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決潰の跡碑 (埼玉県熊谷市) (KML) 写真は9/18に撮影した。左の写真は行田駅から南西方向に300m程ある荒川の堤防にある。災害記念碑の近くには桜の木が植えられていた。許可標識の看板には,占有目的が記念碑と記載されている。建立されたのは1958年であり,1947年のカスリーン台風による豪雨で,熊谷市久下地先で荒川の洪水が堤防を越え約100m決壊した。人々はただ逃げることしかできなかった。この出来事を後世に伝えるために設置された。伝承碑の隣にはカスリーンの規模や,説明についてのパネルがある。過去の災害を伝えるために管理されている印象を受けた。 また、秩父鉄道樋口関近くの高台には、「寛保洪水位磨崖標」がある(囲い外からの写真)。住宅街の中に位置している。設立年は1742年とされており,4日間降り続いた雨の影響で荒川から,約25m高い撮影地点まで水がきた。そのためこの一帯は水没した。この出来事を後日有志2人が当時の水位の位置で「水」という文字を刻んだ。しかし,風化が激しく,現在は「水」以外の判読は困難であった。また,1つ目の地点と比較してあまり管理が行われていない印象を受けた。(左下へつづく) |
| (右上より)「水」と書かれている付近に植物が覆われている他,パネルにて説明があるが,図や表などがなく得られる情報量に差があると感じた。樋口駅からでも向かうことは可能であるが,車が無いとそもそもの都心からのアクセスが悪い地域である。また,荒川から少し離れているかつ主要な道路沿いではないというのも相まって,偶然見つけて,存在を認知することが出来る可能性が荒川の堤防上の「決潰の跡碑」より低い。これらのことから災害伝承碑も設置される場所年代によって風化やパネルの情報量そして伝承碑の整備度合に違いがあることが分かった。(ろみ~) 2か所を調べたのね。比較した視点はよいと思います。決潰の跡碑のそばの説明版に、近隣の寛保洪水位磨崖標の説明を加えれば、寛保の方の認知度が上がるかもしれませんね。 |
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台風災害復旧記念碑 (埼玉県嵐山町)(KML) 比企地区周辺は昔から災害被害が少ないといわれており、水害伝承碑はおろか災害伝承碑すらほとんど無い地域であったが、近隣の嵐山町に災害伝承碑が1つ存在したため、これを紹介する。この「台風災害伝承碑」は、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風による被害内容を伝える伝承碑であり、1962年に建立された。場所は、埼玉県比企郡嵐山町鎌原であり、都幾川沿いの鎌原八幡神社の境内に所在している。伝承碑に記されている被害内容は、周辺地域の家屋被害、神社境内の倒木や建築物の被害など、主に暴風による当時の被害の様子が記されていた。この鎌原八幡神社は、1966年(昭和41年)にも台風により大きな被害を受けており、その際の災害伝承碑である「神域復興記念之碑」が同じ場所に建立されている。同じ場所に2つの災害伝承碑が建立されている事実から、ここ嵐山町鎌原周辺は、災害被害の少ない比企地区においては珍しく災害の多い場所であるといえる.。(かさはら) |
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例えば埼玉県小川町の台風被害としては、令和元年東日本台風で住家被害が69棟でています(被害まとめ)。近年は目立った人的被害が出ていないようですが、住民が「台風被害が少ない」と思い込んでいるとしたら、防災意識が低いために、将来の台風により油断から避難遅れが生じてしまうのかもしれません。小川町町史などを調べてみると、過去の災害などが記載されているかも。 |
