前{いぜん}が武士じや迚。ようも/\此様にむごたらしう殺された事じや耘。《ウ》牙{たふさ}を掴{つかん}で引キ寄セ/\擲付ケ。《ウ》づだ/\に切さいなんだ迚《ウ》是で何ンの腹がゐよと。《詞》コレハ/\御両所共に。《ウ》弓ン手馬手に《ハル》詰{つめ}かけ/\。つき戻されたる由良ノ助の眼力{がんりき}天晴{あつぱれ}/\。《ウ》死骸{しがい}《中》引上ケ打返しムウ/\と疵{きず}《色》口改{あらた}め。《地ハル》突込刀引キ廻せばアヽ《色》暫/\/\。《ウ》さら/\と《色》押シひらき。《地ウ》思へば/\は此金は嶋の財布の《ハル》紫摩黄金仏果{しまわうごんふつくは}を《ウ》得よと《色》言ければ。死ナぬ/\。《詞》イヤ/\/\親のさいごは格別。《地ハル》扨も《ウ》/\世の中に《ウ》おれが様な《上》因果{いんくは}な者が又と一人リ有ふか。《詞》ヤアこれ/\老母。跡{あと}懇{ねんころ}に吊{とむら}はれよ《色》さらば/\。
第七段  一力の段 《ハル》みだの浄土{じやうど}か《中》ぬりに塗{ぬり}立テぴつかりぴか/\。亭主/\。ヱ斧{おの}九太様。御案内{あんない}とはけうとい/\。百イヤ初メてのお方を同道{どう/\}申シた。扨/\/\我{が}もへんしも折レましてござる。《ウ》思ひはせいで《中》あだな《ハル》ほれた/\の口先キは《下》いかゐ。友アイ/\どな様ンじやへ。此間より節々{せつ/\}迎イの人を遣はしますれ共。友アイ/\。信イヤ/\とくと面談{めんだん}致した上。《色》鳴{なる}方へ。/\。/\此とらまよ。/\。友由良おにやまたい。/\。此とらまへて酒呑{のま}そ。/\。サア酒々。銚子{てうし}持テ/\。お家も召シ上られ一家中ちり/゛\と。此アこれ/\/\。敵の首を斗升{とます}ではかる程取ツても釣{つり}合ぬ/\。《中》つゝてん/\/\。《ナヲス詞》なぞと引ツかけた所はたまらぬ/\。コレ申シ。/\。《詞》つく/゛\思ひ廻しますれは。《詞》こい口の音響{ひゞか}せしは急用{きうよう}有ツてか密{ひそか}に/\。此よし/\。夜の内に迎イの駕{かご}いけ/\。此《詞》是は久しや/\。一年ンも逢ぬ内。寄ツたぞや/\。此ホヲヽ是は堅いは/\。ホヽウ嬉しい/\。此けもない事/\。裏門からこそ/\/\。昔のよしみは忘れぬ/\。堅みをやめて砕{くだけ}おれ/\。此たべる/\。此《詞》扨此肴では呑メぬ/\。其元トも奧へお出。女郎共うたへ/\と。《色》テレツク/\ツヽテン/\。百弥本心ン顕はれ御安堵/\。御自分{じぶん}は老体{らうたい}ひらに/\。百《地ハル》九太夫殿。/\といへど答{こた}へず《ウ》コハふしぎと。百《詞》コレ/\判内殿。信《地ハル》合点/\と点頭{うなづき}合。《ウ》駕には人の有ル体に《フシ》見せてしづ/\立帰る。《ウ》読長{よむなが}文は御台より敵の様子こま/\と。此いや/\。アヽコレ/\幸イ爰に九つ梯子。此大事ない/\。文アイいゝゑ。此見たであろ/\。おふといや/\。よく売{うら}れたでかした/\。文イヱ/\これ兄様ン。有ルぞへ/\。高うはいはれぬ。甜《地ハル》コレかふ/\とさゝやけば。文《地色ハル上》ヤア/\/\それはまあ《ウ》ほんかいの。コレのふ/\と《ウ》取付イて《スヱテ中》わつと計リに泣沈{しづ}む。政《詞》ヲヽ道理/\。文《ウ》おかるは始終{しゞう}《上》せき上ケ/\。口にもろ/\のふ浄{じやう}をいふても。《フシ》母の《ウ》心もいそ/\と。《合上》都とのごにあふてつらさが語りたや《色》ソウトモ/\。《ヒロイ》きり/゛\す。
第九段  山科閑居の段 自慢{じまん}の庭でも内の酒は呑ぬ/\。ヱヽ通らぬやつ/\。サア/\奥へ/\《地ウ》奥はどこにぞお客が有ルと。《詞》ヱヽ奥無粋{ぶすい}なぞや/\。ヲイこれ/\/\。こぶら返りじや足の大指折ツた/\。おつとよし/\。《詞》申シ/\母人。ハイ/\/\。イヤ/\。アイ/\《地ハル》間イの切リ戸のうち。《詞》頼ませう。/\といふ声に。《地色ウ》御案内{あんない}頼ますといふもいそ/\娘の小浪。《詞》是は/\。《詞》是は/\悼{いたみ}入ル御挨拶{あいさつ}。《ウ》只あい/\も口の内。《地ハル》/\と言放{はな}し。《ウ》娘の顔を《ハル》つく/゛\と。《ウ》打ながめ/\。《詞》ムヽ/\扨は浪人の身のよるべなう筋目を言立テ。《ウ》/\と。《ウ》由良ノ助夫婦の《ハル》衆へ孝行{かう/\}尽し夫婦中。《上》わしやいや/\と一ト筋に《フシ》恋を立テぬく心根を。《中》ふるふ拳{こぶし}を《ハル》漸{やう/\}に。敵は漸{やう/\}薄手計リ。殿はやみ/\御切ツ腹。《ハル》笠脱{ぬぎ}捨てしつ/\と《ウ》内へはいるは。《詞》ヤアざは/\と見ぐるしい。《ウ》/\/\と《中》裾{すそ}引キ上ケ。《ウ》親子ははあ/\《フシ》あやぶむ中へ。まつかう/\の物語。《地ハル色》ヤア/\本蔵殿。《詞》ヘツヱ有難{ありがた}し/\。《詞ノリ》イヤ/\夫レは僻言{ひがこと}ならん。《ウ》障子{しやうし}残らずばた/\/\。《ウ》本蔵苦{くる}しさ打忘れハヽア《色》したり/\。《地ハル》力弥はしづ/\おり立て父が前に《色》手をつかへ。《荷物の工面{くめん}仕らんと聞もあへず何さ/\。
第十段  天河屋の段 《詞》サア始りしや/\。面白い事/\。とうざい/\《文弥ハルフシ》爰に哀を。もふ人形{にんじよう}廻しいや/\。ちよこ/\舟へ荷物が行。《詞》用があらばはいつた/\。是は/\御念の入た義。《色》/\眼。《ウ》取ツて引キ寄セさら/\と。一ぱいまいつて重畳/\。外カへ嫁入する性根なら心は残らぬ勝ツ手/\。《ウ》ほう/\起{おき}て《詞》コリヤ義平。《ヲクリ》つぶやき甜/\立帰る。《灯{ひ}かげを隠して窺ひ/\《ウ》犬とおぼしき家来を招{まねき}。《色》誰レじや。/\も《ハル》及びごし。《詞》イヤ宵にきた大舟の舩頭でござる。纔な事であろあす来た/\。《ウ》明クると其儘捕{とつ}た/\。我カ見る所で殺した/\。溟{せが}レも目の前突ケ/\/\。暫し/\と長持より。《ウ》捕リ手の人/゛\一ツ時に。《詞》馴染{なじみ}近カ付キでなき此人/゛\。《ウ》麁忽の段は《中》まつひら/\。《地ハル》いつかな/\武士も及ばぬ御所存ン。《ウ》有がたし/\とすさつて三拝人々も。お馴染{なじみ}ない御旁{かた/゛\}は気づかひに思召スも尤。よく/\町人はあさましい物。《ウ》あつき詞に人/゛\も。先キ手組の人/゛\は。《詞》伊五よ/\と呼声が。とつた/\と大勢来たが。ヘヱヽ可愛やそふであろ/\。《詞》ヤイ/\伊五めどこにおると。アイ/\《ウ》爰にとかけ入ル跡。嚊様/\と尋おる。《詞》しく/\泣イておるを見ては。《ウ》くど/\いはずと早く《色》おいきやれ。《ウ》いなぬ/\と門ト打たゝき。《詞》情じや。《ウ》いつそ殺して/\と《中》泣さけぶ。《詞》御亭主/\。返す/\も此度のお世話。踏付ケた仕方あたいま/\し。ヤア/\/\此一包は去リ状。
第十一段  勢揃より引上の段 苫《ウ》ふか/゛\と稲村が崎の油断を頼にて。《ウ》大鷲源吾かけやの大槌《色》引ツさげ/\。溟レ力弥を始とし表門より入/\/\。高塀に打かけ/\《ハル》雲井耘もと《ウ》さゝがにの《中》登リ課せた塀の屋根。《ウ》役所/\を打廻り窺ひ《中》廻るぞ《ウフシ》不敵なる。《ウ》杉野木村三村の一党《ハル》我レも/\と込ミ入ツて。鴨居はあがり敷キ居はさがり雨戸はづれて《ウ》ばた/\/\。《ウ》はやりをの若者共もみ立テ/\三重《上》甜切結ぶ。《詞》ヤア/\御屋敷キ騷動の声太刀音矢叫び事さはがしく。《地ハル》両家の人々聞届ケ《色》御神妙/\。《詞》部屋/゛\勿論上は天井下は簀子。《色》ヤレ平右衛門待テ/\と。矢間十太郎重行。《ハル》師直をに引ツ立テ《色》コレ/\何れも。《地ハルウ》聞より大勢イ花に露いき/\勇で《色》由良ノ助。《詞》ヤレでかされた手柄/\。《詞》いさ/\御一人づゝ御焼香。先ツ惣大将なれば御自分ン様より。イヤ/\夫レは存も寄ず。。よく/\主君塩冶尊霊の。《ウ》はつと押シ戴/\。《詞》ヤア/\大星。《色》請ながし/\。《地ハル》ヲヽ手柄/\と称美の詞。
 
