北原 賢一(文学部英米文学科)
「ことばと心の言語学に向けて」

令和6年度第3回祝祷音楽法要文化講演
(2024年6月14日)

英文法に対してネガティヴなイメージを持つひとが多い。文法というものを「文をつくるためのルール」、「規則」のようなイメージで捉えている方が多いからかもしれない。たしかに、文法はルールのような側面もあるが、ルールとはまた違った側面もある。

文法を厳密な規則の集合のようにとらえる言語学もあるが、認知言語学では、「文法には意味がある」、「さまざまな思い、気持ちをことばにして伝えるために文法がある」と考える。また、ことばを用いる者が世界をどのように認識しているかに応じて、ことばの表現や文法が選ばれると考える。

一つ例を考えてみよう。英語の動詞は自動詞と他動詞に分かれる。自動詞は目的語をとらないが、他動詞は目的語をとる。(1) では、dieは自動詞で、killは他動詞だと考えられる。

(1) a. John died.

b. John killed Mary.


dieという動詞は「死ぬ」ことを表す。死とは生命が終わることであり、自己完結的で瞬間的な出来事である。しかしながら、dieを使った表現を調べてみると、興味深いことがわかる。

(2) a. She died young/happy/poor.

b. ... and you're going to die an old lady, warm in your bed.


死は「息を引き取る」という一瞬の出来事のはずである。しかし、(2a) が示すように、「若くして亡くなった」、「幸せのうちに亡くなった」、「貧しくして亡くなった」など、dieを使いながらも死ぬ直前までの生、生きているときの姿を表している。(2b) は映画『タイタニック』における主人公ジャックの台詞で、凍える海で死に瀕している恋人に「君は年をとって、温かいベッドの上で死ぬのだよ」と励ます場面である。die に名詞句 an old lady, warm in your bedを後続させ、まだ生きている段階を表していることに注目されたい。

dieの名詞形 death についても同じことが指摘できる。(3) では、ベートーヴェンの死に至るまでの長く苦痛に満ちたプロセスに焦点が置かれている。

(3) Beethoven had poor health for many years, and his death, in 1827, at age 56, was long and painful.

「死」は一瞬の出来事を表わすように思われるが、実際に話題になるのは「死に至るまでのプロセス」、「死ぬまでの様子」、つまり「死に方」が多く、それはすなわち、「死」という概念を用いながらも「生の一部分」を表わしていることになる。生の対極にある事象を表わすようでありながら、実際には生の一部分を表わすという事実は、人間が「死」というものをどう認識しているかということの反映にほかならない。

死に方に注意が向くという人間の習性から、dieが自動詞という理を超えて、他動詞として用いられるようになる事例が存在する。

(4) This clause puts as plainly as it can be put the idea that His death was equivalent to the death of all; in other words, it was the death of all men which was died by Him. Were this not so, His death would be nothing to them. It is beside the mark to say, as Mr. Lidgett does, that His death is died by them rather than theirs by Him; the very point of the apostle's argument may be said to be that in order that they may die His death He must first die theirs.
(James Denney, The Death of Christ: Its Place and Interpretation in the New Testament, 65)

He, His, Himは、イエス?キリストを指す。ここでの死はイエス自身の肉体的な死と同時に、罪深い人類の贖罪のための死という宗教的な意味の死をも表している。神の子であり、救世主である存在が十字架に磔(はりつけ)にされて死ぬという姿を「全人類の死」として捉え、それがイエス自身の死によって具体化されたということを表している。

受動文になることができるのは目的語をとる他動詞文だけであり、(5) の例のように自動詞dieを伴う文が受動文になることは「英文法のルール」という観点からすればおかしいかもしれない。しかし、このような例は、イエス?キリストだけに留まらない。

(5) a. A small death was died in Saigon by the Buddhist monk, Thich Quang Duc, on 11 June 1963.

b. Similarly, a small and voluntary death was died by Socrates.

c. Middling deaths are most often died by soldiers, who must kill as many as they can before being killed in turn.
(Lou Marinoff, On Human Conflict: The Philosophical Foundations of War and Peace, 451–452)

哲学者Lou Marinoffは、人間の死を三つに分類し、それぞれbig deaths, small deaths, middling deathsと呼ぶ。big deathsはできるだけ多くの命を奪おうと考える邪悪な人物の死、small deathsは死ぬ前にできるだけ多くの命を育もうとする寛大な心を持つ人物の死、middling deathsはこれら両極の中間に位置づけられ、たとえば、戦士の死が該当するという。戦士の死は、できるだけ多くの敵を殺して死ぬという面と祖国とその民の命を守って死ぬという面からなり、big deathsとsmall deathsの特徴を併せ持つ。

(5a) は、ティック?クアン?ドックという僧侶が当時の南ベトナム政権が行っていた仏教徒への弾圧に抗議するため、自分の身体にガソリンをかぶって火を放ち、燃えさかる炎の中で絶命するまで蓮華座を続けた事件に基づく。自らの強い信念による殉教者としての死に方であり、small deathsに分類される死が具体化されている。(5b) のソクラテスも、自分の死をシンボルにすることを選んだ人物で、「ただ生きるのではなく善く生きるのだ」という信念のもと、あえて毒殺刑を受け入れ、ドクニンジンの杯をあおった。その従容たる死に方は、集まったプラトンなどの弟子たちへの最後の授業となったという。自分の信義に殉ずる死に方を通じて、同じくsmall deathsが具体化されている。一方、(5c) については、太平洋戦争末期の神風特別攻撃隊の名が例になっている。彼らの生きざま=死にざまも、信義に殉ずる生き方という点で、上述の人物たちと同じことが指摘できる。イエス?キリストをはじめ、ティック?クアン?ドック、ソクラテス、特攻隊員の死に方は、形は変ったとしても、後世で別の誰かによって再び繰り返される可能性をもつ、いわば「シンボルのような死」と言える。

動詞dieの意味は肉体的な死に留まらず、別の意味を持つようになっている。すなわち、肉体的な死であると同時に象徴的な役割をも果たすということである。英語母語話者が「死」をどう捉えるかによって、動詞dieの用法も変化すると言えないだろうか。

英文法はルールであるという考え方をするのではなく、文法は人が世界をどうとらえるかで変わる、文法は人の心を反映させるものだと考えれば、私たちがこれまで見てきた例も自然な説明を与えることができる。英語母語話者は世界を、物事をどう捉えているのか。彼らの認識や思考様式にまで目を向けることで文法の研究は、心の探求になりうる。「ことばと心の言語学」とは、まさにこのようなメッセージをこめた題目である。