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| 賑貸感恩碑(群馬県渋川市)(KML) 写真の左から2番目にある大きな石碑は「賑貸感恩碑」と呼ばれるものである。この石碑は、天明3年の浅間山噴火に伴う天明泥流の被害からの復興の教訓と、幕府勘定吟味役根岸九郎左衛門による救済措置の功績を後世に伝承するために、文政12年に建立された自然災害伝承碑である。この石碑は群馬県渋川市にある興福寺の入り口に位置している。(碑文)(北牧宿遠景)(北牧宿近景) 天明泥流とは、天明3年8月5日に浅間山の中腹で起きた大爆発により、土石なだれが発生し、それらが鎌原村をはじめとする浅間山北麓の集落や吾妻川、利根川沿いの集落を飲み込んだ大規模な自然災害である。この泥流による死者は約1500人に及んだ。また、「賑貸感恩碑」があるこの地域は三国街道の宿場町であったことから、多くの馬も犠牲になった。 「賑貸感恩碑」には金島地区における天明泥流の被害状況が詳細に記されており、石碑に刻まれた文字は現在も克明に残っている。そのため、天明泥流に関する数ある伝承碑の中でも、火山泥流の被災状況やそれの恐ろしさを後世に伝えるための極めて重要な資料であるといえる。しかしながら、現在、この石碑は地理院地図の「自然災害伝承碑」には記載されていない。(ほたる) 地理院地図には石碑としても掲載されていないものを見つけて調査した意義は大きいですね。渋川市教育委員会などが地理院に報告すれば、将来掲載されるのかも。(吾妻川筋被害絵図)最下流に「北牧」の文字があり、「此辺は泥水八日夜九ツ半時」と記述されています。 |
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| 滝本の洪水防石(東京都青梅市)(KML) 「滝本の洪水防石」は、東京都青梅市御岳二丁目にあり、御岳山ケーブルカー滝本駅の近く、滝本川沿いに設けられた江戸時代後期の砂防遺構であり、過去の洪水を後世に伝える貴重な青梅市指定史跡(平成30年6月1日指定)である。 この洪水防石は、滝本川が引き起こした二度の大洪水、寛保2年(1742年)8月の台風による未曽有の大水害と、その118年後の安政6年(1859年)7月25日の大洪水を期に滝本川下流で名主を務めていた北島家に後世に同じような被害が出ないように大石を2度洪水が侵入した道筋に立て並べられ作られた。また、北島家は銘文を洪水防石に上記の内容を刻み、後世に伝えた。 当初は6個並べられていた洪水防石は、都道の改修により、現在は3個が残るのみとなっている。(はや) 御岳のケーブルは何回か乗ったことがありますが、洪水防石は知りませんでした。(ストリートヴュー)。夜の写真ですが、御岳の夜景を見に行ったのかな?大沢川はかつては滝本川と呼ばれていたのですね。谷が深く、斜面の傾斜が急です。(地理院地図)江戸時代の洪水は土石流だったのかもしれません。 |
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| 大河津分水?洗堰伝承碑(新潟県長岡市?燕市)(KML) 今回取り上げるのは大河津分水(通水100周年)の洗堰を讃える伝承碑である。今回直接訪問はしていないが、過去に何度も訪問したことのある場所でよく知っているため取り上げた。大河津分水は新潟県長岡市と燕市の付近を流れる延長10㎞?最大川幅720mの巨大な人工の分水路で、信濃川の洪水を日本海に逃がし、下流の越後平野を洪水から守るため延べ1000万人以上を動員し15年の工事歳月を経て昭和6年に完成した。分水には可動堰と洗堰という2つの堰があり、それぞれ可動堰は分水路に流れる水の量を、洗堰は本流へ流れる水量を調節している。現在の可動堰は3代目、洗堰は2代目が運用されており、この石碑は通水当時から平成12年まで78年間に渡り活躍した旧洗堰を讃える石碑である。この洗堰は国内初の本格的RC造の堰として土木史的に価値が高いもので登録有形文化財に指定されており、公園として整備?保存され当時は河道だった堰の直下まで歩いて見学することができる(写真)。大河津分水の治水効果は大きく、通水前は3年に1回程度の割合で氾濫が発生していたが、分水路が完成したことにより8年に1回程度まで減少しているほか、氾濫の規模や洪水時の下流の平均水位も減少しており、治水で越後平野の発展に大きく寄与したといえる。直近では令和元年東日本台風でも効果を発揮しており、10月13日16時10分時点で分水路において既往最大かつ計画高水位を超える水位17.06m?流量毎秒9345立方メートルを記録した。可動堰付近を通りかかったこともあり、増水の様子を記録している(分水右岸写真)(分水可動堰写真)。写真からわかる通り堤防の天端すぐ下まで水が迫っており、いかに余談を許さない状況だったかが伺える。この水害を受け、大河津分水は河口付近の通水能力の向上と計画流量の見直し(引き上げ)を行い、現在それを実現するべく河道改修を実施している。(デオキシリボ助) 【参考文献】 2021.「令和元年東日本台風の洪水に伴う現地状況 及びこれを踏まえた河川整備計画の 目標変更について」 国土交通省北陸地方整備局 信濃川河川事務所 2019. 