 上に示したように、踊り字で書かれた文は381個ありました。その中でも、踊り字が二個以上続けて書いてある語について着目してみました。
第二段
 てう/\/\ がぶら/\/\
第三段
 ハイ/\/\ 是は/\/\ 勘平/\/\ ハヽ/\/\ ハヽ/\/\ イヤ/\/\ ばた/\/\
第四段
 暫/\/\。 イヤ/\/\ 扨/\/\ 
第五段
 暫/\/\ イヤ/\/\ 扨/\/\ これ/\/\。 てん/\/\。 こそ/\/\。
第九段
 これ/\/\。 ハイ/\/\。 ばた/\/\。
第十段
 突ケ/\/\。 ヤア/\/\
第十一段
 入/\/\。 ばた/\/\。
「/\」が二つ繰り返される表記は、前半は文中に表記されているものが多いですが後半になると文末に書かれていることが多くなります。
また、「/\」が三つ表記されているものには、
第三段
 ぴり/\/\/\ ハヽ/\/\/\
第四段
 よもや/\/\/\
第五段
 よもや/\/\/\
があります。四回同じ語を繰り返すのは少しくどい気がしますがそれだけ、強調したい語だったのでしょうか。また、第五段には、
 あれ。/\。/\ 方へ。/\。/\
のように、句点を挟んで「/\」を書いている表記例がありました。原本で直接このことを確認したかったのですが、資料が見つからず確認はできませんでした。そして、第三段では、「ハイハイ/\ 」という表記が見えます。「ハイ/\/\」としていないところに表記上のおもしろさが見えます。
 上記にあげたように、「―/\」「―/\/\」「―/\/\/\」「―。/\。/\」「――/\」という表記上の差異がありました。「/\」記号の数を一つであったり、三つであったり、表記の数を変えることで変化が現れて文章が生き生きと見えます。このように、「/\」記号の表記を変化させた筆者の意図とするものとは何であったのかということや、「/\」記号に留まらず細かい文字表記に注意して見ていくことでより深く『仮名手本忠臣蔵』が理解できるのではないかと思います。  
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国語史 投稿者:jk5130 投稿日:12月13日(水)03時02分15秒 
  12月6日の分です。
「武士の一分(いちぶん)」はCMや、広告などで見ていて、とても興味があり、今度観てみようと思っていたので、更に楽しみになりました。
歌舞伎役者などは、高校の時に見行きました、大した知識があったわけではなかったので、正直面白く無かったです。でも、『仮名手本忠臣蔵』のホームページを見て、すごく面白かったし、興味が湧きました。今なら意味を理解しながら、楽しく観れそうだと思いました。機会があれば今度見に行きたいと思いました。  
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国語史 投稿者:JK5076 投稿日:12月13日(水)02時41分56秒 
  12月6日の分です。
『仮名手本忠臣蔵』のホームページ面白かったです。歌舞伎は実際に見たことはなく、難しそうだなって思っていたけれど、一度見に行きたいと思いました。
『武士の一分』、観てみたいなぁって思ってました。
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日:12月12日(火)19時14分59秒 
  遅れてしまってすみません。
『仮名手本忠臣蔵』のホームページ、とっても面白かったです。
歌舞伎もいつか必ず観に行きたいと思っているので、行ったことのある方にいろいろ感想を聞きたいです。
後期課題、頑張ります。 
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日:12月11日(月)21時22分9秒 
 「武士の一分」は今度観る予定なので楽しみです。
歌舞伎役者は最近ドラマなどに出ているので身近な存在だとおもいます。なので今度ぜひ見に行きたいと思いました。  
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日:12月 9日(土)22時13分41秒 
  高校生のときに、地元で歌舞伎の襲名披露公演を見ました。
イヤホンガイドがあって、とても解りやすく、楽しめたのを覚えています。
ぜひ今度、舞台の裏側を見てみたいです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:MK6114 投稿日:12月 9日(土)11時52分39秒

  『武士の一分』の映画を見てみたいと思いました。  

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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日:12月 9日(土)10時24分17秒 
  「武士の一分」を「たけしのいっぷん」と先生がおっしゃったとき思わず笑ってしまいました!でも現実問題としてそう呼んでもおかしくない時代になっていることは国文学科に在籍してるわたしにとっては、むなしく感じられてきました。
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6060 投稿日:12月 7日(木)20時33分45秒 
  私は芸能などにとても疎いので『武士の一分』という映画のことを授業で始めて知りました。私も普通に読んだら「ぶしのいっぷん」と読んでいるところでした。こういうことをやっていてよく思うのですが、最近の若者は日本語ができなくなってきていると言われているのを実感させられます。 
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:12月 6日(水)10時32分3秒 
  今私たちが読んでいる忠臣蔵は原作でなく、3人の合作であることに驚きました。
歌舞伎と本を聞き比べてみたいなと思いました。
あと先生が紹介していたクイズはとても面白そうなので本を読んで内容を理解したあとにやってみたいと思いました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6160 投稿日:12月 6日(水)10時30分46秒 
  「武士の一分」の映画を、ちょうど今日見に行く予定だったのですが、「一分」が「面目」だという意味だったのは知りませんでした。よくタイトルの意味がわかっていなかったので、行く前に知れてとてもよかったです。
それから『仮名手本忠臣蔵』のホームページがとても面白かったです。改めて忠臣蔵の素晴らしさを知ることができました。ぜひ家へ帰ってからじっくり見てみようと思います。
※朝日新聞2006年12月4日付、天野佑吉さんのコラム「監督の一分」を紹介
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2006.12.13(水)第一限目・教場:4−302

