懐旧録 : サンスクリット事始め(南条 文雄著)

眼横鼻直(教員おすすめ図書)
Date:2022.12.01

書名 「懐旧録 : サンスクリット事始め」
著者 南条 文雄
出版社 平凡社
出版年 1979年8月(初版:南條文雄『懐舊録』大雄閣書房、1927年)
請求番号 080/2-359
Kompass書誌情報

この物語の語り手南条文雄は、明治九年数え年二十八歳でその友笠原研寿と英国に渡り、インドの古代言語サンスクリットを学んで帰国、日本の近代仏教学の礎を築いた。七十九歳で歿する数ヶ月前に出版された自伝聞書きがこの本である。

片道二ヶ月の航海、言語の壁、留学生同士の友情といった思い出話の中で、恩師フリードリヒ?マックス?ミュラーとの交流はことに印象深い。この碩学ははじめ英語もおぼつかない二人の留学生の先行きをあやぶみながらも、寝食を忘れて研鑽するかれらに助力を惜しまなかった。早逝した笠原のためにミュラーが草した追悼文が南条の訳で本書におさめられているが、沈痛にして格調高く、すぐれた弟子を失った教師の悲しみを伝えてあますところがない。

しかし留学の物語はこの本の一部分にすぎない。一書全体のおもしろさは、幕末から明治、大正、昭和の初年にいたる歴史の思いがけない細部が、その中に生きた一人の仏教僧の口から生き生きと語り出されるところにある。なんとこの本は語り手が十八歳で「僧兵」になった話から始まるのである。中世の叡山や三井寺の話ではない。なぜそんなものが幕末の日本に存在したのかは、とにかく読んでみてほしい。維新直後の神仏分離をめぐる混乱、親子で違う苗字をつけた顛末、東本願寺法主の駕籠の供をして賽銭の雨に苦しんだ捧腹絶倒のエピソード。帰朝後の南条が責任ある地位を歴任するあたりから、語り口は闊達さを失う。義和団事件後の北京を南条は日本軍と在留邦人のための慰問団の一人として訪れ、悲惨な光景を目撃している。大正十二年の関東大震災は晩年の学僧から一切の蔵書を奪った。

淡々と語られる一生には森有礼、乃木希典、跡見花蹊、下田歌子、清沢満之、奥村五百子、福沢諭吉といった日本近代史の要人が端役で登場する。歴史に関心をもつ多くの人にとって興味ある一冊であろう。本学の図書館には1927年の大雄閣版と1979年の平凡社版の両方があるが、気になる人はぜひ古い版を開いて時代の空気を感じ取ってほしい。

仏教学部 講師 八尾 史

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