丸山 友之?魚津 伸悟?細井 遵敬「令和元年東日本台風による洪水における 大河津分水路の河道水理状況について」 「現場研修事業の概要」 国土交通省北陸地方整備局 信濃川河川事務所「大河津分水」 2007. 北陸建設経済研究会. 北陸の視座「大河津分水路の整備効果」 斎藤正勝.「大河津分水による治水対策(I) ―その経緯と分水事業の効果(1)一」 大河津分水通水100周年HP「大河津分水とは?」(2025年11月17日閲覧) 本文について個人情報に関わる部分を削除してあります。令和元年東日本台風の大雨による増水時の写真は資料的価値があります。当時、長野盆地は大規模な洪水被害を受けましたが、新潟県内の堤防はなんとか持ちこたえました。ちなみに、教員の曾祖父の墓はここから10キロの場所にあります。 |
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二郷半領治水碑 (埼玉県三郷市) (KML) この災害伝承碑は「二郷半領治水碑」であり、1935年に建立された。二郷半領とは、中川と江戸川に挟まれた吉川市や三郷市付近の沖積低地を指す。地理院地図によると、この碑には二郷半領がかつて低湿地であり、豪雨がある度に耕地が水に浸かり泥沼と化していたことや、明治23年8月の大雨では利根川の加須で堤防が壊れ、下流域に濁流が流れ二郷半領一帯が浸水したことや、明治43年の大雨では埼玉県の全面積のうち24%が浸水したこと、それを受け大場川の改修や排水設備の改良を行ったことが記されている。 この「二郷半領治水碑」はJR三郷駅から南東に徒歩10分程度の場所にあり、街道の一里塚のような3m程度の盛り土の上に建立されている。私が撮影した時間が夜だったこともあり、スマホのライト機能を使うなど試行錯誤してみたが現地では石碑の内容を読み取ることができなかった。この治水記念碑の横を通過する道路は「記念碑通り」という名前がついているのに、肝心の記念碑には何の解説案内看板もないことを残念に思った。災害伝承碑は内容を伝承するためにあるのだから、ぜひとも?整備してほしいと感じた。Google map上では大場川治水記念碑として登録されている。(左下へ続く) |
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(右上より)この災害伝承碑が設置されている三郷市は市域全体が江戸川沿いの沖積低地であり、水害の際に逃げる場所が乏しい。また地震の際も台地上にくらべ被害が拡大する恐れがある。このように災害伝承碑の内容を知ることで自分の暮らす土地の性質を理解し、災害への正しい対処に繋がれば良いと考えた。(すがちゃん) 写真暗いです.....。かつては早稲田村と呼ばれた地域で、古利根川系の旧流路が現在の大場川を横切っているような感じですね。(地形分類) |
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霞川改修記念碑 慰霊碑 (埼玉県入間市) (KML) 埼玉県入間市黒須2丁目に残るこの水害伝承碑は、昭和20年(1945)6月6日に発生した霞川の氾濫被害を後世に伝えるために建立されたものである。この日の夜半、激しい雷雨により霞川は急激に増水し、堤防が約36メートルにわたって決壊した。これにより家屋流失2戸、床上浸水20数戸、床下浸水100戸以上の甚大な被害が生じ、流失家屋からは母子2名が犠牲となった。碑は当時の決壊地点に建てられ、慰霊の意味に加え、以後の霞川改修工事の完成を記念する役割も担っている。現在の霞川は左岸側がコンクリート護岸で整備されている一方、右岸は手が加えられていない区間も残り、川幅も狭いことから、今なお集中豪雨時には氾濫の危険性を抱えている。地域の治水の課題を考える上で、重要な史跡となっている。(T) |
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川を意識した写真の撮り方もできたのでは?(ストリートヴュー) この場所の約1.4km上流では、2016年に水害が発生しています。(2016年の霞川水害) |