  町人文化とことば

 十返舎一九編東海道中膝栗毛 PDF版

               紀田順一郎著『日本の書物』引用資料

 
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日:12月20日(水)00時44分4秒 
  遅くなってすみません。11日の分です。
十返舎一九の名前は昔から聞いたことはあったのですが、今回初めて内容に触れることができました。
『東海道中膝栗毛』の挿絵がおもしろかったので時間があるときに読んでみたいと思います。
「べらぼう」で調べてみたんですが、想像図が分からず、実際はどういう感じだったのか気になります。  
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国語史 投稿者:JK5076 投稿日:12月19日(火)23時44分50秒 
  13日の分です。
『東海道中膝栗毛』についていっぱい知らないことがあったなって思いました。作者の十返舎一九が、何代か続いていたことや「べらぼう」の意味も知ることができて、楽しかったです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6201 投稿日:12月19日(火)21時00分45秒   『東海道中膝栗毛』の意訳のを読んでみたところとてもおもしろかったので、いつか原文でも読んでみたいと思いました。
「べらぼう」の意味もわかってよかったです。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4148 投稿日:12月19日(火)11時08分42秒 編集済
 『東海道中膝栗毛』についての書き込みです。
 「べらぼう」に充てられる字は、現代語を中心とする国語辞典では「箆棒」「可坊」「便乱坊」を見出し語に載せ、この内「箆棒」が最も多く、次いで「便乱坊」「可坊」の順になっています。
 また、古語辞典や明治期の辞典にまで範囲を広げても『角川古語大辞典』に「べら坊」を見るのみで、あとは漢字表記自体がないか、前述の通りです。
 上のように現代において「べらぼう」には「箆棒」「可坊」「便乱坊」を充てるのですがその意味についての言及は多くはありません。
 『講談社カラー版日本語大辞典』第二版によれば、
  便乱坊、あるいは可坊からか
とあり、古くはこの両者の内のいずれかから生まれた言葉であることを示唆し、『岩波国語辞典』第六版にも同様の解説が見えます。『広辞苑』第五版、『大辞林』増補版においては「箆棒」は当て字であると断定しています。
 しかしながら『時代別室町国語辞典』には、
  「箆棒」の濁音形か
とあって、なお慎重な考察を要します。
 以上のように「べらぼう」には多くの当て字や語源説があって、どのようにして形成されたことばであるのか興味深いところです。
『日本国語大辞典』第二版の必要箇所だけ抜き出しますと、

べら-ぼう…バウ【便乱坊・箆棒ボウ】@江戸時代、寛文(1661~73)末年から延宝(1673~81)初年にかけて、見世物で評判をとった奇人。容貌きわめて醜く、全身真っ黒で、頭は鋭くとがり、眼は赤くて円く、あごは猿のようで愚鈍なしぐさを見せて観客の笑いを誘ったという。*歌謡・淋敷座之慰(1676)はやり物の歌「一はやり物は何々ぞ、弘徽殿十二段、あふあふ新田鑓琺鉋べらぼうべらぼう」*浮世草子・日本永代蔵(1688)四・三「ある年は形のおかしげなるを便乱坊(ベラバウ)と名付、毎日銭の山をなして」A【1】ばかな人。たわけ。ばか。あほう。多く、人をののしっていう語。これに接尾辞「め」が付いて「べらぼうめ」となり、さらに音が変化して、江戸ことばの「べらんめえ」となる。*狂歌・卜養狂歌集(1681)「この竹をけづりてごくを押つぶす、これぞまことのそくひべらぼう」*咄本・座笑産(1773)とびの者「べらぼう、昼よしわらがあるものか」

とあり、最初の意味として彼の奇人をあげます。多くの辞書も同様で、総合すれば、特定の奇人をさす言葉 から 馬鹿な人。愚かな人。へと一般化していったと見ることができます。ではいつ頃から意味が転じていったかを見てみると、一般に言う「べらぼう」の意の初見例が狂歌・卜養狂歌集(『日国』二)なので、そう長くない内に意味の拡がりを見せたと言えそうです。
 一方、「箆棒」からの転とする『時代別室町国語辞典』〔三省堂刊〕では、

玉塵(1563)「吾ガ老子ノミチヲウカガウタコトハ、ステガタメノ中ニデキタ??ホドノコトゾ。酒ニデク浮蛆ノツレヲベラボウト云ゾ。井ノ中ノ蛙ノツレゾ。スガメニフタヲシタ如ナゾ」

と、「便乱坊・可坊」より遥かに古い用例を挙げています。
 これによって「べらぼう」の語形が既に室町時代からあったということが知られます。ただ、仮名書きですので、これが直ちに「箆棒」からの転と判断することはできません。また、「箆棒」の濁った形ならば何故、語頭が濁音化したかについても考えて見なければなりません。さらに蛆をあざけって言った語であることにも注意の必要がありそうです。
 以上を総合して、「べらぼう」が既にあざけりの意味で使われる語として存在し、それが彼の奇人に当てられることによって、人に対するものとして一気に拡がりを見せたのではないか、ということが予想されます。
 ここまでが辞書から読み取られる情報です。後は実際の用例を集めてから考えたいと思います。この語がはじめどのようにして使われ、変わっていったのか、ことばの変わりざまや江戸文化の一端を見る上でも一度じっくりと調べてみたいと思います。
*『玉塵抄』についても少し勉強してみたいと思い、出雲朝子『玉塵抄を中心とした室町時代語の研究』(桜楓社)を探したのですが生憎貸出中で今回の考察の中には入れられませんでした。しかし、こんなものも図書館にあるのかと少しびっくりしました。
*書き込み溜めていて申し訳ございません。まとまったものから直ぐに出していきたいと思います。すいません。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日:12月18日(月)19時32分2秒 
『東海道中膝栗毛』初編と二編上下に書かれている打ち消しの「ず」、推量・意志の「ず」の用例をあげました。個々の例文に行数をつける事は出来なかったのですが、小学館の新編日本古典文学全集『東海道中膝栗毛』に依拠して章段ごとに頁数を記しました。
膝栗毛發端序 18頁〜
○其所に尻すはら
道中膝栗毛發端22頁〜
○五合徳利(ごがうとくり)の寐姿(ねすがた)ながしもとに絶(たへ)
○一生(いつせう)やらにおきやアしめへし、弥次「ナニ拔身(ぬきみ)がくはれるものか。
○しかしこいつもきらとあればきづけへなしだ
すいた男に添(そは)せずとおもひきはめ、わざ/\めしつれて參つておざるヤア。
○まづ祝(いわ)つて冷酒(れいしゆ)でなりと盃(さかづき)をさせに、國元(くにもと)へひいていかにトくわいちうよりはやなわを取いだし
○ほかへ縁(えん)につかこたアいやだといふ。
事がないと、それから其利金太(りきんだ)かたへ使(つかひ)をつかはし、
○こと神(しん)もつてあ存(ぞん)ぜ
○勝負(しやうぶ)を決(けつ)せとの返事(へんじ)、
○妹が兄(あに)にかくして夫(おつと)を持(もち)しをしらして、
○アニハイ兵五左衞門ともいはるゝ侍(さぶらひ)が生頬(なまづら)さげてかへられかヤア。
○サアことがないと諦(あきら)めて縄をかゝれ。
○但(ただ)しは踏(ふみ)つけてめしとらかヤア
○サア斯(こう)わけていふうへに暇(いとま)をもくれ
ねづみいらから五合とくりをとりいだし、
○コリヤア四海(しかい)浪(なみ)しづかにといひてへが謠(うたひ)はしら、あした來て潮來(いたこ)でもやらかしませう
○しくぢつて虻(あぶ)もとら蜂(はち)もとらだから、
○かほ、弥次郎ふしんはれ
○うちへは入れ、北八さまのもらひ分にて、親の手前を引とられ、余所(よそ)の内に預(あづけ)られておりましたが、
○ひとつふたついひつのりて、弥次郎こらへ
○ウン/\うなつてくるしがるをもかまわ
○そとより戸をあけんとするにあか
○きた八とりさへてもきか
○きた八おもわなきいだし斯(かう)なつては親(をや)の所へもしらせばなるめへ。
○是から買(かひ)ものをはなるめへ
○酒もあとからかひたして、いろ/\なだめてもいつこうきゝいれ
○入金(にうぎん)を曾(かつ)て出(いだ)さ
○満尾(まんび)に至(いた)ら
 
