霧の子孫たち(新田 次郎著)

眼横鼻直(教員おすすめ図書)
Date:2024.01.01

書名 「霧の子孫たち」(新田次郎全集 ; 第12巻)
著者 新田次郎
出版社 東京 : 新潮社
出版年 1975年
請求番号 H519.1/200-12
Kompass書誌情報

長野県にビーナスラインの愛称で知られる日本有数の山岳観光道路がある。茅野市から上田市の美ヶ原高原に至る全長約76kmの道のりで、私も何度か訪れたことがあるが、富士やアルプスの山々を見渡す絶景のパノラマに目を奪われたことが幾度となくある。また、ふと淡く甘い匂いに気付き足元に目を転じると、ニッコウキスゲが一面に山吹色の花を咲かせているし、川のせせらぎや小鳥のさえずりが耳をくすぐる。

蓼科高原、白樺湖、車山高原、霧ヶ峰、八島湿原、美ヶ原高原といった観光地をめぐるビーナスラインは人気を博しているのだが、その建設にあたって大きな反対運動が起こったことを知る若い人は、今ではあまり多くないだろう。

1960年代から始まったビーナスライン建設事業では、当初霧ヶ峰にある中世諏訪信仰における要地である旧御射山遺跡や、貴重な高山植物が生息する八島湿原を横断するルートで計画された。本書は、この建設計画に対して立ち上がった地元の有志による反対運動を基にした小説である。

筆者は歴史小説『武田信玄』や山岳小説『孤高の人』などで知られる新田次郎で、彼は霧ヶ峰のふもと諏訪地方の出身であった。そのため、子供のころから親しんだ場所である霧ヶ峰が汚されることは、故郷そのものを汚されるように感じたらしい。執筆の動機について、筆者自身があとがきでそのように述べており、テーマが非常に分かり易い。本書には、そのような「怒り」が随所にみられる。

また、事実に基づいているのでモデルも明確だ。主要人物の一人である宮森栄之助は考古学者の藤森栄一をモデルとしていて、新田次郎は旧制諏訪中学(現在の県立諏訪清陵高校)の一年後輩にあたる。

反対運動では計画を中止することは叶わなかったものの、ルート変更をさせるなど当時としては大きな成果をあげた。高度成長期の真っ只中、開発優先の時代に展開したこの運動は、尾瀬における車道建設反対運動と並び、日本における自然保護運動の出発点として評価されている。

いま日本各地の観光地では、オーバーユースやオーバーツーリズムが問題となっている。持続可能な開発が声高に叫ばれるこれからの世を生きる皆さんにも、ぜひ一読を勧めたい。

文学部 講師 佐藤雄一

< 前の記事へ | 次の記事へ>