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水神の碑 (埼玉県狭山市) (KML) 明治43(1910)年8月11日に起きた水害は埼玉県の広い範囲で影響を及ぼした。埼玉県を流れる入間川が増水し、氾濫の危険性があった。堤防付近では、洪水を防ごうと地域住民が奮闘していたが努力も叶わず、洪水が起きる前日(10日)には手の施しようがないほどに増水してしまっていた。翌11日には周辺の河川も含め計62箇所、狭山市域で入間川5か所の堤防が決壊した。また、旧入間川町では床上床下合わせて71戸の浸水被害が出た。入間川域付近の旧久星酒造の裏の堤防も決壊の危機があったが。同酒造が大量に保有していた米俵を土嚢として提供したため、決壊を逃れることができたとのことである。(左下へ続く) |
| (右上から)伝承碑の隣には、「武蔵狭山そよら」という中規模商業施設が立地している。また、伝承碑の前には国道16号が走っているが、道路から階段を下りた先にあるため、非常に目立ちにくい場所にあった。私は夜に伝承碑を見に行ったが、街灯もなく真っ暗な場所であった。整備はされているものの、一応置いているというような感じにも思えた。他の災害伝承碑も見てみると、草むらの中にあったり、今回のように見えづらい場所にあったりと先述した通り、一応置いているという感じに思えてしまう。(きむしゅう) 夜の写真ですか?ちょっと薄気味悪い感じですね。明治43年の大雨をきっかけとして石碑が建てられたようです。昔の地図を眺めてみると(Q地図 )、かつては桑畑、新富士見橋の開通は1958年、そよらの場所には工場があったようですが、ひょっとしたらこれが久星酒造かも。米俵を土嚢として活用して水害を防いだとのこと(狭山市水神社)。調べてみると色々なことがわかる。 |
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| 宮原の水害碑(千葉県一宮町) (kml) これは千葉県一宮町にある宮原の水害碑である。チーバくんでいうと背中の辺り、千葉駅から電車で約40分。東京駅からなら1時間半ほどの上総一ノ宮駅から北西に1キロほど、町を東西に流れる一宮川沿いの土手と住宅街の間にひっそりと佇むこの碑は、大正5年(1916年)の7月30日に発生した宮原の大水害についての伝承碑で、サイズは約1.5mほど、表側には紀念碑と刻まれ、裏側は残念ながらほとんど読めない状態だが、堤防や恐らく大正五年と刻まれていると思われる様子が伺い知れた。 裏側の文字が読みにくいのにはもう1つ問題がある。写真でも分かるが、紀念碑と同じ場所に石祠のようなものやそれを囲う低い壁があり、裏側に近づきにくい状態にあるということだ。宮原の大水害では死者は出ていないが、2軒の家が流され3軒の家が傾いた他、耕地があらわれる被害が出たため、これらに関連する石祠、もしくは中に仏像などを安置している龕の可能性もあるが、現地にあるのは町の教育委員会が設置した、日本近代漫画の祖と言われる北沢楽天の別荘跡地であることを伝える案内板のみで、可能性は低いが別荘のモニュメントの場合も考えられる。 水害伝承碑が地域でどの程度知られているか、過去にどのような水害があったかを伝えられているかが不明瞭で、案内や周知にはまだ課題があるようにも感じた。(FM) 平成8年の水害では水没したようです。令和元年10月豪雨では、上流で浸水被害があったものの、下流域の被害はなかったようです。地形を眺めてみると、海岸線に平行な浜堤(海成)と一宮川による自然堤防(河成)の微高地と、旧河道にあたる低湿地があるようです(地形分類)。 |
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諫早大水害復興記念碑 (長崎県諫早市) (KML) 1957年7月25日に1日に900ミリ以上の集中豪雨が本明川の反乱と土石流を発生させた。水害発生後に、全国から食べ物や衣類、励ましの言葉が寄せられたことに感謝の意味と、同じような水害がないことを祈って建てられた。隣には水難者慰霊碑も建てられている。 近くには眼鏡橋がある。時の写真を見ると、その眼鏡橋に木々や濁流に飲まれても原型をとどめていた。アーチ状の眼鏡橋はかなり耐久性があると感じた。(火の玉ストレート) |
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諫早大水害は、梅雨前線によって引き起こされた梅雨末期の豪雨です。当時は気象レーダーがない時代ですが、記録的な大雨の範囲が帯状になっていることから、今でいうところの「線状降水帯」が停滞したのかもしれません(気象庁)。諫早公園には、さまざまなモニュメントがあるようですね。(眼鏡橋) |