浮世道中膝栗毛初編51頁〜
○身上(しんしやう)のこら
○まだも心がゝりは酒屋(さかや)と米(こめ)やのはらひを
○雖非亡命可奈何(かけおちにあらといへどもいかんがすべき)
○借金不報 尻過(しやつきんはらはしりをはしよつてすぐ)
○コウむだをいはとはやく喰(く)はつし。
○このてやいつねに名をいは
○馬(むま)の糞(くそ)たアしら
○よふすは殘(のこ)ら、あれにてきいた。
○弥二「コレしやれと、
○北「はてさコレ、そふいはと、
○此ふたり寐(ね)もやら
○引もきら
○灰のたつをもかまは
○親仁「モシ/\、わしはそんなものはくはとよふござる。
○わらぢもとかに足(あし)を洗(あら)ふか
○たばこをのまにゐにやアならねへ
○たきゞ多分にいら
○ヱヽ埓(ちら)のあかねへ男だト心の内はおかしさこたへられ、ざしきへかへる。
○しやれもむだもいつかういは
○人の心もしら
○北八が姦計(かんけい)とは露(つゆ)しら
 
道中膝栗毛後編凡例 84頁〜
○笑ふべきに非(あら)
○たとへば駿遠兩國にて、行といふを行ずといふは行んずる也。酒を呑(のま)ず飯(めし)を食(くは)ずとは皆呑んず喰んずるなり物類称呼に見えたり。
味(うま)から
○暇(いとま)あら
浮世道中膝栗毛後編 88頁〜
○ねつから急(いそが)ほどに、
○ひきもきら
○なるやならにしにやした
○ドレむかひにいかずにト女はたつて行。
○行ふといふ事をゆかずといゝ
○くはふといふ事をくはずといふ。
○ぶつてもたゝいてもいつかうにはなれ
○さきへやらかせトかまはめしをくひかゝる。
○北八「ちげへなしさ。コレ弥次さん、おめへりきんでもはじまらねへ。どふもしやうことがねヘハさ(トいはれて見れば、弥二郎もなるほどゝおもつたところが*つまら、ふさぎきつてだんまりでいる。)*つまらず・・・何ともならない。※()内は割注になっている。
○ごまのはいのゆくゑをたづぬれども、いつかうしれ
○アイタヽヽヽヽにんそくはいさいかまは
○まだめしもくは沼津(ぬまづ)をうちすぎてひもじき原(はら)のしゆくにつきたり
道中膝栗毛後編坤 111頁〜
○人もきがつか
○アヽうめへ/\トのこさくつてしまい
○わし共もちからのウおとして、是ほど祈たのに、鬼はうま、しかもこんなに滿足(まんぞく)な、人間の子をうむといふは、
○下へおちたと|ころが何か箱のよふなものゝ中へおちて、いつかうにわから
○コレ弥次さん、ねたふりをしてとおきてくんな
○アヽおしいもんだトのこら犬にやつてしまい、
○手拭(てぬぐひ)のさきを結(むすば)してかぶり、
○更(さら)に風俗(ふうぞく)定まら
○今いかに小ざゝの「ハレ小雨やア、久能(くの)の仙(せん)さんはおざつたか
○こんぢう(此中)からいか/\といつてよこして、
○おつとい(一昨日)もきんによう(昨日)も、來(こ)/\とおもつたが、
○うじやへも川なべのおんぢい(伯父)どんの附(つき)合で、いかこたアいつたアけれど、
○馴染(なじん)でいかこたア、
○づなく(無上)そふいやア事がない
○かんにこたアおざりましない
○ほうばいしうの前(まへ)へ、たゝよふがおざりましない。
○わしがことを見さしやいまし。
○客「ヤレそりやアわし(私)よヲどふせとおもつて
どふせもんか、髮(かみ)をきらにヤア
またこたアおざいましない
きらこたアゆるしなさろ
○ナニゆるさもんで
○ソレきら
○これでもてうじやへいか
○やすくやらに、おたのん申ます
○ていしゆ「ハイ今でき
○ていしゆ「ハレじつきにこしらへに、ちいとまちなさろ
○女房「おまい箸(はし)のあらつたのウしら
 上記のように、初編、二編上下に書かれている「ず」は104個あり、打ち消しの「ず」は95個、助動詞の「ず」は9個ありました。打ち消しの「ず」で今日あまり用いられていない語に「たばこをのま」がありました。余談ですが「煙草を飲む」の例としては、永井荷風著『隅田川』にも、「もう煙草飲むようになったのよ」と使われております。
 また推量・意志の助動詞「ず」には、
○たとへば駿遠兩國にて、行といふを行ずといふは行んずる也。酒を呑(のま)ず飯(めし)を食(くは)ずとは皆呑んず喰んずるなりと物類称呼に見えたり。
○ドレむかひにいかずにト女はたつて行。
○行ふといふ事をゆかずといゝ
○くはふといふ事をくはずといふ。
と、上にあげた9箇所に見られました。
 また、『東海道中膝栗毛』〔小学館日本古典文学全集94頁LO、95頁L@〕には、
ドレむかひにいかずにト(女は立って行。すべてこのあたりより、*するがゑんしうかけ川あたり迄は、行ふといふ事をゆかずといゝ女くはふといふ事をくはずといふ。やがてかの女、ふすまのかげにのぞいてたつているをひつぱりでる)※()内は割注。
とあり、
「*するがゑんしう」の所に
  遠州(遠江)掛川(静岡県掛川市)『物類称呼』に「尾張にて、ゆかずといふは行んずる也。馬をやらず、駕籠をやらず、など道中にていふ事也。」
という注があります。
 推量・意志の助動詞「ず」を角川『古語大辞典』で調べてみたところ、
「むとす」→「むず」→「んず」→「うず」→「ず」。用言の未然形に接続し、推量、意志を表す。『物類称呼』卷五に「尾参遠駿申信にてズ」とあるように、東海・東山両道の方言に残り、田舎詞として文学書に用いられる。「このうたぬし、またまからずといひてたちぬ(土左)」の「ず」がこれと解されたこともあるが、むしろ「まだからず」として、打消の意に解される。
とあります。
また、『日本国語大辞典』第二版には、
(「むず(んず)」の撥音無表記。また、中世以降の「うず」の変化したもの)意志や推量の意を表わす。*史記抄(1477)一〇・呉太伯世家「王僚は可殺とはやすく殺さずと云ぞ」*寛永刊本蒙求抄(1529頃)〈用例略〉*歌舞伎・大雑書伊勢白粉(1696)〈用例略〉*滑稽本・東海道中膝栗毛―発端(1814)「すいた男に添せずとおもひきはめ、わざわざめしつれて參っておざるヤア。」*滑稽本・続膝栗毛(1810‐22)四・下「『そんなら九百五十で手を打うか』『エエ憂いことでや、せずことがないに、九百五十にまからかいでやらずか』」
とあります。
『日本国語大辞典』第二版によると、打ち消しの助動詞「ず」は、『古事記』(712年)に初出用例が見えますが、推量・意志の助動詞「ず」は、『史記抄』(1477年)に初出用例として見えているので、比較的新しい語です。
『東海道中膝栗毛』に、推量・意志の「ず」は、東海・東山両道の方言に残って文学書に用いられる、とありますが、現在では「負け嫌い」という語が私たちの身近で使われています。この「負けず嫌い」、元々は方言として使われていたのかもしれませんが、現在は静岡の人々に限らず津々浦々で用いられる語なので、共通語として定着している語ではないかと思います。
 それから『東海道中膝栗毛』に出てきた語で、現在でも静岡の方面では「行く」の事を「行ず」「行んずる」、「呑む」事を「呑(のま)ず」「呑んず」、「食べる」の事を、「食(くは)ず」「喰んずる」という言葉を日常的に遣っているのでしょうか?ご存じの方お答えいただけたら幸いです☆
 以前、「うま」と「むま」の読みについて取り上げましたが、道中膝栗毛後編凡例、85頁L1に
○都(すべ)て筥根(はこね)より伊勢路(いせぢ)までは、(むま)おまといひ、又いまといふ。*『日本紀』に馬をいまとよませり。仍(よつ)て相通(さうつう)しておまともいふ
*『日本書紀』舎人親王・大安万侶等奉勅撰。養老四年(七二〇)成、三十巻。六国史の最初の正史。ただし、この例しらず。「うま」「いま」相通の例は『北辺随筆』に所見とありました。
「うま」を「おま」「いま」と読むなど、方言によって色々な読みが垣間見えていてとても興味深く拝見しました。
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日本言語文化研究T 投稿者:1ck4167 投稿日:12月18日(月)18時56分50秒 編集済
  今回の『東海道中膝栗毛』で先生が取り上げていらっしゃった箇所に女性が「わし」という部分がありましたので、その部分について調べてみました。