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| 治水と恵みの碑 (千葉県船橋市) (KML) 千葉県船橋市宮本に位置する、「治水と恵み」に関する記念碑を取り上げる(石碑左)(石碑右)。地理院地図への記載はないが、災害伝承碑や用水顕彰碑に近いものが身近な場所でこれしか思い当たらなかったため、これを選んだ。治水と恵みの石碑は、1992年2月に海老川?長津川の第1期改修事業が完成したことを記念して序幕された。海老川?長津川は、千葉県船橋市を流れる2級河川で長津川は海老川の支流にあたる。昭和30年代前半までは子どもの遊び場になるほど環境の整った河川であったが、昭和30年代後半になると人口急増による都市化が進展し、水質汚濁が発生したり大雨の度に氾濫を繰り返すようになったりした。そこで昭和51年に河川改修事業が開始、当時の船橋市長が国や県に強く働きかけ改修は円滑に進められた。結果的に平成以降は海老川において大きな水害は発生していない。(海老川近くに20年住んでいるが、少なくともここ20年は水害の記憶はない)またこの記念碑のすぐ近くにかつて海老川?長津川で発生した水害の写真や、都市化前の海老川の写真が掲示されているパネルがある。(これを通して海老川でかつて水害が頻発していたことを初めて知った)。(資さんうどん) 松戸?坂川、市川?真間川、船橋?海老川、千葉?都川は、河川改修により水害は少なくなりました。海老川の上流部で宅地開発が進んでいるようですが今後はどうなんでしょう? |
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差出水門之碑(山梨県山梨市)(KML) 写真は山梨県山梨市万力1830-20に所在している「差出水門之碑」である。周囲は紅葉していてとてもきれいだった。また、右奥には富士山が見えた。近くに一級河川の笛吹川がある。この伝承碑は笛吹川が氾濫し、過去2回あった大洪水についてのものである。伝承内容は、笛吹川の本流にある差出の磯は、風光明媚かつ甲州三大水防難所とされる地で、灌漑用水を取り入れる差出水門がある。天正11年(1583)の大洪水で堤防が決壊して下流の土地一万石が流失し、濁流は甲府城下近くまで達した。明治43年(1910)8月の大水害では、堤防に大亀裂が生じ水門も被害を受けた。(シャチ) 季節がわかる写真で富士山も見える。野帳を置いてうまい写真の撮り方ですね。掃除されているようにも見え、近所の人たちによって、しっかりと管理されているよう。用水の取水のために、笛吹川に堰をつくって川の水位をあげていたのかな?なので大雨の際にあふれやすくなるわけです。(地形分類) |
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多摩川決壊の碑 (東京都狛江市)(KML) 昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて、台風16号の影響をうけ、上流を中心に大雨のため、多摩川の水位が上昇を続けた。これにより、1日昼頃、ニヶ領宿河原左岸下流の取付部護岸が一部破壊された。午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地に水がやってきた。1日深夜から3日午後までの間、狛江市猪方地区の家屋19棟を流失させる被害をもたらした。1998年には従来の堰より40m下流に、洪水を安全に流すとともに、豊かな水辺環境の保全と創造を目的とした新しい堰が完成した。(ベリ) |
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多摩川に宿河原堰を作り水面を高くして、右岸側ではニケ領用水を取水していたわけです。台風により多摩川が増水した結果。堰をよけるように旧河道に沿って、左岸側に側方侵食して堤防が決壊しました(地形分類)。なお、現在の宿河原堰は可動堰となっています。 |
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| 多摩川決壊の碑 (東京都狛江市)(KML) 今回私が調査したのは、東京都狛江市に建てられた「多摩川決壊の碑」だ。この自然災害伝承碑は、1974年8月31日~9月3日にかけて発生した、台風16号の洪水による多摩川の氾濫により建てられた。この台風の影響によって多摩川の左岸の堤防が決壊し、狛江市の民家19棟が流出してしまった。首都圏の近くに流れている多摩川の、そして本堤防が決壊するという事態は、当時の人々にとっても信じられないような水害だったとされている。