 先生が前期にご紹介されていた山口仲美さんの『日本語の歴史』の中の「『ワタシ』『ワシ』も江戸時代から」という項目に、「女性が『ワシ』を使ったのです。現在の、年寄りなどが目下のものに対して使う『ワシ』とは明らかに違っています。(中略)江戸も後期になると、「ワシ」は主に男性が用いるようになり、現在の使い方に変化していきます。」【P.155より抜粋】と述べており、日国第二版を紐解いてもでもほぼ同じ説明がなされています。
まず、この『東海道中膝栗毛』が創作された江戸時代後期の一人称代名詞には
@わたくし Aわたし Bわれら Cわがみ Dわし Eみ Fみども G拙者
Hおれ Iおら Jおらァ Kおいら Lわっち M手前
がありました(この内@・B・E・Gは江戸前期から使用されていました)。また、この人称を江戸後期の拙本の中から待遇価値の高→下を見たところ
@わたくし→Aわたし→Dわし・Lわっち・Hおれ・Iおら・Jおらァ・Kおいら
の順になります。わし〜おいらの人称はいずれも下層間で使用され、待遇上の大きな差異はありませんが、どちらかというと、Dわし・Lわっちの方が以下の人称よりもやや高い待遇があるそうです。
 少し話は変わって『東海道四谷怪談』に移ります。この中に出てくる言葉を三段階に分けると、T・上方風 U・東国風 V・その両方 になります。この内、「わし」や、語尾に「じゃ」「ぬ」が付く現在の漫画などで多く用いられている「老人語」とでも言うべき言葉はTの上方風に入り、現在の私たちが使用する標準語に近い言葉はUの東国風になります。そして、この『東海道四谷怪談』では、上方風は老年層が、東国風は若者が使用しているということが分かります。
 18後半〜19世紀にかけて、江戸における言葉遣いは上方風が主流でしたが、段々と江戸において東国風の言葉を用いるようになりました。
 しかし、老年層は規範的な言葉として上方言葉を手放さず、逆に若年層の人々は新しく共通語となっていった東国言葉を用いるようになり、階層的な使い分けが存在することになりました。つまり、今までは性差も年齢差も問わずに用いられていた言葉が老人特有のものになっていったのです。
 ちなみに、明治34年の『日本俗語文典』を引いてみますと、自称代名詞の「わし」は、「男の使ふ言葉で。多く中等以下に用ゐられる。」としています。
 「老人語」の変遷については、金水敏さんが大変面白い本をお書きになられていて、とても参考になりました。
《参考文献》
 日本語の歴史           山口 仲美  岩波新書
 ヴァーチャル日本語 役割語の謎   金水 敏   岩波書店
 江戸時代語の研究         佐藤 亨   桜楓社
 江戸時代の国語 江戸語       小松 寿雄  東京堂出版
 日本俗語文典           金井 保三  勉誠社 
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国語史 投稿者:jk5031 投稿日:12月17日(日)08時29分30秒 
  「べらぼう」の意味をはじめて知りました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日:12月16日(土)15時01分41秒 
  東海道中膝栗毛の作者である十返舎一九直筆の手紙が今年の新聞に報道されていることを初めて知りました。各新聞社によって内容が微妙に違いますね。挿絵があるところに面白みを感じました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6060 投稿日:12月14日(木)20時09分54秒 
  十返舎一九が三代目まで続いていて明治時代までいたというのが驚きました。また『東海道中膝栗毛』には続編もあると初めて知りました。今も人気があるとよく続編が作られますが、当時も人気があるものは続編が作られたんですね。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cg6160 投稿日:12月14日(木)16時23分53秒 
  十返編舎一九も何代目とかがいたんですね。今の時代にはない滑稽さが感じられました。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4052 投稿日:12月13日(水)18時54分54秒 
 「べらぼう」って何だか意味の分からない言葉だと思っていたら、ちょっと変わった人間のことをそう言っていたところからきていたのですね。「べらんめえ」もここから出ていたとは…。
江戸言葉は勢い?があって元気になる気がするのですが、挿絵とことばのところで女性が「わし」と使っているのをみて新鮮に感じました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日:12月13日(水)10時31分29秒 
  『東海道中膝栗毛』、意訳版のものを少し読んだことはあるのですが、原文に触れたのは今日が初めてでした。弥次さんはずいぶんあちこちで「べらぼう」を使っていたのですね。
『東海道中膝栗毛』は単なる紀行文ではなく、その旅の中のエピソードや失敗談なども盛り込んだ心温まる話で大好きな作品です。今度全文原文で読むのにチャレンジしてみようかなと思います。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:12月13日(水)10時29分9秒 
  『東海道中膝栗毛』のことは知っていましたが、膝栗毛が自分の膝を栗毛の馬にたとえたものだなんて知りませんでした。早稲田で公開しているようなので機会があれば見てみたいです。
達磨の話もとても興味深かったです。達磨にはいろいろな逸話があるので気になりました。
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日:12月13日(水)10時26分26秒 
  「十辺舎一九さん」は初めて聞きました。東海道を旅したり、江戸から脱出してお参りしたりしている方なんだと思いました。何かこのように旅するのは芭蕉さんに似てると思いました。
早稲田大学の図書館でしか見れない本はとてもプレミアだとおもいました。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6179 投稿日:12月13日(水)10時31分29秒 
  『東海道中膝栗毛』、意訳版のものを少し読んだことはあるのですが、原文に触れたのは今日が初めてでした。弥次さんはずいぶんあちこちで「べらぼう」を使っていたのですね。
『東海道中膝栗毛』は単なる紀行文ではなく、その旅の中のエピソードや失敗談なども盛り込んだ心温まる話で大好きな作品です。今度全文原文で読むのにチャレンジしてみようかなと思います。  
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:12月13日(水)10時29分9秒 
  東海道中膝栗毛のことは知っていましたが、膝栗毛が自分の膝を栗毛の馬にたとえたものだなんて知りませんでした。早稲田で公開しているようなので機会があれば見てみたいです。
達磨の話もとても興味深かったです。達磨にはいろいろな逸話があるので気になりました。
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日:12月13日(水)10時26分26秒 
  「十返舎一九さん」は初めて聞きました。東海道を旅したり、江戸から脱出してお参りしたりしている方なんだと思いました。何かこのように旅するのは芭蕉さんに似てると思いました。
早稲田大学の図書館でしか見れない本はとてもプレミアだとおもいました。  
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2006.12.20(水)第一限目・教場:4−302

樋口一葉『たけくらべ PDF版

―雑誌「文學界」と「文藝倶樂部」所載直筆原稿―

 

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日本言語文化研究T 投稿者:ck4148s 投稿日: 1月26日(金)12時38分25秒    編集済 