実際に記念碑を調査して分かったことは、記念碑の三角形三面それぞれに「多摩川決壊碑」という文字が書かれている面、当時決壊が発生した背景とその文章が彫られている面、当時の災害の様子が彫られている面、と、多摩川の決壊を忘れないようわかりやすく形に残っていることだ。この銀色の記念碑は元々石製だったが、災害時に運べるようステンレス製に軽量化されたそう。(めーぷる) 多摩川の増水が想定される場合は、狛江市役所により一時的に撤去されます。(令和元年東日本台風の後の写真)。2023年秋は金色の塗装が一部はがれていた(2023年秋の写真)のですが、2024年秋には補修されていました。 撤去時の写真:2019年履修学生「しん」さん、2023年履修学生「あおきくん」さん |
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| 多摩川決壊の碑 (東京都狛江市)(KML) 今回は、最も身近に存在する災害伝承碑として、東京都狛江市にある多摩川決壊の碑を見学した。この災害伝承碑は、1974年9月1日台風16号の大雨により発生した水害を伝承するためのものである。この水害では、多摩川の堤防が決壊したことにより住宅19棟が流失した。また、被害を受けた住民が、河川管理を行う立場にある国に対して賠償を求めて訴訟を起こし、最終的に勝訴している。正面からの図は写真で何度も目にしていたのだが、今回見学して、碑の裏に当時の被害状況を示す写真が刻まれていることを知った。当時の生々しい被害状況と現在の河川敷の様子が鮮明な対比になっており、個人的に心に残ったので裏手からの写真を選択した。このような被害は、普段の穏やかな多摩川を見慣れているとにわかには信じがたいが、同時に河川整備の重要性と避難の必要性を改めて感じた。多摩川沿岸に居住している身として、一度は行くべきであろうと思いつつ、中々足を運べていなかったので、今回よいきっかけになった。(ささみ) 家が流される様子はテレビでも放送されたので記憶に残っています(同時のニュース映像)。狛江市のハザードマップによると、特に小田急橋より上流側で左岸の側方侵食が想定されています。対岸(川崎側)には「ニヶ領せせらぎ館」があります。桜の時期はお花見も楽しめます。 |
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| 久地円筒分水神奈川県川崎市高津区 (KML) そもそも円筒分水とは、農業用水などを一定の割合で正確に分配するために用いられる利水施設のこである。久地にある円筒分水のきっかけは正確な分水ができず、水量をめぐる水争いが絶えないことから始まった。そして1941年に「久地円筒分水」が造られた。二ヶ領用水から取り入れられた水は、平瀬川の下を通り、再び噴き上がってきた水を円筒の円周比により四つ堀に分水し、各堀へ正確に用水を供給するというものになっている。歴史的な重要性や全国に広がる初期の円筒分水の事例であることから、1998年に国の登録有形文化財に登録されている。(fr) 溝の口駅北口にある円形モニュメントは円筒分水を模したものですよね。クリスマスが近づくとイルミネーションで飾られるはず。新平瀬川はトンネルで掘って作られ、その際にニヶ領用水は伏せ越しとなりました。(明治39年測図旧版地形図) |
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二ヶ領水路地跡 横浜市鶴見区 (KML) 横浜市立矢向小学校から徒歩1分。JR南武線 矢向駅から徒歩10分。石碑の周りは街路樹的な程々の木々があり、そのまわりは家が並んでおり、道路もある。石碑の正面に?二ヶ領用水路地跡?、裏側には?紀元二千五百五十年明治二十六年十一月、町田村矢向外下郷村々?と刻まれている。裏側の文字は少し見にくかった。 1972年に矢向の人々が、かつて二ヶ領用水路に架けられていた石橋を再利用して作った石碑である。個人的ではあるが、母校が矢向小学校であるため、当時?生活?か?社会?の授業で取り扱った記憶があるが内容は覚えてない。(ヒ素) |
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矢向の水田は、鶴見川ではなくて、多摩川からの水を使っていたことが意外でした。(昭和40年代の地図)にも用水路はみとめられます。けれど、石碑には明治26年(1893年)とあり、経緯がよくわかりませんね。また、どうして水路跡の石碑を残すことにしたのでしょうかね? |
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| 荒川第一調節池竣工記念碑(埼玉県さいたま市)(KML) 荒川第一調節池は埼玉県のさいたま市と戸田市にまたがって位置し、荒川第一調節池竣工記念碑はさいたま市にある。名前の通り荒川はこの調節池の北西から南に向かって蛇行しながら流れていて、荒川の水が増水した際に一時的に水をため込んで洪水を防ぐことがこの調節池の主な目的である。調節池全体は平成16年(2005年)に完成し、公園やグラウンドが整備されていて日常的にも利用できるような場所となっている。この調節池の中には平成9年に完成した荒川貯水池、通称彩湖がある。(公園地図) 平成11年の8月、台風により荒川の水が増水して堤防を越え、堤防未整備地区では大規模な浸水被害が見られた。当時荒川第一調節池は工事中であったが、彩湖は完成していたためそこに水が流れ込み、周辺地域への洪水被害を抑制した。また、最近では令和元年の台風19号でも調節池としての役割を果たしている。荒川第一調節池および彩湖は周辺住民にとっても洪水被害を抑えるためになくてはならない存在となっている。(まめ) (参考WEB2025年11月11日閲覧) 調節池 荒川上流河川事務所-関東地方整備局-国土交通省 平11年 荒川上流河川事務所-関東地方整備局 荒川第二?三調節池 荒川上流河川事務所-関東地方整備局 県の愛称「彩の国」?「彩の国キャンペーンマーク」-埼玉県 令和元年東日本台風の時は洪水調節の役割を果たしました(浦和経済新聞記事)。あと送電鉄塔の基礎部分が石碑で隠れてしまっているのが残念。そこもポイントだったりする、晴れた日に土手の上に上がり、パノラマ撮影すると、遠くの山も見えて良い写真が撮影できそう。 |
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| 中川放水路通水記念碑(東京都葛飾区)(KML) 中川と新中川(中川放水路)の分岐点にある新中川通水記念公園にある記念碑を訪れた。この記念碑は、1963年に完成した中川放水路(現:新中川)の完成を記念して1972年に整備された公園内に設置されている(記念碑は放水路完成時の1963年建立)。この地点より分岐する新中川が直線的なのに対し、この地点より下流側の本来の中川は、いくつものS字カーブを描くように蛇行していて、大雨災害の際にはカーブの外側が氾濫しやすい場所であったことが推測できる。記念碑の裏面には、中川放水路のあらましが記載されていた。この地域がカスリーン台風による洪水のため大きな被害を受けたことから、戦前の治水計画を再検討し、物価の上昇や土地買収など様々な問題により工期が遅れながらも完成したことが記載されている。この記念碑から、東京の低地は、治水事業の努力のもと生活の安全が保たれていることがわかる。逆説的には、様々な労力を払わなければこれだけの住民の安全を担保することができない地域でもあるので、この記念碑は今後の開発のありようを考えるきっかけになると思う。(テラ) 記念碑に屋根があるんですね。江戸川放水路(江戸川)は1919年に開削、荒川放水路(荒川)は1924年に通水、中川放水路(新中川)1963年通水しました。通水記念公園は盛土で作られ標高は4.8mなのですが、近くには、地盤高が海面下のところがあります。(地理院地図?色別標高) (中川放水路完成映画10分) |
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| 小櫃川復旧助成工事竣竣功記念碑 (千葉県木更津市)(KML) 写真は千葉県木更津市小櫃川功の中にある小櫃川災害復旧助成工事竣功記念碑であり、1975年に建立されました。昔から小櫃川流域の住民は洪水による災害に見舞われていました。1970年(昭和45年)7月1日に関東地方南部を通過した低気圧や梅雨前線の影響により、関東地方南部に集中豪雨が襲いました。この集中豪雨は先人の治水利水工事の功を一瞬にして葬り、木更津市を流れる小櫃川が氾濫し、流域で大きな浸水被害が発生しました。被害は、全壊6戸、半壊2戸、床上浸水298戸、床下浸水499戸に及んだとされています。 この記念碑は、過去の災害からの復旧工事が完了したことを記念して建てられた石碑である。この石碑は、災害の教訓や治水事業の重要性を後世に伝える役割になっており、災害の記憶や治水工事の成果が刻まれています。(ゆう) 小櫃川に堰を作り、水嵩をあげてそこから用水路を取水していたのではないでしょうか?大雨の時は増水してあふれやすくなるわけです。現在は、川幅を広げて、小櫃川公園を整備し、遊水地の機能を持たせているようにも感じます。(地形分類) |