   1年前の自分と今の自分を比べてみると、ずいぶん違ったことに興味を持って課題に取り組んでいることに不思議な気分がします。自然、課題への取り組み方やそれに対してとるアプローチの仕方も変わってきているわけですが、その全てに「日本言語文化研究T」の授業や萩原先生、またこの授業を通して知りえた仲間の影響が及んでいることを思います。
 日本言語文化研究Tを通して得たものの見方、考え方というのは大変多かったのですが、中で翻字の態度(資料の見方)を学んだことが自分にとっては一番大きなことでした。
 昨年は精神的な焦りから興味の方向、それを追求する努力が拡散するという事態に陥り、地に足の着いていないような、どうしようもない状況でしたが、今年はひとつぶれない軸を持って、この授業で触れたことが少しでも自分の力として身につくよう活動していきたいと思っています。1年間ありがとうございました。
(追)書き込みはどうしても文字化けしてしまって送信することができませんでしたので、後日プリントアウトしたものをお持ちします。  
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日本言語文化研究T 投稿者:cx5062 投稿日: 1月24日(水)22時01分46秒 
  大変遅くなりました。
『たけくらべ』の授業についての書き込みです。
2冊目の『たけくらべ』は晴れ着を買う為10円で売ったとおっしゃっていましたが
当時の10円が現代のいくらに相当するのか全く分かりません。
ですが晴れ着を買えるだけの価値がこの頃既に幸田露伴らの高い評価のため、一葉の原稿にはあったのですね。
ですが2つの一葉による真筆原稿の、所々異なった書き方がされている理由が
はっきりとわからないのが気になりました。 
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4724 投稿日: 1月24日(水)21時00分9秒    編集済 
  樋口一葉『たけくらべ』のコメントです。
『たけくらべ』には、
「父親(てゝおや)が」文学界〔十22下E〕→「父親(ちゝおや)が」 版文藝〔十59M〕
「父親(てゝおや)は」文学界〔十22下H〕→「父親(ちゝおや)は」版文藝〔十59O〕
とあります。「てゝおや」と「ちゝおや」にはどのような音韻の変遷があるのか、また一葉が「父親(てゝおや)」と表記したことの意図を考えてみたいと思います。
以下に「岸田武夫著『国語音韻変化論』第三章 音韻交代」を引用抜粋しました。
 