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薩摩義士の像 (岐阜県海津市) (KML) この写真は、岐阜県海津市にある千本松原治水神社の「薩摩義士之像」である。この像自体は、鹿児島ライオンズクラブの結成20周年の記念事業として、姉妹盟約の羽島ライオンズクラブ(岐阜県羽島市)によって建立されたもの。濃尾平野の海抜ゼロメートル地帯に位置するこの地域は、木曽川?長良川?揖斐川の木曽三川による水害に長年悩まされ続けた。しかしながらこの像を観れば濃尾平野に住む人々と水害の闘いの歴史を垣間見ることができる。宝暦3年から江戸幕府の命によって薩摩藩主が主体となって一帯の治水事業が行われた。(いわゆる宝暦治水) 現在ほど土木技術等が発達していないので大量の石材?木材?土砂の運搬が1000人以上の薩摩藩主によって行われた。例えば、彼らの治水事業によって長良川の水が流入し、揖斐川に合流する大榑川流域ではたびたび洪水が発生していた。そのため現在の大榑川洗堰が建設された。 (左下へ続く) |
| (右上より) 他方、油島では木曽三川が合流していたため分流を目的とした油島締切堤が建設された。激しい川の流れの中で、川底に石や土砂を積み堤防を築いていくという作業が、一年半ほど続き、多数の死者を伴いながらも庶民の安全な暮らしが守られ洪水の被害は大きく減少したという。 この像は当時の治水事業の様子を表しており、堤防の建設に尽力した彼らを称えるための水防顕彰碑がこの「薩摩義士之像」である。(沼津のコアサポ) 高須輪中の一番下流のところですね(国交省?輪中)。江戸時代の治水工事はもちろん重機が使えないので難工事です。失敗したら責任者が腹を切ることもあり、そういう意味で命がけでした。 |
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玉川兄弟の像 (東京都羽村市) (KML) 玉川上水の建設に尽力した玉川兄弟をたたえるべく、1958年に羽村取水堰近くに建てられた用水建設顕彰石碑です。玉川上水は、江戸の人口急増に対応すべく、1652年に幕府によって計画され、翌年の1653年に完成した上水道です。全長はおよそ43kmですが、標高差は約92mと、かなり緩やかな勾配となっています。そのため、100mにつき21~2cmのわずかな勾配で掘削しなければならなかったそう。完成の2年後、分水が始まりました。1791年には33箇所で分水が行われていたそうです。これにより小平などといった武蔵野台地に立地する地域で水を得やすくなり、新田開発が進みました。(あらこ) 当初は日野から取水しようとして失敗、次に福生から取水しようとして失敗、結果的に羽村から取水することに。(今昔マップ大正12年測図) |
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災害復興地蔵尊 (東京都文京区) (KML) 文京区湯島三丁目の湯島天満宮「男坂」下にある「災害復興地蔵尊」は,関東大震災後に建立された地蔵尊である。震災で犠牲となった人々の霊を慰め,被災者の安寧と地域の復興を祈るために建てられたもので,震災後の人々の信仰心と連帯の象徴とされている。その後も地元住民によって大切に守られ,毎年九月一日前後には供養が行われている。また,東京大空襲の際にこの地域が大きな被害を免れたことから,「地蔵尊の加護」として語り継がれ,現在も防災の象徴として人々に親しまれている。(C) 今回の課題は、水害や治水、用水路などの伝承碑?顕彰碑を調べる内容でした。文京区(当時は本郷区か)ではどのくらいの死者が出たの?死因の多数を占めたのは? |
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震災記念碑 東京都千代田区 (KML) 今回行ってきた伝承碑は、御茶ノ水にある震災記念碑。文章の冒頭部分には、大正12年9月1日と記載されている。これは関東大震災が発生したということが記載されている。自分たちが経験しなかったことを後世に繋げていく存在であると改めて実感した。(じゅんぺい) 今回の課題は、水害や治水、用水路などの伝承碑?顕彰碑を調べる内容だったのですが...それに調べが甘いよ。地震の震源、地震の規模、震度、死者数などなど。後世につなげていく何を実感したの?以前私が作成した(延焼地図)。この場所が焼け残ったことまでは知りませんでした。 |