エ列音とイ列音の交代
〈上代〉
/‐i/→/‐e/
ヒラサカ→ヘラサカ(平坂)〔山者平坂〕(紀・崇神)‐山代之弊羅坂(記・崇神)〕・キス→ケス(著)〔那賀豆
勢流意須比能須蘇尓(記・景行)〕・ミス→メス(見)〔食國乎賣之賜牟登(万・一・五〇)〕・トシ→トセ(年)〔伊都等世(万・五・八八〇)、知等世(万・一八・四一三六)〕
〈中古〉
/-i/-/-e/
サヒヅル→サヘヅル(屏)〔佐比豆留夜(万・一六・三八八六)‐屏左へ豆留
(天治本新撰字鏡)〕・カギロフ→カゲロフ(蜻蛉)〔蜻蛉和名加岐呂布(本草和名)‐蜻蛉加介呂布(十巻本和名抄)〕・ミミシヒ→ミミシヘ(聾)〔聾耳志比
(享和本新撰字鏡)‐聾弥々者戸〕
/-o/-/-e/の交代
テル→トル(照)〔比賀刀礼婆(万・一四・三五六一)〕
〈中古〉
/-o/-/-e/
ココロナク→ケケレナク(心無)〔介々礼奈久(風俗歌・甲斐)・ホソ→ヘソ(臍)〕〔枢臍和名保曽俗云倍曽腹孔也(二十巻本和名抄)〕・ヒトツ→ヒテツ(一つ)〔ひてつくるまに(枕・ふと心おとりとかするものは)〕・キノフ→キネフ(昨日)〔昨日(前田本書紀・仁徳・院政初期点)〕・シロモノ→シレモノ(白物)〔借者(カスハ)白物(シレモノ)(世俗諺文)〕・ナヨシ→ナエシ 〔しりくへなはのなよしのかしら(土佐・一月元日)ナエシ(観智院本名義抄)〕
/-e/→/-o/
アメ→アモ(天)〔安母仁万須(鍋島本神楽歌・篠)〕・フセグ→ホソグ(防)〔将防(ホソカントシ)(前田家本書記・仁徳・院政初期点)〕
〈中世〉
/-o/→/-e/
コドネリ→コデヌリ(小舎人)〔小舎人(コデヌリ)(文明本節用集)〕
/-e/→/-o/
テテ→トト(父)〔はゝはてゝの手にもまさりて(宇津保・俊蔭)・父ハチヽ也。ソレヲテヽトモイヘル如何(名語記・五)-江口にてしろといふあそびのむすめのとゝをぐして(散木奇歌集・悲歎)・とゝさまは内にござるか(虎明本狂言・はうちやう聟)〕
 中世においては特にヨ/jo/とエ/je/の交代が多い。
/jo/→/je/
ナヨヤカ→ナエヤカ(嫋)〔なへやかなる直垂のこしつき(延慶本平家・五・第二末・文学が道念之由緒事)〕・カラヨモギ→カラエモギ(唐艾)〔菊花辛与毛支(天治本新撰字鏡)ー〔青蒿(文明本節用集)〕・オヨグ→オエグ(泳)〔游泳(伊京集)・voyegui,u,という方がまさる(邦訳日葡辞書)〕・ヨモギ→エモギ(蓬)〔yamogui(天草本平家・四・一九)〕
/je/→/jo/
ヒエドリ→ヒヨドリ(鵯)〔鵯 和名比衣止利(本草和名)ーひよ鳥(為忠集)〕・モエギヲドシ→モヨギヲドシ(萌葱威)〔もよぎおどしの鎧きて(平家・七・実盛)〕・モエギ→モヨギ(萌葱)〔萌黄(太平記・三一・武蔵野合戦事)・萌黄(運歩色葉集)〕・エウ→ヨウ(酔)〔酔ヨウ〕(倭玉篇)・酔(文明本・黒本本・天正十八年本・饅頭屋本各節用集)〕・エ→ヨ(得)〔浮山ノ浮フヲヨミヌソ(四河入海・二ノ三)〕
〈近世〉
/‐o/→/‐e/
ワゴリヲ→ワゴレ(我御寮)〔やゝわごれは何しにきた(狂言記・金岡)〕・コットイウシ→コッテイウジ(特牛)〔特牛を、こつていうじ如何(かたこと・四)〕・ココノツ→ケケネツ
(九)〔遠江にて九ツを、けゝねつと云(物類称呼・五)〕・ココイラ→コケイラ(此所)〔こけいらでもてたと咄す川の中(柳多留・二四・三八)〕・ソイ→セイ(所為)〔人のそいにしたじやアねへか(洒落本‐素見数子)‐ぜんたいこれもほう外がせいだから(黄表紙‐高漫斉行脚日記)〕・ギョシナル→ゲシナル(御寝)〔お心おきなくげしなりませ(洒落本‐自惚鏡)〕・イロンナ→イレンナ(色々)〔いれんな馬鹿もして歩行て(滑稽本‐花暦八笑人・三・追下)〕
/‐e/→/‐o/
ナゼニ→ナジョニ(何故)〔なぜにを、なじよに(かたこと・三)・なじよにとらと祝言の、盃はさしやました(歌舞伎‐後藤伊達目貫)〕・エボシ→ヨボシ(烏帽子)〔烏帽子を、よぼしはわろしゑぼしはよし(かたこと・四)〕・セマイ→ショマイ(為)〔首が落はしよまいか(洒落本‐一事千金)〕・ナサレ→ナサロ〔もつと引付なさろ(洒落本‐道中粋語録)〕・セシメル→ショシメル〔何ぞまた、しよしめるつもりか(東海道中膝栗毛・五上)〕
『日本国語大辞典』第二版には、
ちち【父】〔名〕@両親のうちの男の方。すなわち、実の父・継父・養父の総称。父親。おとこおや。ち。かぞ。てて。しし。
*万葉(8c後)一三・三三一二「奥床に 母はい寝たり 外床に 父はい寝たり〈作者未詳〉」〈中略〉
語誌
(1)もとは「ち」に父の意があったことが「まろが知(チ)」〔古事記-中・歌謡〕などから分かる。「ち」は、また「おほぢ」(祖父)「をぢ」(伯父、叔父)などの語基でもある。
(2)中古以後に「てて」の形も認められるが、徐々に俗語的になっていったことが「てて 父の俗語也」〔倭訓栞〕などからうかがわれる。
(3)「日葡辞書」には「Toto(トト)」がみられ、この語にさまざまな接辞のついた語形が近世になって現われる。上代語では「ととさん」「ととさま」、江戸語では「おとっちゃん」「おとっつぁん」「おととさん」「とうさん」「おとうさん」などである。
(4)「ちゃん」は「おとっちゃっん」の上略語とされるが、全国に広がる方言分布からすると、それほど新しい語とは思えず、「父」に由来する可能性もある。
てて【父】〔名〕
@父。ちちおや。*宇津保(970‐999頃)俊蔭「この子変化のものなれば、この手、母にも勝り、母はてての手にも勝りて」〈以下略〉
とと【父】〔名〕
@父をいう幼児語。子が父親を敬い親しんで呼ぶ語。おとなが子の立場に立って使う場合もある。
*日葡辞書(1603‐04)「Toto(トト)〈訳〉父。子どもの用いる言葉」〈以下略〉
A転じて、夫。亭主。*浮世草子・好色一代女(1686)四・三「なんのかの言葉かさなるうちに、茶屋の阿爺(トト)階子ふたつ目に揚りて」〈以下略〉
上記のように「岸田武夫著『国語音韻変化論』第三章 音韻交代」の、/-o/→/-e/と/-e/→/-o/を時代ごとに一文ずつあげてみると、
〈中古〉
/-o/→/-e/ ココロナク→ケケレナク(心無)
/-e/→/-o/ アメ→アモ(天)
〈中世〉
/-o/→/-e/ コドネリ→コデヌリ(小舎人)
/-e/→/-o/ テテ→トト(父)
〈近世〉
/‐o/→/‐e/ ワゴリヲ→ワゴレ(我御寮)
/‐e/→/‐o/ ナゼニ→ナジョニ(何故)
とあり、中古、中世、近世の時代に「/-o/→/-e/」に移り変わる語と「/-e/→/-o/」と移り変わる語がそれぞれあることが見えます。
 また、同資料の〈中世〉/-e/→/-o/のところには
テテ→トト(父)〔はゝはてゝの手にもまさりて(宇津保・俊蔭)・父ハチヽ也。ソレヲテヽトモイヘル如何(名語記・五)-江口にてしろといふあそびのむすめのとゝをぐして(散木奇歌集・悲歎)・とゝさまは内にござるか(虎明本狂言・はうちやう聟)〕
とあり、
『日国』の語誌に、
 ○もとは、「ち」に父の意があった。
 ○中古以後に「てて」の形も認められる。
 ○「日葡辞書」には「Toto(トト)」がみられる。この語にさまざまな接辞のついた語形が近世になって現われる。上代語では「ととさん」「ととさま」、江戸語では「おとっちゃん」「おとっつぁん」「おととさん」「とうさん」「おとうさん」などである。
とあるように、「父」は「チチ→テテ→トト」と変遷してきていることが伺えます。私たちは日常「父(ちち)」や「おとうさん」をよく用いますが、「父(ちち)」は、『日国』の初出用例に『万葉集』(8c後)を用いているように最も古い読みで、「トト」の初出用例は『日葡辞書』「Toto(トト)」で、近世になってから「トト」に接辞語がついて「おとうさん」となったことばです。
 次に、現在は「テテ」ということばをあまり耳にしませんが、一葉はなぜ「てて」を用いたのかを考えてみると、まず、方言として用いたのではないかということが考えられます。小学館『日本方言大辞典』には、
てて【父】@父。また、父親を呼ぶ時の語。
仙台。伊豆八丈島。飛騨。伊勢。青森県。岩手県。秋田県。山形県。福島県中部。茨城県。東京都八丈島。新潟県中越。「ててちがい(異父子)」。石川県金沢(婦人が自分の父を他に対して言う場合)。岐阜県山県郡。愛知県名古屋市(女性が多く用いる)「てての申しまするには」。三重県。度会郡。和歌山市。島根県隠岐島(下流の語)。徳島県三好郡。美馬郡。宮崎県西臼杵郡・西諸県郡。鹿児島県種子島。
とあり多くの地域で「テテ」が使われているということがわかります。
 しかし、一葉の父と母は共に甲斐国山梨郡の農民出身で、一葉は東京生まれの東京育ちですが、両地域とも「てて」を使う地域に書かれていないので、方言として使っている可能性は低いと思われます。
 その他には、文献資料から「てておや」ということばを身につけたということが考えられます。「てて」が用いられている文献資料には、
『宇津保物語』(970‐999)「この子の変化のものなれば、琴の手、母にも勝り、母はてての手にも勝りて」
『更級日記』(1059頃)「ててなりし人もめづらかにあはれなる事也。」
『承徳本古謡集』(1099)気比の神楽「〈本〉御子と言へば天々(テテ)の御子かは、すら 神を しの宮と言(へ)る きの御子や おけ」
『名語記』(1275)五「父はちち也。それをててともいへる如何。」
『昨日は今日の物語』「ある時、てておや申されけるは」
『浄・掘川波鼓‐中』「姉はてての子の孫(そん)をつぎ後紐から酒を呑む」
『浄・雪女五枚羽子板‐厄払ひ』「ててらかからに爺婆息災」
『伽・月日の本地』「よくよく、しゅごし申せとて、御ててにぞめされける」
など中古から近代の文献に多く見られます。
 しかし、近代以後の文献資料から「テテ」を見つけることができなかったので、調べることが必要です。また一葉が生きた明治時代に日常語として「テテ」を用いていたのかということも調べるとこの意図が見えてくるのではないかと思います。一葉が「父親(てゝおや)」と表記したことの意図はわからずじまいでしたが、「チチ→テテ→トト」という変遷は理解できたので、今回はこの辺りでお開きとします。
 やっと最後の書き込みが終わって胸を撫で下ろしています。私は、前期の初めの頃に、授業で疑問に思ったことや授業に関連することを調べてこの掲示板を利用して提出していけば、知的教養が養われていくと思い立って一年間書き込みを続けてきました。一週間以内に提出できずにだいぶ遅れてしまったこともありましたが、それでも自分が一度決めたことなので諦めずに調べて投稿させていただきました。この授業では実際の資料を見る機会が多く、知識が深まったことに加えて資料を見るための目を養うことができました。一年間ありがとうございました。
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日本言語文化研究T 投稿者:ck4167 投稿日:12月25日(月)10時53分21秒編集済 
  樋口一葉の『文藝倶楽部』一括掲載時の生原稿の複製が本学図書館に所蔵されていたので、その原稿と実際に『文藝倶楽部』に活字化されて表記が変わったものとを、ルビを中心にして調べてみました。実際に見比べてみると違いが多くあったので、ここでは授業で扱っていた、『文學界』直筆原稿と『文藝倶楽部』の原稿で違いのある「美登利」の「ミどり」と「みどり」のように、「ミ」のルビの違いについて調べてみました。
【(『文藝倶楽部』活字表記→直筆原稿表記)/○は無表記の意/語頭に*はルビが両方とも同じ場合に付けました】
第一章
 三島神社(みしまじんじや→ミしまさま)
 見(み→ミ)・・・この章段の合計4例
 身(み→ミ)
 小包(こづヽみ→こづヽみ)
 源氏名耳(げんじなみヽ→げんじなミヽ)
 速やかに(すみやかに→すミやかに)
第二章
 見得(みえ→ミえ)
 自ら(みづか→ミづか)
 身(み→ミ)
 水(みづ→ミづ)
 見(み→ミ)・・・合計5例
 店(みせ→ミせ)
 *横手組(よこてうぐみ→よこてうぐみ)
 *組(くみ→くみ)
 味方(みかた→ミかた)
第三章
 *毛髪(かみ→かみ)
 醜くからず(みに→ミに)
 *鑑(かヾみ→かヾみ)
 見(み→ミ)・・・合計6例
 三味(さみ→○ミ)
 身(み→ミ)・・・合計6例
 美登利(みどり→ミどり)・・・合計4例
 美いちやん(み→ミ)
 三人(みたり→ミたり)
 店(みせ→ミせ)・・・合計2例
 お~輿(みこし→ミこし)
 皆(みんな→ミんな)
第四章
 三味(さみ→○ミ)
 木兎(みヽづく→ミヽづく)
 見(み→ミ)・・・合計3例
 夜宮(よみや→よミや)
 美登利(みどり→ミどり)・・・合計2例
 身(み→ミ)
 *罪(つみ→つみ)
 並木(なみき→なミき)
 店(みせ→ミせ)
 *内儀さま(かみ→かみ)
 耳(みヽ→ミヽ)
 皆(みんな→ミんな)
第五章
 身(み→ミ)・・・合計3例
 見(み→ミ)
 美登利(みどり→ミどり)
 身内(みうち→ミうち)
 皆(みな→ミな)
第六章
 美登利(みどり→ミどり)・・・合計13例
 見(み→ミ)・・・合計2例
 皆(みんな→ミんな)
第七章
 *美登利(みどり→みどり)・・・合計9例
 花見(はなみ→はるミ)
 *水(みづ→みづ)
 *身(み→み)・・・合計4例
 道端(みちばた→みちばた)
 *見(み→み)・・・合計2例
 *店(みせ→みせ)・・・合計2例
第八章
 *身(み→み)・・・合計3例
 *見(み→み)・・・合計7例
 *組(ぐみ→ぐみ)・・・合計2例
 *店(みせ→みせ)・・・合計2例
 *鼻紙(はながみ→はながみ)
 *美登利(みどり→みどり)・・・合計3例
 *耳(みヽ→みヽ)
 *美事(みごと→みごと)
 *住吉(すみよし→すみよし)
 *三味線(ざみせん→ざみせん)
 *海草(みるめ→みるめ)
 *三味(さみ→さみ)
第九章
 *阿彌陀經(あみだけう→あみだけう)
 *美事(みごと→みごと)
 *髪(かみ→かみ)
 *見(み→み)・・・合計4例
 *身(み→み)・・・合計4例
 *三味(しやみ→しやみ)
 *店(みせ→みせ)・・・合計4例
 *路(みち→みち)
 *耳(みヽ→みヽ)・・・合計2例
 *自身(みづから→みづから)
 *人波(ひとなみ→ひとなみ)
第十章
 *身(み→み)・・・合計4例
 *見(み→み)・・・合計6例
 *組(くみ→くみ)
 *美登利(みどり→みどり)・・・合計4例
 *罪(つみ→つみ)・・・合計2例
 *店(みせ→みせ)・・・合計3例
 *細道(ほそみち→ほそみち)
 *三味(○み→○み)
 *君(きみ→きみ)
 *耳(みヽ→みヽ)
第十一章
 *美登利(みどり→みどり)・・・合計8例
 *見(み→み)・・・合計3例
 *気味(きみ→きみ):直筆原稿は、前に書いたルビを塗りつぶして「み」としている。
          前に何が書かれていたかは不明。
 *店(みせ→みせ)
 *水車(みづぐるま→みづぐるま)
第十二章
 *近道(ちかみち→ちかみち)
 *見(み→み)・・・合計4例
 *踏こたゆる(ふみ→ふみ)
 *美登利(みどり→みどり)・・・合計4例
第十三章
 冷水(ひやみづ→ひやミづ)
 美登利(みどり→ミどり)
 *見(み→み)・・・合計6例
 見(み→ミ)
 身(み→ミ)
 踏試(ふみこころむ→ふミこころむ)
第十四章
 角町京(すみちやうきよう→すみてうきよう)
 *人波(ひとなみ→ひとなみ)
 *小店(こみせ→こみせ)
 店(みせ→ミせ)
 見舞ふ(みま→ミま)
 見(み→ミ)・・・合計3例
 美登利(みどり→ミどり)・・・合計5例
 身(み→ミ)
 美いちやん(み→ミ)
 細道(ほそみち→ほそミち)
第十五章
 身(み→ミ)
 *身(み→み)
 見(み→ミ)・・・合計3例
 美登利(みどり→ミどり)・・・合計8例
 *美登利(みどり→みどり)
 道(みち→ミち)
 皆な(みん→ミん)
 前髪(まへがみ→まへがミ)
 *涙(なみだ→なみだ)
第十六章
 店(みせ→ミせ)・・・合計3例
 *組(くみ→くみ)
 美登利(みどり→ミどり)・・・合計4例
 身(み→ミ)
 見(み→ミ)
 ここまで調べてとても不思議に感じたのが、7章以降からは「みどり」など、全て「み」がひらがな表記であるのに、13章以降は元に戻ったり、混在してしまうことです。
 この様なルビ表記があることについて、何か先行研究が無いかと調べてはみたのですが、『近代文章成立の諸相』(木坂 基著/和泉書院刊)を読んでみたのですが、『たけくらべ』において、「女房(にようぼう、つま)」「噂、風噂(うはさ)」「廓(くるわ)、廓内(なか)」といったようなルビ表記の違いには言及なされていたのですが、今回私が調べたルビ表記については書かれていなかったので、結局分かりませんでした。
 ただ、個人的な考えとしては、ここまでルビ表記に拘っていた一葉が、間違って「ミ」と「み」を混同していたとは思えないです。今回の先生のレジュメでも「字形を変容しても僅かに意味は大きく変わらずという見方もあろうが、時としてこうした大雑把な研究のけじめの付け方が書き手の意識を見失いがちにしている」と仰っているように、このような細かい部分にも注目して、国語学の勉強に励みたいと思います。
この1年間で活字化されただけでは見られない文字の特徴を学ぶことができました。どうもありがとうございました。 
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国語史 投稿者:JK5031 投稿日:12月23日(土)00時32分54秒 
  先週の出席が、載っていませんでした。姿勢よく、生活していこうと思います。一年間ありがとうございました。  
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日本言語文化研究T 投稿者:ck6133 投稿日:12月22日(金)14時35分54秒 
  樋口一葉といえば5000円札がまず頭に浮かびました。文学的にも人間的にも素晴らしい人だからこそ選ばれたのでしょうね!また一葉の『たけくらべ』の直筆本が駒澤大学図書館にあるとは恵まれていますね。是非目にしてみたいです。  
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日本言語文化研究T 投稿者:mk6060 投稿日:12月21日(木)17時35分41秒 
  樋口一葉は若くして死んだことは知っていましたが、結婚していなく子供もいないというのは初めて知りました。また樋口一葉の妹が子供を11人産んだというのには驚きました。今では考えられない子供の数です。そして駒澤大学の図書館には樋口一葉直筆の『たけくらべ』があるなんてすごいと思いました。
最後に今年一年この「日本言語文化研究T」の授業をやってきましたが、昔の文学作品を細かく解説してもらって、その上歴史的背景までも説明してもらってとても満足でした。特に私は日本の歴史が好きなので歴史の話などはとても面白かったです。まだレポートがありますが、一年間本当にありがとうございました。 
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日本言語文化研究T 投稿者:CB6138 投稿日:12月20日(水)10時25分18秒    編集済 
  樋口一葉は書道にゆかりがあるだけあり、字の表記などにも癖があるんですね。
しかし、どちらも直筆なのに表記が違うというのはとても珍しいし不思議に思えます。
また、樋口一葉に着目したのが鴎外などというのも惹かれます。
最後になりましたが一年間お世話になりました。
英文科なので普段日本文学と触れ合う機会が少ない中さまざまなことを学べて良かったです。ありがとうございました。  
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国語史 投稿者:JK5122 投稿日:12月20日(水)10時21分56秒 
  プリントの樋口一葉さんの『たけくらべ』は、読むのが難しいと思いました。
「おいらは」と書こうとしたところなど間違えたのは焦っていたんのであろうか?なんとなく面白く感じました。
一年間国語史の授業でホントにあらゆることを学べたと思っています。ありがとうございました!レポートも頑張ってみます。
 

 

 
止め